すばらしき世界
人生とはなんと儚く、無意味なのだろう。多くの人間は一生懸命に、あるいは適当に生を謳歌する。日本ではほとんどが小学校、中学校を経て高校へ進学し、そこからさらに進学なり就職なりをして自分の人生を形作っていく。
しかし形作っていくとは述べたが、それに多様性があるわけではない。むしろ日本では徹底的にそういった個性が破壊される傾向にある。
出る杭は打たれる。それを恐れ、あるいは徹底し、決して逸脱を許さない。それでも当たり前を拒み、世間に抗った結果、その杭は打たれるのだ。
ヨモギも例外ではなかった。彼女は平凡な女子高生でありながら生粋の虫好きであり、自分の部屋には両親も引くほどの昆虫を飼っている。
クラスの面々にその趣味が発覚したのは一年生の夏だった。たまたま教室に入り込んでしまったアシナガバチを刺激しないために周りの生徒たちに生態を説明した結果、女の癖に虫が好きなんて気持ち悪いと言われた。
アシナガバチは比較的大人しい性格で、巣や自分を守る必要がなければあまり襲ってこない。しかし人間は違う。自分のテリトリーや自分自身への危険が無くとも、ただ気に入らないというだけで他人を攻撃できる。
自分がそんな残酷な存在と同じ生き物であることがわかっているから、ヨモギはいつしか自らの死を願うようになった。ハリガネムシに寄生されたカマキリが、やがて寄生虫のために溺死するように。
いじめという寄生虫に寄生されたヨモギはもはや死ぬしかない。それだけが寄生虫から解放される唯一の方法。
だけど高校二年生も終わりに近づき、一年以上環境が変わらなくとも自殺を実行に移すことができないのは、こんなヨモギにもたった一人だけ味方がいるからだった。
放課後の校舎裏。毎日、その時間だけが日々の苦痛を忘れさせた。
「相変わらず可愛いよね、この子たち」
用務員のいるこの学校も見えないところまではあまり手入れがなされていないようで、放置された雑草の中からおよそ数十匹の子猫が現れる。この時間になると餌が貰えるのを知っているからだ。
そうして学校に内緒で大量の野良猫を世話する彼女はこの学校の生徒会長であるクルミだった。流れるような黒の長髪を片方の耳にかけ、中腰になって秘密に持ち込んだキャットフードを与える。
ヨモギは近くからそれを眺めていた。いじめによってボサボサになったショートボブが風でさらに乱れた。
「この子たちは、どうしてこんなに一生懸命生きられるのかな」
精神的に疲れていたのだろう。ヨモギの口をついて出たのはこの場にそぐわない暗い話題だった。
慌てて口元を抑えたが遅い。クルミは苦笑いする。それが、彼女がこの場を明るくしようとしてできた唯一の行動だった。
「確かに、この子たちは私がいないとご飯も食べれずに死んじゃうだろうね」
例えその言葉に何の含みもなかったとしても、ヨモギは『この子たち』に自分も該当しているような気がしてしまった。今のヨモギは、こうしてクルミと共に子猫を愛でる時間がなければとうに心が折れている。
そういう意味で、子猫たちはヨモギと同じだった。違うのは、一生懸命に生きているかそうでないかだけ。ヨモギはもう、生きることに一生懸命にはなれない。
「ごめんね、ヨモギちゃん」
クルミは子猫の方を向いたまま、ぽつりと言った。それが何に対する謝罪なのかわからないほど馬鹿ではない。何より、そういう雰囲気にしてしまったのは自分だった。
「いや、クルミには本当に、助かってるから」
助かっているのは本当だ。クルミとこうして話す時間があるからヨモギは自死を選ばない。しかしそれは、クルミがヨモギを助けているということにはならない。
クルミはいじめに関しては見て見ぬ振りを貫いている。だからいじめは無くならないし、ヨモギはずっと死を願い続ける。
「ごめんね、ごめんね」
「大丈夫。私は、大丈夫だから」
彼女が究極の八方美人であることは知っていた。ほとんどすべての生徒の名前を覚え、友達にも教師にも良い顔をし、クラスで浮きすぎないように課題の答えを見せてあげることでバランスを取る。そんな、いっそ病的なほどに人から嫌われることを避ける人間がクルミだ。
