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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅳ 七都の目覚め
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chapitre33. 暖かい家

 空はいよいよ暗くなり、木々の輪郭が闇に溶け始めた道をロンガは小走りで駆け下りる。


 片手で枝を掴み小さい崖を飛び降りて、腰ほどまで茂った下草を踏み、土に覆われた地面をかかとで削りながら降りていく。毎日のように通う山道にはすっかり慣れていたが、日が完全に山の向こうに落ちてしまうと視界を晴らすものがなくなってしまう。

 ごぉん、と遠くから低い音が響いた。

 日没を示す鐘の音だ。いよいよ足下も見えないほど暗くなり始め、濃紺の空に景色がにじみ始める。うっかり落ち葉の積層に足を取られて背筋を冷やし、また走りながらロンガはさっき別れたアルシュのことを思い出していた。


 *

 

「今から帰るのか。本当に大丈夫か?」

「今夜は定例会を入れてしまったから」


 一晩くらいなら伝報局で匿えると勧めたが、アルシュはロンガの申し出を断り小型航空機(メテオール)で帰っていった。今の彼女はたった一晩も無駄にできない立場なのだ。半年ぶりの再会にしてはあっけない別れだが、文句を言う気にもならない。

 彼女が提案してきた内容は保留してもらった。

 夜道を駆け抜けながらも、頭の片隅で常にちりちりと火花に似た音が鳴っていた。一緒にラ・ロシェルに来てくれないかと、アルシュが切り出したときの必死な顔はロンガの網膜に焼き付いた。当分は消えそうにもない。


「一緒にラ・ロシェルに来てくれない? 電力異常について、これまで以上にしっかり調べようと思ってる。MDPに入ってとは言わないけど、手伝って欲しいんだ。……それに」


 アルシュはそこまで言って、ふと表情を緩めた。


「友達と呼べる人が近くにいてくれたら、私も嬉しい」


 長年の友人であるアルシュにそこまで言ってもらえたにも関わらず、そのとき、ロンガが真っ先に考えたのは自分自身の安全だった。


 なかなか情けないとは思う。

 だが今のロンガは、2年前の葬送で失踪したことになっている。


 最後の友人(デルニエ・アミ)――葬送の船に同乗した者が、そのまま戻ってこない例が稀にある。大抵は近しい者の死を悼み、彼と運命を共にした場合だ。少なくとも葬送の船を見送った側からは、そう解釈される。ロンガはその風習を利用して、というよりは半ば強制的に利用させられて、棺の中に眠る相方の少年と共にラ・ロシェルを脱出してきた。


 その後にすぐ動乱が始まり、統一機関は麻痺状態となった。

 今ではロンガを咎めるような制度はどこにもない。


 だが、自分を殺そうとしたあの女性は。

 自分に銃を向けたあの男性は。


 今でも自分を探しているのだろうか。自分を殺そうと、まだ思っているだろうか。


 それを思うと、とうに薄い傷跡になったはずの首の後ろがまた痛むような気がした。人々の目を欺いて、無事にバレンシアに来てからも、しばらくは彼らに見つかることが不安でしかたなかった。だがこの街での暮らしに馴染むうち、いつしか警戒心は遠いものとなり、夜明け前に目が覚めたときや眠れない深夜に少し思い出す程度になった。


 せっかく逃げ出したはずのラ・ロシェルにいま戻れば、彼らに見つかって殺されないとも限らない。この2年間で忘れかけていた危機感が、突然音を立てて肉薄してきた。命を奪われるかもしれない、という原始的な恐怖が心臓を縛り付けて、上手く言葉が紡げなくなる。


 だがアルシュはロンガの反応を見越していたかのように、言葉を継ぎ足した。

 

「――マダム・カシェやムシュ・ラムが怖いのは分かるよ、分かるけれど、彼らは私たちの領域にはいない。私たちの元にいた方が安全とすら言えるかも」

「確かにムシュ・ラムは周辺都市の牢獄で捕らえられていると聞く。だが、マダム・カシェはラ・ロシェルにいるんじゃないのか?」

「うーん、曖昧だけど……分からない寄りの、いいえ、だね」


 アルシュは言葉通り微妙な角度で首を傾げた。側頭部で括られた髪がぱらりと崩れる。


「あの人は身を隠すのが上手い。確かに彼女は、統一機関の残党を率いている、って言われてる。主に軍部からなる集団ね。だけど、彼女の姿は2年前を最後に捉えられていないんだ」

