蘇生
それよりも問題はイリシャの蘇生だ。俺は早速グリモワールのページをめくる。これまでは意味の分からない文字列が並んでいるだけだったページも、今の俺なら現代語を読むようにすんなりと頭に入ってくる。
ただ、元々知らなかった言語を読むたびに頭の中にある魔王因子と一体化していく感覚に襲われる。戸棚の中のものを出すたびに、俺が出そうとしたものだけでなく魔王の片鱗のようなものも一緒に出てくるのだ。最初はそれが気持ち悪かったが、だんだんあるべきものが元に戻るような快感に変わってくる。
これは本当にまずいのではないか、と思い俺は闇雲にページをめくる手を止める。吸収する知識は最低限にして目的の魔法を覚えなければならない。
この本には目次という便利なものはないが、魔法は系統順に並んでいる。
例えば碧の炎・蒼の炎・紫の炎などは続けて載っている。そして無色の風はそれとは少し離れたところに載っているが、そこまで離れている訳ではない。風も炎も現象を操るということで共通しているためだろうか。
先ほどまで読んでいた最初の方のページには自身の肉体に関する魔法が載っていた。傷や病気を癒すような魔法や、肉体を強化する魔法である。
問題は蘇生というのが肉体に関する魔法なのかということだが……。おそらくそれは違う。他の魔法についての記述を見る限り、古代魔法の考え方として肉体と魂は別物と考えられている。ちなみに碧の炎は生物の肉体を消し飛ばすが、魂は消滅しないらしい。残った魂がどうなるのかは分からないが。
そのため、おそらく魂を消し飛ばす炎もあるのだろうが、残念ながらグリモワールには載っていなかった。魔王因子に覚醒しつつある俺の倫理観によると、他人を殺すのはそれほど悪いことではないが、魂を消滅させるのは普通に悪いことらしいので、あえて発明しなかったのかもしれない。
ちなみに死者を復活させるのは魂を肉体に戻すだけなので問題ないらしい(現代魔法には死者を復活させる魔法は存在しないため、そもそも普通の人間は死者の復活については不可能と認識しており、善悪の定義はなされていない)。
ということは、死者の蘇生というのは単に何かの移動をするだけの魔法なのか?
そこでふと俺は風に関するページをめくる。そして発見した。
漆黒の風 霊体を移動する風。ただし対象は肉体の外にある霊体に限る。
これか。だが、そもそもイリシャの霊体はどこにいるんだ? 仮にどこかにいるとして俺にそれを視認することが出来るのか? それとも『霊視』のような魔法が他に存在するのだろうか。対象は肉体の外にある霊体に限るということは、生きている人間の魂を外へ動かすことは出来ないということだろう。
分からないが、他の魔法と違って特別に記述が短い。頭がいい人に物事を教えてもらう時のように要領を得ない。
それとも魔王の魔力があればこの説明だけで使えるということだろうか。
それ以上の手がかりがない以上やってみるしかなさそうだ。
「漆黒の風」
俺が呪文を唱えると突如目の前に真っ黒い空気のかたまりのようなものが現れる。漆黒の風に包まれた辺りは本当の真っ暗闇になり、光が当たっていても何も見えない。ただ暗いだけとは違う。
これが漆黒の風か。俺はそれを無色の風を操る要領で、とりあえずイリシャの体に近づけてみる。もしかすると魂は体の近くを彷徨っているかもしれない、と思ったためだ。
しかし漆黒の風はイリシャの体を包んだが、魂のようなものは見当たらない。代わりに、彼女の頭から上方へ伸びている一本の金色の線のようなものが見える。試しに漆黒の風をどけると線は消滅した。再び近づけると現れる。
なるほど、金色の線はこの風の中にあるときだけ俺の目に見えるのか。
金色の線はどこかに向かって伸びている。風を動かすと金色の線も同じ方向に伸びていく。もしやこれが魂に向かって伸びているのだろうか。
「千里眼」
先ほど読んでいたページの最初の方に載っていた魔法もついでに使ってみる。もはやこの程度の同時使用は余裕だ。これで俺の視界は俺の体を離れて、自由に移動できるようになった。例えて言うなら、視点だけ幽体離脱したような感じだろうか。
俺は千里眼と漆黒の風を操りつつ、金色の糸を辿っていく。糸は洞窟の壁を突き破って上の方へと伸びている。もしかして回り道をしなければならないか、と思ったが千里眼と漆黒の風もそのまま洞窟の壁をすり抜けるように糸に続いて上昇していく。
漆黒の風のせいで周囲が真っ暗なのに加え、洞窟の岩肌の中に入ったので余計真っ暗なのだが、糸だけは褪せることのないきらめきを発しながらまっすぐに天に昇っている。
俺が糸を辿っていくと、やがて洞窟を脱して地上に出る。そしてごつごつした岩肌の地面を見ながらさらに上昇していくと、その上に燦然と輝く金色の球体があった。俺はこれがイリシャの魂であるということをなぜか直感する。
俺はそれを漆黒の風で包み込み、イリシャへの体へと運ぶ。魂は風に運ばれて糸を辿るようにして肉体へと向かっていく。
そこで俺はこれが魂と肉体の繋がりで、死後時間が経つほど糸は細くなり、魂は離れていくということを思い出した。自分が経験した訳でもないことを思い出すというのは死ぬほど気持ち悪い。これが魔王の記憶だろう、また記憶の引き出しから何かを取り出してしまったような気分になる。
