事件編《前編》
無所属 一力 徳彦
1
約7千人の学生を持つこの大学は、他大学の学生と同様、1時限目の授業に出てくる学生は少ない。また、他大学と同様に心理学の授業は人気科目だった。
今年、この大学の心理学の授業は1時限目に設けられていた。1時限目だというのに、しかも、3号館では最も大きい教室だというのに満席状態だった。普段は何も聞いていない学生も、この授業だけはみな真剣に話を聞いている。
授業も終盤を迎えようとした頃、学生は温谷教授に釘付けになり、誰1人としてよそ見をする者がいなくなった。温谷は嬉しそうにこんな問題を出したからだ。
「ある心理学者が、こんな実験を行いました。お互い初対面の被験者を10人集め、電話ボックスに何人入れるかを実験しました。最初の実験では被験者全員がボックスにおさまりました。その後、その被験者達を1つの控え室に入れて休憩を与え、3時間後、もう一度同じ実験を行いました。ところが、最初の実験では10人全員が電話ボックスに入れたのに、2度目の実験では全員が入ることができなかったのです。さて、なぜでしょうか?」
温谷は楽しそうに学生の顔を見渡した。
しかし、みな真剣な眼差しであるのには間違いはないが、その謎は解けられそうにないようだ。
教室の真ん中辺りに座っていた、髪を七三に分けている一力徳彦は、全身ジーンズに身を包んでいた。彼は心理学の教科書とノートを閉じ、机の角にきっちり合わせて置いていた。
度の強い銀縁眼鏡を気障っぽく人差し指でずり上げると、手元の本を読み出した。『ネット犯罪 上巻』と書かれたA5サイズのハードカバーの分厚い本は、心理学の授業とは全く関係のない本だった。
彼は温谷が出した問題の答えを既に知っていた。
そんなのは、そこら辺で売っている心理学の本を読めば載っている。有名な実験ではないか。誰もが知っているような問題を出されたって授業をやっている意味がない。教えるなら、誰も知らないことを講義してくれ。
一力は眉間にしわを寄せると、それ以降は授業を聞く気にはなれなかった。
しかし、授業は構わず進行する。
「誰か、わかる人いないかな?」
依然、温谷は嬉しそうに確認する。
一力は授業を聞きながら本を読んでいた。時折、温谷の話を聞くが、大して面白い話はやっていない。せっかくの心理学なのに、いつもこの授業は余談ばかりだ。その上、ようやく心理学の話をするのかと思えば本に書いてあるようなこと。そんなのはとっくの昔に本を読んでいて知っているものばかりだ。
だから、今読んでいたその本はもう終わりに近付いていた。
心理学の授業より、こっちの本の方が遥かに面白い。
本に傷などつかぬよう慎重にページをめくると、温谷の話にまたチラリと耳を傾ける。
「ほんとに、わかる学生さんはいないのかな?」
まだやっている。さっきから全然授業が進んでいない。
「そこのグリーンのセーターを着てる君、わかるかな?」
今度は指名してきた。いつから指名形式の講義になったんだ。
「えっと、なんだろう?」
一力の後ろの席に座っていたその女性はわからないようだ。甘い美声を出して困っていた。
「華奈、頑張れ」
華奈と呼ばれた女性の隣りに座っていると思われる女性が、からかうようにそう言っていた。
「うーん、えっと……」
こんな有名な話、なぜ知らないんだ。どうやら指名された女性は、本などあまり読まなさそうだ。
すると、授業終了のチャイムが鳴ってしまった。また今日も無駄に時間が流れた。
「時間が来てしまったので、その答えは来週にします。今日はこれで終わりです」
教室中から悲鳴が響いた。前の方に座っていた学生は、教卓に歩み寄ってその答えを聞き出そうとしていた。しかし、それは無駄な努力だった。温谷は逃げるようにして教室から出ていってしまった。
これは彼の手法である。こうすることによって、来週の授業もより多くの学生に来てもらおうという魂胆なのだ。
全てをすっかり見抜いていた一力は、溜め息をついて本の続きを読み始めた。
「なんでだろ? ののちゃん、わかる?」
