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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅴ この手に太陽を
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chapitre55. 新世界のコラル

「――これは」


 アックスたちに先導されて彼らが「教堂」と呼ぶ場所に辿りつき、扉を開けてもらって中に入ったロンガは、思わず息を呑んだ。


 重たい扉の向こうにある空間は奥に広く、天井は中央が高くて左右に向かって低くなっている。板張りの床に整然と、ベンチが2列に並べられて、その向かう先に小さな舞台のようなものが設けられている。両脇には何を象っているのか分からない銅像が立ち並び、もの言わぬ彼らの視線もまた、舞台のほうに注がれていた。

 全体的に古いが、隅々まで意匠が凝らされており、また掃除も行き届いている。建物をかつて作った人々や、今ここを使っているらしい唱歌団(コラル)の面々が教堂を大切にしていることがよく分かった。


 だが、ロンガの目をもっとも引いたのは、それら全てを見下ろすように配置されている壮大なステンドグラスだった。変わった衣装をまとった人の姿を描いているようだが、その意味は分からない。


 ただ単に、途方もなく美しいと感じた。


「どうだ。良いとこだろ」


 呼びかけられて、思わず見とれていたロンガははっと振り返る。ベンチに腰掛けたロマンがこちらに振り向いている。薄闇のなかでよく見えないが、得意げに笑っているらしい彼に頷いて見せた。道中でいくらか言葉を交わしたので、彼は少しこちらに心を開いてくれたようだった。


「うん、良いところだ。ここは何をするところなんだ?」

「今はもう、何もしないところです」


 片腕にルージュをぶら下げているアックスが寂しげに笑った。


「かつては、僕らの歌う舞台でしたが」

「お喋りするのには良いトコですよ。あったかいし」


 ルージュが薄笑いを浮かべて言った。片腕でアックスにぶら下がったまま、もう片方の手で「あっち」と奥の方を指さしてみせる。ロンガがそちらを見ると、小さな扉が設けられている。装飾に満ちた教堂のなかで、やけにシンプルな扉だった。


「アタシたちの家はあの向こうです。お部屋は開いてないですけど、ご飯はちょっとなら余裕ありますし、ここにお布団を敷いて寝させてあげるくらいならできますよ」

「なるほど。内側から施錠はできますか?」

「……当たり前じゃないですか」


 むっとしたようにルージュが口を尖らせる。挑発的な物言いをする子だが、ひとつひとつ対応していると話が進まない。ロンガは彼女を受け流し、背後にいるリヤンに視線を向けた。


「リヤン、聞いてたか。どう思う」

「うーん……確かに、ここでリジェラさんに暮らしてもらうことはできるかもって思うけど、ルージュさんは、どうしてここにリジェラさんを連れてきたいって思うのかな。それが分からなくって」

「確かに」


 ロンガは頷く。


「ルージュ、貴女がどうしてここに彼女を連れてこようと思うのか、まずその理由を教えて下さい。分かっていると思いますけど、リジェラはおそらく“地底の民”の一員です。彼女を匿うことは貴女たちにとって危険なだけでなく、彼女の身に何かあれば、それは地上人類全員の問題になり得ます」

「そ、そうですよね」


 ルージュではなくアックスの方がうろたえた。ロマンは少し遠いベンチに腰掛けて、こちらからは顔を背けている。やりづらい相手だ、と思いながらもロンガは言葉を重ねた。


「脅すようなことを言ってすみません。それに、どこかが彼女の世話をしなければならないことは事実です。ですが、相応の覚悟が必要だと考えて下さい」

「……面白そう、だから」


 ルージュが顔を伏せてぽつりと呟いた。ふてくされた表情を隠そうともしない。


「そんだけです。ダメなら別に良いです。帰って下さい」

「でもそうすると、リジェラがどこから来たか教えてもらえない――」

「アックスが教えますよ。良いです、別に。言ってみただけなんで」


 ルージュという少女は完全に機嫌を損ねたらしく、アックスの腕を放して奥の扉へ歩いて行った。鍵が開くガチャリという音と共に、扉の向こうへ消える。


「すみません、ルージュが我が侭を言って」


 アックスが申し訳なさそうに頭を下げる。


「ここまで来てもらってすみませんが、やっぱり僕らには荷が重いかもしれません。事件の一連の流れはお話ししますが、ひとまずルージュの言ったことは忘れて下さい」

「――分かりました」


 ロンガは頷き、リヤンと目を見合わせた。アックスが勧めてくれたのでベンチの一つに腰を下ろし、リジェラが現れたときの様子について話を聞いた。とはいえ話を要約すると、どうやらラ・ロシェルの路地でうずくまっていたリジェラを通行人が見とがめたのがきっかけで騒動に発展したらしく、彼女がどこからやってきたかの情報は得られなかった。