ここでなら一緒に喋ってくれるのも、今何度も謝っているのも、いじめられっ子のヨモギにすら嫌われたくないというだけ。彼女は自分の無力を嘆くのでも、ヨモギに対して申し訳ないと思うのでもないのだ。
だから二人はきっと、友達ではないのだろう。唯一の交流に縋るヨモギと、誰とでも仲良くするクルミ。その関係は友情ではなく、利害の一致なのだ。突き詰めれば、クルミがそういう人間であることを観察し、見抜いた上で擦り寄ったヨモギも充分に悪どい。
「そろそろ私、先生のところ行かなきゃ」
そう言ってクルミが立ち上がった。この凍りついたような空気感に耐えられなかったのだろう。ヨモギもわざわざ遮ることはしない。また明日ねと手を振り、職員室を目指して去っていくクルミを見送った。
彼女が校舎の中に入って行ったところで、ヨモギは再び子猫を見下ろす。伸びきった雑草に埋もれそうな彼らは弱々しく、確かに放っておけば死んでしまうだろう。おそらく、隠して持って来れる量の餌では足りないのだ。
なんと儚く、無意味な命なのだろうか。
彼らは一人では満足に生きていくことすらできない。クルミに見捨てられれば命はすぐに尽きる。ならばきっとその生に意味などなく、儚いのだ。
だが彼らは自ら死を願うことはしないだろう。きっと最後まで一生懸命に生きることができる。今はただそれだけが、ヨモギには羨ましく思えた。
次の日の昼休み。ヨモギは体育館裏に連れ出される。ここは運動部のランニングコースであることから校舎裏よりは手入れがされているが、代わりに職員室からは遠く、体育館の使われないこの時間では誰にも見つからない。
つまり、いじめには最適な場所だった。
日陰のスペースに着くや否や、ヨモギは背中を蹴飛ばされた。予期せぬ衝撃につんのめり、顔面から転ぶ。
「きゃは、めっちゃイイリアクションするじゃん」
蹴飛ばしたのはユカ。ヨモギが想像より吹っ飛んだことで、手を叩いて笑っている。黒染めが色落ちし始めたような傷んだ茶髪が特徴で、この場にいる中で一番暴力的だ。
「え、やばいんだけど。鼻血でてるよ」
他人事のように言いながらスマホで撮影しているのがサヤ。いじめの証拠を残すという馬鹿加減に呆れて言葉も出ないが、彼女らに反抗するような強さはヨモギにはない。同じショートボブの髪型だが、彼女の場合は前髪がアシンメトリーになっていた。
ヨモギは座り込んだまま鼻から垂れるドロっとしたものを手の甲で拭う。だがさらにドロっとしたものを頭から浴びせられ、あまりの驚きに目を剥いた。
少し口に入ったから何をかけられたのかはわかる。これは蜂蜜だ。
顔を上げればいじめの主犯格である最後の一人、アオイが満面の笑みでこちらを見下ろしていた。目立たないように最小限にされたアイメイクが、それでも今は彼女の目元を獰猛にした。
「さっきの英語の授業のふくしゅー。ウィード。この英単語の意味は?」
「……雑草」
質問の意味がわからないが、反射的に答える。授業態度は悪くない。そのくらいの英単語ならばわかっていた。
だがアオイは首を横に振ると、蜂蜜のかかっていないヨモギの後頭部を掴んで地面に叩きつけた。
「はいざんねーん、正解は『お前』でーす。大好きな虫ちゃんたちに食われる雑草になって下さーい」
「え、アオイやば。今日のアオイ、マジやばいんだけど」
サヤも近くに移動してきてこの滑稽な姿を画角に収める。前髪から顔面、首筋あたりまで蜂蜜は付着しており、すぐに近くの蟻が寄ってきた。ワラワラと登ってくるのはトビイロシワアリの大群だ。体長三ミリもない小型の黒蟻で、日本全国に生息している。彼らは間違いなく、本日最大の収穫に興奮していることだろう。
「きゃは、キッショ。群がりすぎなんだけど」
アオイの鬼畜ぶりにユカは若干引き気味だ。当然だろう。顔に大量の虫が群がるほどゾッとすることはない。
閉じた瞼の上に、結んだ唇の上に、強張った頬の上にトビイロシワアリが行進するのを感じる。小さな蟻たちがヨモギの顔の上で、集合体恐怖症になりそうなほどひしめいていた。いくら虫が好きとは言えど、こんな状況に耐えられるわけがない。