指名された女学生は隣りの友達と今の問題についてまだ喋っているようだ。
「華奈がわかんないんだもん。私がわかるわけないよ」
ののちゃんと呼ばれた女性は声や喋り方から判断すると、華奈という女性より幼く思える。それに比べ、華奈という女性は落ち着いていて大人の雰囲気が漂っているようだ。
「でも、これはただのクイズじゃないんだよね。心理学だから、人の心理が影響して全員が入れなかったってことかな?」
「ってことは、どういうことになるの?」
「うーん、どういうことだろ?」
華奈という女性も、結局答えに行き着かないようだ。
一力は聞き耳を立てるのはやめ、最後のページを読みほした。やはり面白い本だ。確かにベストセラーになっているだけのことはある。早く下巻を読みたくなる展開になっているのだが、実は彼は、その本は既に一度読んでいた。
上巻を買って途中まで読んだ時点で、これは面白いと思った。下巻も先に買ってしまおうと思った。しかし、本当に欲しいと思うと意地悪なもので、そういうときに限って置いてない。どの本屋にも売り切れで置いてなかったのだ。だから彼は、もう少し待ってから買うことにしたので、もう一度上巻を読み直したところだったのだ。
彼は本を机に置くと、教科書やノートをカバンにしまった。そして、たった今、2度読み終わった本もしまおうとしたとき、後ろの華奈と呼ばれた女性が声をかけてきた。
「あれ? もしかしてそれ『ネット犯罪』じゃないですか?」
頭に黒のサングラスを乗せた彼女は、ピンクのマニキュアを塗った細い指を一力が持っていた本に差し向けていた。
「そうですけど」
一力は、華奈と呼ばれた女性の全身を見渡して驚いてしまった。声から想像していた落ち着いた大人の女性とは、まるで違っていたからだ。
茶色交じりの光沢のある真っ直ぐなロングヘアーを腰まで垂らしている。モスグリーンのニットのワンピースを黒のベルトで締め、それを境に上半身と下半身を分けている。ワンピースの上部は逆三角形を描き、引き締まったウェストと大きなバストのギャップが感じられる。襟はVネックで大きく開き、両肩と鎖骨を見せている。更に、収まりきらないバストの谷間が仕方なく覗いている。ワンピースの下部は、ヒップにぴたりとまとわりつき、マイクロミニスカート並みに丈が短い。太ももから露出した花柄の刺しゅうの入った黒のストッキングの美脚の先には、黒のハイヒールを履いていた。
なんと言ったら良いだろうか。とにかく、落ち着いた女性ではない。
この女性は、いわゆる美人という部類に入るのだろう。人間の顔の良し悪しなんてどこで決まってくるのかは知らない。眉毛と目とまつげだけが美顔を作り出すパーツだとは思わないが、少なくともこの女性のそれは左右対称にバランスがとれ、まつげも長い。その美顔をできる限りつぶさないようにしているのか、全体的に薄化粧だ。薄く塗ったピンクのアイシャドウと、やけに光を照り返す真っ赤な口紅が目で見て確認できるくらいだ。
だから、この身なりと先程の心理学の問題が解けなかったことを評価すると、将来のことなど何も考えず、今が良ければそれで良いという考え方の持ち主だ、と思っていた。ところが、彼女はいい匂いのする香水を漂わせながら、さっき聞いた滑舌の良い甘い美声を発した。
「やっぱりそうだ。実はわたしも持ってるんですよ」
彼女は、彼女自身が持っていた本を見せると一力の机の上に置いた。確かに同じ本だ。
「今、この本読んでるんだけど、結構面白いですよね?」
この発言で、一力の人間分析は再び覆された。彼女は本を読む人間だったのだ。それを知った瞬間、やはりこの女性には落ち着いた部分もあるのだ、と思えてきた。薄化粧だし、アクセサリーは左に小さな腕時計と右足首にシルバーの飾り輪だけしかしていないし。それほど派手な人間ではない。
なんとも不思議な気分だった。服装は派手なのに落ち着いている。こんな人間は一力の辞書には載っていなかったからだ。
それにしても初対面なのによくそう馴れ馴れしくベラベラと喋られるものだ。
