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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅴ この手に太陽を
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chapitre52. 白い空を仰いで

「すごいこと言わせてくれたなぁ、ロンガ」


 そう言ったアルシュは心なしか白い顔をしていた。


「必ず“地底の民”の攻撃を止めさせる、だなんて。どのくらい成功の可能性があるかすら分かってないのに、とんでもない約束しちゃったなあ。守れないかもしれない約束をするなんて、命がいくつあっても足りないよ」

「どのみち失敗したら終わりだ。MDPも何もかも関係なく、地下に下ることになるだろう。でも――アルシュの信頼を利用して、名前だけ借りるような真似をして悪かった。ごめん」


 ロンガが苦い顔で頭を下げると、「良いんだよ、そんなのは」とアルシュは疲れの隠しきれない顔で笑った。


 昼食を伝報局側で用意してもらえることになり、その支度にしばらく時間がかかると言われたので、時間を持て余した一行は伝報局の屋上に来ていた。伝令鳥(ポルティ)を呼び集めるために広く設けられた屋上から、スーチェンの街並みを一望できる。道が迷路のように交錯しているのが、上から見るとよく分かった。


「ねぇ、ロンガ」


 特に何を考えるでもなく景色を眺めていると、隣にリヤンがやってきて話しかけた。


「アルシュさんは、攻撃を止められるか分からないって言ってたけどさ。それってロンガの右眼では見えないの?」


 ロンガの右眼に飛び込んできたおかしな存在については、抽象的だがリヤンにも説明してあった。今とは違う時間軸の景色が見える超常現象、幻像(ファントム)がすでに日常に馴染んでいたこともあり、さほど理解には苦労しなかったようだ。


「ああ、それなんだが」


 ロンガは肩をすくめた。


「力が及ばなくて申し訳ないが、どうやら人間の行動はほとんど見えないみたいだ。天候とかと違って不確実なところが大きい、ということじゃないかな……」

「そっか。なんか安心したかも」

「安心した? どうして」

「だってさ……あたしが今、何を言うのかとか、どちらの足から先に踏み出すかとか、ご飯を美味しいと思うかどうかとか、それに……悲しみや怒りや色んな感情がさぁ? 実は先に決まってるとしたら、なんだか嫌だなって。ロンガはそう思わない?」

「そういう意味か……」


 あまり考えたことがなかったな、とロンガは厚い雲に覆われた空を見上げる。そういえば夢の中で、人間のような知的生命は予測の不可能な、彼らから見ても『例外』だとビヨンドが言っていた。ボールを投げれば飛んでいくような物理現象と、人間が頭の中で何を考えているのか、というのはビヨンドから見ればまったく別の話ということらしい。


「人間だけが特別、というのは私には正直よく分からない。風の変わる向きが分かるなら人の心の移り変わりだって見えて良いような気がするけど」


 ロンガは呟いた。


「――でも何だか、嫌じゃないな」

「そうだよねぇ」


 リヤンは丸い頬を緩めて微笑んだ。


 人間だけが世界の中で特別であり、決定論の枠組みから外れた存在である、なんてずいぶんと大それた考えに見える。でも思い返せば、市民に「役割」を割り当てることで機能していたかつてのラピスは、まさに人間の予測不可能性を無視していたように思えた。まだ人の形にもなっていない細胞の集合体に、育って働いて死ぬまでの完成された筋書きを与え、その通りに動けと命じるのは、人間らしさの否定と呼べるのかもしれない。

 ロンガが、そして友人ソレイユが本能的に「違う」と感じ取った、かつてのラピスに対する違和感の根源はそこかもしれなかった。人間らしく生きるとはつまり無数の可能性を抱えたまま、自由で選択権を持つ「私」として生きていくことであり、他の誰にも行く先を予測させないことなのだろうか。


 ビヨンドはそれこそが知的生命なのだと言った。


 それを限界まで好意的に捉えれば、あの日塔の上でロンガたちが描いた理想に賛同してくれたということだ。そう思うと、あの小憎らしい不法侵入者のことも、少しは許せる気がするから不思議だった。


