12 白馬の騎士 『に』
桂木さんが身を乗り出してハンドルを抑えたまま動かない。距離が近くて緊張する。
グリーン系の柔らかなコロンの香りがすぐ近くから漂ってくる。やめてほしい。願うことなら素敵な男性ではなくて、イケオジという別枠の存在でいてほしい。
雇用主を男性として意識するなんて、やってはいけない最たるものですよ。
「桂木さん、わかりました。車はまだ出しません。そろそろハンドルから手を離してください」
「なにがあったの? 誰かになにかされたの?」
「なにも。テレビに知っている人が映っていたから驚いただけです。本当です」
「知ってる人って?」
「名前を言っても桂木さんは知らない人です」
「そう……。鮎川さんが恐怖を感じているように見えたんだけど、勘違いだったか。誰にもなにもされてないならよかった」
桂木さんがハンドルから手を離した。ほっとする。桂木さんにドキドキしてしまったことをなかったことにしたくて、思わず茶々を入れてしまう。
「私が誰かになにかされていたら、どうにかしてくれるんですか?」
「されたの? どんな人? 早く言いなさい。僕が今からそいつのところに行くから!」
「いえいえいえ、ごめんなさい、冗談です。誰にもなにもされてません。本当です。余計なことを言ってごめんなさい。そろそろ車を出しますか?」
「もう少し待って。あなたが落ち着くまで運転をさせたくない」
「わかりました」
びっくりした。
桂木さんはそういう行動をとる人なのか。昨日今日知り合った私なんかのために? 骨折してるのに? 白馬の騎士か。
「鮎川さんが落ち着くまで、『に』の付く言葉を考えるのはどう?」
「あっ、はい。『に』ですね。ええと、『にゅうめんを食べながら年を越す』では?」
「深い話がありそう。それでエッセイが書けそうじゃない?」
「書けませんよ。ただのしみったれた話ですから。あとは、ええと、『にぎわう街のエアポケットに二人』」
「へえ。まだある?」
「に……『ニンジンで走れる距離には限度がある』」
「ふふふ。ありがとう。そろそろ大丈夫そうだね。車を出してください」
「はい」
助手席で、桂木さんはスマホにメモしている。左手の動きが素早い。あっという間に記録し終えた。
桂木邸に帰り、ライターの仕事をしてから夕日が差し込んでいる時間に窓を拭いた。陽が当たっているときは汚れがよく見えるのだ。ゴシゴシとガラスを磨き、合間に仕事の依頼の電話を受けた。少しずつライターの指名仕事が増えていることがありがたい。
◇ ◇ ◇
今日、桂木さんは朝から仕事で東京に出かけている。そう言えば、今はどんな仕事をしているのだろう。
前に名刺をもらったから調べてみようかなと思ったけど、IT関係は調べてもわからないか。
夕方の四時。十一月の太陽はもう沈みそうだ。急いでウォーキングに出た。
たっぷり歩き、音楽を聴きながら家に向かっていると、後ろから来たタクシーが停まって桂木さんが降りてきた。
「おかえりなさい桂木さん」
「ただいま。ウォーキング?」
「はい。この町の地図を頭の中に作りたくて」
「じゃあここから一緒に歩いてもいいかな」
「はい、一緒に家に帰りましょう」
「この辺りは路地が多いでしょ? 夕方に路地を歩くと、いい匂いがするんだよ」
「想像がつきます。子供が『おかあさん!』とか言っている声も聞こえるんでしょう?」
「そうそう。平和な匂いと音ね」
三つ揃いのスーツを着ている桂木さんはかっこいい。自宅にいるときは前髪がハラリと落ちてることが多いけど、スーツを着ているときは額を出している。それもまたかっこいい。
「おなかすいたなぁ。お客さんと話が盛り上がって、昼に行こうと思っていたパスタの店に行きそびれたんだよ。昼飯抜きだった」
「では、今夜はパスタにしますか? 早めに夕食の準備をしますよ」
