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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅵ 四世紀の眠り
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chapitre75. 紡ぎあう記憶

 ハイバネイト・シティ居住区域第22層にて。


 サテリットの妊娠に際して地下に助けを求め、居住区域に送られたアンクルとシャルルは、ここ最近、酷い物忘れに悩まされていた。物忘れという表現は少し不正確だろうか。たった一ヶ月前までは地上ラピスのバレンシアで生活していたのに、当時の知人友人や、よく訪れる施設の位置関係といった記憶がひどく不鮮明になっていると気づいたのだ。


 何もかも違う環境に来てしまえば、前の環境のことを忘れてしまう。そういうものなのだ、とアンクルは無理に自分を納得させようとしたが、いくらもしないうちに違和感に気がついた。


 忘却症とでも呼ぶべきその症状は、自分とシャルルにだけ現れているようで、サテリットには全くその兆候が見えなかったのだ。色々聞いてみると、窓際に並べていたハーブの鉢の並びや、宿舎の扉の模様や、彼女の勤め先であった図書館の配置など、サテリットはどれも極めて正確に記憶していた。


 立て続けにおかしな質問をされて、サテリットが不思議そうな顔をする。アンクルが事情を説明すると、彼女は眉をしかめた。


「日常的なことを覚えているの、そんなにすごいことかしら? 普通、すぐには忘れないと思うわ。アンとシャルルが忘れていることのほうが、変」


 それから声を落とし、2人の耳元に口を近づけて囁く。


「貴方たち――記憶操作、されてるんじゃないの」

「僕たち2人だけが、ということ?」


 問い返すと「そう」と彼女は頷く。

 アンクルは、自分と同じく忘却症状の出ているシャルルと顔を見合わせた。シャルルは口元を曲げて「そうは言ってもよ」と低い声で問う。


「そんなことが可能かよ」

「分からない。アンとシャルルは、どこかで注射を受けた覚えはある?」


 アンクルたちも、かつて記憶操作を他者に施す側に立っていた。しかし、そのとき使っていた技術では、とある薬剤を注射によって投与したうえで、偽物の記憶をすり込む必要があった。二人は協力して首筋や腕の様子を確かめたが、それらしい傷は見つけられなかった。


 シャルルが諦めた顔で小さく首を振る。


「それらしい場所にはねぇな」

「僕たちの知らない手法かもしれないね。それに今のところ、サテリットには兆候がないのが気になる」

「私だけ違う理由……」


 サテリットは考えるように視線を上に向ける。その細い首にうっすらと筋が浮いた。


「私が前、ハイバネイト・シティに迷い込んだときに、記憶操作を受けてるから? 耐性ができている、とか」

「どうかな……リヤンの例を思い出す限り、耐性は付きにくそうに思えるけど」


 かつて地上で暮らしていたころの同居人を思い出しながらアンクルが言うと、そうだな、とシャルルも心なしか苦い顔で頷く。リヤンの兄リゼが亡くなってから実に5年の間、自分たちは彼女に記憶操作の処置をし続けた。しかし、度重なる処置を受けても、薬剤の効き目が薄れていると感じたことはない。

 言い換えれば、自分たちとサテリットが違う理由は他にあるのだ。3人はその相違点をそれぞれ考え、3人ともほぼ同時に同じ結論に行き着いた。


「食事?」

「――それだな」


 シャルルが頷く。


「サテリットだけメニューが違うからだ」

「そうだ、妊娠しているときは避けるべき食材があるって前に言ってたよね。ここでも、たしかにサテリットだけ違う食事を食べている。僕たちのメニューにはあって、サテリットのにはない、そのうちのどれかに――」

「記憶操作に関わっているものがある」


 サテリットが言葉の続きを言った。


「そういうことね?」

「可能性は高い」


 3人が険しい顔を見合わせると、ちょうど天井のスピーカーがバチッと鳴り、昼食を案内する放送が流れ出す。ELIZA(エリザ)と名乗るその合成音声には、この一ヶ月ですっかり慣れ親しんだはずなのに、記憶操作の可能性を知った今となっては、耳にするだけで背筋がぞわぞわと冷える気がした。


「……行くか」


 シャルルが押し殺した声で言い、アンクルとサテリットは黙って立ち上がった。当たり前のように食べていた食事に、何か地上の人間に向けられた悪意のようなものが感じ取れたとはいえ、全く食事を摂らないわけにもいかない。