一力は、何となくこの状況がわずらわしかった。いきなり見知らぬ人間から面白いかどうかを聞かれても答える気にはなれない。
彼はメガネをずり上げて首を傾げると、無視してその本をカバンにしまう。
「この本、今ベストセラーなんですよね。わたし、この本の存在を知ってすぐ本屋さんに行ったのに、どこの本屋さんにもなくて、何軒か探し回ってようやく見つけたんです」
一力は一言も耳を貸さずにカバンを肩に担いで立ち上がると、彼女の間をすり抜けて教室を出た。
変な女には付き合ってられない。
*
次の時間は授業をとっていなかった為、いつもこの曜日だけは図書館で本を読んで時間をつぶすことにしていた。
しかし、今日はちょっとだけ違っていた。どうしても『ネット犯罪 下巻』が読みたかった。やっぱり先が気になった。読みたいと思っている本はいつも買うことにしているのだが、このときばかりはもう我慢の限界だった。図書館で借りて読んでしまっても構わない。だから、図書館に設置されているパソコンで検索してみようと思った。
検索用のパソコンは受付の隣りに2台設置されている。この図書館には検索用のパソコン2台とインターネットができるパソコン5台が設置されている。インターネット用のパソコンは図書館の受付正面にある視聴覚室に設置されていて、そこは中に入るのに簡単な手続きを必要とする。だが、検索用のパソコンは手続きなしで自由に使えるのだ。
授業が始まっていたので図書館はすいていた。検索用のパソコンは2台とも空いていた。彼は椅子に座り、画面を確認する。画面には、本のタイトル・著者名・出版社名・発行日・本のジャンルなどの欄があり、そこに適当な事柄を打ち込んで検索ボタンを押せば、この図書館に保管されているその条件に該当する本を検索してくれるのだ。
一力は、持っていた上巻を参考に全ての欄に適当な事柄を打ち込んで検索ボタンを押した。数秒後、結果が出た。ところが、意外なことに結果は該当なしだった。この図書館には置いてないらしい。
糞の役にも立たない図書館だ。1ヶ月前くらいからベストセラーとなっている話題の作品だというのに、未だに置いてないというのはどういうことか。置いていなければならない本なのに。
彼は大きな溜め息をついた。今すぐ読めると思った物が読めないとなると、余計に読みたくなるのが人の常だ。
早く読みたい。これはもう、学校が終わったら駅前の本屋に駆け込むしかない。下巻を探し回っていたときから、もうかなり時間は経っていたので、そろそろ下巻が置いてあるかもしれない。もし、それでもなかったら注文することにしよう。
一力は席を立ち、図書館を出ることにした。と、閃いた。そういえば、もう1つ隠れた本屋があったではないか。うちの大学にあったんだ。
ロビーには、学生がくつろげるようにテーブルや椅子、ソファー、灰皿、テレビ、飲料水の自動販売機が設置されている。この時間が空いている者は、椅子に座って煙草を吸ったり雑談したりしている。テレビはつけっ放しになっているが、本当にテレビを見ている学生がいるのかどうかはわからない。
ロビーの一角に小さな本屋があった。大学と書店が提携してテナントとしてあるわけだ。
灯台下暗しで、すっかり忘れていた大学の本屋に入ると、品定めを始めた。現在ベストセラーとなっている本を始め、ノンフィクションや時代小説、エッセイや文学小説など、小さな本屋にして様々なジャンルの本が置いてある。文庫本や新書本、雑誌などもあるが、ただ1つないのはコミックだった。
一力は、ノンフィクションのコーナーに行って目を通した。上から下へ、丹念にゆっくりと、頭の中で本のタイトルを連呼しながら目を移していった。
すると、頭で描いていたタイトルと視覚に入り込んできた本のタイトルが見事一致した。目の高さより少し下の方に並んでそれが置いてあったのだ。同じタイトルデザインの上巻と下巻が1冊ずつ揃って置いてある。
もっと早くこの本屋の存在に気が付いていればよかった。こんな近くにあったではないか。
