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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅰ 水晶の街
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chapitre7. 記憶の鍵

【あらすじ】時間を操るという装置について知らされたリュンヌ。必死に状況を飲み込もうとするリュンヌに、ムシュ・ラムは「君には忘れている記憶がある」と告げる。記憶力に自信のあるリュンヌは訝しく感じるが、その記憶は人為的に消されたものであることを知る。幼い日々の記憶にぽっかりと空いた穴。リュンヌは恐怖を抑えて、失った記憶を取り戻そうとする。

 時間を操る装置。

 あらゆる時間軸上の、同じ場所が重なり合った亜空間を作り出す。


 誰かが噂話で語っていたなら、歯牙にもかけない馬鹿らしい話だ。まるで、できの悪い寸劇を見せられているようだが、装置の傍に立ち、陶酔したような表情で新都の技術を誇るムシュ・ラムが今さら冗談を言っているようには見えない。また、幹部候補生に指名され、昨日まで立ち入ることの許されなかった塔の上の部屋にいるというシチュエーションも相まって、突飛で非科学的な話を彼女は受け入れつつあった。


 それに何より、物心ついた頃からの友人の態度が、その信憑性を裏付ける。


「ソル」


 緊張に耐えきれず、呼び慣れた名前を呼んだ。

 呼びかけに応えて、彼がリュンヌの方に顔を向けた。暗闇のなかでも変わりない、その見慣れた笑顔に少し安心する。だが同時に、間違いなくこれは夢でも冗談でもない、と感じた。事態の異様さを飲み込むにつれて、鼓動が胸を激しく突きはじめる。


「ついに、なんだ……」


 ソレイユが思わず零したような独り言を、リュンヌは聞き逃さなかった。


「明日になったら全て説明してもらえるんだろうな」

「誓うよ。だから今は……」


 とにかく落ち着いてね、ルナ。と音量を抑えた声で相方が囁く。

 部屋の向かいに立つ、今朝まで慕っていたはずの大人は今や、刺すように鋭い視線で二人を見ていて、余計な行動を取れば彼が銃を抜くような錯覚すら感じられた。


 ソレイユは彼女を守るように、斜め前に立って出る。

 リュンヌは彼の影で、細く長く息を吐いた。


 呼吸をして、自分を日常と結びつけていた、肉体の存在を感じる。そうやって常に、両の足で立っている自分を意識していなければ、今にも倒れてしまいそうだった。


 ムシュ・ラムがランタンを床に置く。硬質な音が響くとともに、オレンジ色の光が、高い天井に彼の細長いシルエットを映し出した。


 ――悪魔。


 図書館で読んだ児童文学に出てきた、人に不幸を与えて回る恐ろしい怪物。挿絵に描かれた真っ黒の異様な姿と、逆光に浮かび上がる彼が重なって見えた。


 あれは架空の生き物だ。実在するわけがない。

 リュンヌは首を振ってその想像を追い払おうとする。恐怖と、そう呼ばれる感情がまさに心を支配しようとしていた。足がすくみ、動けなくなっていることに気づいた。彼女が恐れに抗う、その必死さをあざ笑うかのように足音が一歩、また一歩と近づいてくる。


「リュンヌ・バレンシア。君は思い出さねばならない」


 モノクルが一瞬、雷光のように煌めいた。

 開発部の人間らしく大柄とは言えない体躯を、得体の知れない雰囲気が何倍も大きく見せていた。立ち尽くす二人に、確実に近づいてきて、今にも彼の纏う空気に飲み込まれそうだった。正気を失うな、と言われたのはこのことなのだろうか。リュンヌは恐怖に身体の自由を奪われつつも、頭の何処かでそれを思い出す。


「……忘れている?」


 リュンヌは彼の言葉を、うわごとのように繰り返す。緊張でぴんと張り詰めた意識に、なにかが引っかかり警音を発していた。リュンヌは違和感の正体を探った。


「……私はこれでも、物覚えに自信があるのですが」


 言いながら、そうだ、と思い出す。読書家のリュンヌは、図書館で読んだ本の内容をかなりの精度で覚えている。――それこそ、数年前に読んだ本に書いてあった架空の言語を、咄嗟に思い出して口に出せるほどに。


「その通りだ。リュンヌ・バレンシア、君は良い記憶力をしている」


 試験で好成績を収めた研修生に掛けられるような、穏やかな褒め言葉だった。研修生の自己顕示欲を適度に満たし、更なる研鑽を積む動機付けにするような。

 ――だが普段とは状況が違いすぎる。

 リュンヌは姿勢を正し、ムシュ・ラムの瞳を見つめ返した。


「では、どういう意味ですか?」

「その前にひとつ尋ねよう。君は何時から、自分の記憶力が良いことに気がついた?」

「……10歳前後、でしょうか。図書館で本を読み始めた頃です」

「なるほど。それでは、当時のことを思い出せるか? 君が田舎から出てきた、無垢な少女であった自分に遡るように、出来るだけ鮮明に思い描きなさい」


 口調は穏やかだが、命令形だ。彼に従うしかない。

 リュンヌは目を伏せ、息を吐いて記憶を紐解きはじめた。繭が一本の細い糸に戻るように、重ねた時間を遡り、ほどいた糸を自分の周りに編み直すのだ。そうやって想像からなる世界を作り出し、その世界の中央に自分を描き出す。


