第九話 侵入は安全第一に
世界各地で起こった重力異常。専門家が派遣され、国際的に共同で研究が行われているものの、原理はさっぱり分からず成果は今のところない。
とりあえず国連は一昨日、重力異常地帯を珍しさと危険度でレベル分けし、その取扱い方を定めることにした。このレベルは4段階ある。
まず、レベル1。重力の方向は変わらず、その力の大きさが変わっている地帯だ。これは、道端の野良猫と同じくらいにはあまりにも多く見られる。
気づかれていない場所も多いため、特に何らかの対策を行う必要はないとされる。
ただ、この力自体の変化が余りにも大きく、日常生活に支障をきたすものならば、レベル3、レベル4に分類される。
レベル2は、重力の方向が水平方向に変わってしまっている地帯だ。立ち入ろうとしても、重力の大きさによっては強制的に追い出されてしまう。五メートルを開けたところに警告のロープを張ることと、エリアの直前に弾力性の高いネットを張ることを義務づけられている。
レベル1程ではないが、これも多い。
レベル3は、重力の方向が上に働いている、もしくは無である地帯だ。一度侵入すると脱出が難しく、場合によっては生命が脅かされる。
「私達の侵入する森は上空の途中に向かって重力が発生し、場所によっては元の地表に対し上に重力が働いているから、レベル3だ。この重力異常は惑星型と有名だな」
そう言って、星野は視線を上げた。先には、大きな緑の影がある。
慧は病院で見慣れたつもりだったが、こうやって間近で見てみると、息を呑む壮大な迫力だ。
心なしか前よりも丸くなっている。
時間の経過により、風や重力そのものによって均されたのだろう。
レベル3の中では惑星型は少し珍しい型なのだが、いかんせん珍しい気がしないのは、SNSで写真がよく挙げられているからだろう。
惑星型はそう名付けられた通り、惑星みたいでよく写真に映えるからだ。
カスピ海上空に発生した水の球や、ゴビ砂漠の砂の惑星などがピース姿と共に撮影されている。
最近の流行りは、遠近法を使ってつまんだ写真を撮ることだ。
カブト森の惑星は、元々の森が広大でその奥地にあり、近くのもっと交通の便の良いところに同じ森から出来た惑星がある為、特別人が押し掛けるような事態にはなっていない。
ちなみにレベル4は、重力の方向問わず踏み入った瞬間に命の危険があるものだ。余りの重圧に身体が弾けてしまうとか、そんな場所だ。今のところ中国に一件しか確認されていない。
ただ、他にも発見されていないだけで存在している可能性があることから、ラグナロク前と環境が余りに変わった場所には近づかず、通報するように言われている。
森の中は、見渡すかぎり一面の緑だった。鳥の声や葉の擦れる音、そして一番に蝉の声がした。夏なのに透き通るような涼しさがある。
そういえば植物は葉から水分を出していて、打ち水のような効果があると聞く。
慧はリュックの紐を左肩にひっかけ、さすまたを杖替わりにして歩いていた。
「普通に進んでいってるけど、そろそろ警告エリアに着くんじゃないか? いるんじゃないのか。警備とかが」
何度も後ろを振り返りながら、慧は尋ねる。
レベル3の地帯は、エリアから500メートル地点と、エリアの直前に警告とフェンスを設けること、警備員を派遣し管理をすることが定められた。
慧は少しばかりこの警備員が活躍するのではないかと期待していた。
「ちっちっちー。センパイは世間を有能に見すぎっす」
吉が指を振って言う。
「いきなり言われたって、予算もない中途半端な田舎の自治体じゃ実現できないす。ここ森っすよ森。機材を運ぶのだって一苦労、警備員も通勤が大変だ」
慧は足元に視線を落とした。草木が密に生え、地面は根っこや岩でぼこぼことしている。確かに車が通るには、まずはこれをどうにかしないといけないだろう。
警備員が常駐するのにだって、ライフラインが必要だ。
「それに重力異常はここだけじゃない。あちこちっす。レベルが低くても、先に住宅街の方から優先するっすよねえ。今は一応の名目上の為に、ロープと少しの警備員しかいないんす」
吉が遠くを指差す。指の先を追えば、小さくペグとロープが見えた。吉は立ち止まり双眼鏡を取り出すと、その場所の様子を伺いだした。代わりに星野が吉の言葉の続きを話す。
「そして、こんな木々の中じゃ監視の目をかいくぐるなんて容易だ。実際、私は三回、吉も一回下見をしているからな」
