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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅶ 未来は塵となって
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chapitre85. 棄却

 ヴォルシスキー、出生管理施設。


 近づいてきた小型航空機(メテオール)を見て、とある生命工学技術者は窓から身を乗り出した。なんだありゃ、と呟く。彼は統一機関の出身ではないが、ラピスにおいて最も重要な施設のひとつ、出生管理施設に籍を置いているので、多少は統一機関に関する知識を持っていた。数秒考えたのちに、空に浮かんでいるそれが、統一機関の軍部が所有している小型航空機(メテオール)だと見当をつけた。


 ふぅん、と息をついて視線を逸らした直後に、おや、と気がつく。


 配電系統はほとんどが、忌まわしき地底の民に奪われたのではなかったか。MDPが多少回復させたとも耳にしたが、七都で情報をやりとりするのが精一杯だと言っていた。とすれば、あの機体を動かしているのはいったい誰だ。


 ――地底の民?

 ――彼らがついに、出生管理施設を抑えようと乗り出してきたのか。


 こうしちゃいられない、と彼は身を翻し、技術者の集まる休憩室に顔を出す。あれを見たか、と叫んで窓を指さした。いくらもしないうちに休憩室は大騒ぎになり、騒ぎを聞きつけた職員がやってきて、さらに話が広がっていく。


 そうこうしているうちに、小型航空機(メテオール)はその形状がはっきりと分かるほどに近づいていた。

 最初に気がついた技術者は焦りながらも、ふと気がつく。こちらに向かっている機体が、たった一機であることに。その大きさから、どう考えても数人しか乗り込んでいないだろうと推測されることに。


 地底の民が、ついに自分たちを攻撃しに来たと考えるには、あまりに不自然であることに。


「なぁ、ごめん――やっぱ、違うんじゃ」


 振り返った彼の言葉は、誰も聞いていなかった。


 奴らに奪われるくらいなら、

 いっそ。


 全てを消してしまおう――と誰かが口にした。


 逃げろ、と叫ぶ声が聞こえた。


 人波に押されて、転がるように玄関から飛び出した。


 窓から火が噴き出して。

 黒い煤が空に舞い上がる。


 未来を創り出し、再生を担う場所は。

 旧時代から続く技術の集積は。


 その日。

 12月(デサンブル)22日、正午。

 

 何の意味も持たない塵になって、空に飲み込まれて消えた。


 *


「どういうことだ」


 MDP(メトル・デ・ポルティ)の総責任者代理、エストがサジェスに掴みかかっている。待ってくれ、とうわごとのようにサジェスが呟いた。睨み合うどちらも、今にも倒れそうな蒼白な顔をして、ぜいぜいと荒い息を吐いていた。


 小型航空機(メテオール)の操作盤に取り付けられたマイクから、地下のコアルームに届くのは、ほとんど意味を為さない叫び声だった。画面が激しく揺れていて、映す角度は刻一刻と変わるが、出生管理施設が燃えているのは、もはや疑いようもなかった。ありとあらゆる窓から火を噴き出し、白に近い灰色だったコンクリートが黒に煤けていく。


「……おい」


 どん、と胸を押されてシェルは我に返った。


「ぜ、全部嘘だったのか。手を取ろうと言ったこと、平和を目指すってさぁ――! 騙してたのか」

「……違う。ぼくらは本当に、誰も傷つかない未来を目指して」

「だったら何だよ、これ!」


 突き飛ばされたシェルは、いとも簡単に均衡を崩し、コアルームの壁に頭を打ち付ける。ぐらぐらとして焦点の定まらない視界のなかで、怒っている誰かの顔だけがやけに鮮明だった。ネクタイを掴み上げられて、首が絞まる。声にならない声がこぼれる。空気を求めて下あごが痙攣するのを感じた。


 短い音のパルスが、鼓膜に突き破るほどの勢いで突きささった。


 それと同時に、ネクタイを掴んでいた力が消え、シェルは地面に崩れ落ちる。連続して散発的に続く、高くて鋭い発砲音と叫び声。物陰の向こうに、銃を構えた人間らしきものの姿が一瞬だけ見えた。衝撃が部屋を、天井を揺らし、とつぜん照明が消えた。それでも騒音はかき消えず、増幅して広がって、やがて――突然、全てが終わった。