「メトル・デ・ポルティの三百対の目を以てして?」


 ロンガは素直に驚いた。

 アルシュが申し訳なさそうに肩を竦める。


「うん。――だけど裏を返せば、これだけ見つからないのならば、私たちの目が届かない場所にいるとも考えられる」

「まだそんな場所があるのか」

「変に持ち上げないで。唯一私たちの支援を断った街があるでしょう」


 確かに、そのことはロンガも覚えていた。


 北方の街ハイデラバード。

 バレンシアに並ぶ、ラピス最小の街だ。


 特筆すべきは、水晶信仰がその街の根幹を成している点である。水晶を神の宿るメディアとして崇める、一部の者が持っていた信仰が街中に広がり、今ではラピス七都で唯一の公教を持つ都市となった。街の人々は協力し合って聖堂を作り、水晶を祀って朝晩に祈りを捧げている。三千人を超えるハイデラバード市民は司祭による独特の支配下にあり、2年前の恐慌にあってもメトル・デ・ポルティほか多くの救援物資を全て断った。それ以来更に閉鎖性を高め、今では外部市民の立ち入りを禁じていると聞く。


「そこにマダム・カシェがいると?」

「断定は出来ないけどね。でもハイデラバードは彼女の出身地でもあるし、可能性が高いと見て悪くない……と思う」


 アルシュは水晶端末(クリステミナ)を操作した。バレンシアでは余剰電力が少ないので、ラ・ロシェルから持ち出した自分の水晶端末はずっと充電切れのままだ。ロンガはどこか懐かしい気持ちで、水晶端末が放つ青白い光を眺めた。


 宵闇にラピスの地図が投影される。


 中央のラ・ロシェルと、それを取り巻く6つの街が蜂の巣のような幾何学模様で記されている。人口の多い方から順にスーチェン、フィラデルフィア、サン・パウロ、ヴォルシスキー、ハイデラバード、バレンシア。6つの街はきれいに整列して見えるが、実際には地形が影響し、街の規模もラ・ロシェルからの距離も異なる。


 バレンシアとハイデラバードはラ・ロシェルから最も離れた街だ。徒歩でラ・ロシェルに向かうならどちらの街からでも一日以上かかる。一方でバレンシアとハイデラバードの直線距離は近い。地形に起伏があるため見かけよりは時間を要するが、日の出と同時に出発すれば日が落ちるまでに他方にたどり着くだろう。


 つまりアルシュの言いたいことはそこだ。マダム・カシェがハイデラバードに潜んでいるなら、バレンシアよりラ・ロシェルにいた方が危険性は低い。単純な理屈だ。加えて、孤軍奮闘している彼女の手助けもできる。


 ロンガにとって良いことずくめに思えた。

 だが、これ幸いとアルシュについて行くには……この街を好きになりすぎた。


 * 


 闇に溶けた木陰のシルエットを照らし出す、暖かい色の灯りが見え始める。ロンガは勢いを付けて小川を飛び越え、光めがけて最後の斜面を滑り降りた。平らになったところで立ち止まり、少し乱れた息を整える。

 2階建てのこぢんまりとした建物がある。両手で抱えられるほどのレンガブロックを詰み、隙間をコンクリートで埋めた外見はどこかおとぎ話じみている。裸電球の頼りない光の中に、パステルカラーのペンキで彩られた木製の看板が佇む。明らかに手書きとわかる文字が書いてある。


『バレンシア 第43共同宿舎』


 これが今のロンガの家だ。


 鍵を押し込んで回し、扉を押し開けると、途端に賑やかさに包まれる。


 脚立の上に座っていた穏やかな顔だちの青年が振り向いて「お帰り」と言った。彼はこの宿舎で宿長を務める青年だ。名前をアンクルといい、切れ長の目に柔和な光を宿している。道具の製作や修繕が彼の「役割」で、オーバーオールのポケットはいつも工具類でいっぱいだ。手先の器用さはこの共同宿舎でも遺憾なく発揮されており、今はどうやら配線部の掃除をしているようだ。


