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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅵ 四世紀の眠り
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chapitre80. 彼方の雑踏

 冷たい雨が降り始めていた。


 足元に積もり始めた砂と混ざって、泥になる。べたつく嫌な感触が身体を覆い始めた。


 地下施設に向かって避難する人々の足も、心なしか早くなる。整然と動く人の流れを見送りながら、ロンガはハンマーで殴られたようにぐらぐらと揺れる頭を抑えていた。


「“ハイバネイターズ”が助けてくれる、と言ったこと自体がアルシュの虚言?」


 ロンガが呆然と問い返すと、ガスマスクを被ったカノンが頷いた。


「そういうことになる。多分、気づかれない算段だったろうね。地下に向かってから真相を知っても時すでに遅し、と」

「――何考えてるんだ、アルシュ」


 何気ない様子で、そろそろ帰らないのと聞いてきたあの日、アルシュはすでに覚悟を固めていたというのか。信じられないままに疑問を零すと、「本当に理由が分からないの?」と言ってカノンは薄く笑った。


「分からないフリをしてるだけでしょう、あんたは。足手まといになるくらいなら犠牲になるべきだと、そう判断したんだろう」

「足手まとい? MDPにとっては、アルシュこそが精神的な支えなのに。正気なのか。本当に、自分が私たちの重荷になっていると思っていたのか」

「真意は知らないけどね」


 カノンは小さく肩をすくめる。

 ゴーグルの向こうで、目を細めるのが見えた。


 締め付けられたように痛む胸元を抑えて、早くなる呼吸に耐える。目眩で視界が揺らぐなか、ロンガはどうにか顔を上げて、カノンの冷たい瞳を見た。


「……カノン、アルシュは強く頭を打って、安静を言い渡されている。身体は動かせるが、かなり衰えている。それに意識が不鮮明になることがある」

「何が言いたいのかな?」

「今の彼女はそんな状況なんだ。助けられるか? もし可能なんだったら、お願いだ、今からでもあそこに戻って彼女を助けて欲しい。出来ることなら何でもするから」


 ロンガが拳を強く握って頭を下げると、カノンは答えないまま、何か作業を始めた。衣擦れの音と、金属が弾けるパチンという音が聞こえる。長すぎる沈黙を不審に思って顔を上げると、何か硬いもので顔を覆われた。

 突然の圧迫感に驚き、思わず声を上げる。


「な、何――」

「あぁ……眼帯が邪魔だな。悪いけど外すよ」


 後頭部で結んだ紐が解かれ、覆っていた右眼の視界が開ける。ロンガは自分の顔に触れようとして、プラスチックの硬質な感覚に触れ、ようやく事態を理解した。カノンは、さっきまで自分が着けていたガスマスクを外して、ロンガに着けさせたようだ。


 カノンは、背負った大型のリュックサックから布を取り出して自分の口元を覆う。さらにフードを被り、目から額の間が辛うじて見える状態で、カノンは荷物を背負い直して「行くよ」とロンガの肩を叩いた。


「この砂の中じゃ俺はあまり目を開けられない。それに、アルシュの居場所を知らない。だから、あんたが案内してくれ」

「……来てくれるのか」

「あんたが頼んできたんでしょう?」


 そう言って、カノンはグローブに覆われた右手を、握手する時のようにこちらに差し出す。戸惑いながらも手を差し出すと、厚みのあって固い手のひらがロンガの手首を掴んだ。


 行こう、とどちらからともなく言い合って、2人は人混みを離れ、砂埃に覆われたラ・ロシェルの街に踏み出した。目を閉じているカノンの手を引き、MDP本部に向かう。

 道は泥に覆われていて、無理に走れば滑って転びそうだった。濡れた服に砂が貼り付き、何重にも泥の層ができて、服は原型を留めないほど汚れた。重たくなった外套を脱いで道に捨てる。泥がゴーグルに貼り付いて視界を妨げるので、何分かに一度は立ち止まって拭う必要があった。


 カノンに手首を掴まれている状態だと少々歩きづらかったので、途中からは手のひらを直に掴んでいた。振り返って、自分と同じくらい泥まみれになっているカノンに声をかける。


「階段だ。右側に手摺り」

「はいはい」


 ぬかるんだ地面から持ち上げる足が重たい。一歩踏み出すだけで、体力が目に見えて削られていく。横に引いた口元から、音を立てて空気がもれる。少し休ませてくれ、と頼んで、階段の上でしばらく息を整えた。