 暗い。

 音もない。


 ぽつりぽつりと、まだ浮かんでいた光が、ひとつずつ消えていった。何かを知覚している自分、それ自体が、もしかしたらもう存在しないかもしれないな、と思った。記憶とか、希望とか、祈りとか、実態がなくて曖昧なものだけが、まだどこかにある気もした。でも、手探りで探そうとして、その手すら見つけられなかった。


 死んでしまったのかな。

 シェルがそう思いついた瞬間、何かが自分の身体に触れた。


 無事か。


 そう問いかける声がした。暗闇のなかでひとつ、瞬きをして、シェルはほとんど思考を止めたまま問い返した。


「――なに?」

「生きているな。良かった」

「あ――うん。生きてるんだね、ぼく」

「そのようだ」


 サジェスの声が、斜め上で微笑んだ。


 彼はシェルの腕を引いて、立ち上がらせる。足に痛みが走って、とたんに自分の肉体をはっきりと感じる。歯を食いしばり、どうにか両足で体重を支えた。


「シェル、頼みがある。通路を出て、ぐるりと回ったところに非常電源があるから、それを起動してくれ」


 彼に手を引かれて移動すると、冷たい金属の壁に指が触れる。視線を横に動かすと、わずかにもれている光があった。コアルームの扉が少し開いていて、外の光が見えているのだと分かった。


「早く行け――頼む」


 やけに切羽詰まった声のサジェスに背中を押され、シェルはそれで勢いづいて通路に飛び出した。どこかの配線がやられたのか通路は暗く、まだ光っている灯りも不安定に点滅していた。足が痛むのも無視して通路を走り抜けると、途中でおかしな物体が転がっているのを見つける。だらりと頭を垂れたそれは死体で、とたんに身体が絞られたような感覚に陥り、床に胃液を吐き出した。


 数秒、膝をついたのちに立ち上がり、サジェスの言っていただろう部屋に辿りついた。震える指先で装置の蓋を開け、スイッチを押し下げる。カチリという硬い感触と、何かが咬み合ったような音がした。通路に戻ると、足元の明るさが少しだけ増していた。その光と、暗闇に慣れてきた目を頼りに、シェルは通路を駆け抜けた。


 コアルームに駆け込むと、白く光るパネルの前にサジェスが立っていた。


「ありがとう、シェル」


 日焼けした横顔に笑みが浮かぶ。


 見慣れた彼の姿に一瞬だけ安堵して、それから言葉を失った。ローブの下に見えるシャツのほとんど全面が、赤黒い血で染まっている。微笑んでいる彼の表情が、はっと強ばった。口元を覆った指のすき間から、血がだらだらと糸を引いて落ちる。


「サジェス君――」

「最後の仕事をする。少し待ってくれ」

「医療室に行こう、ねえ!」


 シェルは血相を変えて、サジェスの腕を掴もうとしたが、信じられないほどの力で振り払われる。足元が滑って転び、何か柔らかいものにぶつかる。それが部屋中に転がる死体のひとつで、床がぬるぬると滑る原因は血だと気がついて、再び吐き気が込み上げる。そんなシェルに見向きもせず、サジェスは電力の復帰したパネルの前に座り、凄まじいスピードで操作を始めた。


