13 貝のかき揚げ丼と美幸さん
紗枝ちゃんは本名を隠して「紗枝」で通していますが、子供時代を知っている人は本名(彩恵子)のほうで呼んでいます。
今日も昼に外食だ。その外食中、ポケットの中でスマホがブーンブーンと鳴った。
スマホの画面に『前田美幸』の表示。私の姉のような人。でも今は桂木さんと食事中だし仕事中なので切った。
「出ていいのに」
「いえ。大丈夫です」
「鮎川さん、今は休憩時間でしょ? もしかして仕事だと思って食べてる?」
「切ったのは、電話に出たら長くなる人だからです。」
「そう」
仕事中だと返事したら、楽し気にしている桂木さんに申し訳ない気がして、そう返事をした。
今日のランチは磯料理屋さん。桂木さんは地魚の漬け丼、私は三種の貝のかき揚げ丼。
「ごはんは少な目でお願いします」と頼んだ私に、桂木さんが目顔で『なぜ?』と尋ねてくる。
「毎日美味しいものを食べているせいか、おなかに肉がつきそうな気配があるんです」
「鮎川さんはもう少し肉をつけても問題ないのでは?」
「肉をつけるのは一瞬ですけど、ぷにぷにを取るのは一年かかりますから」
「女性は痩せ過ぎをよしとする傾向があるからなぁ。ぷにぷには魅力のひとつなのに」
「桂木さんはそういうご趣味なんですね」
「えっ。いや、趣味って。そういう意味じゃないよ」
あれ? 桂木さんが珍しく動揺しているのを見て、私もなぜか慌ててしまう。
気まずい空気になりかけたところで、タイミングよくごはんが運ばれてきた。三種の貝のかき揚げなんて、生まれて初めて食べる。メニューによると、三種はアサリと小柱とハマグリだ。くぅぅ、贅沢ここに極まれり!
「いただきます」
「はいどうぞ、召し上がれ。これからは僕もそう言うことにした」
「いい言葉ですよね。召し上がれ、って。では」
ザクッとかき揚げにかぶりついた。甘い醤油のタレとコリコリした貝。弾力があるのはハマグリだ。噛むと貝の旨味が口の中いっぱいに広がる。そこにタレがかかったアツアツのごはんを口に放り込む。
うう、口の中が幸せだ。
「美味しいです!」
「よかった。僕の漬け丼もいい味だよ」
「ワサビが本ワサビなんですね」
「うん。ここは地元の人が通う店だから、値段の割にとんでもなくクオリティが高いんだ」
「確かに。あ、お味噌汁がアラ汁です。大好きです」
「鮎川さんは幸せそうに食べるから、一緒に食べていると僕まで楽しくなるよ。ぷにぷにを受け入れてくれるなら、もっともっと食べさせるのに」
「あはは。そんなに食べたら出て行くときにはぷにぷにだらけになってそうです」
桂木さんがほんの一瞬だけ固まり、すぐに笑顔になった。出て行くなんて私の口から言うのは失礼だったか。
その後はひたすら食べた。食べ終わってお茶を飲んでいるときに、かるたの件を切り出した。
「桂木さん、かるたですけど、次は『ほ』ですよね」
「おっ。鮎川さんから切り出してくれるのは初めてだね」
「今、思い出したことがあって。『ほ』、本気で怒ってもらえる幸せ」
「うん」
「今日はそれだけです。本気で怒られて、子供のときに生き方を変えたことがあるんですよ」
「へえ。それは良き人との出会いだったんだよね?」
私は思い切り強くうなずいた。
「ええ。いじめっ子に心を殺されずに済みました。私、二年間くらいかな、いじめられっ子だった時期があるんですけど、さっきの電話の人に本気で怒られて、それ以降は誰にもいじめさせなくなりました。深山さんにも、ついそれが出ちゃいました。深山さんはいじめたわけじゃないのに」
「深山君のことは気にしないでいいからね。あなたにそんな出会いがあって心を殺されなかったことは、本当に良かったよ。その人にお礼を言いたい気分だ。いつかその話をしてくれる?」
「いいですよ。それと、今度その人に、桂木さんの今の言葉を伝えておきます」
美味しい昼食を終えて桂木邸に帰り、美幸さんに折り返しの電話を入れた。
「お待たせ、美幸さん」
「彩恵子ちゃん、新居の住み心地はどう? 本物の古民家なんでしょ?」
「そのことなんだけど、貰い火みたいな感じで全焼しちゃった」
「全焼?」
「うん。海岸でロケット花火をして遊んでいた若者の不始末っていうか。今はお隣さんに助けてもらってるの。家政婦をしながらこの先の計画を立ててるとこ」
美幸さんが電話の向こうでしばらく絶句した。
「なんてこと。彩恵子ちゃん、そういうことなら東京に帰っておいでよ。私のマンションに同居すればいいじゃない」
「一ヶ月間はこっちで家政婦の契約をしたの。それまではここにいる。それより美幸さん、父さんをテレビで見た。ワイドショーにたまたま映ってた。フィリピンでもまた詐欺をやってるんだと思う。そんな感じの顏だった」
「へえぇ、そうなんだ? でも、彩恵子ちゃんはもう関係ないよ。養子に入ったんだし、真面目に働いている。くそ親父のことは忘れなさい。いい? あなたが苦しむことないからね? じゃあ、一ヶ月たったら帰っておいで。二人で暮らそうよ。私はいつでも待ってるよ」
