迷宮の終 ~臆病者、カレーを食べる~
地下街ってなんだかワクワクするのは、私だけでしょうか。子供のころ遊んだTVゲームにある洞窟、とまではいきませんが、見知らぬ土地の地下街や地下通りは、何かが待ち受けているようで楽しくなります。けれど、見知らぬ土地、見慣れない景色に不安を覚える方にしてみれば、大きな地下街なんて恐怖の対象でしかないようです。確かに、目的もなく見知らぬ土地の長い道を歩く事ほど不安になってしまいますね。そんな時は何かひとつ、何でもいいんですけど小さなきっかけを作るといいのではないかと思っています。例えば、長い地下道にあるカレー屋に立ち寄ってみるとかいかがでしょうか。
※この物語はフィクションです。登場する人物、団体、店名、地名などは架空のものであり、実在するものとは関係がありません。
しまったと思った時には遅かった。人混みの中に佐多は消え、俺は立ち尽くした。
ここは大阪。地下鉄の通路。
俺はこの駅を知らない。いや、この土地を全く知らないでいた。
たまたま佐多の探していた相手を追って辿り着いたのがこの土地で、俺は佐多に連れられるままに歩き、いつの間にかこの見知らぬ地下街へと誘われたのだ。目印になるだろうと色々な看板を見ていたつもりであったが、どうにも見失ってしまった。
ともかく道の真ん中で立ち尽くしていても事は始まらないと悟った俺は、今自分が向いている「佐多が消えた方向」へと歩き出した。
俺は佐多が島根県は出雲地方で経営する駄菓子屋のバイトだ。
島根の駄菓子屋がなぜ、俺のような10代のバイトを連れて大阪をうろついているのか。
佐多は「副業」を持っている。
奴は自分を神様だと言う。本人が真剣にそう言うのだし、変な冗談に付き合ってやっていると考えれば、あと俺自身に厄災がふりかかりさえしなければ、怒る気にもならない。怒ったって何の得にもならない、疲れるだけだ。と、自分に言い聞かせていた。
しかし、それは彼の妄言ではなかった。
それを思い知ったのは、ほんの数か月前。いつも「副業」を手伝っていた佐多の姪、ヒルコさんがいない日だった。彼の「副業」を手伝わされたのはそれが初めてだった。
「副業」の依頼が舞い込むと、俺はそんな自称・神様の佐多により駄菓子屋の番台から引きはがされ、彼に付き合う。客の「未払い分」を回収するとき、たまにこうして遠方へと駆り出される事だってある。その分の報酬は、時間超過分とされた若干のバイト代だけで、正直俺に旨味はなかった。
何度か本気でやめようと試みた事もあったが、どういうわけか次の日には何となく番台に座り、頬杖をついて店先のゲーム機で遊ぶガキ共の様子を眺めているのだった。
今回も社会科見学だと佐多に連れてこられたものの、午前であっさり仕事は片付いてしまった。佐多は「別の仕事がある」「昔のなじみに会いに行く。お前は俺の連絡があるまで好きにしろ」と2つだけ言い残すと、俺の前から姿を消してしまった。未成年者略取ばかりか放置というのは、俺の訴えようによってはあいつが全面において悪になるのだが、そんなこと言っても戻ってくるはずのない奴を恨んでも仕方がない。後で散々言うのも、警察に奴を突き出すのも俺の好きにしよう。
それにしても大阪は地下道が多い。一度佐多に連れられて訪れた東京や名古屋にだって巨大な地下道はあるが、この土地にはそれを超えるのではないかと錯覚する程地下道が発達している。地上にあるあの長大な1本道の商店街はいたってシンプルだが、今俺のいる駅地下道は、蜘蛛の巣、またはアリの巣の如き道が張り巡らされ、その所々で皆、商いを営んでいるのだ。それも1か所だけでなく何か所にも分布しており、一様に細部まで道が枝分かれと合流を繰り返している。地下道であるゆえに空どころか天井もさほど高くなく、それによりこの土地特有の奇妙な看板もない。