 居室から通路に出て、シャルルは小さく舌打ちをした。


「画一的な味ってだけで気にくわねぇのに、記憶にまで手を出すとか……腹が立つな。何を考えてやがる」

「シャルル。声量に気をつけて」


 アンクルは小声で警告する。


 スピーカーに話しかければ返事が返ってくるのだから、向こうが自分たちの声を解析できることは明らかだ。“春を待つ者(ハイバネイターズ)”と名乗る者たちが、どういう意図でこちらの記憶に手を出しているのか、それは分からない。だがアンクルたちが記憶操作の事実に気づいてしまったのは、向こうからすれば不都合に違いない。最悪、うっかりハイバネイト・シティに迷い込んだときのサテリットのように、強制的に記憶を消されてもおかしくないのだ。


 そうなれば本当に、何もかもが終わってしまう。


 3人は口数の少ないまま、食堂に向かって歩いた。いつも足の悪いサテリットに合わせているので、ゆっくり歩くのが癖になっている。ちらりと彼女の様子を伺うと、その白い頬はいつも以上に血の気が失せて見えた。


 危険な場所に自分たち2人を引き込んでしまった、とサテリットは考えているのだろう。

 たしかにハイバネイト・シティに向かうことを最初に決めたのは彼女だ。だが、親切心で一緒に来てくれたシャルルはともかく、当事者の片割れであるアンクルが彼女に付き従うのは、決断するまでもない当然のことだった。


 彼女を励ましたくて、その細い肩に手を伸ばしたが、かけるべき言葉を見つけられなくて、結局アンクルは彼女に触れられなかった。


 自分に何ができるだろう。


 シャルルほど体格や力に恵まれているわけでもなく、ロンガほど様々な経験をしたわけでもなく、リヤンほど周囲の人間を明るくできるわけでもない。バレンシアにいた頃は役に立っていた手先の器用さも、何もかもが与えられてしまうハイバネイト・シティにおいてはほとんど無用の長物だった。


 アンクルがつい考え込んでいると、おい、と小突かれた。


「お前の番だぞ」

「あ……ごめん」


 慌ててカウンターに向かい、トレイに乗せられた食事を受け取る。一旦、自分の食事をテーブルに置いてから戻って、サテリットのぶんを受け取ってテーブルに運んだ。先に座っていた彼女が、ありがとう、と小さく微笑む。


「空より至り土へ還る、ラピスの恵みに感謝して頂きます」


 ここには空もなければ土もないが、習慣となっている食前の祈りを捧げる。

 そして3人は、お喋りに夢中になっているふりをしてお互いの食事に目を配った。小鉢がいくつかと、大きめの皿に乗った肉料理、半分に切ったパンとバター。アンクルとシャルルのメニューは同じだが、サテリットに提供されているものは、小鉢の種類が違っていた。肉料理も少し見た目が異なるが、何がどう異なるかまでは見ただけでは分からない。


「少しだけ貰えるか?」

 シャルルが肉料理を指さして言う。


 サテリットが頷いて、切り分けた肉の塊をシャルルの皿に載せた。彼はそれを口に放り込み、難しい顔をして咀嚼する。宿舎にいたころ料理長(シェフ)をしていたシャルルの舌は、誰よりも確かなはずだが、彼は考え込んだ末に「分からん」と眉根を寄せて言った。


「何が違うか特定できるかなと思ったんだが、できなかった。サテリット、一口貰っちまったのに(わり)ぃな」

「いえ、気にしないで」

「調味にどんなハーブを使ってるか、とかは分かる?」


 アンクルが問いかけると、いや、とシャルルは苦い顔をした。


「地下の食事ってさ、俺の知ってる味じゃねぇんだよな。ハーブでもなけりゃ、酒でも果実でもない、何かの風味がすんだよ」

「ああ、それは確かに。不味いというわけではないけど、知らない味だよね」

「そうだ。美味い、と思わせることのみに特化した味なんだよ。最初から美味しく味わわれるために生まれてきたもの、って感じだ」


 シャルルの表現は独特だが、その指し示すところはアンクルたちにも何となく理解できた。


 ただ生きるために生まれてきた植物や動物の生命を摘み取り、あるいは奪い取る。そのままでは美味しくもなく栄養もないものを、組み合わせたり熱を加えたりして「料理」と呼ばれるものに昇華する。