 立ち上がる気力を失い、それでもシェルは彼の背中に語りかけた。


「ねぇ――地下の医療は凄いんでしょ。ぼくの脱臼もさ、たった数日で治したんだよ。行こう。間に合うよ」


 サジェスは応えない。

 パネルにいくつものウィンドウが開き、ソースコードが高速で流れていく。


「サジェス君――」

「……あぁ」


 シェルの呼びかけへの返事ではなく、ほとんど溜息のような音でサジェスが呟いた。ウィンドウのひとつを選び、そのなかの一行をハイライトする。


「これか、不具合の原因は。ようやく見つけた――ああ、最後に分かって良かった」

「……何の、話してるの」

「ELIZAの不具合の原因が分かったんだよ、シェル」


 彼は咳き込み、血を床に吐きながら話し続ける。


「どういう事情か分からないが、ELIZAシステム自体の名称がデフォルトに戻っていた。それで時折エラーを返していたようだ。はは、なるほど。ひどく些細だな」

「笑ってる場合じゃないでしょ!」


 シェルは足に無理やり力を込めて立ち上がり、サジェスの肩に手をかけた。


「最後の仕事って……そんなこと?」

「いや――違う」


 サジェスは首を振り、新たなウィンドウを呼び出した。


「ハイバネイト・シティの総権を誰かに譲らなければいけない。俺がその処理をしないまま死ぬと、指導者が不在となってしまうから」

「死ぬ――の?」

「ああ。確実に自分が死ぬときは、そうだと分かるものなんだな。さて、誰に総権を譲り渡すべきか……」


 ごほ、と咳をして、サジェスはちらりとシェルに視線をやり、それから首を振った。


「総権を譲ることは、10万の同胞を相手取り、彼らの不満も罪も全て背負わせてしまうことだ。大丈夫だ、シェル、貴方に譲る気はない。もちろん他の同胞にも――この権利を託していいとは思えない」

「……ぼくで良いなら、背負うよ」

「その心遣いはありがたいが、おそらくすぐに殺されるだろう。何があっても、絶対に自分の身を守りきれる人間でなければ」

「じゃあ……カノン君?」

「彼がいくら強かろうが、肉体の屈強さには限度があるだろう」


 サジェスは、まるで子供を宥めるような口調で言う。分かっているだろう、とサジェスは微笑んで、操作盤に指を置いた。


「実は――唯一の答えに、すでに辿りついている。ただ、少し……その、決意が足りない。シェル、俺はこの力を託すべき相手は、真祖エリザしかいないと思っている」


 いまだ光を失わない金色の瞳が、パネルに浮かんだ文字列に向けられる。


「“春を待つ者(ハイバネイターズ)”は絶対に彼女を傷つけないからだ。真祖である彼女が、自分と同じ名前の人工知能に対して、総権を持つ……はは。良くできた話じゃないか」

「うん――そうだね」


 シェルが虚ろな声で同意してみせると、サジェスは「ありがとう」と呟き、ソースコードを書き換え始めた。数十秒後、赤く縁取られたウィンドウが新しく開く。


『最終警告:総権所持者を書き換えますか?(y/n)』


「イエス、だ」

 サジェスが呟いて、キーを押し下げる。


 その瞬間に彼の身体から力が抜けて、サジェスは操作盤にがっくりと上半身を倒した。前髪に覆われた口元が、まだ少しだけ動いていることに気がつき、シェルは慌てて言葉を読み取ろうと顔を近づけた。


「サジェス君――」

「ああ――まだ、少しだけ、時間があるようだ。シェル、そこにいるのか」

「いる! いるよ、ぼく」


 力なく垂れた手を両手で包み込んで、自分が彼の隣にいることを伝える。サジェスは唇を僅かに横に引き、吐息のような笑いを零した。


「叶うなら、もうひとつだけ――俺は、太陽が見たい」

「――太陽」

「ああ、あの熱が、気高い白が……好きだったんだ。だからこそ、あの美しい天体が、ここにないことが、悔しかった」

「分かった、分かったよ! サジェス君」


 サジェスの身体の下に、シェルは自分の身体を割り込ませて、彼の体重を背中で支えて立ち上がった。普段の倍以上の負荷をかけられた足に激痛が走る。噛みしめた歯のすき間から息を吐き出して、一歩また一歩と踏みだし、通路に出る。


 急げ、どうしたらいい。


 太陽を見たいと言うのだから、地上に向かわなければ。昇降装置が動いているかどうかも分からないけれど、それ以外に方法がない。重力に逆らえ、ラピスの最奥であるこの地から、何としても地上に向かえ。だって、太陽は地上にしかないのだ! どうか間に合え、サジェスの世界が終わってしまう前に、一分でも一秒でもいい、彼が愛した光の下で死ねるように。せめて、その願いだけは。