「OKクリア、警備向こう側に行ったすよ!」
吉が小声で言い、指で慧達を招いた。すごぶる手慣れた様子だった。足音を立てないように静かに、ロープの方に近づく。
それは腰程度の高さで、ラミネートされたA4用紙がぶら下がっていた。
「この先立ち入り禁止」とポップ体で書かれている。いらすとやのうさぎがバツマークの札を見せていた。
子どもの頃の慧はとても真面目な児童だった。
夏休みの一言日記は毎日ちゃんと書いたし、横断歩道は手を挙げて渡っていた。
足を持ち上げてロープを渡るとき、この頃の純粋無垢な心がとても刺激された。
普通に前を進む二人は、黒板消しを打ち合わせて遊ぶような暴君だったと思うけど。
二本目のロープのところまではあっという間だった。
辺りは暗い。惑星に遮られているからだ。ここまで近くにくると、視界に全貌を納めることは難しい。惑星の下の地面がくぼむように抉られている。
目線の高さの先には、逆さまになった木の先端が見えるのが奇妙だった。
「惑星はあだ名だが、同じように自転してるんだな」
星野はそう言ってひとつの写真を見せた。吉と一緒に慧は覗き込む。
ここに来たときに撮った写真らしい。
目の前の光景と同じ緑の大きな影が映っている。星野はその写真に写る特徴的な杉の樹を指差した。真下にある杉の木は実物と見比べると、確かに、僅かだが動いている。
何度も写真と比べては感心する二人を置いて、星野は惑星に近づいていく。
そして、おもむろにロープの先へ指を突っ込んだ。
「きもい」
それだけ言って、星野は指を引っ込める。続けて地面から適当な石を拾うと、投げ入れる。
石は、慧達からすると浮くようにして惑星に引っ張られていった。これにも慧達は小さく声を漏らした。
確かに向こう側は、こちらとは違う世界なのだ。
吉から慧に双眼鏡が手渡された。見張りの役目を交代する。
代わりに吉はロープのギリギリまで近づくと、縄はしごを取り出した。アルミ製の丈夫なやつだ。
続いてハンマーを取り出し、はしごの先端を地面に打ち込み始めた。
星野は縄はしごから伸びた長い紐をピンと張るようにして、木々に縛っていた。より固く地面に固定するのが狙いだ。
一通り作業を終えると、星野が慧を手招きした。
「右肩、使えないだろ?」
だから、あまり慧に負担の掛からない方法を考えた、と星野は話す。
よく縄はしごを見てみると、先がブランコのような構造になっていた。星野は慧に言った。
「まず、地面に寝そべるんだ。そうそう。で、板を跨げ。自分の体の向きに対して、板が垂直になるようにするんだぞ。後は、前にある紐をなるべく強く握るんだ」
「……これで、良いのか」
「完璧だ」
頬に土の感触。目の前を歩いている蟻の足の動きが良く見える。出来上がったのは、なんともいえないポーズだ。なお、ガスマスク着用の状態である。
「じゃあ、まず、行ってこい」
そう言って、星野が慧の体を押した。吉は縄はしごを抑えている。心の準備が出来ていなかった慧は慌てふためくが、無慈悲に体がロープの向こう側にずれていく。
「おい。待て。あ、あ?」
まず、感じたのは足の違和感だった。中身が引っ張られているような。
鳥肌が立つ。これが星野の言っていた感覚かと納得する。体が向こう側に進むにつれ、感覚は肩、頭へと這い上っていき、ついに、湿った地面を感じなくなった。
浮いたのだ。視界がぐるりと回る。
「大丈夫かー。慧」
混乱する慧に声がかかる。声の方向を見上げれば、逆さまの星野と吉がいた。
錯覚を疑ってしまう光景だ。脳が熱くなり、紐を持つ手に力がこもる。
足元を見ると、木々がこちら側に向かって生えてきていた。
「だ、大丈夫だ」
慧がなんとか頷くと、星野が安心したように息を吐いた。
「ならセンパイ、おろすっすよー」
吉がゆっくりと縄はしごを手放していった。遠い地面。だんだんと、その距離が近づいていく。
「向こうに着いたら、ブランコを地面に固定してくれ。ただ、足で押さえるだけでいい」
星野の言葉に慧は了解、と返す。眼前には木の幹が見える。伸びる枝や節を上から辿っていくのは新鮮だった。
地面に足が着いたとき、電流でも走ったみたいに体が震えた。
慧はおずおずと跨いでいた板から降りる。
言われた通り足でブランコを押さえつけながら、遠くを見る。
木々の隙間から覗く景色は、地平線まで空だった。