とりわけこの地下道は不思議だった。どこまでも……どこまでも続いているようにも感じられる。
途中出口だと思い横丁に曲がってみるが、それは雑居ビルの入口だったり、また行き止まりだったこともあった。
もう何度目だろうか。壁の模様が変わった。という事はこの上に伸びるビルが変わったのだろう。何度も同じ場所をうろついていて、何となくそこだけは理解したつもりだった。
時計も何もなく、同じ明度の空間を歩き続けるというのは、土地を知らなければ苦痛でしかない。どこをどう行けば何に巡り合えるかなど、分かる筈もなかった。ただただこうして何をすればいいかわからないまま地下を彷徨う様は、この前始めたオープンワールドのRPGと同じだった。ゲームには詳しい説明が殆どなく、突然簡単な使命だけを与えられ知らない場所へ放り込まれる。「後は好きにしろ」といわれるモニターの向こうに立つプレイヤーキャラクターに、今の俺は同情を禁じえなかった。予告もなしに、一方的に自由を手渡されるというのは好きになれなかった。それならばまだ予定表通りに動けと言われている方が俺には似合っているのかもしれない。いや、考え過ぎか。俺はそれだって嫌で、あのあまり人と触れ合わなくて済む寂れた駄菓子屋のバイトを選んでいるのだ。
と、今はこんな愚痴を浮かべながら歩くしかすることがなかった。しかし目的がない行動ほど疲れは足元に絡みつく。俺には見えない怠惰な思考に群がる何かが俺の足を1歩歩く度にその身を重くしていた。
ある喫茶店の前で俺は歩みを止めた。その喫茶店が他と違った趣向を凝らしているわけでもないし、軒先のサンプルに惹かれたわけでもなかった。
ただちょっと歩くのを止め、休みたかった。それだけだった。
店に入った俺はすぐに窓際の席に通された。
木製のテーブルの上にはガラスの板が乗せられており、その窓側の端には大ぶりの容器と小さな白い陶器が添えられている。大きな容器は2つあり、そのうち1つは飴色の小さな立方体の粒が芋洗いよろしく詰め込まれている。もう1つは真っ白の、その隣にある飴色の粒よりきめ細かく、幾重にも重なるように詰め込まれている。おそらくこの2つは砂糖なのだろう。そうするとこの小さな陶器の瓶に詰められているのは塩なのだろうが、今の俺にはそれ程関係はない。なぜなら俺は頼んだのだ。
ミックスジュースを。
本来ならばコーヒーなどを注文するところなのだろうが、たまたま入ったこの店はコーヒーの種類が多すぎて選びきれなかった。なんだ、マンダリンって。楽器かよ。
運ばれてきたやや乳白色の飲み物を俺は飲みながら、傍らにある大きな窓を眺める。かなり駅から離れてしまっているようで人通りはまばらだ。
出勤のラッシュも終わっており、たまに通り過ぎるの人は容易に数えられる程度。
店に音楽などかかっておらず、客は俺1人。店員が発する音以外は無音だった。時折通り過ぎる通行人の足音が小さく反響しこちらに聞こえてくる位静かだ。俺はそれになんだが安堵を覚え、駄菓子屋にいる時同様に左肘をつき右側にある大きな窓ガラスの向こうを眺めた。
この喫茶店の前を通り過ぎるのは数分に1人か2人。その格好や脚の速さも様々で、俺はそれをいつか水族館で見た魚の群れと重ねていた。
終わりの見えないこの人々の往来を見続けているつもりでいたが、俺の視線はある一点を追い始めた。俺の後ろから俺の視線の先へと通り過ぎていく女。その女に俺は明らかな「違和感」を覚えた。女の外見は他に往来する人と同じだった。紺色のスーツに身を包み長く黒い髪を丁寧に束ねたその姿は他の道行く同性と見比べると世界に慣れていない真新しさがあった。おそらく就職活動を行っている学生か何かなのだろう。少しだけのぞかせた横顔は、俺と年が近いようにも思えた。窓から見える範囲を足早に彼女は通り過ぎた。俺はぼんやりそれを他の景色と同様見ているつもりだった。