 頂いた生命を自分たちの糧にするための技術であり、儀式。それがアンクルたちの知っていた食文化だった。


 しかし地下の食事はどうやら違うようだ。筋ひとつない、粘土の塊のようにも見える肉料理、のようなものは間違いなく美味しいのだが、生命を頂いているという感覚がどうにも得られない。


「日光の届かない地下で、作物や家畜が育つとは思えない。僕たちが知ってる食事とは似て非なるもの、と考えた方が良いね」

「そうね」


 サテリットが頷いて、自分の皿に乗っている肉料理を半分に切り分けた。切り分けた塊をそれぞれ、アンクルとシャルルの皿に乗せる。


「これ、あげる。食べちゃって良いよ」

「え? いや、貰えないよ」


 慌てて首を振るが、良いの、とサテリットが笑う。


「あんまり食欲がなくて、無理に食べても吐いてしまうから。なら貴方たちが食べたほうが良いでしょ?」

「でも、全く食べないなんて流石にダメじゃ」

「食べられないんだってば」


 2人が押し問答していると、後ろから声をかけられた。シャルルが「あ、おっさん」と快活に笑って手を振る。アンクルとサテリットも一旦会話を中断して、半月ほど前に知り合った年上の男性、ラムに挨拶をした。

 かつて統一機関の上層に所属していたらしく、やけに物知りな彼は、どういうわけか自分たちを気にかけてくれている。


 数日前の夜など、銃を持った連中に襲われたところを助けてもらったのだ。そこまでしてくれる理由を不思議に思い、こっそりと尋ねてみた。しかし、曖昧な返事以上のものは得られず、アンクルは密かにその意味を考え続けていた。


 立ち上がって頭を下げる。


「こんにちは。先日はお世話になりました」

「いや、良い」


 そう言って、テーブルの空席を指さす。


「座っても良いか?」

「もちろん」


 サテリットが微笑んで、トレイを端に寄せて場所を空ける。ラムは礼を言って自分のトレイを置き、椅子を引いて座った。ほとんど手が着けられていないアンクルたちの皿を一瞥して「君たちも今来たのか?」と尋ねてくる。


 3人は密かに目を見合わせた。

 食事が減っていない理由は、自分たちが食堂に来たばかりだからではない。食事を通じて記憶操作がなされているのではと疑い、どの食材が原因なのか見極めようとしていたからだ。


 ラムは何食わぬ顔で肉料理を切り分け、自分の口に運ぼうとした。


「――あの、ラム。ちょっと良いですか」


 彼が切り分けた肉を口に放り込む直前に、アンクルは意を決して声をかけた。仲間たちに視線を送ると、2人はしっかりと頷き返す。ラムは食器を皿に戻し、モノクルを押し上げて不思議そうな表情をする。


「どうした」

「あの……その肉は、食べない方が良い、かもしれないんです」


 アンクルが声を抑えて言うと、意外にもラムは動じないまま「何故そう思う?」と聞き返してきた。重たいまぶたの下で、緑色の瞳がこちらをまっすぐ見据えている。

 喉元が震えて、緊張で顔が熱くなった。彼に記憶操作の可能性を話すためには、自分たちの侵した罪を告白しなければならないのだ。だが、後には引けない。宿長の自分が言うのだ、とアンクルは拳を握って、目を見開いた。


「記憶を奪われる可能性があるんです」

「……ほう」

「僕とシャルルは、地下に来てからやけに物忘れが酷くって。でも、ええと――」


 アンクルは少し言葉に詰まる。


 サテリットが妊娠しており、一般と異なる食事を提供されていることは、まだラムには言えていないのだ。アンクルの袖をサテリットが引いて、小さく首を振った。その後ろでシャルルも唇を曲げてみせる。言わない方がいい、という意味だろう。


 ラムは統一機関の元構成員だ。そして、リゼとリヤンが野生(ソヴァージュ)であると大衆の前で暴露し、リゼを死に追いやったのも同じく統一機関の人間だった。だから統一機関の人間は信用ならない、などと言うつもりはない。だが、かつてラピスの権力を一手に収めていた統一機関は、野生(ソヴァージュ)を摘発する側の立場だ。