彼は下巻を取り出して定価を見た。そして、急いで財布を取り出して中身を確認した。だが、こういうときに限って足りない。せっかく見つかったというのにお金が足らないとは致命的なミスだ。
一力はもう一度定価を確認して財布の中身を確認した。だが、何度数えても無い物はない。
彼は考えた。こう不運続きだと明日出直して買いに来たって、また運悪く売れてなくなっているに違いない。もう、そんなことはしたくない。これを逃したら、またいつ手に入るのかわからない。
そして、彼は辺りを見渡した。レジにはおばさんが座っていたが、雑誌を読んでいるのでこっちを見ていない。天井を見てみる。ミラーや監視カメラなどは設置されていない。店の中は狭いので、そんな物は必要がないのだ。また、今は授業中。店内には自分以外の客がいない。そして、ノンフィクションのコーナーはレジから死角となって見えない。
一力に小さな出来心が芽生えた。その出来心は、本をつかむとディーバッグの中にこっそり入れるという行動を起こした。
ディーバッグに本を忍ばせても、店内は何の変化もなかった。その店の平静さを引き続き保とうと、彼は音を立てずに店から出た。
2
昼休み。
外は幾つかの雲が浮かんでいて、青空を眺めていると心地が良くなる気候である。太陽光がいい具合に体を照らし出し、眠気を誘う陽気だ。こんな日は、外のベンチで本を読むのに限る。
一力はコンビニで買ってきたおにぎりを頬張りながら、先程頂戴してきた下巻を読んでいた。300ページある本は、もう100ページまで読み終わっていた。話の展開が早いので、時間を気にせずにどんどん読めてしまう。気が付くともう昼休み、といった感じだ。
彼は一息つこうと本を読むのをやめ、青空を眺めた。雲はゆっくりと流れている。小鳥が3羽そこら辺を飛んでいる。時々そよ風が吹くが、その風はまだ少々冷たい。
キャンパスの向こうでは、キャッチボールをしている者やバレーボールをしている学生が見える。向こうのベンチには、横になってだらしなく寝ている男子学生や、3人固まって話をしている女子学生がいた。
何しに大学に来てるんだか。そんなに暇なら本でも読め。
そんなことを考えながら、再び本に目を落とした。すると、ヒールを響かせながら歩いて来る女学生がいた。
「貸してあげるから、ののちゃんも読んでみなよ。絶対面白いから」
聞いたことのある美声だった。
「どういう話なの?」
その会話は段々と大きくなってきた。
「あのね、インターネットを使った犯罪でね、実際にあった話をドキュメントで書いてあるの。コンピュータの専門的な知識を持ってる人の犯罪なの」
「インターネットって、最近できた分野だから、まだ法律とかちゃんとなってないんだよね」
「そうよね。だからやりたい放題なんだよね。あれ?」
彼女らの会話は、一力の前で突然途切れた。
「あっ、これ、下巻じゃないですか」
よく聞くと、その言葉は自分に放ったようだった。一力は本から目を離し、目の前の女性を見上げた。それは、さっき馴れ馴れしく話しかけてきた変な女性ではないか。
その変な女性は、隣りに縁のない眼鏡をかけた女性を連れていた。
「あっ、さっきわたしの前にいた人だ。さっきはごめんなさい。馴れ馴れしくて」
すると、隣りにいた眼鏡の女性は、モスグリーンのワンピースの彼女を後ろから引っ張ると、一力に聞こえないように囁いた。
「話しかけない方がいいよ。どうせまた無視されるんだから」
しかし、その声はしっかりと一力に聞こえていた。
「いいから、いいから」
ロングヘアーの変な彼女は、一力の隣りに図々しく腰掛けてきた。
「わたし、名探偵研究会の水咲って言います。もしよかったら、ぜひ覗きに来て下さい。いつでも歓迎しますから。こっちは友達の、ののちゃん」
水咲と友達である佐々木原ののかは、セミロングの髪を2つに縛り、長袖の上に半袖を着た服を着ていて、ピンクのスカートから膝を出し、白のソックスに褐色の革靴を履いていた。水咲と比べれば遥かに童顔の彼女は薄化粧で、アクセサリーは時計とイヤリング、そしてネックレスをしている。どうやら、さっき水咲の隣りに座っていたのは彼女のようだ。