しかし俺の視界から彼女が消え去ろうとした瞬間、そんな彼女に違和感を覚えたのだ。それ以外に俺は形容すべき言葉を持たなかった。彼女のスーツや鞄が初々しいとか、そういったものでは断じてなかった。
できる限り彼女を目で追おうとしたがそれは既に遅く、窓から先にある壁により阻まれた。
彼女が通り過ぎる間にもその手前や奥では同様のスーツ姿の男女が通り過ぎたが、なぜか彼女が、彼女だけに何か他とは別の何かがあると感じてしまった。
俺は店を出ると女が消えた方向に向かって歩いた。女が目の前を通り過ぎて店を出るまで、僅かだが時間が経過している。女の脚は早くもなく、遅くもなかったので、追いつけるだろうと思っていたものの、俺にとっては慣れない土地だった事を思い出した。追いつけるかという以前に見つけ出せるのかと考えたが、俺の脚は止まらなかった。
窓の向こうで数秒だけ見た。横顔だけを微かに確認したそのたった一瞬を、脳は繰り返していた。俺はその行為に名前と理由をつけたくてたまらなかった。一瞬。ほんの一瞬見かけた彼女を追いかけるなどまともではない。ストーカーやそういった類と同じことをしているのだ。何らかの動機がほしかった。しかしそんなものが急に湧き出る筈もなく、卑しいことをしていると頭の中で指摘する自分の声を俺は必死で聞き流していた。それより今はあの女に覚えた感覚の原因を知りたい気持ちでいっぱいだった。
何度か角を曲がり、再び長い通路に差し掛かったところで俺はあの後姿を見つけた。そこで俺は初めて気が付いた。
だからどうする。
会話も交わすどころか、今さっき一瞬こちらが見かけただけの女に何をしようというのか。話すにしても何といって話しかけるべきか。そもそもいきなり話したとして、会話は成り立たないだろうし、それこそ不審者扱いされるだろう。それにどうして追いかけたのか理由もわからないのに……。
俺は自分がどうしたいのかがわからないまま、女の後姿を見据え、理由を探し続けた。
迷宮は目の前にも頭の中にも広がり、意識に霧をかけていく。そうしているうちに俺の脚は速度を緩め、折角捉えた後姿との距離は再び広がり始めた。
しかしここまで時間も体力も使って歩いてきたことに、俺は少しだけ固執し諦めきれないでいた。話す中身などその時にひねり出せばいいと思った俺は、再び歩みを速めた。何故こうして彼女を追いたくなったのか。その理由をただ知りたくて……そんな自分勝手な願望をかなえるべく俺はその後姿を追った。この地下迷宮はどんどん俺の中で複雑さを増し、もはや今の目的がなければ俺は途方に暮れるより他がない。後ろを振り返る余裕などもなかったので、どこをどう歩いてきて、今どこを進み、この先どう向かうかなど分からないでいた。
ある角を曲がり切った時、女との距離はもう10メートル程にまで近づいていた。道は狭く入り組んでおり、クランクのように折れた角を曲がると再びまっすぐな小道に抜けた。
両端に飲食店が僅かに連なるその小道の一番奥の店へ彼女は今までと同じく角を曲がるような迷いを感じさせない速度で入っていった。
俺は彼女を見失わないよう歩みを速めた。
店の前に立った俺は、そこへ足を踏みいれることを躊躇った。他同様に貼られている相済茶色の煉瓦タイルは明るい色の木枠で堰き止められ、そこより内はシミひとつない漆喰の真白壁と瑠璃色の煉瓦タイルが広がっている。入り口には白い麻の暖簾が涼しげに揺れ、暖簾の隙間から橙色の明かりが見え隠れしていた。
入口の袂には小窓があり、その小窓にはめられたガラスには小さく「白銀亭」と書かれている。この薄暗い、日の光を浴びない蛍光灯だけの一角にこの店だけが気高く存在しているようだった。