 柵にもたれたカノンが笑う。ロンガよりずっと重たい荷物を背負っているのに、その息は全く乱れていなかった。


「無理に急いでも仕方ない。ゆっくりどうぞ」

「ありがとう……流石に体力があるな、カノンは」


 彼が軍部の出身であることを指して言うと、彼は「そりゃあね」と応じる。


「俺たちはこういう非常事態で、役に立つための存在だから」

「そうか?」


 地面に膝を付いていたロンガは立ち上がり、行こう、と声をかけてカノンの手を取った。泥でべたついている上に、尖った砂が皮膚に刺さって痛いが、気にかけている余裕はなかった。


「何だか――アルシュもそうだけど、人の役に立てるかどうかを、やけに気にするんだな」

「……それが普通じゃないかな」

「まあ確かに――ソルもそんなところがあった。リヤンも、地上にいた方が誰かの役に立てるとか言ってたな。あれ、私がおかしいのか。もちろん……誰かを助けたい意志はあるけど」

「誰かのため、だけじゃないなら……じゃあ。あんたの指針は何さ」

「分からない」


 ロンガは首を振って、でも、と言いながら汚れたガスマスクを拭った。


「でも強いて言うなら――新しいことを知るのが、知らないことを考えるのが、考えられないものに思いを馳せるのが、たまらなく楽しいと思うし、好きなんだよな。そのために生きてる気だってする。だからこそ、今のラピスは勿体ないと思う。世界はもっとずっと広いのに、誰も彼も、知り得ないことが多すぎるから……カノン?」


 彼が口を挟まないので、つい長々と喋ってしまった。


「どうした、突然黙って」

「いや――あんたは研修生だった頃から、そうだったよな、と思って。未知を求めているという感じかな。図書館で本を読むのが好きだっただろ」

「ああ……待て。その話をしたことがあったか?」


 本を読むのが好きだと、カノンに伝えたことがあっただろうか。ロンガが首を傾げると、カノンはくぐもった笑いを返した。見てりゃあ分かるよ、と曖昧に言葉を濁して、それ以上は何も言ってくれなかった。


 *


 暗くて静かな、色も模様もない場所。宇宙みたいにまっさらで、綺麗な空間。酸素も窒素もないけれど、息をする身体も存在しない。零、終着点、完璧な静謐、永遠。

 そこを漂っていると、ふと、不自然な揺らぎを捉えた。


 空気の振動。

 ――音?


 まだ、耳が聞こえていたのか。


 続いて、違う種類の振動。宇宙を殻ごと揺らす、強引にもほどがある振動が踏み込んできて、ふわりと浮き上がる。不均等な圧力が世界を歪める。何かがすぐ隣にいる気配を感じた。


「わざわざこんな場所で倒れてくれちゃって」

「担いで歩けるか?」

「お任せあれ、ってね」

 

 暖かい、声。


 どこかで聞いたような、ずっと昔から知っていたような声。音楽のように優しいけれど、もっとずっと自由に跳ねる音の連なり。人の紡ぐ、言葉だ。


「布はあるかい。顔を覆ってやらないと危険だ」

「ブランケットなら。カノン、少し荷物を持とうか?」

「……じゃあお言葉に甘えようかね」


 不思議だな、と思った。

 全てに別れを告げたつもりだった。自分のいない未来が、明るい方向に向かうと信じて、大切な友人にすら嘘をついた。あとは自分の身体が死んでしまえば、何もかも終わって幕切れ、そのつもりだった。


 なのに、どうして。

 暖かいざわめきが、まだ自分の周りにあるのだろう。


「――アルシュ、ごめん」


 冷え切った世界の片隅に、暖かいものが触れる。


「覚悟を持ってやってくれたんだよな。でも、ごめん。やっぱりアルシュは間違ってるよ。地下の人間と許し合おうってアルシュが言ってくれて、どれだけMDPの人間が救われたか。心を怒りに任せずに済んだか、分かってない」


 自分の身体の輪郭が、だんだんはっきり見えてくる。身体を腰から曲げて、誰かに抱えられている。歩いているのか、小さく振動している。いちばん暖かいのは――手のひら。誰かの体温が、皮膚を隔てた向こう側にある。


「聞こえてんの、それ」

「さあ……分からない」

「まあ、もし起きてるなら――間違っても暴れないでくれよ。俺から頼むことはそれだけだ」

「アルシュに限ってそんなことしないだろう」

「どうかな。俺は彼女に嫌われてると思ってるけど」

「そうなのか?」


 油断のない空気の中にも、笑い混じりの言葉を交わしている。懐かしいと思った。はるか遠い場所なのに、今にも手が届くような気がした。捨てたはずの温もりが、また、自分を迎えに来てくれたのか。