 柵に背中を預けて屋上を見渡すと、MDP構成員の少年がアルシュに話しかけていた。先ほど下のフロアで、本当に先んじてフィラデルフィアにガスマスクを届けてはいけないのか、と抗議していた彼だ。少し気になったが、その2人からは距離が遠く会話の内容までは聞こえない。

 ふと思い立ってロンガは、隣にいるリヤンに小声で尋ねた。


「あの2人の会話、聞こえるか?」


 リヤンはこくりと頷いた。彼女は耳が良いので、もしかしたら、と期待したのが当たっていたらしい。彼女がこっそり耳打ちしてくれた内容によると、どうやらMDP構成員の少年は、どうやって“地底の民”と交渉するのか、その具体的な案はあるのかと尋ねに来たようだった。


「――まずいかな」


 ロンガは心臓の動きが大きくなるのを感じた。具体的にどうメッセージを送るか、まではまだ効果的な案が出ていないのだが、ここで不用意なことを言えば士気に関わってしまう。助けに入った方がいいか、とロンガは身を乗り出したが、リヤンがその袖を小さく引いた。

 彼はアルシュを問い詰めに来たのではないようだ。


「たった数日で都合良く解決策が見つかるわけないですよね。分かってます」


 MDP構成員の少年、レゾン・ヴォルシスキーはまだ成長期だろう背を丸めた。本当は攻撃を止める具体的な手段なんてまだ見つかっていないんじゃないか、わざわざ屋上までやってきて彼はアルシュにそう問いかけた。その口調は決して問い詰めるような切迫したものではなく、彼が冷静な精神状態にあることが見て取れた。なので、自分の直属の部下である彼には真実を告げておいても良いのではないかと考えたアルシュは、彼に真意を話した。


 地下に向けて謝意を伝えるつもりでいること。

 切り札がないとは言わないにしても、具体的な手段はまだ用意できていないこと。


 アルシュが努めて冷静な口調でそれを伝えると、やはりそうですよね、と言ってレゾン少年は苦笑した。


「ただ――できれば他の局員には言わないで欲しいです」

「分かってます」


 レゾンははにかんだ笑みを浮かべた。


「俺、べつに疑ってるとかじゃないですよ。マダム・アルシュがやり遂げてくれるって信じてます。ただその、正しいことが知りたくて。それだけです」


 彼は少し早口になってそう言うと、上気した顔を隠すようにぱっと背を向けた。「あと30分くらいで降りてきて下さいね」と言い残して、屋内に通じる扉の向こうに消えていく。屋上に残されたアルシュにロンガは歩み寄った。リヤンは彼に興味がわいたのか、レゾンを追いかけて屋上を出て行った。


「信じてる、だって」


 アルシュが肩をすくめて微笑んだ。


「今でも不思議。なんで私、こんなに大勢の人に信頼してもらえたんだろう」

「言葉に行動が伴っていたからだろう」

「いや――きっと運が良かったんだよ。でも、背負っちゃったからには期待に応えないとね」


 重たい期待に応じようと思えるのが、アルシュ自身の強さであり、人々が信頼を寄せる根拠なのだが、彼女自身はあまり気づいていないようだ。どうやって言葉にすればそれが伝わるのか、ロンガが思案していると、近くにあった窓がスライドして開く。


 そこから窓の(さん)に片ひじをついたカノンが顔を出して、どうも、と片手を上げた。カノンの、別段怒っている様子のない態度に、少しほっとしながらロンガは小さく頭を下げる。


「カノン、先ほどは悪かった。ここまで案内してもらったのに」

「そうだね。ごめんなさい」


 アルシュもロンガに追随して謝ったが、カノンは口角を少し持ち上げただけだった。


「まあ、いいよ。あんま聞かれちゃいけない話なんでしょ」


 階下の部屋で伝報局員たちと相談するときに、部外者に近いカノンには念のため計画を伏せておこうとアルシュが判断したので、彼には一時的に伝報局の外に出てもらっていた。しかし今のロンガたちは彼に護衛してもらっている立場で、成り行き上仕方なかったにしても、彼を輪から省いて話をしたのは少し失礼なことだった。その埋め合わせというわけではないが、カノンのぶんも昼食を用意してもらうよう頼んであった。


