好意
振り落とされないように腰に回した手から彼女の体温と身体の柔らかさが伝わってくる。今まで女子にこんなに密着したことなどなかったので、こんな場面だというのに緊張してしまう。
「それで、これはどういうことなんだ?」
俺はイリシャの後ろで馬に揺られながら尋ねた。
正直分からないことが多すぎて何から聞けばいいのかすらよく分からない。
「どうと言われても、実は私もよく分からないんです」
イリシャも少し不安そうにつぶやく。
それを聞いて俺は少し驚いた。あの場で皆状況がよく分かっていない中一人だけ確信的な行動をしていたのでてっきり色々知っているものかと思っていたが。
「分かった。じゃあ俺が分からないことを順に聞いていく。まずお前は何者なんだ?」
「私はただの後輩ですよ。たまたま、古代魔法文献学に興味があって先輩がそれを研究していたのですごいなと思っていただけです」
イリシャは前方を見ているので表情は分からない。
昨日までならそれで俺も納得していただろう。しかしあの状況での素早い判断、そして先ほどの剣技を見てしまうとそれでは納得いかない。
「だが、プロの兵士五人相手に立ち回れるのは普通じゃないだろ。大体あの魔石は何だ?」
「本当は私、剣士になりたかったんです。でも、家の都合で学園に無理やり入れられて。魔石も立派な魔法使いになるよう親が持たせてくれて」
確かに彼女は魔術師というよりは剣士の方がしっくりくる。だが、魔術に造詣が深い家柄だったのが災いしたのだろう、と思うことにする。
「じゃあ実は魔法はあんまりなのか?」
「はい、先輩と同じように学園にもどちらかというと座学の成績で入ったのです」
学園の入学は座学と実技で決まるため、俺のように勉強しか取り柄のないやつや、逆に書物などは読んだことのない天才も時折入学してくる。そう思えば彼女は剣術を学びたかったのに無理やり入学させられたちょっと可哀想な後輩として納得出来なくもない。それにしても彼女の剣術は実戦慣れしていたような気もするが、鍛錬を積めばあんなものなのかもしれない。
いや、王立魔法学園はそんな簡単に受かるものではない気がするが。
「本当にそんなんで受かったのか?」
「まあ、まぐれというものもありますよ」
そう言ってイリシャはちらっとこちらを振り返る。彼女の目には俺と同様に不安の色が浮かんでいるように見えた。
まあ、幼いころから魔法の知識に囲まれた環境で育てばそういうこともあるか。学問には才能や努力の他に環境という大きなファクターがある。彼女はある程度の才能と恵まれた教師や教材を与えられ、そこそこの努力だけで入学出来たのだろう。
「分かった。では何で俺を助けてくれたんだ?」
「はい、あの日朝からすでに学園に先輩が邪悪な存在であるという噂が流れていたんです。『人間じゃないから人間と親しく交わらない』『古代の魔神を復活させるために古代魔法文献学を学んでいる』などの噂がまことしやかにささやかれていました」
「全ての人間が人間関係の構築に成功する訳じゃねえんだよふざけんな」
俺は誰かの流した噂につい本気でキレてしまう。あと噂した奴は古代魔法文献学の全ての研究者に土下座すべきだ。数えるほどしかいないが。
すると彼女の腰に回した手を通じてイリシャがびくっとしたのが伝わって来たので我に返る。
「すまんな、悪いのは噂流した奴なのに」
「いえ、私ももう少しオブラートに包めば良かったです。あと、先輩がたまたま学園に来なかったことも噂に拍車をかけました。先輩、いつもあまり授業をさぼらないので」
「それはそうだな」
まさかまじめに授業に出席していたことが仇になるとは思わなかった。もし俺が日ごろから適当に授業をさぼっていればあそこまで疑われずに済んだと言うのか。だとしたらあまりに理不尽ではないか。
とはいえ、それもイリシャのせいではないのでぐっと怒りをこらえる。