佐々木原はどこにも座らず、水咲のかたわらで立っていた。
「その本、どこで買ったんですか?」
何故そんなことを聞くのだろうか。
何でもないその普通の質問が、一力にとって心に響いた。
すると、立っていた佐々木原も不思議そうに言った。
「あれ? この本てもしかして、今話してたやつだよね?」
「そう、これなんだよね。よく手に入ったね」
「…………」
一力は本に目を落として聞いていない振りをした。
「なんかベストセラーみたいで。重版が決まったみたい。それで店頭に全然ないとか。さっき、大学の本屋さんの人が言ってたよね」
佐々木原はうなずく。
「そういえばさっき、その本屋さんで万引きがあったみたいなんです」
「そうだよね。確かこの本だよね?」
佐々木原はそう言って、一力が読んでいる本を指した。
一力は一瞬、彼女らはさっきの万引きの現場を見ていたのだと思った。だから、今の佐々木原の発言は、盗まれた本はこの本その物だ、と言っているのかと思った。だが、2人の様子を見ているとそうではない。これと同じ下巻が盗まれた、と言っているのだ。
とにかく一力は、さっきから読んでいる振りをしていただけで、全然先に進んでいなかった。彼女らが喋ってくるので集中できないからだ。その上、今の水咲の発言で気持ちが分散してしまったから尚更だ。
「わたしね、下巻を買おうと思って本屋さんに行ったんです。そしたら上巻しかなくて。だけどお店の人に聞いたらね、下巻はあるはずだって言うんです。在庫はその1冊しかなくて、売れたらすぐわかるって言うんですよね。だから多分、万引きがあったんですね」
一力は眼鏡をずり上げて、自分は何も知らない振りをして言った。
「あっ、そう」
その言葉には、自分は何も関係ないから早くどこかへ行ってくれ、という嫌味が含まれている。
「その本はどこで買ったの?」
何だか嫌な雰囲気になってきた。万引きの話をしていて、その後すぐにこの本はどこで買ったのか、と聞いてきたのだ。
「もしかして、疑ってんの?」
一力は少しムッとしながら質問を質問で返した。
「えっ、違うよ。どこで売ってたのか聞きたかっただけだよ」
水咲は手を振って髪をかき上げた。
「僕はこの本を駅前の本屋で買った。学校では買ってない。それに、この本を持っているだけで万引き容疑になんのか? 日本にこの本がどれくらい出回ってると思ってんだよ」
一力は実に堂々として言ってのけた。
「ごめんなさい。わたしの言い方が悪かったね。ただわたしは、どこで買ったのか、それだけ知りたかっただけだから。あの駅前の本屋さんか。わかりました。じゃあ、ののちゃん、今日その本屋さんに行ってみてもいい?」
「うん、行ってみよ。でもそれ、華奈が言うように、ほんとに面白いんですか?」
佐々木原は一力にそう尋ねた。
「面白いよね?」
水咲は一力の賛同を得ようと覗き込んできた。
「ベストセラーになるだけのことはあると思うけど」
「ノンフィクションとか、よく読むんですか?」
「ノンフィクションだけでじゃなくて、他の本も読むけど。僕は趣味は読書だから」
「そうなんだ。ものすごく博識そうだね。えっと、お名前は?」
初対面なのに、いきなり名前など教えたくない。
「名前を言わなくちゃいけないの?」
すると、水咲は困惑顔で答えた。
「だって、呼びにくいじゃん。これからなんて呼べばいいんですか?」
これから、とはどういうことか。これからなんてないはずだ。
「別に呼ばなくたっていいよ。どうせもう会わないんだから」
水咲は少しふてくされた表情をしてみせたが、すぐに笑顔になった。
「メガネさん。今まで読んだ本のベストスリーは?」
「メガネ? どういうことだよ?」
一力は驚いて目を見張った。
「だって、メガネかけてるじゃないですか。ねぇ、華奈?」
佐々木原は当然の顔をして水咲をフォローした。
「うん。だって名前教えてくれないから、あだ名つけたんです。その方が呼ぶとき困らないから」
「いくらなんでもメガネはないんじゃない?」
「じゃ、読書家さんは?」
