10 水に落ちた犬 『は』
「へえ。控え目で常識のある人だと思ってたけど、鮎川さんてそういう人だったんだね?」
「そういう人って、どういう人かしら。頭が悪い私にもわかるように言ってくださらない?」
わざと(なんのことですかぁ?)という馬鹿っぽい表情で小首をかしげてみた。この手の言い合いは頭に血が上った方が負けだ。深山はムカッときたらしい。ゆっくりドアを開けて車から降りてきた。私の前に立ったけど、不自然なほど距離が近い。へえ。
「桂木さんはね、女性との付き合いが苦手なんだよ。正直に言ったら下手なの。なのに裕福で優しくて有能でイケメンだから、やたらめったら女が寄って来るの。あなたみたいな人がね」
「だから? 桂木さんの判断が気に入らないなら、桂木さんに言えばいいじゃない。なぜ私にネチネチ絡むのかしら。『僕の桂木さんが取られちゃう』って心配になったんですか? 深山さんたら、新顔の女に旦那を横取りされた古女房みたいね」
「なっ! なんてこと言うんだよ。失礼な女だな!」
「失礼なのは自分でしょ? 桂木さんに『僕は一番のお気に入りでいたいです。鮎川紗枝にお気に入りの座を奪われたくないです』って訴えれば? もう一度言うけど、私に文句言うのはお門違いだから」
深山奏の顔つきが変わった。手が出るかしら。やれるもんならやってみろ。そんなことをしたら桂木さんがどう思うか想像できないのか?
「わかった。今の会話は全部録音しておいたから。桂木さんだってお前の本性を知ったらがっかりするさ」
そう言って深山は、スマホを水戸黄門の印籠みたいに私の顔の前に突き出した。
「ぷっ。録音してたの? いいわ。聞かせれば? 桂木さんがそれを聞いて私との契約を解除すると言ったらその場で出て行くわよ。じゃ、ジョギングの途中なんで、またね」
次に会うときまでに、もっとこう、パンチの聞いた捨てゼリフを用意しておこう。あれじゃ生ぬるい。
私はまた走り出した。せっかくモヤモヤが消えたところだったのに、今度はイライラがドカンと心に居座った。心が落ち着くまで脇道から脇道へと入り込んで走り、桂木邸に戻ってチャイムを押した。すぐにカチャリと音がして、門の鍵が解除される。
玄関には深山奏の靴。早速告げ口に戻ったのか。靴を見ながら「ふん」と鼻を鳴らし、二階の部屋に直行しようとして、足を止めた。怒りがこもった桂木さんの声が聞こえてきたのだ。
「今日ほど君に失望したことはないよ。もういい。何も聞きたくない。帰ってくれ。僕が呼ぶまでここには来ないように」
「桂木さんっ!」
「帰りたまえ」
リビングのドアが開く音がしたので、私は足音を立てないように爪先で階段を駆け上がった。今の深山は水に落ちた犬だ。私が「ほぉらね。ざまあみろ」なんて顔をして石を投げつけるのは、さすがに下衆の行いというものだ。
部屋に入り、鍵をかけてから服を脱ぐ。全部脱いで素っ裸になり、脱いだ服を抱えてシャワールームへ。手前の脱衣所で洗濯機に脱いだ服を放り込んでボタンを押した。
熱いシャワーを浴び、シャンプーをし、トリートメントをなじませる。
深山は大好きな桂木さんに怒られて、今頃泣いているだろうか。さすがに大人だから泣かないか。桂木さんに怒りをぶつけるわけにはいかないから、私のことをいっそう憎むかもね。気にしないけど。
それにしても。深山は桂木さんに対して、今まであんな行動を取り続けてきたのだろうか。桂木さんのプライベートエリアにドカドカ土足で踏み込んで、自分の既得権益だとばかりに新入りを排除しようとするなんて。
「アホかっ!」
シャワーを浴びながら思いっきり怒鳴った。私が桂木さんでも激怒する案件だ。『お前は俺の保護者のつもりか』と思うだろう。いや、桂木さんならそこまでは怒らないのか? わかんないな。
シャワーを全身に当て、トリートメントを流しながら身体が緩むまで目を閉じて待つ。はぁ。朝からくだらないことにエネルギーを使ってしまった。
バスタオルを巻きつけて部屋に戻り、赤くて可愛い椅子に座ろうとして踏みとどまった。シャワーを浴びたばかりの身体で座ってはいけないレベルの椅子かもしれない。
「これも高級品だったりするのかな」
画像検索でこの椅子のメーカーを調べたら、ウォルターノルというメーカーのクラッシックエディションとやらだった。価格は二十万越え。こわっ! この椅子で飲食するのは絶対にやめようと心に誓う。
と、ドアがノックされた。
「はい!」
「鮎川さん? 今ちょっといいかな」
「少々お待ちください」
慌てて服を着て、ドアを開けた。
「お待たせしました」
「ああ、シャワーを浴びていたんだね。申し訳ない」