じわじわと涙が出てくる。歩き回る蟻のせいで口は開けられないから声は出せず、静かに啜り泣いた。
「なんで泣いちゃってんのー? 虫、大好きなんでしょー?」
死ね、と思った。こいつだけは死ねばいいのにと本気で思った。自分にとって大切なものを馬鹿にされ、武器にされ、こんな仕打ちを受けている。これがどれほど屈辱的なことかを味わわせてやりたい。
しかしそんな望みは叶うわけもなく、三人の残酷な笑顔は顔面に張り付いたまま。いくらヨモギが彼らを許せないと思ったところで、その感情には何の力もない。
「今、死ねって思ったでしょー?」
「――――」
アオイは時々、こちらの内心を読み取ったようなことを言う。そういう時は決まって息がかかるほどに顔を近づけ、耳元で囁く。サイドテールに縛られた髪の毛の先が首筋を撫でた。
きっと彼女の中には明確ないじめ計画書があり、工程のひとつひとつでヨモギがどんな気持ちになってくれるのかを考慮した内容が組まれているのだろう。
アオイはいじめのプロなのだ。暴力的なユカや、傍観者として撮影しているだけのサヤとは違う。アオイだけは本当に、ヨモギの心を芯から折ろうとしている。
「そんなに辛いならさー、自分が死ねば良いじゃーん?」
仮にそれをしたら自分たちがどうなるのかわかっているのだろうか。ヨモギは必ず遺書に三人の名前と犯行を書く。サヤのスマホには証拠映像も残っており、すぐに三人によるいじめは断定されるだろう。そうなれば一生日陰を歩くような人生になるはずだ。
それなのにどうしてそんなことが言えるのか。
考えて、わかった。
アオイはいじめのプロなのだ。ヨモギが自殺に踏み切る度胸などないことをわかっているから、そういう風に言えるのだろう。
なんということだ。ヨモギは、完全に弄ばれているのだ。
それはさながら、戯れに抜かれる道端の雑草のように。彼女たちにとってヨモギとは、その程度の価値しかない。
昼休みが終わりに近づき、水道で砂と蜂蜜を洗い流しても、顔にはまだ蟻が歩いてるような感触がした。
放課後になり、ようやく苦痛から一時的に解放される。ヨモギにとって唯一心が安らぐ時間だ。アオイ、ユカ、サヤの三人は放課後になればすぐに駅前へ遊びに行ってしまうため、学校が終わればいじめられることはない。しかしそのことは同時に、自分の存在が三人にとって本当に虫けら程度でしかないことを表していた。
歩く時、視線はずっと地面を向いている。リノリウムでできた傷だらけの廊下が視界いっぱいに広がっており、情け無いことに、今の自分みたいだと思った。
完成したばかりの頃はこの廊下も綺麗だっただろう。今では多くの生徒たちに踏みつけにされ、ところどころに上履きが擦れた跡や削れた部分がある。いつの間にか前なんて向けなくなり、こんなところにしか視線がいかなくなってしまった。
誰かに助けを求めることを諦めたのは、どのくらい前のことだったか。初めは告げ口した場合の報復に怯え、自分からは言い出せなかっただけだった。だけど今ではもう、誰かを頼ろうとすら思わなくなっている。
他人のことを信じられないのかもしれない。前を向いて歩かなければ他人の顔なんて見れないわけだから、それを見れなくなった自分は誰かを頼ることなんてできないのだ。
故に、もはやヨモギにはクルミとの友達ごっこしか残されていない。こんなどうしようもない自分と友達になってくれる人なんていないから、彼女の性格を利用するしかなかった。そうでなくてはひとりぼっちになってしまうから。生きることを一生懸命にできないヨモギは、ひとりぼっちでは生きられないから。
クルミを信じているのではない。クルミの性格がヨモギを繋ぎ止めてくれることを知っているだけ。二人で子猫を愛でる他愛ない時間こそ、偽りの友情で自分の心を騙すための嘘になる。満たされないとわかっていてもそれに縋るしかないから、ヨモギは今日も校舎裏の伸びきった雑草を見に行くのだった。
クルミはやはり、先に来ていた。前屈みになり、子猫たちに餌をやっている。匂いも違うし、今日はいつもと違う餌を多めに持ってきたのだろう。子猫たちも餌を奪い合うようにがっついていた。