「お願いできる? できればシーフードの辛いパスタがいいんだけど。アラビアータ」
「お任せください。東京のイタリアンと同じ味にはなりませんけど」
「楽しみにしてます」
という経緯があって、冷蔵庫にある食材で私が作った。トマト味の辛いシーフードパスタと、サラダ、白菜とハムのコンソメスープだけの夕食。
「ああ、美味しそうだ。ワインを開けよう。鮎川さんも飲むよね?」
「いえ、私は仕事があるので」
「じゃあ、炭酸水でいいかな?」
「はい」
片腕を吊っているというのに桂木さんは身軽に動き、黒い箱からワインを取り出した。箱には二十本くらいワインが入っていた。
「それは、もしやワインセラーというやつですか」
「うん。管理に気を遣うのが面倒だから買ったの」
(ワインセラーくらい当たり前か。可愛い椅子があんな高級品だったものね)
感心しながらワインセラーを見ていたら、振り返った桂木さんと目が合った。
「あれ? この箱を開けたことがなかったの?」
「はい。勝手に開けるのはちょっと」
「いいよ。どこでも好きな扉を開けなさいよ。飲みたかったら言ってよ。一緒に飲もうよ」
「許可がない扉は開けませんし、桂木さんのワインが飲みたいなんて恐ろしいことは言いません」
「どうして? 雇われてるから?」
「はい」
「真面目だねえ……。さあ、一緒に食べよう。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ。少し辛すぎたかも」
「ちょうどいい辛さですよ。美味しい。この家でこうして美味しいパスタを食べられるのはありがたいなあ。え? 君は更にタバスコかけるの?」
「はい。辛いのが大好きなんです。一時期は中毒のように唐辛子にはまっていたことがあって」
「おなかが強いんだ?」
「鋼の胃腸です」
桂木さんがむせた。気管に入りかけたらしく、顔を赤くして激しく咳き込んでいる。急いで立ち上がって背中を叩いた。桂木さんは水をゴクゴク飲んで、やっと落ち着いた。
「はあ、僕を殺す気ですか」
「すみません。そんなに変なことを言ったつもりはなかったんです」
「鮎川さんの言葉の選び方が、毎回意外で面白いよ」
桂木さんは左手を使ってゆっくりパスタを食べながら話し始めた。
「右手が使えないと、思ってたよりも仕事の効率が悪くて参ったよ。僕はこの家に住むことを決めたときに、孤独死は覚悟の上だったんだけどね。腕が折れたくらいでこれだ。覚悟の甘さを思い知らされたな」
「独り暮らしだと、一度は孤独死を考えちゃいますよね」
「倒れて激痛で動けなくなったとき、とても慌てたんだ。孤独死もやむなしと頭では覚悟していたけど、まさか庭であんな目に遭うとは想像していなかった」
「私は危ないなと思いながら二階から見ていたんです。桂木さんが倒れた瞬間、かなり慌てました」
「あのとき、裸足で駆けつけてくれた鮎川さんは後光が差して見えた。ありがたかったよ」
「後光って」
後光という言葉で、鮎川シゲさんを思い出した。
亡くなる前日、もう声を出せなくなっていたシゲさんが、私を見ながらゆっくり両手を合わせて拝むような仕草をした。何事かと驚いていたら、口が『ありがとう』って動いたっけ。
あ、だめだ。泣くな。パスタを食べながらいきなり泣くなんて、はたから見たら情緒不安定な怪しい人だ。
「鮎川さんの存在をありがたいと思うのと同時に、一人暮らしは僕が思っていた以上に船底の板が薄いと気づいたなぁ。あのとき、鮎川さんがいなくて、僕の胸に剪定ばさみが刺さっていたら、恐怖と痛みを抱えながら死んでいたんだろうなって、救急車の中で思ったよ」
「やめてください。そんな最悪な場面を想像しても、何もいいことありませんから。聞いているだけで切なくて泣きそうになります」
シゲさんは「結婚なんて煩わしいだけと思ってたんだ。でもね、もうすぐ死ぬんだなと思ったら、子や孫に囲まれて死ぬ人がちょっと羨ましくなった」と言っていた。