「でも、せっかくだから色々教えてよ。なんで2人は一緒にいるの? それに――なんで、名前が変わっちゃってるのさ」


 言葉の前半はアルシュを見て、後半はロンガを見て言った。アルシュとロンガが一緒に行動している理由も、ロンガがかつての名前を名乗っていない理由も話せばそれなりに長いのだが、この場においてはどちらかというとカノンの存在の方が謎めいていた。


 そもそも、なぜカノンはスーチェンにいたのか。そしてロンガがラ・ロシェルを抜け出したあの日、カノンはいったいどこまで事態を見通していたのか。語られていないままのことがあまりに多く、ロンガが偽名を名乗っている理由などはそれに比べたら些細なことな気がした。


 アルシュも似たように考えたらしく、「それも良いけど、その前に」とカノンに視線を返した。


「ロンガに説明してあげて。ソレイユ君にあの日何をしたのか」

「――良いの? その話、あんまり楽しくないとこでオチが付くけど」

「待て、ソルのことを知ってるのか? カノン」


 ロンガが割り込むと、2人は少し黙り込んだ。2年前に別れた友人ソレイユについて、どうやら生きているらしい、という程度のことしかロンガは知らない。どこにいるのか、何をしているのかは全く知らされていなかった。


 ややあって、カノンが躊躇いがちに口を開いた。


「まあ知っちゃった以上は、俺が止めたって聞きたがるよね」

「お願い。あのね、ロンガ」


 アルシュが真剣な顔でこちらに振り向いた。


「……ごめんね、少し隠しごとをしてたんだ。でも、カノン君から話してもらうのが一番正確だと思うから」


 その言葉に続いてカノンが語り始めたのは、ロンガと別れてからのソレイユの顛末だった。カノンが導いたとおりにスーチェンにやってきたソレイユは、牢獄グラス・ノワールで囚人として生活することを余儀なくされたという。人目に付かないために、本来の名前ではなく番号で管理するグラス・ノワールは彼の身を隠す先として最適だったのだ。

 ロンガがバレンシアで、慎ましくも暖かい暮らしを送っていた間、彼は冷たい牢獄で耐え忍んでいた。想像することすらもできない生活に思いを馳せながら、ふとロンガは気づいた。


「でも、脱獄があったって――」

「そうなんだ」


 カノンは頷いた。


「奴は逃げた。まだ捕まっていない」

「というと、この街のどこかに潜んでいるのか?」


 ロンガは振り返って、スーチェンの街並みを見渡した。心臓の鼓動が早くなるのを感じた。石垣の向こうや街路樹の隣に、今にもオレンジの頭が見えそうな気がした。だがカノンは「いや」と重たい口調で言った。


「俺たちも探せるところは探した。だが見つからないとなると、スーチェン市街の外に出たわけになるんだが――俺たちの仲間で、おかしなことを言っていた奴がいてな。動かないはずの防壁がひとりでに動いて、脱獄囚たちを導いたって言うんだよ」

「そんなことが?」


 ロンガは眉間を抑え、その情報が示す意味を考え込んだ。先ほどスーチェン市街を歩いていたときにカノンが言っていたことを思い出す。


「防壁は手動だと言っていなかったか。いや違うな、昔は電動だったのか。でも、要は統一機関が崩壊して電力不足になったから手動に切り替えたということだろう?」

「そうだ。じゃあ何故、昨日は動いたんだと思う」

「どこかから電力が供給されたから? ――待て、そういうことか」


 カノンの出すヒントに沿って考えを進めたロンガは、ごく当然の帰結に辿りついた。電気でなければ動かせないはずの防壁が動いたということはつまり、配電系統を乗っ取った“ハイバネイターズ”がソレイユたち脱獄囚を導いたということになる。


