11 テレビの中の人
今日は朝食の後で自分の仕事を一件片付け、朝食の後は家政婦としての仕事を水回りの掃除から始めた。
三時間の契約だから迅速に働く。三時間で全部終わらせたい。水回りの掃除が終わったので、桂木さんに声をかけた。
「桂木さん、一階で立ち入ってはいけない場所はありますか」
「いや、特にないよ」
「わかりました」
トイレとお風呂を掃除して、玄関の床を水拭きしてから初めて入った桂木さんの寝室は、見事に物がなかった。
夜空みたいな濃い紺色のカバーをかけた寝具、床は天然木のフローリング。壁の色はペーパーバッグと呼ばれる淡い茶色。天井も少し明るいペーパーバッグ色。落ち着く色で統一された部屋に、木製の机と書棚。それだけ。高そうな絵もおしゃれなインテリアもない。
掃除機をかけ、拭き掃除をし、窓を磨いて終了。次は庭だ。芝刈りが必要だろうか。芝刈り機はどこにあるのだろう。
「鮎川さん、鮎川さん!」
「はい?」
「あなたは家政婦の仕事でも聞こえなくなるんだね」
「あっ、ごめんなさい。なんでしょう?」
「お昼を外に食べに行く時間、ある?」
「あると言えばありますが、私の分は自分でどうにかしますので、往復の運転だけいたします」
「そう言わずにつき合ってよ。鯵フライが美味しい定食屋さんがあるんだ」
鯵フライは大好物だけど、あれが大好きなことを桂木さんにしゃべったっけ? と記憶を探ったが覚えがない。壁の時計を見ると十一時半。今から出かければちょうどいいか。
「好きそうだね? 鯵フライ」
「はい。大好きです」
「じゃ、行こう。肉厚で揚げたてアツアツのアジフライにタルタルソースをたっぷりのせて食べると最高だよ。貝の味噌汁も美味しいし、女将さんの糠漬けがまた美味しいんだ」
「待ってください。ストップです。おなかが鳴ってしまいます」
「あははは。いいね。たくさん働いた鮎川さんは燃料を補給するべきだ」
運転席に座り、レクサスを動かした。
カーシェアで色々な車を運転したけど、レクサスの運転のしやすさよ。ハンドルとアクセルペダルからのレスポンスもいい。牙を隠した大きい猫みたいだ。きっとアクセルを強く踏み込んだら即時に猛スピードを出すんだろうな、と思いながらゆっくり安全運転をした。
『加藤食堂』は漁港の目の前にあった。
お店は小さい建物で、紺色の暖簾には『刺身 定食 加藤食堂』と白抜きの文字で書いてある。揚げ物のいい匂いが外まで漂っていて、店内に入ると美味しそうな匂いがワッと押し寄せてきた。
「この町に引っ越して最初に入った定食屋さんなんだけど、どのメニューも驚くほど美味しいんだ」
「メニューが豊富ですね。壁いっぱいに短冊が」
「鯵フライにする? 他のが良ければ好きなのを頼んで」
「いえ、初志貫徹で鯵フライを」
注文を取りに来た女将さんは白い三角巾を被り、目尻の笑い皺が優し気な人。
「僕は煮魚定食。ごはんは小で。こちらは鯵フライ定食。ごはんはどうする?」
「普通でお願いします」
「それと刺身の盛り合わせをひとつ」
「はい、ありがとうございます」
女将さんがいなくなってから、思わず「贅沢な」とつぶやいてしまい、桂木さんが笑った。
「あんなに掃除を頑張ってもらったんだ。このくらいご馳走させてね」
「ありがたいですけど、外食イコール毎回桂木さん持ちっていうのは気が引けます。私の分は私に払わせてください」
「鮎川さんは借りを作りたくない人なんだね」
「可愛げないですよね。でも」
(お世話になりっぱなしは重荷です)という言葉は飲み込んだ。桂木さんにとっては鯵フライ定食をおごることは私がテーブルを拭く程度のことなんだとわかってる。でも。
そんな私を桂木さんはゆったりとした笑顔で見ている。イケオジの微笑、破壊力がある。ありすぎる。若い頃はさぞかしモテたことでしょう。いや、今もモテてるのかな。深山もそう言ってたか。
「桂木さんはとてもモテるそうですね」
「ああ、深山君が余計なことを言ったんだね。でもあれは間違った情報です。モテるというより執着されるんです」
「それって、モテるの最上級ってことですか?」
「そうじゃなくて……。いや、この話はやめよう。せっかくの美味しいごはんが楽しめなくなる」
「わかりました。すみません」
鯵フライ定食と煮魚定食、お刺身盛り合わせがテーブルに並んだ。本日の煮魚は大きな金目鯛だ。いただきますをしてから鯵フライにかぶりつくと、これが大変に美味しい鯵フライだった。タルタルソースは手作りらしく、ざく切りのゆで卵がたっぷり入っていて、これだけ食べたいくらい美味しい。
「鯵が肉厚でふわふわで、なんて美味しいのかしら!」
「でしょう。煮魚も美味しいんだ。刺身も美味しいよ」
「では遠慮なく。ん-。これはなんのお刺身かしら。初めて食べたような」
「これがイサキ、こっちはムツかな」
「へえ。東京の居酒屋さんで食べるのとは味が違うのはなんででしょうか」
「美味しいよねえ。鮮度の問題だけじゃない気がするんだ。潮風とか、店の雰囲気とか」
「ああ、そうかもしれませんね」