「いえ、ちょうど出たところですので、大丈夫です。どうしました?」
「深山が馬鹿なことをした。部下の不始末は上司の僕の責任だ。この通りです。申し訳ありませんでした」
「いえいえいえ! 頭を下げないでくださいよ。私なら気にしてません。言いたいことは全部言いましたので」
「うん、聞いた。びっくりしたよ。鮎川さんは言うときは言う人だったんだね」
「そうですね。人間関係は最初が肝心なので。深山さんにマウント取らせる義理はないですし」
「うん。確かにそうだ。ええと、立ち話もなんだから、下でコーヒーでも飲まない?」
「はい。いただきます。私が淹れます」
一階のリビングダイニングで、コーヒーを淹れようとして、棚にコーヒーがないことに気づいた。
「桂木さん、コーヒーはどこですか?」
「冷凍庫」
「ああ、ありました。あ! 私の好きなのがあります。ロイヤルコナでいいですか。大好きなんです」
「僕も好きだよ。じゃ、それをお願いします」
フレーバーコーヒーのいい匂いを嗅ぎながら、丁寧にドリップしてテーブルに運んだ。
「うん、いい香りだ」
「ですよね。香りは甘いのに味は甘くないところが好きです」
「本当にすまなかった。さっき、聞こえてたでしょ? みっともないものを聞かせてしまった」
「みっともなくないです。お気になさらずに。桂木さんが深山さんを叱ってくださって、安心しました。あの録音を聞いて私との契約を取り消すと言われたら、今年イチがっかりするところでした」
「あんなことで君に出て行かれたら、僕は暗い気持ちで新年を迎えることになる」
「そう言ってくださってありがとうございます。家政婦業、全力でがんばりますね」
桂木さんは二度三度瞬きをしてからコーヒーを口にした。ん? なにも不躾なこと言ってないよね? そこからは二人とも黙ってコーヒーを飲んだ。
美味しいコーヒーはどんなときでも心を宥めてくれる。少々値が張っても、私は調味料とコーヒーは好みの品を買う。出せる金額に限度はあるけれど、一回分に換算すれば、ささやかな出費で確実な幸せを手に入れられるんだもの。
「深山はね、ちょっと気の毒な生い立ちなんだ。見かねて声をかけて会社に入れた経緯があってね。だから彼は僕に恩義を感じているんだと思う。僕には過剰に過保護になるんだ。息子みたいな年齢なのにね」
「確かに過保護ですね。過保護というより過干渉、でしょうか」
そこでまた沈黙。コーヒーが美味しくて幸せだ。
「こう言うとたいていの人は『気の毒な生い立ちって、どんなふうに?』と聞くけど、鮎川さんは聞かないんだね」
「私、あまり他人のことに興味がないんです。それに、深山さんの気の毒な生い立ちというのを聞いたところで、失礼なことをされたらこれからも遠慮なく噛みつきますし」
「そうか。うん、そうしてやってください」
不幸な生い立ちの子供なんて、この世には星の数ほどいる。私も世間一般から見たら、相当に気の毒な生い立ちだ。けれど、それを他人様への言い訳に使ったことなんて、一度だってない。
「いつか深山君が自分からしゃべったら聞いてやってください」
「はい。もう口を利いてくれないような気もしますけど」
「いや、それはないと思うよ」
「それより桂木さん、腕の痛みは? 大丈夫ですか?」
「ああ、痛いね。でも、二、三日もすれば動かさない限り痛みはなくなるって言われたから。待つしかないね」
「本当に遠慮せずに何でも言ってくださいね」
「はいはい。あ、今ここで『は』を聞いたら無理かな」
「かるたの『は』ですね。出せます」
「相変わらず即答で心強いね」
今、心が平静とは言えないから若干危険かな。まあ、たぶん大丈夫。
「は……はしゃいでもいいんだよ、君にもその権利がある」
「ふむ」
「辱めを受けても、私は私」
「ふうん」
「は……ハレとケの区別のない日々を歩む」
「面白いなあ。いつか今までの分を全部解説してもらえる?」
「はい。全部解説できますけど、たいして面白くないと思いますよ。桂木さん、これ、本当にお役に立ててます?」
「なに言ってるの。解説される前なのに、既に十分面白いよ」
「そうですか」
あまり期待されてもがっかりさせるだけかな、と苦笑してしまう。
コーヒーを飲み終えた。
もう少しここに座って桂木さんとおしゃべりしたい気がするけど、私は家政婦だ。
「ではそろそろ。ごちそうさまでした」
「うん、本業のお仕事をがんばって」
二階の部屋は、相変わらず居心地がいい。お金に執着しすぎる人から逃げて生きてきたのに、大金を投じて生み出された空間に、あっという間に馴染んでいる。
「ここは、別世界ね」
骨折は一ヶ月もすれば治るはず。桂木さんのギプスが外れたら出て行こう。