「つまりソルは今、地下にいる?」

「可能性はあるってことだね。まあ俺たちにも本当のところは分からんが、その可能性が一番高い」

「ちょうどすれ違っちゃったね」


 アルシュが肩を落とした。


「スーチェンで2人が会えると思ってたんだけど」

「ああ確かに――でも、2人ともありがとう。私もソルも、2人の機転のおかげで生き延びたようなものだ。良かった、何とかやっているようで」


 ロンガが取りなすように言うと、カノンは小さく目を見開いた。口元に薄笑いを乗せて両手を広げてみせる。


「服役してるなんて聞いたらショックだろうから黙っておく、って言ってなかったっけ、アルシュちゃん? この通り、全然堪えてないけど」

「あんまり余計なこと言わないで」


 アルシュがカノンを横目で睨みつける。あまり性格の相性が良くないのか、アルシュは時折彼に苛立つ様子を見せていたが、彼女が昔に比べてずいぶん頼もしくなったこともあり、その様子はどこか微笑ましく見えた。


「じゃあ今度はそっちの番、でしょ」


 そう言ってカノンが促したので、ロンガは2年前に葬送の船でラ・ロシェルを出発したところから始まる長い話を語った。途中でビヨンドの話にさしかかり、ロンガが眼帯を解いて白銀色に変色した瞳を見せると、流石のカノンも少し驚いた顔になった。


「あまり見られたいものでもないからな。隠してるんだ」

「へえ、でもなかなか似合うじゃない。イヤリングの銀色と良く合ってるよ」


 妙に間の抜けた返事をするので、なんだそれは、とロンガは呆れ混じりに笑った。それからいくつか情報を交換し、MDPが実行している作戦についても、ティアの存在については隠しながら伝えた。


 話しているうちに、ずいぶん時間が経っていた。


「そろそろ下に行かないといけないかな。ねえ、時間って分かる?」


 カノンは窓から少し顔を引っ込めて「13時5分前だね」と答えた。思いのほか時間が過ぎていることに気がつき、一行はあわてて屋上の鍵を閉めて階下に向かった。量は多くないが、手数の掛かった料理がテーブルに並ぶ。風に当たって冷えた身体にしみこむような暖かさで、ここ数日は携行食が多かったこともあり、頬が緩むのを抑え切れなかった。


 最後にもう一度段取りの確認をして、一行は伝報局を出発した。リヤンは同年代と思わしきMDP構成員の少年、レゾンと話して親しくなったらしく、遠ざかる彼の姿が見えなくなるまで手を振っていた。


 厚い雲に覆われた空から白い欠片が舞い始めていた。昼時にも関わらず一段と冷え込み始め、吐いた息は白く霞んでいく。市街地の外れまで歩くと、統一機関の三本の塔がかなり大きく見える距離になっていた。


 短い吊り橋の手前で、先頭を歩いていたカノンが振り返り、自分はそろそろ戻ると言った。


「この辺まで来りゃあ大丈夫だろう」

「そうね、どうもありがとう」


 立ち止まったカノンとすれ違い、アルシュが先頭を交代する。年下の2人がそれぞれ違う深さで頭を下げた。引き返してくるカノンと目が合って、ロンガは「ずいぶん呆気ない別れだな」と眉を下げて笑って見せた。


「2年ぶりに会えたと思ったのに、結局なぜスーチェンにいるのかも教えてくれないままだったな」

「あら、少しは別れを惜しんでくれてる感じ?」

「それもそうだが――何というのかな。なあ、ちょっと聞いて良いか?」

「何なりと」


 ロンガ以外の3人はもう、吊り橋を渡り始めていた。振り返ったアルシュが、立ち止まってカノンと話しているロンガに気がついて声をかけてくる。すぐ行くよ、と答えてロンガはカノンに向き直った。ロンガの立つ場所はちょうど大柄なカノンの影に入っており、先に行っているアルシュたちからは見えないだろう。

 カノンはロンガより頭一つぶん以上背が高く、カノンの顔をまっすぐ見ようとすると首が疲れるので、あまり視線を合わせようとしてこなかった。しかし今だけは別だ。その表情の読めない顔に、ロンガはしっかり照準を合わせて尋ねる。