 ラムには既に、幾度となく助けてもらっている。理由は分からないがこちらに親切にしてくれる。とはいえ、サテリットが妊娠していると知った瞬間に彼が態度を変えるのではないか。


 あの日のバレンシアの住人たちのように。


 背筋を冷たいものが伝った。アンクルは言葉を飲み込み、曖昧な表現で言い換える。


「――違うものを食べている彼女だけは無事なんです。それで、その――僕たちはかつて、ある女の子の記憶を奪ったことがあります。薬剤を注射して、偽物の記憶を刷り込んで、そうやって大切な記憶を奪っていた。それと似たことが、今、僕たちの身に起きているように思うんです。地上にいた頃の記憶がやけに曖昧で……その原因が、食事ではないかと考えています」


 アンクルが話し終えると、ラムは背もたれに身体を預けて腕を組んだ。何かを考えるように、二、三回重たい瞬きをして、「なるほど」と呟いた。口元が小さく動く。


「――勝手に気がついたのだから、奴との約束を破ったことにはならないか」

「ラム?」


 その声量が小さすぎて聞き取れず、アンクルが耳の後ろに手を立てるジェスチャをすると、ラムは「独り言だ」と首を振る。そして彼は後ろに倒していた身体を起こし、3人に耳を寄せるよう促した。


「君たちの想像だが、おそらく、正しい」

「なんで……分かるんだよ」

「俺はもともと統一機関の人間だ、と言ったよな。統一機関ではかつて、人間の管理を容易にするため、記憶を奪い、あるいは書き換えるということを日常的に行っていた」

「そうか、ロンガも言ってたわね」


 サテリットが小さく頷くと、ラムは少しばかり目を見開いたが「それでだ」と話を先に進めた。


「特定の薬剤を組み合わせ、またハイバネイト・シティ居住区域という新たな環境を刷り込まれることで、擬似的に記憶操作に近いものを実現していると思われる。薬剤のなかにはたしかに、妊婦には適さないと言われているものもあるな」


 ラムはさらりと言った。


 あまりに普通の口調だったので聞き逃しかけたが、ラムの記憶が短期記憶から消去される直前にその違和感に気づき、アンクルは驚いて顔を上げた。


「……妊婦、って」

「ん? サテリットは妊娠しているのだろう。その前提で話していたつもりだが、違うのか」


 3人は顔を見合わせた。シャルルが全員を代表して「なんで分かったんだよ」と聞く。


「まだ外見はそこまで変わってないのに」

「だが、見れば分かるだろう。五ヶ月くらいか?」


 ラムはサテリットにちらりと視線をやって、何でもないことのように言う。彼の反応が想像以上に淡泊だったので、追及するのもおかしなことに思え、アンクルはそれ以上何も言えなくなった。

 それで、とラムが話を元に戻す。


「君たちが指摘した通り、ELIZAがメニューを構築する段階で、サテリットの献立には特殊な処理がされているはず。だから、彼女だけが回避できたんだ」

「ええと……それは何か、おかしくないですか?」


 アンクルは急いで頭を切り替えつつ、思考を整理しながら切り出した。


「“春を待つ者(ハイバネイターズ)”が僕たちから記憶を消したいんだったら、妊娠している彼女にも通用する手段を考えるはずでは」

「ふむ――君たちは“春を待つ者(ハイバネイターズ)”が何人いるか知っているか?」

「いえ」

「およそ10万だ。それだけの人間が意思決定に携わっている。微妙に違うそれぞれの正義を持って、膨大な数の仕事をこなしているわけだ。そう矛盾なく事を進められるわけがない」

「……そう、ですか。10万。地上のラピス市民より多いんですね」


 なかば唖然(あぜん)としながらアンクルが頷くと、ラムも「信じられないだろう」と言って、常に(こわ)ばっているような頬を僅かに緩ませた。


「俺も、記憶操作に関わる全ての薬剤を知っているわけではないが、おそらくこの肉は大丈夫だ。このサラダのドレッシングは――少し怪しいな」


 彼はそう言いながら、まさに怪しいと指摘したばかりのサラダを口に運ぶので、アンクルは驚いて思わず口を開けた。飲み込んでから、こちらの視線に気がついたらしく、ラムは「ああ」と呟いて眉を下げた。