 ロンガは挨拶に応えながら後ろ手に扉を閉め、次いで帰宅が遅れたことを謝罪した。アンクルは笑顔のまま緩やかに首を振る。片耳に吊したピアスが揺れた。


「無事に帰ってこれて良かった。夜が更けると危ないから」

「ありがとう。あと、リヤンと風呂当番を交代したから、アンにも伝えておく」

「了解。管理帳に書いといてね」


 アンクルに頷き返すと、廊下の奥から明るい声が飛んできた。


「あ、ロンガ! お帰り!」


 生活の中心となる大部屋(サロン)から、リヤンが顔を出す。大部屋(サロン)では皆で食事をするほか、集まってボードゲームやお喋りに興じたり、たまにアルコール類を飲んだりする。部屋の中央に据えられた、楕円のテーブルを囲う6つの椅子のうち、2つが既に埋まっていた。


「ただいま」


 椅子に腰掛けて野菜の皮を剥いていた2人の娘に声を掛ける。一方は満面の、他方は仄かな笑みを浮かべて2人はロンガを迎え入れた。


 一方はリヤン。

 年齢は17で、共同宿舎の中で最年少だ。年上に囲まれていることが彼女の無邪気な性格を形成した一因だろう、とロンガは思う。第43宿舎ではロンガと共に宿舎の掃除や洗濯、その他大小の家事を引き受ける。風呂当番もその1つだ。


 他方はサテリット。

 副宿長を努める、物静かな娘だ。宿長のアンクルの相方(パサジェ)として共に生まれ育ち、彼の右腕として動いている。


 皮を剥いた野菜を真っ二つに切って、あ、とリヤンが声を上げた。


「二人ともこのイモ見て? ねぇ、中身がスカスカ」

「本当だ。大水のせいかな……」


 去る夏にバレンシアを水害が襲った。今年は例年になく川の水位が高く、度々氾濫したのだ。そのせいで今年の収穫量は全体的に少なく、バレンシアの住民は厳しい冬越しを強いられることが既に予測されている。肩にかけていた荷物を下ろし、ロンガはリヤンから中がスポンジのようになった芋を受け取った。


「シャルルに頼んで新しいのを持ってくるよ。他に何か持って行くものはある?」

「ありがとう。あと、これもお願い」


 サテリットは小さく頷き、テーブル中に広げられたカッティングボードのうち、既に切り終わった野菜が乗っているものを指した。キッチンとサロンで料理の過程を分業しているのだ。ロンガは快諾し、カッティングボードを両手に抱えてキッチンに向かった。天井から垂れ下がった湿気除けの不燃布をくぐり、一段低い石張りの床に降りると、奥で大鍋を見守っている青年がいた。


料理長(シェフ)、ただいま。この野菜はどうしたらいい?」

「今日は遅かったな、ロンガ。お帰り。えぇとその……鍋、柄付き鍋に入れといてくれ。後で火に掛けるから」


 第43共同宿舎の料理長(シェフ)、シャルルが火から目を離さずに言った。彼は多少大雑把だが、料理の腕は誰よりも確かな青年だ。


「了解」

「零すなよ」


 神妙な顔で頷いたロンガに、シャルルはからかうように笑った。

 馬鹿にするなと言いたいところだが、ロンガは料理について、誰よりも群を抜いて下手なのであまり文句を言えない。……最近は多少ましになったと自負しているが、そもそも2年前に初めて包丁を握った時点でその実力は推して知るべし、シャルルの手伝いができるようになっただけでも上出来だろう。


 指示に沿って動くこと1時間、ロンガに言わせれば魔法のようなプロセスを経て食材が料理に変貌した。


 楕円のテーブルに、暖かく湯気を立てるスープと、硬い麦パン、それに切ったリンゴが5組並べられる。玄関の点検を終え、立て付けの悪い扉を直していたアンクルも呼んできて、ロンガ、リヤン、アンクル、シャルル、サテリットの5人が各々の椅子に腰掛けた。椅子は6脚あるのに住人が5人しかいないので、常に空席が出来る。


