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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅶ 未来は塵となって
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chapitre86. 空

 何があったんだ?


 懐かしい存在を隣に感じながらも、その暖かさにうっかり気を緩めないよう、ロンガは注意深く周囲に目を配った。

 通路に転がっていた死体に、床に広がっている血痕、何より感情を出し切って空になったような友人の顔。その顔立ちはほとんど2年前と変わっていないのに、表情はまったく異質な、見たことのないものだった。大きく見開いた目は充血して、嗚咽すらせず、ひたすらに涙をこぼし続けている。


 血だまりに落ちて汚れてしまった、太陽のイヤリングを指先で拭う。ロンガのイヤリングと対になっている、彼がいつも着けていたはずのものだ。誰のものかも分からない血で手が汚れたが、そんな些細なことを構う気にはなれなかった。自分の膝を抱えて小さく震えている友人の肩に腕を回す。


「ソル。安全な場所まで移動しよう……立てるか?」


 その身体を抱えるように持ち上げると、彼はふらついてはいるものの、どうにか立ち上がった。レギンスの破れた片足には、細く抉れたような傷があって血が流れている。しかし、服が血塗れになっているにも関わらず、足の怪我以外はどうやら無傷のようだった。


 ロンガは彼の体重を支えたまま、銃を構えて通路に半身を出し、周囲を窺う。濃い血のにおいが混ざった空気は、重く静まり返っている。


 全てが終わった後といった雰囲気だった。


 ひどく頼りない友人の身体を支えながら、ひとまず身を隠せる場所を求めて通路を歩くと、開いている扉の向こうに寝台が見えた。人間ひとりが生活できる居室と言った雰囲気で、菓子の包み紙のようなものが転がっているが、床には薄く埃が積もっている。本来の住人はどこに行ったのか、それを考えると恐ろしかったが、それでも今は安全な場所が必要だった。

 ロンガはもつれる足でどうにか部屋に入る。扉を内側から施錠して、寝台に友人を座らせると、彼はそのまま横に倒れ込んだ。呆然と壁を眺めている、その視界に無理やり割り込んで、ロンガは彼の顔をじっと見つめた。


 長い睫毛に縁取られた、赤みのかった瞳。いつも何か素敵なものを見つけては、明るく煌めいていたはずの目は、冗談だと思いたいほど真っ暗だ。真っ赤に腫れた目元が痛々しいが、そんな身体的な痛みよりずっと、心の中に抱えているものが大きいように思われた。


 寝台の隣に腰を下ろし、空虚な視線を受け止めようと試みる。


「ソル――」

「ごめんね、ルナ」


 口元が動く。彼はだらりと垂れていた右手を緩慢に動かして、ロンガの手に重ねた。


「今は、少し……休ませて」

「ああ、ごめん。もちろん」


 ロンガが微笑み返すと、彼は小さく頷いて目を閉じた。あのね、と囁くような声が言う。


「ぼく――色んなことを、ぜんぶ、受け止めないといけないって思って、ずっと、そうしてたんだ」

「……うん」


 抽象的な言い回しに内心で首を捻りつつ、ロンガが頷くと、彼は「でもね」と上ずった声で呟いた。固く閉じたまぶたの間から、じわりと涙がにじむ。


「ちょっと、無理かもしれない。今は、このまま、二度と目が醒めなかったら良いのにって、思ってる」

「えっ――」

「でも、ルナがいるから……また、起きるよ。大丈夫、そこにいてね」


 掠れた声で言ったきり、失神したように唇から力が抜ける。眠ってしまった彼が手のひらを掴んで離そうとしないので、そこから動くこともできない。


 手持ち無沙汰になり、ロンガは彼の顔をじっと眺めてみた。

 少し痩せた気はするが、紛れもなく彼だ。


 物心ついてからずっと隣にいた彼は、かつて自分の一部のような存在だった。この2年前別れていたほうが異質だったのに、なぜだろう、今はもう一歩引いた場所で彼を見ているような気がした。失った自分の半身ではなくて、ひとりの友人として彼と再会したように思えたのだ。


 その理由も何となく分かっていた。


「ソル……」


 聞こえていないと分かりつつも、その寝顔に語りかける。


「あのな、私、友達ができたんだ。アルシュやカノンだけじゃなくて、色んな人と知り合って、話をした。リヤン、宿舎のみんな、フルル、リジェラ、コラル・ルミエールの人たち――」


 出会った人たちの顔をひとつひとつ思い浮かべながら、ロンガは目を細めた。


 大切にしたいと思うものを、この2年間で数え切れないほど見つけられたのだ。ロンガにとって、かつて唯一の相方にして理解者だった彼は、今もひときわ特別な相手には違いないが、いくつもある大切なもののひとつになった。