「読書家って、それは名前になんの?」
「だって、本が好きって言ってたじゃないですか。ねぇ、華奈?」
佐々木原は合いの手を打つように言う。
「それなら、教授。いや、先生がいいかな」
水咲の言葉に、佐々木原は思わず吹き出してしまった。
「ぷっ、それ超うけるよ。だってほんとに先生みたいだもん」
一力は馬鹿にするように口走った佐々木原をにらみつけた。
それに気が付いた佐々木原はすぐに笑うのをやめた。
「一力です。でも名前を憶えたって、もう会わないと思うけど」
「いいの、いいの。そういう人と話をするのも楽しいから。それにわたしは、一度会った人は忘れません。もしかしたら、またどっかで会えるかもしれないから」
一力には、その気持ちを理解することはできなかった。自分の場合は、これから長く付き合う人間としか親しくする必要はないと思っている。通りすがりの人間と話をしたって、何が面白いのだろうか。
彼女と考え方が違うとわかるやいなや、一力は本を読み始めた。
「それで、ベストスリーは何ですか?」
まださっきの質問は生きていたのか。
「それは答えなきゃいけないのか?」
「聞いてみて、読んだことがないのがあったら読んでみようと思って。ちなみにわたしは、ベストワンが推理小説の……」
と、水咲が言いかけたとき、一力はすかさず突っ込んだ。
「僕は推理小説は読まない。というよりむしろ嫌いだ」
水咲はその後に本のタイトルか何かを言おうとしていたが、そんな状況ではなくなってしまった。
「推理小説、嫌いなんだ?」
「どうやら、僕とあんたは何も合わないね」
「そうみたいね。でも、なんで嫌いなの?」
「僕は物語の中で、人が死ぬっていうのが好きじゃない。現実の世界では何人も死んでるんだから、小説の中くらいは人が死なない話がいいじゃないか」
水咲はさっきのお喋りとは裏腹に、じっと聞いていた。
「推理小説は人が死なないと成立しない。僕には考えられない。推理小説が好きな人は、何が面白くて読んでるんだ? 人が死んでそんなに面白いもんなのか?」
水咲は下を向きながら笑っていた。どうやら彼女は、アンチ推理小説の意見を認めているらしい。
「確かにそうなんだよねぇ、その意見はよく分かるのよ。でも、推理小説は、単に人が殺されて刑事が犯人を見つけておしまい、ってわけではないのよ。これはわたしの意見なんだけど、みんな同じ人間なのに、どうして犯人は罪を犯すことになってしまったのか? っていう人の心の問題っていうのと、罪を犯しても何もいいことはないよ、っていう犯罪の戒めを訴えているのが推理小説のテーマだと思うの」
彼女には彼女なりの信条があるようだ。信条をしっかり持っているという点に関しては、自分と似たところがあるように感じた。
「そうそう、推理小説は、人が亡くなる物語であるとは言えないのよ。『ネット犯罪下巻』を万引きした人は誰? っていうのも、立派な推理小説になるんだから。犯人はどうして万引きしたのかしらね?」
そう言って、水咲は一力を見るとにこりとした。一力は心の中で後ずさりをしていた。その笑顔には、どんな意味が込められているのだろうか。
気が付くと、昼休みも残り10分を切っていた。
「そろそろ次の授業が始まるので、僕はこれで失礼します」
一力はすっと立ち上がり、ディーバッグを肩にかけてその場を立ち去った。
水咲らは、彼が校舎に消えるまでじっと背中を見送っていた。
「さて、ののちゃん。一力さんを追いかけるよ」
「えっ、どうして?」
水咲は立ち上がって背伸びをし、スカートの裾をピンと伸ばした。
「多分ね、一力さんよ、下巻を万引きしたのは」
「えー! なんでなんで、どうして?」
「彼が持ってたあの下巻、ページの真ん中辺りに注文カードが挟まってたの。ほら、本をレジに持ってくと、本に挟まってる変な紙を店員さんが抜くじゃない。その紙が挟まったまんまだったの。多分、レジに持っていかなかったんだよ」
水咲は佐々木原の背中をポンと叩くと、一力が消えた校舎へ2人も向かった。
第6話 幼稚な犯罪者~事件編《前編》【完】