いよいよ危ないなと感じてからは、仕事ではなく、娘として二十四時間付き添った。この人が本当の父親だったらよかったのにと思いながら、お世話をした。
いいケアマネさんにも恵まれて、介護の人手もあった。あんな穏やかな最期を、私は迎えられるだろうか。
「鮎川さん、聞いてる?」
「はい。聞いてます」
「この前の『賑わう街のエアポケットに二人』っていうの、意外だった。これまでの傾向からすると、エアポケットに一人っていうパターンのような」
「あれは、別れ話が出るか出ないかっていう時期のことを思い出したから。そう言う時期は二人でいても一人でいる以上に寂しいですから」
「それはお付き合いしていた人の話?」
「はい。この年齢ですから、そんな経験もあります。あっ、年齢を言ってませんよね? 三十です。私は年相応に見えると思います」
「三十か。私は父親世代だね」
「父親はないですよ!」
失敗。否定の勢いがありすぎた。
その上あやうく「そんなにかっこいいのに」と続けて言ってしまうところだった。危ない危ない。いくらなんでも雇い主に向かってそんなことを言うのは家政婦失格だし、『あなたはストライクゾーンですよ』と言っているようで下品すぎる。いろんな意味で危なかった。
「鮎川さん? どうかした?」
「どうもしません。話は変わるんですけど、桂木さんはご自分からあっさり五十だっておっしゃいましたね。私、年齢の話になったときに『私って何歳に見えますか?』っていう人、男女を問わず苦手です。正直に言うと、苦手を通り越して、嫌いです」
「ほう?」
「それって、実年齢より低く言ってほしいっていう願望が込められているでしょ? 聞かれた方に圧力がかかりますよ。回答者にサービスを要求する圧力。ドンピシャで正解を言ったらムッとされたり悲しい顔をされたりするし。知らんがなですよ。なんで年齢も知らない程度の付き合いのあなたに、私がヨイショしなくちゃならないのって思います」
桂木さんがゆるく笑い出した。
「ふふ。確かにそうだね。何歳に見えますかって聞かれたら、あなたはどうするの?」
「面倒だから白けない程度に大げさにサバを読んで差し上げます。そして心の中で『関わりたくない人リスト』に名前を書き込みます」
桂木さんはこの答えがずいぶん気に入ったらしく、食べ終わるまでずっとクスクス笑っていた。食べ終わってワインを一本空けてもまだ桂木さんは笑っていて、桂木さんの笑いのツボがわからない。
「そういえば今日、昼間に白菜が届きました」
「うん、知り合いが毎年送ってくれるんだ」
「明日は白菜と豚バラのお鍋にしましょうか」
「いいねえ。豚バラって、美味しいよね。自分で買い物をするときはついつい赤身を選んじゃうけど、脂身の美味しさは捨てがたい」
「コレステロールを気にしてるんですか? 日本動脈硬化学会はとっくに方針を転換したのに」
「なにそれ、知らない」
そこで私は、数年前にコレステロール摂取の上限値がなくなったことを説明した。
「なんてことだよ。僕の節制は無駄だったのか。鮎川さん、明日はステーキを食べに行こう。サシががっつり入ってるやつね」
「振り切りますね」
「三百グラムは食べてやる」
「了解です」
楽しい夕食だった。
翌日から規則正しい生活が始まった。六時半に朝食、昼は外食、夜は七時に夕食。
昼は毎回支払いで揉めていたが、桂木さんの「この程度の金額で食後に毎回すったもんだするのがもう、面倒」という言葉と『勘弁してよ』という表情に私が負けた。
結局「運転手代」という名目でご馳走されることに落ち着いた。
私はこっそり小遣い帳を買ってきて記録している。我ながら頑固だと思う。
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