 行くぞ、と誰かが言った。


 とたんに身体が冷たい風にさらされる。べたついた、決して気持ちいいとはいえない感触が身体中に広がる。リアルなディティールに満ちた世界は、綺麗なものばかりではなくて、心地よいものばかりではなくて――だけど、その複雑さこそを、自分はきっと愛していた。


 ああ、死に損なったな、と思った。

 死ねない理由に気がついてしまったから、もう二度と、こんな真似はできない。


 *


 MDP本拠地だった学舎から出ると、ごう、と音を立てて風が吹き付けた。ガスマスクを着けていても重さを感じるほど、大量の砂塵が吹き付ける。アルシュの身体を抱えているカノンは、よろめいたりはしないものの、流石に眉間に皺を寄せていた。


「さっきの場所に戻れば良いのか?」

「いや――ここからなら、統一機関に向かった方が早いね」

「……統一機関?」

「あんたなら知ってるでしょ。あそこは地下につながっている」


 カノンが薄目を開けて、砂嵐の向こうに霞んでいる巨塔に顔を向けた。


 ロンガは頷き、彼の腕に手を添えて、かつて暮らしていた塔へ向かった。ぬかるんだ道を十数分ほど歩き、ようやく統一機関の麓にたどりつくと、灰色の空はすでに暗くなりかけていた。扉の取り外された玄関を通り抜け、外から風がやってこない場所まで来ると、ようやく一息ついて2人はその場に座り込んだ。


 叩きつけるように降ってくる泥のなか、人間ひとりを抱えて歩くのは、カノンといえども容易ではなかったらしい。アルシュの身体を長椅子に下ろすと、流石に疲れたね、と言って苦笑した。


 カノンは荷物から水筒とタオルを出して、泥まみれになった自分の頭を拭く。ロンガが後頭部に手を回してガスマスクを外そうとすると、カノンに止められた。


「身体についた砂を流すまでは、外さない方がいい。汚れた手で目でも擦ったら大惨事だよ」

「ああ――確かに。カノン、目を閉じていたとはいえ、君は大丈夫なのか?」


 カノンの、濡れた髪の毛を後ろに流した顔を覗き込もうとすると、彼は珍しく慌てた表情になり、ロンガの肩を掴んで押し返した。近づかないで、と苦笑を浮かべる。


「せっかく拭いたのに」

「ああ、そうか。悪い」


 ロンガは身を引いて、彼から距離を取る。軽く拭いたとはいえ、まだマスクも髪も泥まみれだった。身体を流したいが、シャワーは機能していないだろう。廊下に出て近隣の部屋を探すと、貯蓄されていた水を見つけたので、身体を流して、替えの服に着替える。水の滴る髪を絞りながら部屋に戻って、カノンに声をかけた。


「あっちに水があったから、泥を流してくると良い」

「ああ、どうも」

「ついでにアルシュを着替えさせるから、悪いけど、しばらく入ってこないでくれ」

「分かった、任せるよ」


 カノンは頷いて、自分の荷物を持って部屋を出て行った。アルシュの服を変えてやった後、ロンガは疲労の蓄積した両脚を床に投げ出して、ぼんやりと部屋を眺めた。休憩室らしい、ゆとりのある間取りだが、長らく人が使っていなかったために荒廃している。吹き付ける泥が窓をガタガタと揺らしていた。ロンガは立ち上がり、汚れた窓ガラスの向こうに見えるラ・ロシェルの街並みを眺めた。


「入って良いかい」


 外からカノンが声をかけたので、どうぞ、と応じる。彼は片手にランタンを持っていて、オレンジ色の灯りと共に部屋に入ってきた。外はすでに暗くなり始めており、電気のつかない部屋では、カノンの持っているランタンが唯一の光源だった。


 窓際に立っているロンガの隣にカノンがやってきて、ラ・ロシェルの街並みに視線を投じた。

 しばらく無言で、2人は砂に覆われていく景色を眺めていた。かつて研修生としてこの塔に住んでいた頃は、毎日のように見ていたラ・ロシェルの街並みが、あの頃の記憶を上書きするように泥と闇に飲み込まれていく。


