1 燃える我が家 『い』
プラスチックが燃えるような、嫌な臭いで目が覚めた。枕元のスマホを手に取って見ると、午前二時。
「こんな時間にゴミを燃やしている老人でもいるのかしら」と思った直後に飛び起きた。スマホの弱い光で、天井付近にまっ黒い煙が溜まっているのが見えたのだ。
「うそっ! なんでっ!」
まだ台所を使ってないのに! 何を持ち出せばいい? どこから逃げればいい?
心臓がバクバクし始める。スマホを左手で握ったまま、部屋の灯りをつけようとしたが、フロアスタンドはうんともすんとも言わない。
スマホの照明をつけ、床に置いてあったバッグを肩にかける。それから慌てて机に戻った。
「通帳!」
震える手で引き出しの中の通帳を探していると、ドン!と何かが破裂する音と衝撃。台所の方からだ。卓上コンロのカセットボンベか? 私の膝が細かく震え始めた。
通帳をバッグに入れ、靴を履いて逃げなきゃと寝室のドアに向かった。そしてドアノブに触れて飛び上がった。ドアノブは熱したフライパンみたいに熱かった。
「落ち着いて。落ち着いて。お金とスマホ、ある。通帳もある。大丈夫、これで生きていける」
シャッっとカーテンを開けてギョッとした。たくさんの顔が並んでこっちを見ている。火事場見物か。見物する暇があったら石でも投げて私を起こしてほしかったよ。
木枠のガラス窓をガタゴトと開けたら見物人から驚きの声が聞こえてきた。
「人がいるぞ!」
「あんた! 早く逃げろ!」
わかってる。今逃げるところです!
夜の冷たい風が吹き込んでくる。胸の高さの窓を乗り越えようとして、自分が冗談みたいにガタガタ震えていることに気がついた。普段なら楽に乗り越えられる高さなのに、力が入らずモタついてしまう。
背後で再びドンッ!という破裂音。天井に溜まっていた黒い煙が、私よりも先に窓から出て行く。見物人の中から一人の男性が駆け寄って来た。
「跳びなさい! 抱えるから! 早く跳んで!」
「あっ! 待って、パソコン!」
「パソコンなんていい! 早くしないと焼け死ぬぞ!」
『焼け死ぬ』というパワーワードを聞いて、少し冷静になる。
相変わらず全身が震えているけれど、窓枠に手をかけて思い切ってジャンプした。男の人が私を引っこ抜くように持ち上げて、後ろ向きに尻もちをついた。そのままドサリ、ゴロンと転がって、私は土の上に無事着地した。
土の上に倒れたまま、自分の家を振り返った。
私を養子にしてくれて可愛がってくれたシゲさんの遺産が。私の家が。引っ越してから数時間しか過ごしてない古い家が、盛大に火の粉を噴き上げながら燃えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
家は全焼した。今は朝の七時。
家の最期を見届けた私に、隣人だという男性が声をかけてきて、家に入れてくれた。
「災難でしたね。さあ、とりあえず座ってください。こういうときは遠慮をしないで。私は桂木といいます」
「ありがとうございます。少しお邪魔させてください。申し遅れました。私は鮎川紗枝です」
「消防の方が言ってましたが、火元は若者が遊んでいたロケット花火だそうですね」
「ロケット花火……ああ、うるさかったので私、途中から耳栓をして眠ってました」
「そうでしたか。おなかも空いたでしょう? お茶とパンしかありませんが、よかったらどうぞ」
昨夜は外で若い人たちが騒いでいた。英語のポップミュージックと浮かれた歓声。海辺だからそんな人もいるのかもね、と私は耳栓をして早い時間に寝た。
陽気な若者がはしゃいだ結果、私の家は燃えてしまった。
私の前に座っている桂木さんは四十代後半くらいだろうか。
白髪混じりの髪は長めで、贅沢な設えの家といい着ている服といい、普通の会社員ではなさそうだ。
桂木さんが着ているのはとある有名デザイナーのニット。たしか最低でも二十万以上はする。言っても毛糸のセーターなのに恐ろしい値段だ。しかもこの人、普段着で着てる。