ヨモギが雑草をかき分ける音を聞き、クルミはゆっくりと立ち上がる。
「今日も来てくれたんだね、ありがとう」
彼女は昨日の雰囲気が嘘のように明るく振る舞う。そうすることで昨日のことを無かったことにしようとしてくれているなら、ありがたい限りだった。
「今日はみんな、いつもより元気みたいだね」
「あ、猫ちゃんたち? でしょ! でしょ! 今日は多めにあげられたから、みんな喜んでるみたいなの!」
「クルミが一番喜んでるじゃん」
「あはは、親心ってやつだよ」
手を頬に当て、嬉しそうなクルミ。この子どもらしい笑みは、親というよりも弟を世話する姉という感じだった。
子猫たちはなおも餌にがっつく。気のせいか、いつもより数が多い気さえした。この子猫の数では学校にバレてしまうのも時間の問題だろう。そうなればクルミの積み上げてきた教師からの信頼も崩れかねない。
「ねぇ、クルミ。もし、この猫たちのことがバレちゃったら、私に責任押し付けて良いからね」
「え。ヨモギちゃん、急にどうしたの?」
「いや、だって。バレたら、大変でしょ?」
クルミは生徒からも教師からも信頼が厚い。嫌われない立ち回りを徹底しており、良い生徒会長だと言えよう。
しかしその本質はメンタルの弱い臆病者だ。他人から嫌われることが嫌で、嫌で、たまらないから、絶対に嫌われないようにしている。それはいじめられっ子であるヨモギからも、もちろん子猫たちからも。
だからもしこの現状が発覚してしまったら、クルミは少なくないショックを受けるだろう。
教師陣はきっと怒りはしないだろうが、この数の野良猫を飼うなんてことを認めはしない。子猫たちは保健所や動物愛護センターに送られ、場合によっては殺処分を受けることもあり得る。
それに少しでも反抗すれば教師陣からの印象も下がり、クルミの弱いメンタルには少なくないダメージが入るはずだ。
そういう仕事は、ヨモギがすれば良い。わざわざクルミが傷つく必要はないと、そう思った。
しかし――。
「そんな大変かな?」
「え? だって、もしかしたら先生たちからの印象も悪くなるかもしれないし……」
「うん。でもまぁ、しょうがなくない?」
優しげな笑顔だ。だが、どこか違和感がある。
しょうがない。それは至極真っ当な感想だ。おそらく誰が今のクルミの立場にいても、同じことを言っただろう。隠していたことがバレてしまったら当然、しょうがないのだ。だけど、クルミだけはそんなことを言わない気がした。
「……嫌われるの、怖くないの?」
恐る恐る尋ねる。
いつの間に、彼女はそれを克服したのだろうか。昨日だって、ヨモギにすら嫌われるのが嫌でいじめの傍観を謝ったのではなかったか。
クルミは、ケロッとした顔で言う。
「そりゃ怖いことには怖いけど、平気だよ」
クルミは、どうやら昨日とは別人のようだ。そう思った時、動揺からか視線が動き、子猫たちの方へ向く。彼らはまだ、美味しそうに餌を食べていた。
だが、そこに広げられているのはキャットフードではない。
「……肉?」
雑草の中には大量の肉が広げてあった。
確かに、異臭は感じていた。血と、腐り始めた肉の匂い。これは、明らかにスーパーで買ってきたような肉の量ではなかった。
「どこで――」
買ってきたの、と言おうとした時、クルミの視線と目が合った。その目はじっとこちらを見ている。鋭いでも、無感情なわけでもない。クルミらしいいつもの表情ではあるのだが、どこか他人とは違うものを見るような、そんな目だった。
しばらく見つめられる間、ヨモギは何も考えられない。思考回路がぐちゃぐちゃになり、息が詰まりそうになる中、ふと思ったことを言う。
「あなた、本当にクルミ?」
それを聞いて、クルミは満足したように嗤った。何かに合点がいったようだった。その姿勢は同時に、ヨモギの疑問の答えにもなる。
彼女は、そうして彼女の姿のまま、彼女のものではない声で質問する。
「なんで、ボクの正体がわかったの?」
本当のクルミはどこかに消えてしまった。
今ここにいるのは、何かの肉を食う子猫たちと、クルミの抜け殻と、死にたがりの自分だけ。きっとこの瞬間、この場所には死が充満していた。