ここはなんの店なのだろう。俺は入口に立ち止まって眺めていた。一見するとテレビで見るような高い割烹や料亭と言われているそれを想像させる佇まい。しかし次に俺はこの匂いに気が付いた。こんな店構えなのに、なんだかそれにそぐわない、俺のよく知る匂いだ。俺は後ろの店からするのかと振り向いたが背後にある店の看板には「海鮮居酒屋」とある。やはりこの匂いはこの白壁の中から漂ってくる。
俺は今立っている入り口の先に書かれた文字を見つけた。真白壁の先にはガラスの窓と付近に下がる木製の看板があり、ガラスには「辛口カレーライス」、木製の看板には「カレーライス専門」と書かれている。
カレーライスというのはあのカレーライスだろうか。
俺が小さいころから家や学校や市内の店で食べているあのカレーライスと同じなのだろうか。確かに店の中からしてくるのはカレーの匂いだ。しかしこの佇まいで、カレーライス? しかも専門店。
ここは俺も入って確かめるべきだろう。丁度手元の時計も11時半を過ぎており、時間的には昼飯も悪くはない。しかし、どうにも俺はその中へ1歩足を踏み入れる事ができず、入口前で立ち止まったままでいた。すると後ろから席払いが聞こえた。
咄嗟に振り向いたそこには、高そうなスーツと帽子を身に着けた老人が立っていた。そのブランドはわからなかったが、バイト先に何度もその類の身なりをした人間が訪ねてきていて、彼らと身に着けていたものと同じに俺には見えた。老人は杖を左手に持ち、かけた眼鏡から細い目でこちらを見ている。
「入らんのかね」
老人はしわがれて小さくはあったが俺にそう言った。
「えっ」
俺はたじろいた。
「入らないのなら、どいてくれ」
俺は老人の声につい後ろへ2歩ほど後退りした。老人は俺を一瞥すると、暖簾をくぐり奥へと消えていった。
俺は老人に続こうとしたが、どうしても躊躇ってしまった。
カレーライス専門だと確かに書いてあるが、この店構えだ。
残念ながら俺の地元にはカレーライス専門店はない。少なくとも俺は知らない。しかもこんな店構えをした何かの専門店に入った事もない。どう考えてもこれは1杯辺りの値が張ることは間違いないだろう。
俺は財布の中身を思い出した。さっきの喫茶店でミックスジュースを飲んで、所持金は2600円。背後の店のように入口に簡単なメニューでも出ていれば入る決心もつくが、この俺の所持する全財産では心もとなく感じられた。もしもカレーライス1杯が3000円……いや、1万を超える額であった場合俺は代金を払えず、最悪警察の厄介になるだろう。佐多はこの近辺にいないだろうし、電話をかけたところでつながりはしないだろう。仮に呼びつけたとしてなんと説明するのか。気になった女がいてその店に入ったから後をつけて店に入ったとでもいうのか。きっと笑われる。
俺は少し考え、待つことを選択しようと決めた。筈だった。
選択はしたが本能には勝てなかった。どうにもこの匂いを嗅ぐと腹の虫が鳴るし、食べねばなんだか損をする気がしてきたのだ。
ここは一か八か……。
俺は覚悟を決めて白い暖簾をくぐった。
店の中は橙色の明かりがぼんやりと灯っていた。紅柑子色をした木製のカウンターはコの字に伸びており、同じ色をしたカウンターチェアはその外周に沿って等間隔で並んでいる。店の外まで漏れていたあのカレーの匂いは暖簾をくぐった先では何倍も強く漂っている。それは確かにカレーの匂いだったが、今まで俺の記憶の中のどれにも当てはまらないものだった。
カウンターの内側では、白いコックコートとサロンを纏った人間が数名いて、皆忙しそうに動いている。カウンター外周に座る客は5人。1人は先ほど見かけた老人で、そのさらに向こうのコーナーに女はいた。女はカレーの皿を前にして携帯を弄っている。
俺は女の対角線上に座り様子を伺うことにした。店にメニューをファイルしたものはなかったが、頭上の壁に掲げられた額の中にこの店で出せるものが書かれている。