 10年前。

 馬車に乗り、見慣れた街を去った。


 煙る砂ぼこり、荒れた地面に跳ねる座席、そして次第に近づく三本の塔。不安げに握りしめた指を、ソレイユが握ってくれる。研修生として機関に入るために、ソレイユと共に故郷バレンシアを離れ、新都ラピスの中心部にやってきたのが10歳の手前だった。


 そして訪れた新都の大図書館に、彼女は魅了された。


 棚の端から端まで詰められた、ハードカバーの分厚い本たち。ずしりと重たく、それでも当時少女だったリュンヌの両手に収まる程度の大きさに、これもまた詰められた知識の数々。極限まで濃縮された人々の歩み、叡知の軌跡。故郷には図書館がなく、それまで本というものに触れてこなかったリュンヌにとってあまりにも魅力的だった。


 図書館。

 そこは彼女の原風景であり、生まれ育った街以上の故郷。その記憶は輝かしく美しく、今の緊迫した状況ですら安らぎを覚えてしまうほど温かい。まぶたの裏に、埃っぽい空気が光を受けて煌めく、あの景色が映し出されるようだった。


「とても、楽しい年月でした。機関に入る前の、あの数ヶ月……」


 朝食を食べてから図書館に行き、日が落ちるまでひたすら活字を追いかけた。まだ幼く、教育も十分に受けていなかったリュンヌにとっては難しい単語や言い回しが多々あり、そのたびにリュンヌはその意味を聞きに行ったものだ。


「――誰に?」


 記憶の中で、はたと立ち止まる。

 その記憶には欠落している情報が、確かにあった。


 そうだ、図書館にはいつも『誰か』がいた。その人は2階の、ステンドグラスの前の席にいつも腰掛けていて、リュンヌのどんな質問にも優しく答えてくれた。その人がどんなときも笑顔を浮かべていたことは覚えているのに、肝心のその微笑んでいる顔が――姿が思い出せない。


 微笑んだ口の輪郭が醸し出す、優しげな空気が人の形をして記憶の中にぽっかり浮かんでいた。


「……誰かがいました。あの建物の、階段を上った先、色とりどりの光が差す窓際」

「そうだ」


 記憶の外側から聞こえる、何かを堪えたような低くかすれた声。

 それを聞いて、リュンヌは自分が置かれた状況を思い出す。目を開いて、ムシュ・ラムの瞳をまっすぐに見つめた。


「思い出せたか。それが、君の忘れているものだ」

「何故、忘れていたのでしょうか。……いえ、それよりも」


 リュンヌはそこでようやく、重大な事実に気がついた。


「どうして、忘れていることを貴方が知っているのですか?」


 背筋を冷たいものが駆け上がった。

 自分の中でも、忘れていることすら忘れていたような記憶の一片。水の中に潜るように息を止めて、自分の奥深くに迷い込んでようやく見つけたものを、始めからこの人は知っていたのだ。まるで、心臓を誰かに握られているような恐怖。


 他人の心が読めるとでも言うのか。


 流石にそのようなはずはない。

 新都がリュンヌの知っている以上に高い技術を持っていることはこの数十分で分かったが、人の記憶を一から十まで掘り出す技術なんていくらなんでも不可能だろう。


 もし、それよりは多少合理的な説明をするのなら――


「貴方が忘れさせたのですか?」

「その通り。人間の記憶について包括的に管理するのは新都といえど困難だが、ひとつの対象に基づく記憶を精神的ショックによって消去することはできる」

「はあ。何の理由があって――」

「そこからは機密だ」


 ムシュ・ラムが鋭く言い放った。機密という言葉の響きは刺々しく、それだけでリュンヌを威圧する効果があった。


「とにかく、君の記憶は非常に緻密で広範にわたるものでありながら、その対象に限ってのみ小部屋に封印されたようになっている。その小部屋を開ける鍵だけをあげよう」


 リュンヌは後ろにいる相方に視線を送り、「どういうことだ?」と言うように口の形を動かした。ムシュ・ラムの遠回しな言葉に不安を感じ、何か助言が得られないかと期待したのだ。


 だが、頼るべき相方は何も答えない。むしろ、彼女に情報を与えないために押し黙っているように見えた。言葉の代わりのつもりなのか、彼はリュンヌの手首に手を添えた。夜風でひんやりと冷えた部屋で、彼の手から伝わってくる体温には少し心を落ち着ける効果があった。


 どうやら、思い出すしかないようだ、とリュンヌは溜め息をついた。


 その精神的ショックという方法によって人為的に失われた記憶を。他人によって記憶が操作されたという事実は腹立たしいものがあるが、忘れたままというのも据わりが悪いものだ。


 だからやってやろう。彼女はそう決心した。


 添えられたソレイユの手を、握りなおした。

 自分は一人じゃない、誰よりも心強い味方がいるのだから。


 記憶の蓋を開けるくらい何も怖くない。


「ムシュ・ラム、事情は分かりました。教えて下さい」

「言われずとも、リュンヌ。――彼の人の名前は、エリザと言う。憶えはあるか?」


 水晶にひびが入るような音が、脳の奥に響いた気がした。

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