「周囲に、何か不審なものはありましたか?」

「……分からないです。お話しできるのはこれくらいです。たくさんお時間を貰ったのに、あまり協力できなくてすみません」

「いいえ、大丈夫です。ではこのお話はMDPに伝えますね」


 ロンガが荷物を片付けて立ち上がると、ベンチの背もたれに腕をかけて話を聞いていたロマンが「なあ」と話しかけてきた。


「なんでさ、アイツ喋らなかったんだ? オレだって最初は普通に話しかけたんだよ。でも何も言わないから――ついカッとなって」


 ロマンは唇を噛んで視線を横に滑らせた。握りしめた右手は、リジェラに叩きつけてしまった拳だろうか。表立って態度にこそ出さないが、衝動的に動いてしまったことを後悔しているらしかった。そんな行き違いがあったのか、とロンガは胸の中で呟きながら、端的に事実を伝えた。


「ロマン、彼女は私たちとは違う言葉を使ってるみたいなんだ」

「違う言葉?」

「うん。私もよく分からないんだが、ほんの少し勉強したことがあって、それで何とか話を聞き出せた。“地底の民”はそもそも、主に用いる言語からして違うらしい」


 そこまで喋って、突然すぎたかな、とロンガは彼らの反応を見た。ひとつの共通語しか持たないラピスでは、言葉の成り立ちを異にする言語という概念自体がほとんど理解されていないだろう。

 アックスとロマンは互いに顔を見合わせた。ロマンが目をぱちぱちと瞬かせて、「違う言葉」と繰り返す。


「そう。えっと、その意味は分かるか?」

「おう」


 慎重に切り出した質問とは裏腹に、頼もしい返事が返ってきて、ロンガは拍子抜けした。ロマンはベンチから立ち上がり、つかつかとカーペットの床を歩いてロンガの方にやってきた。


「オレたち、得意なんだぜ。知らない言葉の意味を考えるの」

「え?」


 思いもかけない反応をされ、今度はロンガが当惑する番だった。申し訳なさそうな表情のまま顔の筋が固まってしまったかのようだったアックスが、少し晴れやかな表情を浮かべて「そうです」と頷く。


「リヤンさんは僕らの演奏を聴いたことがあるんですよね」

「えっ? はい――あ!」


 怪訝そうに頷いたリヤンが、ふと思い当たったらしく笑顔になる。


「そっか、確かに歌詞ってラピスの言葉とは違いますよね」

「はい。継承されている曲のほとんどは、僕らの知らない言葉で書かれたものです。僕たち唱歌団(コラル)は、数少ない資料から意味を読み解き、使われている言葉や似た言葉から類推して、知らない言葉の文法を考えたりするんですよ」


 そう言ってアックスは、舞台袖の棚から取り出した何冊かの楽譜をロンガたちに見せてくれた。手書きで書き写された五線譜の下に、こちらも手書きの文字が並んでいる。紙はどうしても傷んでしまうので、数十年おきに書き直して引き継がれているのだ、とロマンが自慢げに語ってくれた。

 ロンガは音楽に覚えがないので楽譜の読み方は全く分からないが、その下に書かれているのがラピスの公用語でないことは一見して読み取れた。


「おそらく創都すぐの頃はもっと色んな言葉があったのでしょうね。祖がそのように作られたのでしょう。三百年も経って失われてしまいましたが」


 アックスの説明を聞きながら、ロンガはリヤンと一緒にいくつかの楽譜を回し読みした。なかには文字の形からして違うものもあった。

 アックスは創都と同時にこれらの言語が作られたと思っているようだが、ロンガは創都前に「より多様な世界」があったという話を知っている。おそらく、コラル・ルミエールの保管している楽譜に綴られている、非常に個性に富んだ文字たちは、創都前の世界からラピスに引き継がれた数少ない文化なのだろう。誰が生み出したのかも分からない、多種多様な文字の羅列を眺めていると、見えるはずもない創都前の世界が見えるような気がした。


「リジェラが話していた言葉もここにあるでしょうか?」


 ロンガはそう言って、いくつか思い出せる表現を口に出してみる。ふむ、と言ってアックスが難しい顔で腕を組んだ。


「いくつか思い当たる言語はありますが……。例えばこちらとか、あとはこの楽譜とか、どうですか?」


 アックスが指したいくつかの楽譜に目を通してみるが、これだという確信は持てなかった。時折見覚えのある単語に出会うが、正確な綴りまでは覚えていないのもあって、リジェラが話していたのと同じかどうか判別できない。