店には確かに「カレーライス」しかなかった。他には「カツカレー」「チーズカレー」「ホウレンソウカレー」等もあるがカレーそのもののバリエーションはない。価格は俺が想像していたものよりは安い。しかしそれはあくまで俺の想像と比較した上の安いであり、貧乏な田舎のバイト学生にとってこの価格はちょっとしたご馳走だ。
色々食べてみたかったが、ここは一番安い「カレーライス」に決めた。店員に伝えてからカレーはすぐに出てきた。
楕円形の白い皿に同じく楕円形で盛られた少し重た目のライス。そこへそれを包み込むように万遍なくかけられたカレーはカウンターの色よりも重厚な紅柄色が店の小さな灯りを反射し光っている。その中には俺が見慣れたカレーのように存在感を持っている筈の野菜や肉の姿はない。いや、細かすぎて見えないのか。一見したところでは確認できない。本当に「カレー」と「ライス」しかない。
これだけでこの値段かよ。
俺は心の中で呟いた。
これと同じ値段を出せばもう少しマシなものが……。そこまで考えて俺は本来の目的を思い出した。そう、俺はあの向こうで同じように食事をしている女を追いかけていたのだった。そしてこのカレーの匂いに引き寄せられて入ってきたのだ。そこには俺の勝手があるのだ。ならばその勝手を優先しようじゃないか。
俺は意を決し目の前の皿に広がるカレーにスプーンを刺し、一口分を掬うと口の中へと入れた。
最初の一口で何かがおかしいと俺は思った。
店先のあのガラスには確かに「辛口カレー」と書いてあった。
しかしこいつはどうだ。辛くない。いや、どちらかと言えば甘い。
なんだか狐につままれたような感覚だった。その口の中に広がる甘さはしつこくなく、口の中に甘味を残して喉へ送り込まれる。しかし鼻へ抜ける匂いは確かに香辛料いっぱいのカレーそのものだ。俺の頭は混乱していた。辛くないカレーなどいくらでもあるが、これは店が謳う辛口であるべきなのに、ちっとも辛くはない。大阪ではこういうのを辛いというのだろうか。もっとこう、ガーっと炎を含んだように辛くなるものなのではないか。
俺はケチをつけながらも2口目を頬張る。やはり変わらず甘い。
3口目、4口目……カレーライスはどんどんとその量を減らしていくが未だに俺の頭のでは納得がいかなかった。
半分を過ぎようとした頃だろうか。俺はいつの間にか辛口カレーを食べている事を認識した。何を言っているか分からないだろうが、俺も驚きすぎて何がどうなっているのかがわからない。あんなに甘味を感じていた口の中は、いつの間にか辛さ一色に支配されていたのだ。俺は耐えられずコップに注がれた水を飲み込む。冷やされた口の中はまだひりひりと辛さの名残が燃えている。俺は残り半分をきった目の前のカレーライスを凝視した。
どう見ても均一な紅柄色と白米。どこかに何かが隠れていて、それを口にしてしまったか。
俺はスプーンでカレーとライスを切り分けてみた。しかし辛くなる要素そのものは見当たらなかった。俺は考えた。もしかすると反対側から食べていくと最初から辛かったのではないか。俺の食べていた部分は右側からだった。しかし左からならどうだろう。色は同じに見えても、実は左を辛くしているのではないだろうか。
俺は左端の部分を掬い口に入れようとした。その時、カウンターの内側の光景が目に入った。内側で働く青年が盛り付けるカレーは同じ鍋からであり、どうやっても甘い部分、辛い部分を分けてかけているようには見えなかった。
俺は自分の莫迦げた推理を恥じ、折角掬ったそのスプーン上の1口を食べた。やはり最初のような甘さなどなく、それは紛れもなく辛口カレーだった。一度火のついたそれは、口の中で猛威を振るうに飽き足らず、俺の汗腺を刺激し、首筋には汗がうっすらと滲んだ。
