chapitre39. 嘘と錠剤
「マダム・アルシュ。お客様です」
午後の光が差し込む、電灯のない部屋で目を閉じていたアルシュ・ラ・ロシェルはぱちりと目を開けた。手狭な私室は、片付ける間もない書類や覚え書きで埋まっている。どうにか寝る場所だけは確保しているが、遅かれ早かれ時間を見つけて片付けなければいけないだろう。
アルシュは靴を履いて、「今行くね」と呼びかけた。
彼女に引き戸の向こうから呼びかけたのは、フルルという名の少女だ。元々統一機関の軍部に所属していた研修生であり、今はメトル・デ・ポルティ総責任者であるアルシュの護衛を買って出て、この打ち捨てられた酒場で共に暮らしている。変に畏まらなくていいと常々言っているのだが、知り合って2年たった今も未だに敬称を付けて呼ばれる。
アルシュが扉を開けると、些か緊張した面持ちのフルルが立っていた。アルシュの4つ年下で背丈は同じくらい。顔にはまだあどけなさが残るが、背後に背負ったケースの中身は軍部から持ち出した実弾入りのライフルである。
「お客様はどちら?」
「表のカウンターで待たれています」
そう言ってフルルは声を潜めた。
「あの、ですが、ちょっと変なんです。どこかの地域の代表者かと思ったら違うみたいなんですよ。もし必要であれば私が――」
ぱきり、と指の関節をならす。「追い返しますが」
アルシュは思わず、血気盛んなフルルに苦笑してしまった。彼女はとても良い子なのだが、すぐ力ずくで解決しようとするところは玉に瑕と言えるかもしれない。
「まあ、まずは話を聞いてみるよ。他に何か言っていた?」
「それは……流星の乗り心地はどうだ、と」
その言葉を聞いた瞬間、2年前のできごとが稲妻のように駆け巡った。
ちょうど今と同じ、秋の深まる季節。相方を失って失意の底にあった自分を揺さぶり、駆り立ててメトル・デ・ポルティの前身を立ち上げるまでに至ったあの日々――
音が立つほど勢いよく開けた扉の向こうに、見知った顔がいた。
「どうも。ご無沙汰しております」
「……今までどこにいたの」
とぼけた顔で片手を上げるカノン・スーチェンに相対したとき、再会を喜ぶ気持ちよりももどかしさや苛立ちが前に出た。かつて軍部の幹部候補生だった彼は、アルシュが軟禁されていた友人たちを連れ出すときに頼った相手であり、恩人と言ってもいい。彼が軍部の小型航空機を手配してくれない限り、まず上手くいかなかっただろう。
恩は確かにある。
それを補って、なお余りある文句があるだけで。
麻酔銃を受けたアルシュが倒れたあと、目覚めたときには全てが終わっていた。助けたはずのソレイユ・バレンシアが棺のなかに収まっていたときの、全身が崩れ落ちる感触は今も忘れられない。だが、それこそがカノンとソレイユの作戦だったと後になって知ったのだ。弔いを大切にする文化を利用した、命への最低の冒涜。何が切り札だ、ふざけるな、とアルシュは自室のベッドを殴りつけて泣いた。
でも、だからこそ。
「ソルはまだ生きているかもしれない」
そんな妄言めいた友人の言葉を信じてみる気になったのだ。葬送に同行した彼女の話は何度も聞いたが、溺れて酸欠になった脳で見た幻覚、と切って捨ててもいいくらいの内容だった。だけど、彼女が本気でその記憶に縋っていると分かったからこそ、そして、カノンたちが命を命で買うような真似をしていないと信じたかったからこそ、アルシュは彼の亡霊をラピス中で探そうと決意したのだ。
そして、見つかった。
本当に生きていた。
そんなとんでもない小細工ができたのは彼しかいない。色の読めない細い目に、アルシュはしっかり視線を合わせて睨み付けた。
「説明して。なぜソレイユ・バレンシアは生きている? 貴方が手引きしたんでしょう」
「気が早いなあ。まず、彼を見つけた目の良さに賞賛を送る予定だったんですけどねぇ」
「いい、そういう前口上は」
アルシュは溜息と共に言葉を吐き出して、椅子の一つに腰を下ろした。ケースから銃を出したフルルが背後に控える。その様子を見て「怖いねぇ」とカノンが笑った。
「さすがMDP総責任者だ。そのうちラピスの主人にもなっちまいそうだな」
「あの日ソレイユ君に何をしたか言って」
無駄口を切り捨てると、カノンは広い肩を竦めた。
「生命凍結、ってプロジェクトを知ってるか」
「いいえ」
「正式には……生命機能の恣意的凍結、及び再開、だったかな。医療棟と開発部が共同で進めてたプロジェクトだ」
カノンは常にどこか茶化したような口調で話すが、真面目に話し始めると軽口が抜け落ちて、かつて幹部候補生だったことを彷彿とさせる口調になる。いらだっていた心が幾分落ち着くのを感じながら、アルシュは彼の話に聞き入った。
「――プロジェクトの途中段階でできたのが、数十時間の間だけ生命機能を止める薬剤だ。指先くらいのちっさい錠剤。俺は偶然そいつを手に入れる機会に恵まれた」
「ここまで来てはぐらかさないで。必然だったんでしょ?」
「はいはい。じゃあ聞くが、アルシュ……なぜ、統一機関に軍部があったと思う?」
「何故って? もちろん、ラピスの在り方を綴った『祖の言葉』に記されていたからでしょう。統治と力と知恵、何れも欠くことはできないと」