 すでに陽は傾きかけており、あまり教堂に長居する訳にもいかない。彼らにも夕食の支度があるだろう、そう思ってロンガは彼らにひとつ提案した。


「良ければ今度、異言語に関する貴方たちの知見について詳しく教えて頂けませんか。今のところ、ほとんど見様見真似のようなものなので、リジェラと会話するには少し不安があるんです」

「ああ、勿論です。時間はいつでも空けられますよ」


 ありがとうございます、とロンガが頭を下げた横で、「え?」とリヤンが不思議そうな声を上げた。「どうかした?」と尋ねると、リヤンは丸い頬にきょとんとした表情を浮かべて言った。


「そんなことしなくても、直接アックスさんたちにリジェラさんとお話してもらえば良いんじゃないですか?」


 *


 リヤンの提案はアックスにあっさりと了承された。


 教えられていた住所を目指して路地を歩き、アルシュたちが拠点にしているらしい酒場を目指す。複雑な路地のなかでしばしば迷い、ようやく辿りついたころには陽が暮れかけていた。酒場は古びていて、看板は外されていた。

 木製のドアをノックすると、フルルが開けてくれた。「無事に辿りつかれて良かったです」と言いながら、鍵をかける。統一機関がまだ機能していた頃には毎夜賑わったのだろう酒場も、今はすっかり静まっている。


「アルシュは?」

「MDPの本部にいらっしゃいます。フィラデルフィアの防衛作戦が、ちょうど今ごろ実行されているはずですから。フィラデルフィアの構成員から何か(しら)せがあるまではお帰りにならないかと」

「今夜は帰ってこないかもしれないのか」

「事態の収束が遅ければ、(ある)いは。そうならないことを祈りますが」


 3人ぶんの夕食の支度をした。保存食しかないとフルルが言ったが、貯蓄庫をのぞいたリヤンが「スープくらいなら作れそう」と言うのでそこは彼女に任せた。ひとたびキッチンに立つと、3人の中でいちばん頼りになるのはリヤンだ。アルシュを加えてもそこの順位は変わらないだろう。元研修生の3人がかつて所属していた統一機関では、料理は提供されるものであり、自分で作るものではなかったからだ。


「このスパイス、そうやって使うんですね」


 リヤンの手元をのぞき込んでフルルが目を見開いた。垂れ下がる前髪をヘアピンで持ち上げたリヤンが、少し照れくさそうな表情をする。


「バレンシアにいた頃、一緒に住んでた人に教えてもらったから。まだ、その人ほど上手じゃないけど」

「リヤンよりも更に上手いの? すごい。何て名前の人?」

「――シャルル。すごく優しい人だった」


 言葉を噛みしめるように、リヤンは答えた。


 数十分後、食卓に3人ぶんのスープが並んだ。


 汁物を入れる皿がなかったので、代わりにマグカップを使った。たった一品でも暖かいスープが足されたことで、保存食だけの食事に彩りが出た。美味しいね、とお互いに言い合いながら食事を終える。外を歩いて身体が冷えていたこともあってか、格別に美味しく感じられた。


 食べ終わって食器を洗うと、曇った窓ガラスの向こうで、空はすっかり暗くなっていた。


 まだアルシュは帰ってこなかったが、ひとまず情報を共有する運びになった。フルルはリジェラを連れて早めに離脱してしまったので、まずコラル・ルミエールの面々について紹介する必要があった。


「――で、最後がロマン。いま話した中ではいちばん年下だな。リジェラに掴みかかっていた本人だ。コラル・ルミエールに協力を仰ぐとしても、彼にはリジェラを会わせない方がいいと思う」


「そうですね」

「そうかなぁ」


 フルルとリヤンが同時に、真逆の相づちを打つ。


 2人は驚いたように顔を見合わせて、ぱちぱちと瞬きをする。その様子が鏡映しのようで、どことなく可笑(おか)しかった。口元が笑いで(ほころ)ぶのを片手で隠しながら、ロンガはリヤンに向き直る。