 正面に空の器が置かれた席は、意識しないようにすればするほど視界の端で主張する。


 それは、本来ならロンガの代わりに第43宿舎で生活していたはずの人が、かつて使っていた椅子だ。


 ロンガがこの家にやってきてしばらくの間、彼らは食卓に空の器を並べなかった。なぜ自分が来るまで、5人組が基本単位の共同宿舎に4人しか住人がいなかったのか――彼らは語ろうとしなかったが、違和感に気付いたロンガはさりげなく尋ねた。しかしその答えははぐらかされ、あるいは沈黙され、ロンガがようやく状況を類推できたのは半年後だった。


 多分、何かが――ラピスでは許されないような暴力的な何かが起きて、彼あるいは彼女が亡くなった。ロンガが享受している食べ物や電力や、暖かい微笑みは本当はその人のものなのだ。


 そう悟ったロンガは、ある日の夜更けにアンクルの部屋を訪ねてこう言った。


「私に椅子を一脚作ってくれないか。大部屋にあるのと同じのを」


 一瞬驚いた顔をしたアンクルは、次に少し眉をひそめて「ああ……気を遣わせたんだね」と呟いた。ロンガが大部屋に自分の椅子を持ち込み始めてからは、空席の前には誰からともなく空の器を並べるようになった。


 結局、正解は未だに誰の口からも語られていない。


 だが彼らの顔に、今はもういない人を偲ぶ表情が、秋の落ち葉のように舞い降りることがある。あの元気なリヤンですらそうだ。気にならないと言えば嘘になるが、気軽に触れていいこととは思えない。だからそれ以上の無用な詮索を止め、彼らの中で喪失がどう処理されているのか、ゆっくり見定めるつもりだった。


 皆が食べ終わったのを見計らって宿長アンクルが両手を組んだ。


「空より至り土へ還る、ラピスの恵みに感謝して頂きます」


 彼の声に被せるように、頂きます、と色の違う声が重なった。静かな祈りを数秒間、虚空へ手向ける。豊かとは言い難くとも恵みをもたらすラピスの風土へ、また、4人の胸中に眠る見えない人へ、そしてまた、身を挺して自分を逃がしたあの少年へと。


 祈るために組んだ指をほどき、スプーンで赤っぽいスープを掬う。


 シャルルの作る食事は、かつてラ・ロシェルの塔で食べていたものとどこか違う。何が違うか、を正確に言葉にするのは難しいが、統一機関で供された食事は正確無比に計算された「美味しさ」だったのに対して、シャルルの料理は塩加減や味のバランスがその時々で違うのにも関わらず、全体としてまとめ上げられた「美味しさ」を持っている。


「食材に合わせるんだ」


 いつだったか彼はそう言った。


「作物の方は俺たちの舌に興味なんてないからさ。ただ、実るだけなんだ。それを料理にするのは俺の仕事だ」

「なるほど、だから均質な味を毎日作るのは難しいんだな」

料理長(シェフ)の俺としては、二度と同じものはない食材をその都度、違う美味しさに昇華する技量を褒めてほしいけどね。それとも毎食同じ味のがお好み?」


 ロンガが彼の料理の腕に感服していることを知りながらそんなことを言う。第43宿舎の食を握る料理長(シェフ)は多少意地が悪いが、矜恃をしっかり持っている男で、ロンガはそれを好ましいと思っていた。

 今日の皿洗いは、本来はロンガの当番だった。

 だが、結局5人全員で狭いキッチンの場所を奪い合いながら洗い物をした。大部屋(サロン)で何か話し込んでいるアンクルとサテリットを横目に、ロンガは2階に設けられた自分の部屋に戻る。


 喧噪から離れて一人になると、途端に色々な懸案事項が押し寄せてきた。


 木台に毛布を重ねた、ベッドと呼べなくもない場所に身体を横たえて板張りの天井を見つめる。むき出しの配線に繋がれたオレンジ色の灯りが頼りなく揺れている。その輝きに太陽の色を重ねて、ああ、と息を吐いた。


 目を閉じて、記憶にある景色で周囲を塗りつぶし、あたかも、あの頃に戻ったかのような錯覚に身を委ねる。昔はそんな芸当ができた。


 今はもう無理だ。図書館で過ごした冬、研修生として過ごした10年弱、それに比べれば短い塔の上で過ごした日月、どれも鮮明に覚えているけれど、あの頃の自分とは何もかもが違ってしまった。枷であり、同時に踏み台でもあった「役割」を失い、自分の半身そのものだった友人も遠ざかり、名前も――。