 自分を言葉で殴りつけて、前に進む。


 見開いた目から何かがこぼれた。もうそれが何なのか分からない。身体中でびしびしと音が鳴っていた。今にも瓦解しそうな身体を、意志の力で結びつけて動かす。


 這うように通路を進み、永遠にも思える時間をかけて昇降装置の近くまで来ると、ふと背中の体温がうごめいた。


「あれは……」


 そう言って、だらりと垂らした手を持ち上げる。


「太陽、か?」


 サジェスの指さした先に、白い光がこぼれている場所があった。シェルは霞んだ視界を手の甲で拭い、そちらに目を凝らす。


「ホントだ……太陽だ」

「連れて、行ってくれ」

「もちろん」


 とたんに気分が明るくなって、足の痛みすら忘れた。近づくたびにどんどん大きく、明るくなる光を見て、わあ、とシェルは感嘆の息をこぼした。白い光の満ちた空間に、2人で倒れ込んで空を見上げる。


 青い空。

 白い恒星。


 暖かいね、とシェルが笑うと、そうだなと微笑む気配があった。日光が降り注いで、何もかもを包み込んで揺れる。


「誤解してたよ、ぼく」

「そう、なのか?」

「今まで分かってなかった。太陽が、どんなに暖かくて優しいのか、どうして地下の人たちは、そんなに太陽を欲しがるのか……」

「気付けて良かったじゃないか」

「そうだね」


 雲ひとつない青空の下で、シェルは目を閉じた。あらゆるものの輪郭が白く溶けていくような感覚。決して不快ではない、むしろ心地よかった。嫌なものや苦しいことが嘘のように抜け落ちて、綺麗なものと楽しいことだけが心を包み込んでいた。


「シェル、ありがとう。最後に太陽を見ることができたよ」

「あは――太陽の方が会いに来てくれたんだ」

「はは……」


 サジェスは笑い声で応えて、それからふと、黙り込む。

 ああ、と静かに呟いた。


「嬉しいよ」


 穏やかな声が、消えかけた意識の向こう側で、それでも微笑んでいる。


「たとえ――偽物だとしても、だ」

「――え?」


 その声だけがやけに鮮明で、シェルはぱちりと目を開けた。


 夢が覚めた。


 上半身を起こす。

 周囲を見回す。


 青く塗られた天井、白い照明。

 鼻に突きささる血の匂い。


 隣を見る。


 サジェス・ヴォルシスキーだった人が、僅かに微笑んだまま、目を閉じていた。


「サジェス君?」


 シェルは慌てて彼の元に向かい、身体に触れる。


「ごめん、ぼく、勘違いしてたみたい」


 まだ体温が残っている。


「早く地上に行かないと」


 持ち上げた腕は、さっきまでより重い。


「ねぇ――」


 握りしめた手首の血管は、ぴくりとも動かない。胸に耳を当てて、どれだけ待っても、心臓のリズムは聞こえてこない。彼を生命体たらしめていた、その全てが終わり、ゼロに戻っていた。


「ああ……ごめん、間に合わなかったね」


 呟くと、とつぜん目が破裂するような痛みに襲われた。閉まらなくなった蛇口のように涙がこぼれ落ちる。シェルは涙を拭って、動かなくなったサジェスの身体を再び持ち上げようとした。


「今からでも、行こう。ね」


 肩にもたれて、ぐったりと垂れているサジェスの顔にシェルが微笑みかけると、とつぜん機械音がした。


 振り返る。


 壁から伸びた金属の腕がこちらに近づいてきて、サジェスの脇に手をさし込み、その身体を持ち上げた。


「――待って!」


 呼びかけても止まらず、その身体は遠ざかっていく。ぶらりと垂れ下がったサジェスの足に縋って、引きずり下ろそうと力を込める。


「嫌だ、ダメ、ダメダメ! サジェス君はぼくと地上に行くんだよ。お願い、連れて行かないで、嫌だ、()だってば――」


 途中から言葉は意味を為さなくなり、自分が何を叫んでいるのかも分からなくなった。機械の無慈悲な力に引かれて、サジェスの身体は刻一刻と持ち上げられていく。喉が詰まって声が出なくなり、それを吹き飛ばしてまた叫んだ。