「リヤンは違うと思うんだな。それはどうして?」

「ロマン君、謝りたいんじゃないかなって……思ったから」


 控えめな口調ながらもはっきりとリヤンが言う。確かにロマンは、自分のしてしまったことを後悔しているようだった。そう伝えると、フルルも少し考え込む表情になった。


「それだと少し話が違いますね。マダム・アルシュの提示した、“ハイバネイターズ”との和解を目指すためにも、規模は小さいですが仲直りしてもらった方が良いのかも」

「――たしかに。まずは双方の、特に被害者側のリジェラの意見を聞くべきだと思うけれど、こちらから先んじて遮断してしまうべきではないかもしれないな」


 その後も話し合って、とりあえずコラル・ルミエールに協力してもらう案をまとめた。もちろん、総責任者であるアルシュがこの場にいないのでMDPとしての意思決定はできない。その代わりに、3人で話し合って得られたひとつの提案として、明日にでもフルルが本部に持って行ってくれることになった。


 話が一段落したので、ハーブティーを飲みつつアルシュを待つことにした。コラル・ルミエールの演奏会に行ったことはあるか、とフルルに世間話を振ってみると、「研修生だった頃は、何度か」という返事が返ってきた。


「つまりここ2年は行けていないのか」

「そうですね、それどころではなくて。今でもまだ演奏を続けているんでしょうか?」

「もう止めちゃったって言ってた」


 寂しそうにリヤンが呟いた。


「聴く人いないからってさ。なんか悲しいよね」

「そうだな。何というか社会が傾いたとき、初めに失われるのはやっぱり文化なんだな。バレンシアの収穫祭も一時(いっとき)はなくなりかけたし」

「止めてしまった……そうですか」


 フルルは呟いて、マグカップにハーブティーを注いだ。揺らぐ水面をじっと見つめている。しばらく彼女は黙っていたが、ややあってぽつりと呟いた。


「MDPや、あるいは他の何かがラピスを再興させて、みなが音楽を楽しむことを思い出せば、彼らはまた演奏してくれるでしょうか。それとも、もう歌う技術や気力は失われてしまったのかな」

「どうかな」

「私は時々、ラピスがこれからどうなるのか、それが分からなくなる。暗闇をひとりで歩いてるみたいな、すごく怖い気持ちになります」

「それは、みんな同じだよ。今から考えていくんだ」

「勿論です。でも、この2年間の停滞で、確実に失われているものがあるわけですよね。奇跡が起きて“ハイバネイターズ”と和解できて、生活レベルを元に戻せたとしても、それは完全な再生ではない。8万人()()いないラピス市民でやり直せるでしょうか」

「うーん……どのみち、まだ全ては始まったばかりだ。現状で最善を尽くすしかないと思う」


 ロンガは励ますつもりで言ったが、フルルは顔を俯けたままだった。マグカップを抱えている両手の指に力が入っている。


「――昔のラピスは、統一機関は決して清廉潔白ではなかった。マダム・アルシュやムシュ・カノンはそう教えてくれました。でも、それでも私は、私が好きだったラピスを、ラ・ロシェルを、統一機関を忘れられない。これは夢で、目が覚めたらあの頃に戻っていたら良いのに、っていつも思っているんです」


「そうか。つまりフルルは……MDPは、統一機関を再建することを目指しているのかな」

「私個人の気持ちとしては、そうですけど」


 フルルは顔を上げて、「でも」と言葉を継いだ。


「そのまま再建するんじゃダメだ、とは思っています。これは私の意思ですし、マダム・アルシュの考えでもあります」

「それは、また今みたいな事態を引き起こさないため?」


 リヤンの質問に、フルルは小さく頷いて見せた。

 まだ夜は始まったばかりで、話をする時間はたっぷりあった。MDPの意向を知るのには良い機会かもしれない。フルルが話しやすいよう、聞き役に努めようとロンガは決めた。


「MDPが描く未来像、というのかな。良かったらこの機会に教えてほしい」

「そうですね。ええと、まず、統一機関が崩壊した直接の原因をご存じですか? ――色々と噂話は絶えないのですが、それはマダム・カシェの失踪だと私は考えています」


 ロンガは頷いた。


 電力不足を始めとした大小の問題が噴出したのと前後して、かつての統一機関政治部の重鎮、またロンガの宿敵でもあるマダム・カシェは表舞台から姿を消した。元より人前に出るタイプの幹部ではなかったが、敏腕と名高く、その存在は統一機関の外にも広く知られていた。中心都市とは遠いバレンシアで暮らしていたリヤンすら彼女の名前を知っていたらしく、いなくなってたの、と疑問形で小さく呟いた。