 ロンガは左耳に手をやり、イヤリングを外して灯りにかざした。三日月を象った銀色のイヤリングを見るときだけは、ロンガと名乗る前の自分に戻れる。あの頃を思い出してはそれが二度と帰らない過去であることを思い知る。


 夕暮れ、アルシュと話したことを思い出す。


 ラ・ロシェルに来ないかと彼女は言った。ロンガの安全を確保できる上に、アルシュがわざわざバレンシアまで訪ねてくる手間もなくなる。仕事に追われているアルシュを手伝うことだってできる。良いことずくめに見えるし、実際に利点は多い。そもそもバレンシアに身を寄せているのは緊急避難のようなもので、統一機関が半ば崩壊した今、彼女がここにいる意味はないのかもしれない。


 葛藤する理由はただ一つ、この小さくも暖かい居場所を手放すのが辛い。


 それは我が儘というものだ。

 ――この宿舎の本当の住人でもないくせに。


「……分かってる」


 噛みしめた歯の隙間から、誰に言うわけでもなく呟いた。


 身体を起こしてベッドから降り、布を被せた隙間に押し込んである物入れの蓋を開けた。統一機関から逃げ出したとき、持ってきたものは全てそこに隠してある。研修生仕様の仕立ての良い服、高性能の水晶端末、鞄や日用品に保存食。一番下に、開発部所属を示す深紅のネクタイが押し込まれている。


 最小限の備えはある。

 それを確認して、ロンガは元通り、一見しただけでは分からないように物入れをしまい直した。


 明日にでもアルシュに返事をして、できるだけ早いうちにこの家を出よう。


 決意が揺らぐその前に。


 よし、と呟いて立ち上がり、まだ胸の奥で燻る未練をできるだけ見ないために、ロンガはわざと大きく身体を動かした。跳ね上げ式の窓に歩み寄り、隙間に身体を滑らせてバルコニーに出る。振り返り、屋根の縁に手を掛けて身体を持ち上げ、上に登る。緩い傾斜に腰を下ろして空を見上げた。


 真円の月が天頂を目指して登っていた。


 不遜なほど眩しく空を照らす、月が地球に向けた真白い光の、ほんのひとしずくを両眼にまっすぐ受けて見つめ返す。何時かもこんな夜があった。あの時はただ、高みから見下ろしている月を嫌い、反抗するがごとく地下へ向かったのだったか。


 今は少し違う気分だった。何もかも変わってしまった自分を、何一つ変わらない丸さと白さで照らす夜空の月に、すこしの安堵を感じていた。


 自分はただ、いるべき場所へ帰るだけだ。

 欠けはじめた月が一巡りして、また深夜の天頂に戻るように。


 それで良い、


 それで良いのだと、

 膝を抱えて目を閉じた。


 ――まずはお話ししてみないと!

 

 耳の奥で懐かしい声が叫んだ。

 ロンガは唇を噛む。嫌なときに思いだしてしまったものだ。


 そう、きっと彼なら、黙って我慢を飲むような解決策は好まない。聞き出して、さらけ出して、最善を探し、最善が無理なら次善を考える。真似できないと思いながらも心のどこかで彼を眩しく思い、実際にこの宿舎に来てからは自分から色々と会話を試みた。相槌を打って終わるような会話に少し枝を生やしてみたり、あえて違う意見をしてみたり、相手の好みや性格を組み込んで話してみたりした。挨拶ひとつからも様々な会話が生まれうると気付いた。表情は自分が思うよりも大袈裟に作らないと伝わらないことを学んだ。


 かれこれ2年、彼に褒められるくらいの成長はしたはずだ。なのに尚、一番大切なところで、自分は対話を放棄し、黙ってこの家を出て行こうとしていたのか。


 思わず苦笑した。持って生まれた性質は変わらないな、と思う。


「……分かったよ。生きてるかもしれないもんな、まだ」


 呆れるほどまっすぐな目をした、記憶の中の彼に頷き返す。


 その時ちょうど、窓を開ける音がした。ロンガが視線を下にやると、さっき彼女が出てきたのとは別の窓が開けられていた。窓の隙間から出した顔が、屋根に登っているロンガの姿を捉えて小さく綻ぶ。