 鮮やかな色も形も、人々のざわめきも温もりも、はるか彼方に埋もれて見えなくなる。


 気がつくと涙が流れていて、頬の先まで雫が伝い、足元に落ちた。隣でカノンがこちらを見ている気配を感じ、あまり泣き顔を見られたくなくて顔を背ける。


 ごめんな、とカノンが呟いた。


「仲間を止められなかった。どうか恨んでくれ」

「……いや」


 ロンガは目元を拭って、首を振る。


「ラ・ロシェルが喪われたわけじゃない。埋もれただけ、ただ見えなくなっただけだ」


 ロンガは強い口調で言った。自分自身を勇気づけるためにそうしたのに、かえって涙が溢れる。


「まだ何も終わってない。人間(わたしたち)は諦めちゃいけない。こんな泥なんて、拭い去ってしまえば終わりなんだから――」


 本気でそう信じて言っているはずなのに、言えば言うほど、自分の言葉は空虚に聞こえた。息が上がり、苦しくなった心臓を抑えると、窓ガラスに反射したカノンと目が合う。彼はいつになく悲しそうな顔をしていた。


「……無理しないでくれ」

「うん――ごめん。いや、まだ希望を捨てたわけじゃないんだ。そうだろう? 最善を尽くせたと思うよ。住民はみんな地下か、他の街に避難したんだから……でも」


 俯いて、ランタンの光に目を落とす。光に吸い込まれるように、涙の粒が落ちていった。


「実際に、砂に埋まる街を見てしまって――悲しく思わないというのは、流石に無理だな」

「ああ……俺もだね」


 ロンガが力なく微笑むと、カノンも応えるように口角を持ち上げた。彼は後ろに手を回したかと思うと、四つに折りたたまれたハンカチを渡してくれる。意図が分からないまま丁寧に畳まれたハンカチを開いて、綺麗な刺繍だな、と呟いた。カノンが小さく吹き出したので、ようやく理由に気がつき、ああ、と苦笑する。


「そういうことか。ありがとう」


 カノンのような大男が持っているには不思議なほど、可愛らしい意匠のハンカチで、頬に伝う涙を拭いた。礼を言うと、カノンはいつものように笑ってみせる。


「気を遣ってもらって、悪い」

「いーえ? 死ぬほど泣きたいのに泣けないよりは、泣いてもらった方が安心するかな。ソレイユ君が死んだと思ったときのあんたは、まさにそんな感じだった」

「ああ……」


 それはもう2年前のことだが、今でも昨日のように思い出せる。友人が目の前で倒れたあの夜明けは、それこそ全てが終わったような感覚が身を包んでいた。あの時に死んでしまわなくて良かった、と今になって思う。冷静に当時を思い出せるほどに、あれが自分の中で過去になったことに驚きながら、ロンガは肩をすくめて見せた。


「そんなこともあったな」

「そんときに渡そうと思ってたハンカチだ」

「え?」

「冗談だよ」

「よく分からない冗談だな」


 ロンガが片方の眉をひそめてみせると、カノンは薄く笑って正面の窓に視線を戻す。もう太陽は山の向こうに沈み、曇っているために月も見えない。灯りのない街並みは黒一色に染まろうとしていた。この部屋だけがぽつんと宇宙に浮かんでいるような、奇妙な感覚が押し寄せる。


「なあ」


 不思議な浮遊感に目を細めていると、ふと隣から声がかけられた。ぼんやりと外を眺めていたロンガは、はっと我に返って隣を見る。ランタンのか弱い光が不安定に揺らめくが、カノンの顔は闇に沈んでいて、ほとんど見えなかった。


 表情の読めない口元が動く。


「陽が落ちたな」

「え? ……ああ、そうだな」

「夜になったら、話したかったことがあるんだけど。話してもいいか」

「そんなに勿体ぶらなくても、どうぞ」


「ありがとう――俺はね、今まで誰かのために生きていた。仲間のため、ラピス市民のため、あるいは“春を待つ者(ハイバネイターズ)”のため。役に立つため、助けるために」


 昼間、泥に覆われたラ・ロシェルを歩いているときに「あんたの指針は何さ」とカノンに尋ねられた。彼がいま話しているのは、その質問に対する彼自身の答えだろうか。


 ロンガは頷いてみせる。


「うん、カノンはそうだろうな」

「でもね、ロンガ。いや――」


 統一機関にいたころに呼ばれていた名前を、彼が小さく呟いた。違和感で背筋が跳ねる。何のつもりだ、とロンガが眉をひそめると、カノンがこちらに片手を差し出した。


「俺が――あんたひとりのために生きたい、と言ったら、あんたはどうする?」

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