俺は手を休めなかった。いや、休むことを許されないでいた。目の前にあるこれを食べずにはいられなかった。
いつの間にか俺は、この1杯のカレーライスに口や汗腺だけでなく頭の中まで支配されていたようだ。自分の意志とは違うもう一つの意志というものが本当にそこへ存在するように、目の前のそれをかきこまずにはいられなかった。辛さは熱を帯びて口の中は燃え盛っている。しかし、それが通り過ぎるとそこへは旨味が残っている。カレー自体の正体は甘味でも辛さでもなく、このすべてが通り過ぎた後に残ったこの旨味自体だった。
それが脳に伝わり、体の端までそれを欲するように指示を出していたのだ。今日この時まで口にしたことのない衝撃に俺の心は震えていた。辛さの鎧をまとった旨味の大群は最後の一口が喉を通り抜けても引くことがなく、カレーの匂いを漂わせ、そこにとどまり続けていた。水を飲んでもそれは決して治まるものではなく、微かに残った辛みと共謀し、未だ俺の中を蹂躙してやろうと企んでいるように思えた。しかし俺はそれを続ける事ができないのを知っていた。腹も満たされた上に皿にはもう1掬いのカレーもない。お代わりしようなどという経済的な余裕も勿論ない。
俺は1皿平らげたところで思い出した。
そう、ここにはカレーを食べる以前に目的があった。あの向かいに座る女を何故気にして追いかけているのか。それを確かめたかったのだ。
俺は対角線にいる筈の女を探した。しかしそこに彼女の姿はない。丁度会計を済ませて店の入り口へ足を向けているところだった。俺は慌てて店員を呼び、なけなしの千円を渡した。
追いかけるには容易い距離だった。
女は来た方向と反対に歩いているところだった。俺は多少の安堵と緊張を覚えた。一先ず呼び止めなければならないと俺は速度を上げる。
一度左に角を曲がったそこは階段があった。その先は地下道の出口らしい。白くけぶった重たい空が、大粒の雨を降らせているのが分かった。
随分と激しい降雨だ。階段の下からでもその雨音でわかる。
その雨に戸惑ったのか、女の脚が止まった。
「あの……!」
俺はこれがチャンスとばかりに声をかけた。心臓は鼓動を速めた。
「は、はい……?!」
女はすこし驚いて肩を揺らし、その後こちらを振り向いた。
俺は驚いた。さっきまで俺の記憶の中で、彼女は横顔でしか映ってなかった。実際に振り返った彼女の顔は何といえばいいのか。一つ思い浮かんだ単語を使うとすればそう……美しかった。
さっきまでカウンターの向こうにいてその顔は確認していた筈の顔だが、あの灯りの下で見るのよりもこの呑曇りの空を透過する薄い太陽光を背にした彼女に、俺はその言葉を当てた。白い肌に形の整った眼、鼻、口元。俺の周りにだって美人と言われる女性がいるが、彼女はそれらとは全くもって違った。
俺はこの顔に魅了されて追いかけていたのか。そう結論付けてしまいそうになったが、その答えを一旦抑え込んだ。俺が最初に見たのは横顔、そして後姿だけだ。彼女の顔をちゃんと見たわけでもなく、追いかけた時も彼女の後姿と持ち物だけしか見ていない。
……なら何故気になったのだろう。
「あの、すみません……あの俺、さっき」
そこまで言いかけて言葉が詰まった。この先を何といえばいいのか頭が真っ白になってしまい、次に発する言葉によっては今までが全て無駄になってしまうのではないかと恐怖を感じていた。
「はぁ?」
彼女は訝し気な顔で俺を見る。
そりゃそうだ、見ず知らずの人間にいきなり声をかけられて、そいつが何を言いたいのか全くつかめなければ俺だってそんな顔をする。
兎に角何か言わなければ。そればかりを俺は気にしていた。背中に滲む汗は先ほどのカレーの名残でも、降雨によって堰き止められた湿気のせいでもなかった。
「あの、あなたを見かけてですね……その……」