桂木さんは大変なイケメンで、お顔が完璧な左右対称。この年齢でこれだけ美しいのなら、若い頃はどれほどだったやら。
自分がいる広いリビングをそっと見回す。
桂木さんの家は私の家との間にある市道と広い芝生の庭のおかげで、庭木は少し焦げたが邸宅は無傷だ。
市道の向こう側にすごい家があるなとは思っていたけれど、室内もちょっと見たことがないくらい家具と内装にお金がかかっている。
出された紅茶はとても香りが豊かで、甘いチーズクリームが挟んであるパンも美味しい。このパン、近所のパン屋さんのだったら嬉しいな。
……いや違うわ! 今はそこじゃない。
どこかの浮かれた若者のせいで、私の人生設計はめちゃくちゃだ。老後を見据えたおひとり様生活は、初日に家を燃やされ、仕事の締め切りが迫ってる。
「私、昨日の夕方からあの家に住み始めたばかりで」
「そのようですね。本当にお気の毒に」
「仕事で使うパソコンも燃えてしまって。締め切りがもうすぐなのに、原稿はパソコンの中だったんです。ああ、こんなことを桂木さんに言うべきではないですね。すみません」
「データはクラウドに保存してないのですか?」
「まだネットが開通していなくて。最後まで書いてからテザリングして保存しようと思っていたんです。保存する前に眠ってしまった私が不注意でした」
「今は自分を責めないほうがいい」
「そうかもしれませんね。今、ちょっと動揺と興奮と失望がごちゃ混ぜで、言葉の選択が変になってるかもしれません」
親切に家に入れてくれて食べ物まで提供してくれたこの人に、愚痴を言ってどうする。愚痴は無駄だ。言ったところで原稿もパソコンも家も戻らない。
それに、朝まで燃える家を見ながら立っていたから全身が疲れてる。そして、こんな時でもパンは美味しい。お茶も美味しい。そんな自分がとても滑稽に思える。
「ごちそうさまでした。そろそろ出かけます」
「失礼ですが、どちらへ?」
「どこかホテルを確保しなくては。保険会社にも連絡しなくちゃならないですし、なにより締め切りが迫った原稿を仕上げないと。ああ、その前にパソコンを買わなきゃでした。罹災証明も必要だったかな……。ありがとうございました。ではこれで失礼します。お茶とパンをごちそうさまでした。美味しかったです」
立ち上がった私に、桂木さんは同情の滲む表情で思いがけないことを言う。
「鮎川さん、パソコンなら私のをお貸しします。使ってないのがありますから」
「えっ? いえいえ、それは大丈夫です。パソコンを買うぐらいのお金はありますから」
「それと、多分この周辺のホテルはどこも満室です。人気グループのコンサートが明日隣の市の市民ホールで行われるんです。ロケット花火の連中も、そのコンサートに来たんじゃないかな」
「え」
ほんとに? 宿も取れないの? 驚きのあまりぼんやりしてしまう。
「ええと、ええと、では民宿を探します」
「民宿も民泊も全部満室だと、二日前に観光協会の人に聞きました」
「本当ですか?」
「ええ。念のため、私が電話で観光協会に確認しますから。それから動いた方が」
「そう、ですね。ではお手数をおかけしますが、お願いします」
ぺこりと頭を下げてもう一度椅子に腰を下ろした。桂木さんはスマホで相手を呼び出し、愛想よく会話をしている。
「あっ、会長さん? 桂木です。ご無沙汰しています。早朝にすみませんね。その節はお世話になりました。ええ、ええ、そうなんですよ。あ、そうでしたか。それはよかった」
私はこれから疲れ切った身体と頭でやることが山のようにあるのに、世の中は何事もないように通常運転で動いている。電話ののんびりしたやり取りを聞いていたら、絶望がひしひしと胸に湧いてくる。
いやここで泣くな。みっともない。