やがて魂は二つに割れた石の割れ目がぴたりと一致するように、ぴたりとイリシャの体に戻ってくる。そこでようやく俺は千里眼と漆黒の風の魔法を終えた。
「疲れた……」
俺は体中からどっと疲れが噴き出してくるのを感じる。魔法を使っている間、身体自体は一歩も動いていなかったというのにひたすら重い。
死者の蘇生というのは物理的な現象を引き起こすよりもよほど疲れるようだ。正直、あの日俺が覚醒してから魔法を使うだけでこんなに疲労感を覚えることはなかった。
ふとイリシャの遺体を眺めると、その顔にはかすかに血の色が戻ってきているような気がする。
「イリシャ!?」
俺は思わず声を上げ、彼女の体を揺する。すると先ほどまでと比べて彼女の体からはほのかに体温が感じられる。
その感覚に思わず視界がぼやけてしまう。まさか人の体温でここまで心を揺さぶられることがあるとは思わなかった。
「良かった……」
俺は心の底からほっとした。彼女の命が助かったのなら、ここまで色々やった甲斐もあるというものである。
「……あれ、私、生きてる?」
ふとイリシャの口が動き、つぶやくような言葉が漏れ出した。それを聞いた俺は全身から安堵や幸福といった感情が奔流となって溢れ出てくるのを感じた。
良かった。本当に良かった。
「イリシャ! 良かった、生き返ったんだな……」
思わず彼女の体を抱き寄せる。するとイリシャはくすぐったそうに身じろぎした。しかし今回ばかりはイリシャがどれだけくすぐったそうにしても恥ずかしそうにしても、俺は彼女を離す気はなかった。
しばらくイリシャは手を動かしたり瞬きしたりして自分の体が動くことを確かめていた。が、やがて申し訳なさそうな顔で言う。
「すみません、私のせいで先輩を魔王にしてしまって……」
「それを言うなら俺のせいでイリシャは殺されたんだ。というか覚えてるのか?」
ずっと死んでいたのに俺が魔王になったことを知っているのか。
「はい、魂になった私は、ずっと体の上を漂っていたので。そのまま天に召されることも出来たような気がするんですが、先輩が私のために頑張ってくれていたので留まっていました」
そういう仕組みなのか。俺は驚くとともに恥ずかしさがこみあげてくる。
「まじか。ずっと見られていたと思うと恥ずかしいな」
俺はイリシャが死んだと分かってからの自分の言動の数々を思い出す。ドラージュに怒りを覚えるのは正当だったが、こうして彼女が生き返った今思い返すと、羞恥で心がえぐれそうだ。
イリシャの方も俺のことを思い出していたのか、顔を赤く染める。
「いえ、私のためにあそこまで怒ってくれてありがとうございます……」
「……おお、どういたしまして?」
そこは何と答えていいのかよく分からない。出来れば見ないでいて欲しかったんだが。
「でも、結局のところ私を蘇生してくれたのはなぜですか?」
イリシャが神妙な面持ちで尋ねる。そう言えばこれは俺が心の中で出した結論で、口に出してはいなかったからイリシャは知らないのか。
それを聞いて俺は嘘だろう、と頭を抱えるこれを本人に言うのは恥ずかしすぎるだろう。だが、この状況で「何となく」でスルーすることは済まされない。
「……俺の人生で、一番価値があるって思ったものがイリシャだったからだよ」
「……ええっ!?」
彼女の表情が真っ赤になり、恥ずかしくなった俺は思わず顔をそらす。だから言いたくなかったのに。こんなの告白じゃねえか。
が、やがてイリシャは少し寂しそうな表情になる。
「もしかして、ドラージュに古代魔法は魔王因子による影響で好きになっただけだって言われたせいですか? そのせいで自分に価値がないって思ってしまったせいですか?」
「恥ずかしながらそれもある」
本当は純粋な好意だけで、俺の人生よりイリシャの存在の方が価値があるって言えれば良かったんだがな。
そんな俺の言葉に急にイリシャは慈しむような眼差しになる。
「仮に古代魔法の研究に興味を持った発端が因子だったとしても、それを研究した努力自体は先輩のものだった訳ですから、別にそこで自分を卑下することもないですよ」
そう言う彼女の言葉はとても優しかった。こんな言葉を掛けられたのは人生で初めてかもしれない。なぜか俺は自分で復活させた少女に慰められているが、彼女の言葉は不思議な心地よさとともに俺の心の中にしみこんでくる。
「そうかもしれないな。でも、やっぱり人生の価値っていうのは絶対的なものではなく、誰かが認めてくれることにあると思うんだ。だから俺の人生に価値があるのだとしたら、その大半はイリシャがそう言ってくれていることにあるんだと思う」
「そうですか? むしろ逆だと思うんです。最初、私は先輩に憧れていたんです。私は自分の血を打ち破るために闇雲に戦っているのに、先輩は何にも縛られることなく自由に生きているって」
そうだったのか。他人の言葉一つで自分の人生が空っぽだと思えたり、魅力的だったと思えたり、本当によく分からない。
「逆に俺はイリシャのように自分の力と努力で運命と戦っていることに憧れた。結局、人は自分にないものに憧れるのかもしれないな」
「ですね。まあ、先輩はもう人をやめた訳ですが」
「茶化すな」
俺たちはようやく緊張から解放されて笑い合った。