「――本当にここで会えたのは偶然なのか?」

「運命とか言っちゃう感じかい?」

「悪いが今だけは茶化さないでくれ。なあ、少し、出来すぎていないか。私たちがスーチェンの入り口で止められたときに、ずいぶん早く連絡がついたよな」


 市街地の入り口で自警団の男に止められたときのことをロンガは思い出していた。あの男と問答していた時間はせいぜい数分だろう。離れた建物の中で待機していたカノンにロンガたち一行の情報が伝わって、カノンが「護衛してもいい」と言い、その返事が再び戻ってくるにはあまりにも短い時間だ。


「本当は私たちが来ると知っていたんじゃないのか?」

「まさか。どうやって知るのさ」

「――それにさっき、屋上で時間を尋ねたときも変だなと思った。一昨日から電気が止まっているから、時計は動いていないはずだ。水晶端末(クリステミナ)で時間を見たとしたら、その端末は一体どこで充電した? 単刀直入に聞くから教えてくれ。カノン、“ハイバネイターズ”と関わっていないか?」


 ロンガが畳みかけると、カノンはしばらく微笑みの形を保ったのち、諦めるようなため息をついた。白く霞んだ息の形が一瞬カノンの顔を隠し、再び目線が合ったときに彼はロンガの知らない表情を浮かべていた。

 緩く上がっていた口角から力が抜け、こちらを見下ろすグリーンの瞳に、心なしか悲しげな色が透ける。


「……凄いなあ」


 見たことのない表情を浮かべたカノンが言った。


「そんな飛躍した発想、普通の人は口に出せないと思うよ」

「でも、今のカノンの反応が何よりの証左だ。だって――“ハイバネイターズ”という名称はまだ()()()()()()()()()()()()()だ」

「ずいぶん弁が立つようになったね。言葉(ロンガ)って名前はそういう意味なのかい?」


 いつものように茶化した言葉を挟んでから、カノンは再び真顔に戻って「正解だよ」とほとんど口の動きだけで呟いた。


「やっぱり――」

「でも」


 思わず声を上げそうになったロンガの口を、グローブに覆われたカノンの手のひらが塞ぐ。痛みを覚えるほどではないが逃れられない力で抑えられて、ロンガは抗議するようにカノンの無表情を睨みつけた。


「だからといって俺があんたらにしてやれることは何もない。逆に、ロンガたちが俺にできることもない。気づかなかったことにして、とっとと行くのが良いと思うよ」


 冷淡な口調でカノンが言う。顔を抑えていた手を突然離されて、ロンガはバランスを崩してよろめいた。「別に、何かして欲しいわけじゃない」と口元を拭って言い返す。


「だが知りたい。それなら何を思って私たちの前に現れた?」

「会えるうちにあんたに会いたかった。それだけよ。想像すりゃ分かるだろうけど、今の俺は毎日が綱渡りみたいな立場だからね」

「一体どういう――」

「俺はティア・フィラデルフィアの仲間だ。そう言うのが良いかな?」


 それだけ言うと、カノンはロンガの肩を軽く叩いた。驚きで二の句を告げないでいるロンガに、カノンは口元を笑みの形に戻して「じゃあな」と言う。引き留めようとするロンガに構わず、スーチェン市街地の方角へ戻ろうとして、あ、と思い出したように呟いた。


「そうだ、これだけは言っておくか。水晶端末(クリステミナ)は大事に持っておいてね」

「――分かった。いや、何も分かってないが、カノン、君は私たちの敵ではないんだと、それだけは理解した。そう信じさせてくれ。また会おう」

「そりゃあどうも」


 吊り橋の向こうから呼びかけるアルシュたちの声に応えて、ロンガは足早にその場を離れた。ロープの軋む音と賑やかな笑い声を背後に聞きながら、カノンは振り返らず歩いた。やがてその音も聞こえなくなるほど遠ざかると、立ち止まり、雪のちらつく空を見上げた。


「また会おう、か」


 じわりと口元に微笑みを広げて、右手のグローブを見つめる。黒い生地に雪の欠片が舞い降りて、音もなく溶けていった。

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