ふと、私が小学五年生の時、同級生に「お前の母親、サギシなんだろ? 刑務所に入ってたんだってな」と言われたことを思い出した。
『サギシ』ってなんだろうと辞書で調べて、意味を理解した。母が刑務所に入っていたことも知らなかった。母が一年ほど家にいなかったとき、父は「遠くの病院に入院している」と言っていたのだ。
そこから先の母とのやりとりはサイコすぎて、大人になった今でも理解に苦しむ内容だった。
「お母さんは詐欺師なの?」
「あー、ついに誰かから聞いちゃったか。そうよ。元、ね。ちゃんとお勤めしたから、今は真っ当な人間よ。それとね、誰にも内緒だけれど、お父さんはお母さんよりもずっと腕のいい人なのよ。お母さんみたいにちっぽけな結婚詐欺とは違うの」
母はなんで十一歳の我が子にあんなことを言ったのだろうか。嘘をつくプロなら、私にも嘘をついてほしかった。母親が詐欺師という事実に打ちのめされてる娘に、「父親も詐欺師だ」と告げる神経が理解できない。
(私が美味しい美味しいと言って食べているのは、他人を騙して手に入れたお金で買ったものだったのか)
その時食べていた夕食は好物のすき焼きだったが、とたんに味がわからなくなった。
私が『自分の口に入れるものは自分で稼いだお金で払う』ことに頑固にこだわっているのは、あのときのショックが根っこにあるのかもね。いや、絶対そうか。
「鮎川さん?」
「あっ、ごめんなさい。あまりに美味しくってぼーっとしてしまいました。お味噌汁、美味しいですね。お豆腐とワカメなのに、お魚のいいお味がします」
「ここの味噌汁は魚のアラで出汁を取ってるから」
「だからなんですね。濃厚で美味しい出汁だなと思ってました」
二人とも完食し、食後の熱い麦茶も飲んだ。
「さあ、そろそろ帰ろうか」
「はい。あっ、桂木さん、申し訳ないのですが、化粧品を買いに行きたいです」
すると桂木さんは返事をする代わりに私の顔をまじまじと見る。
「なんでしょう。今更ですけど、お化粧はしてません。七難全部を出しっぱなしにしてるんですから、武士の情けで見て見ぬ振りをしてくださいよ」
「あなたのご両親は美人さんをこの世に送り出したね」
「……桂木さん、そういうとこだと思います」
「なにが?」
「深山さんが、桂木さんには女性が群がってくるみたいなことを言ってましたけど、そうやってサラリと褒めるから。桂木さんみたいな人がそんなことを言ったら、勘違いする女の人はいっぱい出てくるかと」
「ふうん。でも、鮎川さんは勘違いしない人でしょ?」
「そうですね」
「そこが気楽なんだ。鮎川さんは初対面のときからそうだった」
「そう、というのは?」
桂木さんは答えない。まあ、いいけども。
私も桂木さんは一緒にいて気が楽だ。別世界の人すぎて、男だ女だという方面で気を遣う必要がない気がする。
ご馳走すると言う桂木さんに、鯵フライ定食の分をきっちり払った。お刺身の分は受け取ってもらえなかった。
美味しいごはんで満ち足りていた私は、ご機嫌で車を走らせた。
ショッピングモールで化粧品を手早く買い揃え、「桂木さんが待ってる」と焦って待ち合わせのホールに向かった。だが、そこで足を止め、方向を変えて駐車場に向かう。
桂木さんが年配の男性と親し気に話をしていたのだ。
私と一緒に買い物をしていると知られたら、勘繰られるかも。桂木さんに迷惑をかけたくない。
私は駐車場に向かいながら、ショートメールを送った。
『お話し中だったので、先に駐車場に行っています 鮎川』
正面出入り口を使わず、近道するつもりで駐車場に面している家電量販店の一画を通り抜けた。
そしてズラリと並んでいるテレビの画面で、見てしまった。
どこかの国の繁華街で、現地グルメを紹介しているワイドショー。その画面の奥に、小さく父が映っていた。
父は楽しげに誰かとしゃべっている。横顔を撮影されていることに気づいていないのだろう。結構長い時間、父の横顔がテレビに映し出されていた。
どうか、どうか誰もこの父の姿に気づきませんように。そして私のところにたどり着きませんように。そう本気で祈りながらテレビの画面を見つめた。
「どうしたの?」
「ひっ!」
「メールをありがとう。おかげで面倒な誘いを断ることができて良かったよ。鮎川さん? どうしたの? なにかあった?」
「いいえ。なにもありません」
すぐ近くから桂木さんの声がした時に、ビクッとなった自分が忌々しい。
今の画面を、桂木さんは見ただろうか。思わず桂木さんの表情を探ってしまい、(余計なことをするな、落ち着け!)と慌てて取り繕った笑顔を作った。
だけど私は直後に桂木さんの観察眼を甘く見ていたことを思い知る。
車を出そうとしたら、桂木さんが私の方に身を乗り出して、ハンドルを左手で押さえた。
「車を出すのは、少し落ち着いてからにしよう。なにかあったんでしょ? 動揺したまま運転するのは危ないよ。それと、僕は鮎川さんが作り笑顔か本当の笑顔か、見分けられるんだ。さっき、鮎川さんは慌てて作り笑いをしてた」
バレてる。