 それでも、ついに。

 指が届かないほど高く持ち上げられた身体は、あっけなく壁に吸い込まれた。


 地面に膝を付いた。

 静寂が耳に響く。


 サジェスが死んでしまった。


 サジェスの声に応えて集まったMDPの人々も、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”のなかで密かに集まった人々も、みんな死んでしまった。出生管理施設は灰になった。ハイバネイト・シティの総権は、目覚める見込みのないエリザに託された。


 全てが終わったのだ。

 あれ、とシェルは不思議になる。


「ぼくは何で、まだ生きてるんだろう」


 自分の手のひらを見つめた。


 血で染まってはいるものの、確かに動いている指先。あらゆるものが停止したこの場所では、自分が生きていることの方が異質に思えてしまう。絶望に黒く塗りつぶされていく心の端で、それでもまだ、小さな違和感の光が灯っていた。シェルはそれをつまみ上げて、ええと、と考える。


「……ぼくって、こんなだったっけ。もっと、何だか、笑ってたような」


 自分は笑えたはずだ。

 そう思って、笑おうと試みたが、まったく力が入らない。


「ああ……うん。ダメか、もう。ダメなんだね」


 溜息をついて、顔を下に向けたとき。


 全てが死んでしまったと思った静寂の中で、どこからか足音が近づいてくるのを感じ取った。こちらに一直線に向かってきたそれは、どんどん大きくなって、すぐそこで立ち止まった。


「――ソル!」


 自分のことだと、すぐには気がつかなかった。突然の物音に困惑して顔を上げると、視界の端で銀色が煌めいた。

 揺れる、月のイヤリング。


「……ルナ?」


 ほとんど反射で名前を呼ぶ。


 懐かしい友人がそこにいた。

 血と死の匂いに満ちた、ハイバネイト・シティ最下層では場違いなほどに、汚れていない服装と眼差しで立っている。はあ、と溜息をついて、シェルは彼女の顔を見上げた。


「なんで、来ちゃったの……こんなとこに、来なくて良かったんだよ」


 今さら来たって、何もないのに。


 価値があるものは、もう、全て消えてしまったのに。ここに彼女がいたって、ただ汚れるだけ、傷つくだけだ。その彼女がこちらに手を伸ばしたので、シェルは後ろに飛び退いて距離を取った。


 困惑の表情を浮かべている。


 そのまま、諦めて帰ってほしかった。なのに、手当をする、と言ってこちらに近寄ってくるので、シェルはどんどん後ろに下がる必要があった。ついに壁際に辿りついてしまい、どこにも行けなくなったシェルは自分の膝を抱き寄せた。


 手前に彼女が膝を付く。


「――触らないで、ルナ」

「どうして」

「ルナを汚してしまうから」

「そんなの問題のうちに入らないだろう」

「違う、違うんだよ! もう、ダメなんだ」


 激しく首を振った。何を喋っているのか分からないまま、シェルは拒絶の言葉を繰り返し吐いた。彼女が悲しそうな顔でこちらを見ていた、違う、悲しませたいわけじゃないのに。彼女はふと下に視線をやって、床から何かを持ち上げた。


 金色の、血塗れのそれは――

 いったい、何だったっけ。


 そんなことより、彼女の指先が血で汚れてしまったほうが悲しくて、瞳からぼろぼろと涙が零れた。彼女はひとつ息を吐いて、壁際に座っているシェルの隣に腰を下ろす。自分の真横に生きている身体があって、ほんの少しだけど、その体温を感じた。


「――ソル」


 懐かしい声が呼びかけて、硬く握りしめた拳に柔らかい肌が触れた。彼女に触れると汚してしまう気がして、身体が強ばるが、もう逃げるほど体力が残っていなかった。諦めてその体温を受け入れる。


 ソル、ともう一度名前を呼ばれる。


「何があったとしても、無事で良かった。私は絶対にソルの味方だから、だから……教えてくれ。ここで、何があった。今、何が起きている?」

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