飛躍した話題に戸惑いつつも、アルシュが当たり前のように答えると、カノンは小さい目を見開いた。
「へえ、意外と綺麗だな、あんた」
「馬鹿にしてる?」
「いやまさか――おいおい、後ろのお嬢さん、本気で銃を向ける奴がいるかよ。まあ、『祖の言葉』の信奉具合はたしかに凄まじかったけどさ、滅多に争いの起きない平和なラピスで軍部がしていた本当の仕事って何だと思う」
「――さあ? 分からない」
「ひとつは諜報。もうひとつは、統一機関要人の駒」
カノンは目を伏せて笑った。
「俺は一時期、ムシュ・ラムのお付きの護衛だったのよ。幹部候補生に選ばれた奴が、ラピスの裏事情を知って激昂して殴りかかる――とか結構あってね。俺はそんなときにムシュ・ラムを庇う役回りだったわけ」
アルシュはしばらく黙り込んだ。
軍部の仕事内容。言われてみれば、ただ有事のための機動力を保つためというには過剰なリソースが割かれていたようにも思えた。今となっては確認しようのないことだが。
「マダム・アルシュ。この男の嘘です」
アルシュが黙っていると、後ろに立っていたフルルがぴしゃりと言った。
「私たちはそんな正義感のない集団ではありません!」
「ああ、あんたも軍部の人間か」
一切臆する様子もなく、カノンは薄く笑った。
「言っちゃ何だが、俺は成績が上の方だったのに加えて、ラピスへの忠義も厚かったからね。そうなるように作られたと言うべきかな。裏の仕事をしてたのはそういう一部だけよ」
「たしかに私は成績が良くありませんでしたけど!」
フルルが堂々と言うので、アルシュは緊迫した状況下にも関わらず吹き出してしまった。笑わないでください、とフルルが顔をしかめる。
「そんなものが忠義ですか。マダム・アルシュのご友人を塔に閉じ込めていた男のどこに従うべき正義があったと言うのですか!」
「俺の『役割』がそれだったから選択権はなかった、という話は置いておいて。ムシュ・ラムやかつての統一機関にも正義はあった、と俺は思うよ。現にそれでラピスは上手いこと回ってたんだ。『役割』を首輪にして飼われた幸せだとしても、一部の人間を犠牲にした幸せだとしても、大多数の市民が明日の心配をせず笑って生きていた。それ以上のものをメトル・デ・ポルティなら提供できるのかい?」
フルルは顔を真っ赤にしつつも、唇を噛んで黙り込んだ。
そんな彼女を一瞥して、アルシュは無表情のまま「続きを」と促す。正義に対するカノンの考え方は2年前から分かっていた。説得してどうにかなるようなものではない。
「で、そのムシュ・ラムが、生命凍結のプロジェクトに一枚噛んでいたんだね。俺は秘書みたいなこともやっていたんだが、古い書類を整理したときに知ってたんだ」
「ムシュ・ラムを利用して手に入れた薬をソレイユ君に使わせ、ムシュ・ラム自身へ報復したってことか……。貴方いったい、どっちの味方なの」
「俺が正しいと思うほうの味方」
カノンはいっそ清々しいほどばっさりと言った。
「あの強引なやり方じゃあ、流石の俺も見切りをつけるよ。ムシュ・ラムの歯車はだいぶ錆び付いて歯が欠けていたけど、あそこまで暴走するかね」
「それは嘘。っていうか理由の全部じゃない。ラピス至上主義だったはずの貴方の中で優先順位が狂う相手がいたんでしょ」
「……否定はしないけどさ」
少し照れくさそうな表情を浮かべて――この男がそんな真っ当な仕草を見せたことにアルシュは多少驚愕した――カノンは視線を逸らした。アルシュは背もたれに身体を倒し、足を組んで情報整理に努めた。
――とりあえずソレイユが生きている理由は分かった。
ソレイユが生きているというのが誤情報でないことも、カノン自身の発言から保証される。では、次にとるべき行動は。
「この話は終わり、次。彼は安全なの」
「端的に言えばノーかな? 今日明日に死ぬようなことはないけどね」
カノンの返事を聞いて、やはりそうか、とアルシュは歯噛みした。心配をかけたくなくてロンガには伏せたが、ソレイユらしき人物が移動した痕跡は他の場所でも見つけられた。
ラピス七都のひとつであるスーチェンだ。
街単位でも緩やかに役割区分があるうち、スーチェンが担うのは「防衛」。軍部職員の輩出率は群を抜いてトップ。自警団や消防団の編成から災害時の備蓄まで、ありとあらゆる難からラピスを守るための街だった。
――2年前までは。
統一機関が機能していたころ、危険分子の単離、有り体に言えば逮捕が防衛の一手段として行使されていた。ラピスの道義上どんな悪人だろうが生かしておく必要があり、であれば牢獄が必要になる。スーチェンは七都で唯一の「牢獄がある街」だった。スーチェンの牢獄で謹慎していた罪人たちの一部は、2年前の混乱に乗じて脱獄したと言われている。
言われている、だけだ。事実関係は確認されていない。
だがそれでも住民の恐怖を煽るのに十分であり、今やスーチェンは、「見知らぬ者と出会えば敵と思え」と言われるほど殺伐とした空気に満ちていると言う。もともと住人が親密にコミュニケーションを取る結束力の強い街だったのがさらに進み、その攻撃的な排他性はラ・ロシェルにも聞こえてくるほどだった。
そんな場所で、一体ソレイユはどうやって生きているのだろう。
アルシュがそう尋ねると、予想の斜め上を行く答えが返ってきた。