「――でも」


 それでもロンガにとって、世界の始まりは彼だった。彼が最初に手を引いて、あの狭い塔から連れ出してくれたからこそ、その外側にあったものに出会えた。今までだって、彼がどこかで生きていると信じていたから、彼の記憶が胸の中にあったから、ロンガは気力を振り絞って2年間生きてきたのだ。

 彼がいなくなったら、今まで積み上げた出会いや時間まで、根幹から揺らいでしまう気がした。力の抜けた手を握りしめて、眠っている顔に祈りを捧ぐ。


「帰ってきて……ソル。まだ、君がいなくなる心の準備はできてない」


 お願いだ、と呟いてロンガは寝台に顔を伏せた。友人の手を両手で包むように握りしめて、その体温を感じながら、溶ける暗闇のなかに身を横たえる。


 鼓動が時を刻んでいた。


 耳に響く音は自分の心臓か、それとも彼の心臓か。まぶたの裏側で脈打って、前へ前へと進む生命を運んでいく。息を吸う。そして吐く。手のひらには暖かい体温が宿っている。


 彼が生きている。

 何も分からないけど、それだけが確かだった。


 *


 山並みの遥か彼方まで広がる、青空の下に立っていた。


 シェルは周囲を見回した。


 塗りつぶしたように青い空には雲ひとつなく、天頂には白い太陽が輝いている。眩しさに目を細めながらも空を眺めていると、遠くから灰色に濁った雲がやってきた。それは青空の一部を覆い隠して雨を降らせたが、太陽がまだ見えているので空の明るさは変わりない。いくらもしないうちに雨雲は去って、空は一面の青に戻った。


 それから、また違う雲がやってきた。同じように空の一角で雨を降らせるが、太陽を覆い隠すには至らない。厚い雲もすぐに薄れて、消えていく。


 何度も何度も、同じ景色が現れた。

 雲がやってきては、ほんの少し空の一角を埋めて、雨を降らしてから消えていく。


 同じことの繰り返しに少し飽きながらも、シェルがぼんやり空を眺めていると、ふと、様子が変わったことに気がついた。今までよりずっと分厚くて暗い雲が、いくつもいくつも、四方から押し寄せる。


 あんなに広かった空は、どんどん雲に覆われて、ついに太陽すら覆い隠した。世界を照らしていた真っ白い光は消えてしまって、シェルは慌てて周りを見渡した。


 ぼんやりと霞んだ灰色。

 何も見えない。


 ただ、右手の向こう側に誰かの体温がある。


「ルナ?」


 その単語の意味が思い出せない。でも、心のどこかが覚えていた暖かい響きを、導かれるまま口に出す。どくん、と心臓が鳴った。身体中にエネルギーを送り出す、その動きを、身体の真ん中辺りに感じる。


 まだ生きている。


 でも、空が見えない。どうしてこんなに世界は暗いんだろう。ああ、雲が空を覆ってしまったからだ。じゃあ、永遠に続くような灰色の霧から、どうすれば抜け出せる?


「消してしまおう」


 そう呟くと、とたんに風が強く吹いて、シェルはよろめいた。山並みの彼方に雲は流れて、消えていった。もやもやと空を覆っていた、あの重苦しい雲が消えれば、青空と光を取り戻せるはず。


 そのはずだったのに、雲が消えた空には、あの暖かくて明るい太陽もなかった。永遠の暗闇がそこには満ちていて、まっさかさまに落ちてくる。身体は漆黒に飲み込まれて、どこでもない場所へ飛んでいく。


 どうして。


 ただ雲を払いたかっただけなのに、世界は夜に閉じ込められて、大切なものまで失ってしまった。ここでは何も見えないから、身体があってもなくても関係ない。声が響かないから、生きていても死んでいても変わらない。


 それでも、誰かが手を握っている。

 まだ、そこで待っている。


 その温度だけを頼りに、シェルは足を引きずるように歩き、光を失った悪夢の中から抜け出した。


 薄暗い、ハイバネイト・シティ最下層の一室。

 横たえた身体は死体のように冷たくて、右の手のひらだけが暖かい。色あせた視界をゆっくりと動かして、自分の手を握っている人の存在に気がついた。耳を覆うように伸びた二房だけが長い、少し跳ねた髪が、寝台に付くか付かないかのところで静かに揺れている。眠っているらしい、彼女の頭を抱き寄せて、また目を閉じる。


 今度はもう少し、素敵な夢を見られるようにと祈りながら、シェルは眠りに落ちていった。

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