「それで教授もついに手を打たざるを得なくなったのだと思います。でも、私は誰に何を言われようとも自分の研究に一生懸命取り組む先輩の姿が好きだったんです。それでその話を聞いた私は、『普段の先輩と仲が良かったのでもし何者かと入れ替わっていたら分かるかもしれない』と言って何とか同行させてもらうことにしました」
「なるほど、機転の利いた嘘だな」
俺は特に何も考えずに言ったのだが、イリシャは振り向いてぎろりとこちらを睨む。
「……。自分が仲がいいと思っていただけで相手はそう思ってなかった時って結構傷つきますよね?」
「ごめん、悪かった! 悪かったから前向いてくれ!」
そう言えばイリシャは前からちょくちょく俺に話しかけてくれていたが、やはり俺に好意を抱いていてくれたのか。
「何もないところなのでちょっとぐらいよそ見しても大丈夫ですって」
そんなこと言われてもこっちは死ぬかと思ったんだが。周りに何もないからいいものの、さっきから結構なスピードで走っている。
「それよりもイリシャが教授についてきたところまでは分かった。しかし何で俺に魔神の反応があったんだ?」
「それについては私も何とも……」
イリシャの語気が弱くなる。
そうか、そこは知らなかったのか。
「じゃあ何で助けてくれたんだ? 普通それが分からなかったら教授や兵士を敵にしてまで俺を助けるか?」
イリシャは一瞬言葉に詰まる。
「それは……だって絶対何かの間違いですよ。先輩が魔神な訳ないです」
「それはそうだが……『ディテクト・デビル』の偽装なんて出来るのか?」
一般的には識別魔法の偽装は非常に難しいとされる。そもそもそんな簡単に偽装出来るような魔法であれば、識別の役に立たない。そのためイリシャがそれを明確な根拠なく疑っているというのは少し意外だった。
とはいえ相手は王立魔法学園の教授なので絶対に不可能とは言い切れないが。
「難しいでしょう。それにもし他の人が似たような魔法を使えば偽装はばれてしまいます」
「それはそうだな。となるとやはり……」
俺は思考の海に沈んでいきそうになる。
「私は先輩のことを信じています……それではいけないですか?」
不意に放たれた彼女の声はどきりとするほど色っぽくて、振り向いた彼女の目は見たことないほどうるんでいて、俺は一瞬何も考えられなくなった。
案外、彼女は本当に俺のことが好きなのかもしれない。よくよく考えれば今までの人生、誰かに好意を向けられることなんて全くと言っていいほどなかった。そう考えるとここで一人ぐらいには好かれてもおかしくはないのかもしれない。唐突に俺はそんな気がしてきた。
それにあのような事態が急に動いて、必ずしも論理的に行動できるとは限らない。咄嗟に、『俺が魔神である訳がない』という感情が優先してそれにそった行動をとってしまうこともあるだろう。そう思うと急に嬉しくなった。
「そんなことはない……ありがとう」
特に何かの取り柄がある訳でもない俺にそこまでの好意を注いでくれて。
俺がこれまでの人生で経験してこなかっただけで、人が人に無償の好意を抱くというのはそういうことなのかもしれない。いちいち彼女が俺にしてくれたことに理由を求める俺の方が間違っているのかもしれない。不意に俺はそんなことを思った。
「いえ、どういたしまして」
イリシャも少し複雑そうな表情で言う。
照れたのか、俺がお礼をしたのが意外だったのか。
「なるほど、大体イリシャの事情は分かった」
「すみませんあまりお役に立てなくて」
イリシャは少し申し訳なさそうに言う。しかし何も知らないのであればどうしようもない。
「ところでこれからどこに向かうんだ?」
「とりあえず王国を抜けて隣国まで行こうと思います。大丈夫です、先輩は私が必ず助けますので安心してください」
そう言ってイリシャは振り向いてにっこりとほほ笑んだ。その笑顔を見るとなぜか細かいことはどうでも良くなって、すべて彼女に委ねてみてもいいかもしれないという気持ちになってくるのであった。