「ナンパ? キショイ。他でやって」
「いや、あの……そういういのじゃなくて俺は」
彼女は俺に背を向けると、ふたたび階段を上り始めた。俺はなんとか彼女を引き留めようと必死に言葉を絞り出そうとしたが、焦るばかりで何も浮かんではこなかった。
その時だった。
「おいおい、ナンパするなら、もうちょっと饒舌にいけや」
耳慣れた声がすぐ後ろから響いた。俺が振り返るとそこには見慣れた白髪の男が立っていた。この男こそ、俺をこの地下迷宮に置き去りにした張本人の佐多だ。
佐多は俺の横を通り過ぎて階段を上がると振り向きなおした彼女の前に立った。
「なぁ嬢ちゃん。あんなのにナンパされて可哀想になあ」
「いや、アンタもなんなんです。どいてください」
「いやぁ、そういうわけにもいかんのですわ」
佐多はそういいながら右手を彼女の右肩へかけた。
「ちょっと、なにすんの! 人を呼びますよ」
彼女が言いかけた途端、佐多と彼女の周りから周辺が一気に色彩を失った。これは形容でもなんでもなく、周囲はモノクロに包まれ、あの煉瓦タイルも、蛍光灯の明かりも、俺も彼女もすべての色が白と黒に支配されてしまった。あの階段の先にある外からは雨音が聞こえなくなっていた。それだけではない。滴る雨水は空中で止まっているのではないかと勘違いする程に、とてもゆっくりとした速度で地面へ落ちていく。
何が起こったのか分かっている俺は驚きもしなかった。ただこの一瞬で切り替わった世界よりも目の前の2人を目で追った。
この現象の発生源は佐多だ。
奴は駄菓子屋。ただの駄菓子屋ではない。佐多は「副業」と自称する仕事を持っている。
その「副業」こそ彼の本業。彼は沢山いる「そういう存在」の中の1柱。生きとし生けるもの全ての因縁や道理を切り離す「縁切りの神様」だ。本人は何度もしつこく俺にそう言ってくるし、今こうしてこんな現象を容易く発生させてしまうので、俺はそうなのだと認識せざるを得ない。俺はたまにこうして神様と自称する男の、常識から逸脱した「副業」の手伝いをさせられている。
「えっ……えっ? なにこれ…… 」
女は自身に何が起こったのか分からず、戸惑っている。
「いやぁ、お手柄だ坊。ワシより先に見つけちまうとは」
「おい、それはどういう」
「そのままだ。えーっとでは嬢ちゃん。『今の』名前は確かミウラ カナタ。K大の3年。就職活動中。交友関係は多岐にわたる。彼氏は神戸に在住の貿易会社社員のアンドウ ショウ27歳。それに」
「えっアンタ何……。ほんまアンタ何? 探偵?」
「覚えてないかね、アタシャね『神様』だよ、ミウラ カナタ……いや、シミズ ヒメカ」
佐多は女に向かって違う名前を呼び掛けた。すると女は体の力が抜け、その場に崩れ落ちて動かなくなった。佐多は階段から彼女が落ちないように支えその場に座らせると、そっと彼女から手を放した。少しの間をおいて彼女は顔を起こした。そこに今まで見ていたあの美しい顔はなく、まったくの別人が存在していた。痣のある顔はむくみ、団子鼻、化粧っ気のないその顔を俺は知っていた。
シミズ ヒメカ。家での虐待と学校でのいじめに耐えかね、すべてをリセットしたいとうちに駆け込んできた確か隣の高校で……俺と同い年だったか。
彼女の出した前金はたったの500円。それでも佐多は引き受けた。佐多は「神様の力」とやらで母親が彼女の父である男と会わなかった運命を切り、彼女の、シミズ ヒメカの『運命を書き換え』た。そして母親の運命に再び紐づけられた彼女は、そのまま俺たちの前から姿を消していた。ミウラ カナタとして、遺伝子ごと姿を変えて人生をやり直していた。佐多の言っていた別の仕事とは彼女を、彼女のほんのわずかに残った魂を追う事だったのだ。
――成功報酬を受け取るために
「あ、ああ……」