「ありがとう。少し考えさせてね」
そう言って電話を切って、私はベッドに仰向けに寝転んだ。
いずれここには居られなくなるのだから、美幸さんの申し出はとてもありがたい。そうよねえ。保険金は手元に置いておいて、ルームシェアしたほうがいいかもね。
美幸さんは児童養護施設の仲間だ。
一学年上の美幸さんは、両親が離婚して母親が出て行ったあと、父親の交際相手に虐待されたらしい。担任の先生が動いてくれて、施設に保護されたそうだ。
私は小学六年で美幸さんと同じ施設に入り、彼女にはとても可愛がってもらった。
ある日、私の母の結婚詐欺のこと、両親が国外逃亡していること、施設で暮らしていることで学校でいじめられていると話したら、美幸さんは激怒した。
翌日、彼女は下校時間に私をいじめている女子グループを待ち伏せた。
全員の荷物を持たされて歩いている私を見て、美幸さんはいじめグループのリーダーの前に立ち塞がった。美幸さんの目が吊り上がっていて、知らない人みたいな怖い顔になっていた。
「おい、お前、ツインテールのお前だよ。うちの彩恵子になにさせてんだ。これからもう絶対に彩恵子に手を出すな。この子を虐めたら、その気色悪いツインテールを地面にこすりつけて土下座したくなるような目に遭わせてやる。お前、すんごく頭が悪そうな顔だけど、言われてる意味がわかるか?」
美幸さんは一瞬でグループのリーダーを見抜き、最初から最後までその子だけを見つめて話をした。最初は強がっていたツインテールが泣き出しても許さなかった。
「泣いたら許してもらえると思ってんの? お前、彩恵子が泣いたら許したか? 許さなかったよな? だからアタシも許さない。中学、高校、大学、勤め先、どこへ行ってもお前が彩恵子に何をしたか、周りの人に詳しく教えてやるよ。全部本当のことなんだから、何も問題ないだろ?」
美幸さんはそう言うと、私が持たされていた大量の荷物を私の手からもぎ取り、高く振りかぶってからバシィッと地面に叩きつけた。
そしていじめグループの顔を一人一人睨みつけながら、ゆっくり一個ずつ手提袋やランドセルに足を載せ、グリグリと踏みにじった。
「てめえの荷物はてめえで持てよ。馬鹿だからわかんないんだろうけど、それが世間の常識なんだよ。このこと、親にでも警察にでも言いたきゃ言え。その代わり、何年かかっても仕返ししてやる。言っとくけど、これはお前らが先に始めたことだからな。それを忘れんなよ? やったらやられるんだよ! うちの彩恵子を家来みたいに扱いやがって。おい、お前らもこのツインテールと同罪だ。これから一度でも彩恵子をいじめてみろ。全員の名前を調べ上げて、お前らがどこへ逃げても仕返ししてやる。覚悟しておけよ、このクズどもがっ!」
全員が恐怖のあまりに、血の気が引いた顔で泣いていた。ガクガクと震えている子もいた。それを暗い笑みを浮かべて眺め、美幸さんは私の手を引いて施設に帰った。そして猛烈に私に説教した。
「彩恵子ちゃん、あんたもあんたよ。黙ってやられてるんじゃないよ。ああいう連中はね、相手が抵抗しないとどんどんつけ上がるんだ。そしてやられる側は、最後は殺されるんだよ」
「ころ……まさか」
「心を殺されるんだよ。親や同級生に心を殺された子、ここには結構いるでしょ? 心が死ねば、生きていても死人なんだ。心を殺される前に戦いなよ。彩恵子ちゃんの心も命も、彩恵子ちゃんのものだよ。親のものでもなけりゃ、クソガキどものものでもない。自分のことは自分で守らなきゃいけないんだ」
美幸さんは若い女に虐待される日々を経て、自分の心と命は自分で守ると決心したのだそうだ。あの汚い言葉の数々は、その女に言われ続けて覚えたんだと笑っていた。
私は翌日からピタリといじめられなくなった。その代わり、クラスの中で完全に孤立した。でも、施設に帰ればみんなと仲良く暮らせたから、孤立していることには耐えられた。
「彩恵子ちゃんは作文が得意でしょ? そういう方面の仕事をすればいい。私たちは自由なんだし」
「自由かな? 親もいないのに」
「親がいないからだよ。アタシたちは最高に自由なんだ」
古いことを思い出しながら窓ガラスを磨いていたら、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見たら数字だけ。十一桁の番号は、登録しなくても数字で覚えている。父を追っている水川刑事だ。チラッと振り返ったら、桂木さんはソファーで新聞を読んでいる。
ブーンという音が桂木さんに聞こえないよう、スマホを両手で挟んでしばらく待った。だけど水川刑事は私が出るまで諦めないつもりらしい。私のほうが諦めて、二階の部屋に駆け込んだ。慌てていたから、桂木さんが私を見ていたことには気づかなかった。