「少しなら大丈夫だ。継続して摂取すると危ないが」

「あんまり驚かせないでくれよ」


 シャルルが肩をすくめて笑った。


 30分ほどかけて食事を済ませた。いつもより少し時間がかかった。その理由は、ラムが料理をひとつひとつ確かめて、記憶操作に関わる薬剤が含まれているかどうか判断してから、アンクルたちに食べるように、あるいは避けるように教えてくれたからだ。トレイを持って立ち上がったラムが、モノクルを押し上げて振り返る。


「良ければ明日以降も同席させてくれ」

「ああ、勿論。いつもありがとうな、おっさん」


 シャルルが歯を見せて笑いながら手を振った。ラムも片手を小さく上げて応える。サテリットが立ち上がるのを手伝い、アンクルが最後に席を離れようとすると、ラムが「少し良いか」と、ほとんど唇の動きだけで言った。


「あまり堂々と聞くようなことでは、ないが――父親はお前か?」


 元からして冗談など言いそうにないラムが、真剣な顔でこちらを見ている。緊張で顔が焼け付くように熱くなった。背筋に汗をかいているのを感じながら、アンクルは「はい」と言ってしっかり頷いた。


「――僕です」

「そうか。頑張ってくれ」


 ラムが言い終わるのと同時に、肩に重さを感じた。罪の裁きを受けるような気分でいたアンクルは、ラムに励まされたのだ、とはすぐに気がつけなかった。野生(ソヴァージュ)を摘発する立場だったはずの彼が、自分を責めないどころか応援してくれるなんて、にわかには信じられなかった。


 どうして、とアンクルは掠れた声で問う。


「なんで、貴方は僕を責めないんですか」


 言いながら思わず涙が出そうになった。目を強く閉じてから再び開き、見慣れたラムの無表情に、続けて問いかける。


「どうして怒らないんですか。どうして軽蔑しないんですか、僕たちは許されないはずのことをしたのに」

「責めたところでどうにもならんだろう」

「でも!」

「ああ――いや、分かった。叱ってもらった方が、楽なんだろう。違うか?」

「――えっ」


 違う、とは言えなかった。

 とっさの言葉が返せず、言い淀んだアンクルに背を向けて、ラムは小声で言った。


「良ければ今晩、ひとりだけでここに来てくれ。君と話がしたい」


 *


 深夜、音がしないように静かに居室の扉を開けた。


 照明の落とされた廊下を歩く。静かなためか足音がやけに跳ね返って聞こえて、不安な心を煽り立てる。食堂に向かうと、ラムがたったひとりソファに腰掛けていて、アンクルの姿を捉えて片手を上げた。細長いケースがその横に立てかけられている。


「お待たせしましたか」

「いや、構うな」


 ラムの正面の椅子を引いて、腰掛ける。

 オレンジ色の非常灯が、深いしわの刻まれた顔を横から照らし出す。明るいときとは少し人相が違って見えた。今まで辛酸を舐めてきたのか、実年齢以上に年老いて見えるラムだが、あごの細い顔立ちをしており、少年のような無垢さもどこかに感じ取れる。


 沈黙が続くのが耐えられなくなり、「あの」とアンクルは思い切って顔を上げた。


「お話というのは?」

「ああ……」


 ラムは気まずそうに目を逸らしたが、再びこちらに視線を向ける。いつも重たいまぶたの影になっている瞳に光が差し、決意の表れを示すように反射した。


「あれは――2年前の秋だな。君たちの宿舎に、ひとり女の子が来ただろう」

「……ロンガのこと、ですか?」


 なぜこの人が知っている。


 アンクルが眉をひそめて聞き返すと「ふむ、そう名乗っているのか」とラムはあごに手を当てて言った。


「少し癖のある髪に青い瞳で、月のイヤリングをしていただろう。野生(ソヴァージュ)であることは明かしたのか? あれは、俺の――実の娘なんだ」

「貴方の娘?」


 理解が追いつかないまま、ぼんやりと繰り返す。そうだ、とラムが頷いて、組んだ両手にしかめた顔を乗せる。


「だからこそ俺は、君たちに感謝している。俺と、妻が与えてやれなかった、暖かい暮らしを、たった2年間でも――娘と共有してくれて、ありがとう」

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