ヒメカは顔を恐怖で引きつらせ後退りするも、背後は壁。すぐに行き詰ってしまった。佐多はしゃがみ込み顔をヒメカに近づけた。
「いい人生を送ってるじゃないか」
「なんで……なんで、ここが」
「神様はなんでもお見通しなのさ」
佐多はヒメカの頬を撫でる。しかしお見通しというのは少々誇張が過ぎる。彼女を見つけて追っていたのは俺だ。
ヒメカの震えは少し離れたここからでもわかった。
彼女は訳が分からなくて震えているわけではない。これから自分の身に起こることを自分自身の内側で感じ、恐怖しているのだ。今まで俺が佐多の後ろで見た依頼者全員、全て同じような表情をしていたからわかる。
「おいおい、そんなに怖がるなよ。お前を犯す父親、お前を虐げる奴らから切り離してやったばかりか、人生最初からやり直せてるんだ。こっちは感謝の言葉ひとつ欲しいもんだが。まぁ報酬さえ受け取れるなら、そんな言葉も要らんがね」
ヒメカの顔を撫でる佐多の手が、彼女を品定めするようにそのまま首筋、肩、胸元を撫でる。
「こ、ここまでやってきたのは私が、私の力で、努力でやってきたのよ! あなたはもう関係ないじゃない」
震えで歯をガチガチさせながらヒメカは抵抗する。佐多はその行く手を阻む彼女の左手首を掴んで引き寄せた。
「ああ、関係ない。だがアタシャね、チャンスをくれてやったんだ。ロハって訳にはいかないさ。その分は払ってもらう」
「おい、あんまり手荒なことは」
「するかよ。ちょっとこいつから報酬をいただくだけさ」
制止しようとする俺に顔を向けず佐多は答えた。
「さて、あれだけの器量だ。価値はあるだろうが、体の一部を奪うのはどうにも可哀想だ。名前を奪うのも忍びない。お前さんからは『時間』をもらうよ」
佐多は左の手で彼女の顔を掴んだ。基より身動きできない彼女は抵抗を試みるも佐多の抑える力にかなう筈もなく、震えを大きくしながら身もだえするよりほかはなかった。モノクロの世界にある筈のない色は佐多の左手から発生し、様々な色に変化するそれは佐多の左手から全身へ流れていく。それはなにかの生物のようにうねり、やがて佐多の中へと潜っていった。
それが終わると辺りは再びモノクロの世界へ戻り、佐多はヒメカの顔から左手を放した。恐怖に引きつっていたいたむくみ顔は、いつの間にか元のミウラ カナタと呼ばれている顔へと戻っていた。
「20年分の時間をいただいた。あとは好きにすりゃええ」
佐多は彼女の肩を軽くたたいて階段を下りた。同時にモノクロの世界は終焉を迎え、世界は色に包まれた。水滴の速度も雨音も、その激しさを取り戻した。カナタは自分が座り込んでいることに首をかしげるばかりで、こちらに気づいていない様子だ。
俺と佐多は気づかれないように階段から離れ、もと来た方向へと歩き出した。
「カレーかぁ」
佐多が白壁の眩しいカレー屋の横を通り過ぎる時に呟いた。
「俺が探しているときに、のんきにカレーを食っているとはなぁ……」
「好きにしろって言ったのはそっちだろ。もとはあの人を追いかけていたついでで」
「へぇへぇ……それにしても、カレーとはまたこれも縁か。まぁいいや。それより坊。ワシぁ腹減って倒れそうだ。幸いにもここは大阪のど真ん中。ひとつ食い倒れといこうぜ」
佐多は俺の方に左腕を回す。しかし俺はそれを持ち上げて退けた。
「奢りならな」
「持ち合わせがないなら出してやる。なに、お前のバイト代からお前の分を引くだけさ」
佐多はククッと笑った。
少し歩くと地下道の本筋。そこは丁度昼時の込み合う時間。外は雨が降っていることもあるからか、人の往来は先ほどよりも激しくなっていた。雨の湿気はこんなところにまで及び、地下道の表情をさっき歩いた時よりも少しだけ変えていた。
あの口の中を占拠していたあのカレーの辛さは、いつの間にか薄れつつあり、しかし未だ俺の中でいつか来るであろう機会を狙っているようだった。