「ハイデラバードにいるかもしれない、と言ってたな。統一機関が崩壊したから失踪したのではなく、彼女が失踪したから統一機関が崩壊したのか」


「ええと、まああまり姿を見せる方ではなかったので、前後関係が曖昧です。ただ、軍部の人間を引き抜いていった、というのがどうにも怪しくて。最近知ったのですが、軍部のなかでも優秀な者は幹部の手駒として飼われていることがあったようです。自分が使える駒だけを連れて統一機関を離れた可能性が、仮説の範囲内ですがあり得ると思います」


「――彼女にとって権力は手段でしかなかったからな。統一機関に見切りを付けたということかな」

「そのようですね。今は何を考えているのか想像も付きません。マダム・ロンガにとってはあまり思い出したくない相手でしょうが」


 「まあね」とロンガは苦笑してみせる。余裕があるようにふるまって見せたが、遠い記憶が腹の底でずきりと痛んだ。


 2年前に、マダム・カシェとロンガが地下施設で相対したときの話は、アルシュを通じてフルルにも知られているようだ。彼女が政治部の幹部として成り上がり、ラピスを揺るがすほどの権力を手に入れたその理由は、あまりにも悲しいものだった。


 病気で眠る友人に捧げる命を、たったひとつ刈り取る。マダム・カシェはそのために半生を投げた。彼女にとって、全てはラピスの禁忌に触れるための前準備だったのだ。幹部としてラピスに貢献していたのは、その副産物に過ぎなかった。


「それで――」

「あの、いいかな――ひとつ質問していい?」


 続きを話そうとすると、リヤンが遮ったのでロンガは彼女に譲った。生まれ育った経緯が違うので、他の人が知っているのにリヤンが分からない事態がどうしても発生してしまう。そんなとき、気後れせずに質問してくれるようになったのは良いことだ。


「ひとりいなくなっただけでこんなに総崩れしたの? 統一機関って、職員がいっぱいいるんだよね」

「そう、リヤンの言うとおりで、いちばんの問題は、彼女ひとりにあまりにも多くの部分が依存していたことなんです。これは色々仮定した上での試算ですけど――」


 フルルがええと、と言って視線を上に向ける。


「統一機関でのあらゆる仕事について、その3割近くが何らかの形でマダム・カシェに依存していたことになるんです」

「3割。たったひとりに割り当てる量にしては異常だ」

「はい。ですが、彼女がいなくなるまで、誰もその異常性に気付きませんでした。それこそが――統一機関の最大の欠陥だったと思っています」

「いびつな構造に気付き、正すものがいなかった点か」

「はい。自分の仕事をこなしてさえいれば良く、誰もその周りのことは気にしていなかった。()()()は自浄作用に欠け、大局が見えていなかったのです。ある意味『役割』システムの敗北です」


 統一機関の構成員を指して、フルルは「私たち」と形容した。所属する部門は違うが、ともに統一機関の元研修生であるロンガとフルルは、沈んだ顔を見合わせた。リヤンは両手で頬を包み込んで、小声で呟きながら情報を整理しているようだった。三者三様の沈黙がしばらく続き、ややあってリヤンが顔を上げた。


「ひとりで3割、って可能なのかなぁ。なんか現実味がないような」

「うん。だけど、そこであの“ハイバネイターズ”の放送とつながってくる。彼らは私たち地上の人間に使役してた、っていう話。その地上側の窓口が、つまりマダム・カシェだったんじゃないかな」

「それだと全て繋がるな。つまりマダム・カシェに制御されていたのがなくなって、(おの)ずから蜂起したのが今の“ハイバネイターズ”ということか」


 しばらくの間は議論を交わしたが、アルシュは帰ってこなかった。一日歩き通したこともあり眠気が襲ってきたので、早い時間ではあるが床につくことにした。空き部屋をひとまずはロンガとリヤンの部屋にしてもらい、早くも寝息を立てるリヤンの隣のベッドで、ロンガはぼんやりと天井を眺めていた。


 ふと、先ほど議論した内容が頭をよぎった。


 統一機関が機能していた頃はマダム・カシェが“ハイバネイターズ”を制御していた。だが彼女が失踪し、地上と地下のコネクションが失われたために地上は困窮し、地下は地上への復讐を試みた。そのストーリーはわかりやすいが、ひとつ違和感がある。


 カシェの行動に一貫性がないのだ。


 彼女は、エリザの病気を治すために何よりも強い権力を求めた。あの入り組んだ地下世界で彼女が女帝だったのはおそらく確かだろう。なのに、その権力をわざわざ手放して、辺境の小さな街であるハイデラバードに向かうことがあり得るだろうか?


 考えていたがそれらしい結論は得られず、次第にまぶたが落ちていった。解決できない引っかかりを胸の奥に抱えたまま、ロンガは眠りに落ちた。

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