「それで会長、つかぬことをうかがいますが、宿泊施設はどこか空いてますかね? ああ、そう。やっぱり。そうですよね。ええ、わかります。いえ、大丈夫です。ご心配なく。はい、はい。では失礼します」
スマホを切って、桂木さんは眉を下げた。
「やはりどこも満室だそうです」
「はぁぁ。そうですか、わかりました。ありがとうございました。では私はこれで失礼いたします」
「鮎川さん、落ち着いて。まずこれからどうするんですか?」
「まずは……まずはパソコンを買います。ネットカフェで仕事するのは禁じられていますので。今日中に原稿を入れないと、収入と信用を失うんです」
「私のパソコンを使いなさい。どうしても買いたいなら私が量販店まで送ります。歩いて行くと一時間半はかかりますし、バスは本数が少ない上に量販店まで行くには乗り継ぎが必要です。初めてだと難しいですよ?」
「タクシーで行きます。……ああ、もう作業する場所が無いので東京に戻って、ホテルを探します。……あれ? いろんな手続きをするには、まだここにいたほうがいいのかな……焼け出されたのは初めてなんで、わからないことばかりです」
限界だ。もうコップに水は一滴も入らない。
「困っちゃいますね」
笑おうとしたけど、上手くできなかった。私は今、ものすごく不細工な表情をしてるはずだ。
せめて初対面の人に泣き顔を見せるようなことはしたくない。私は両手で顔を覆って深呼吸をした。
『泣いて現実から逃げる女』を軽蔑してきた私。
『何があっても人前で弱音を吐くなよ』の私。
そんな私が知らない人の前で無様に泣きそうだ。耐えろよ、私。
「気丈な人だな。普通なら火事の現場で泣いてますよ。だけどね、鮎川さん。こんなときは力を抜くことも必要ですよ? 助けてくれるという人がいたら、頼ったらいいじゃない。私のパソコンを使いなさい。そして眠れるならうちの客間を使って、少しでも眠ったほうがいい。私の世話になりたくないのなら、そうだなあ、『い』がつく言葉を考えてくれないかな。それで私の手助けはチャラです」
「イがつく言葉? って、よくわからないですけど」
ダムが決壊する寸前に泣き止むことができた。イケオジ、ありがとう。
「大人が読んで楽しめるようないろはかるたを作らなきゃならないんです。ゴルフの賭けに負けた結果、そんな仕事を引き受けてね。『い』、なにかないかな。言葉を扱う専門家に頼れたら心強いです。たくさんあると助かる」
よくわからないけど、それがこの親切の対価なら何か言わなきゃ。あれもこれも詰んでる以上、今日はこの人の助けをお借りしよう。もう、気力の限界だ。
「い……いつまでも一緒だよと言っていた男が浮気した」
「ふむ」
「い……いい女のふりも三度まで」
「ふふふ」
「いつか有名になってやる」
「いいね」
「意地は悪いが仕事はできる」
「いるいる」
「いつかはレクサスと唱えながらカーシェアリング」
「ほう」
「いけ好かない女だが、媚び続ける根性は認めよう」
「心が広い」
だんだん悲壮感が薄れてきた。イケオジは人の機嫌を直すのが上手い。合いの手を入れ慣れていて、可笑しくなってくる。
「い……意地でも幸せになってやる!」
「なれる。問題ない」
なんか笑えてくる。いい人だわ、この人。
「ずっと続けてほしいぐらい面白い。だけどこのへんで我慢しよう。どうぞ、このパソコンを使って。パスワードなしです。さ、もう仕事しなさい。急いでいるんでしょ? それから一時間でも二時間でも眠ったほうがいい」
そうだ、仕事しなきゃ。私には仕事がある。
四年間同棲した男は三回も浮気したし、引っ越したばかりの家は燃やされたけど、私にはまだ仕事が残ってる。パンドラの箱の希望だよ。うん、まだ大丈夫。まだなんとかなる。
桂木さんが笑顔でパソコンを差し出し、私はありがたく受け取った。
最後まで楽しく書き続けたいので、最初からゆったり更新です。
お気に召したらブクマをどうぞよろしくお願いします。