「引き上げてもらっていい?」

「勿論」


 ロンガは彼女に手を貸し、半ば抱え上げるようにして屋根の上に登らせた。途中でよろめいた彼女の身体を慌てて支えた。サテリットが礼を言って、最近少し体力が落ちたみたい、と苦笑してみせる。


「アンはどうした?」


 からかいを込めてロンガが問いかけると、彼女、サテリットは僅かに頬を染めてから「明日は早いからって寝たわ」と答えた。サテリットがアンクルの相方(パサジェ)であるのみならず、個人的かつ私的なパートナー、すなわち恋人であることは第43宿舎の人間なら誰もが知っていることだ。人間を管理生産するラピスにおいて、彼らの関係性は当然褒められたことではない。ないが、他の住人と同様、ロンガは密かに2人を祝福していた。


「それより、今夜も色々聞きたいことがある」


 サテリットは腰を下ろして、好奇心で満ちあふれた顔をロンガに向けた。深い泉を思わせるグリーンの瞳が、射貫くようにまっすぐに据えられていた。


 2年前、この家に来て間もない頃、同じように屋根の上でサテリットと出会った。


 当時は不眠がひどく、硬い寝台でじっと目を閉じていると、夢の代わりに嫌な記憶がいくつも思い出された。痩せこけたあの人の鎖骨、首を絞められた感触、顔の横10センチで弾けた銃弾、抱えた冷たく重たい身体。結果として死ぬこともなく逃げおおせたとはいえ、あの時もっと違う行動を取っていれば、という思考が無限に増幅して頭を内側から叩いた。


 耐えられなくなるとロンガは深夜の部屋を抜け出して、屋根で夜風に当たった。

 数日に一回の頻度でそういう夜があったが、ある夜、バルコニーに出たロンガは室内で外を眺めていたサテリットと目が合った。曖昧に事情をごまかしながら、眠れないときは屋根で夜空を眺めると決めているんだと語ると、サテリットの目が輝いた。


 私も登りたい。

 ねえ、手伝ってもらえないかな?


 彼女は左足が少々不自由で、いつも杖を使っている。万が一彼女が転落したらという心配がよぎったが、何時になく熱心な顔をするサテリットに根負けしてロンガは彼女を屋根に引き上げた。


 その夜から、頻度にして週に一度ほど、皆が寝静まった深夜を見定めて2人は屋根の上に登った。サテリットの身体を心配するアンクルに知られれば、止められると分かりきっていたので、必然的に秘密の会合になった。


 サテリットは話していて面白い相手だったが、ロンガが決定的に興味を持ったのは、彼女がバレンシア唯一の公立図書館で司書をしている点だった。足が不自由な彼女に本の整理は難しいらしく、蔵書のリストを作ったり貸し出し手続きをするのが主な業務だと聞いた。どんな本があるんだ? どうやって分類する? 初めの頃はひたすらロンガの方が聞いていて、サテリットはそれに答えていた。


 ある夜それが逆転した。


 その日もまた満月だった。いつも通り質問に答えていたサテリットは、ふと空に目をやって「今日の月は綺麗な円だね」と呟いた。


「私、月が好きなんだ。衛星(サテリット)って、私の名前でもあるし」

「確かに」

「――でもロンガには負けるかな」


 ロンガは口をつぐみ、しばらくその意味を考えた。だが答えにたどり着く前に、サテリットがふふ、と照れたような笑みを浮かべた。


「かま掛けるの下手だね、私。……知ってるんだ、ロンガ、10年前の貴女を」


 息を呑んだロンガに、畳みかけるようにしてサテリットは話し始めた。

 夕焼け色の髪をした男の子といつも一緒にいたよね。貴女はオリーブ色の髪を、こう、二つに分けて耳の後ろで括ってた。10歳になる秋、2人してラ・ロシェルに行って、統一機関の研修生になったって聞いた。バレンシア出身の研修生から2人も幹部候補生が出たって、この秋はけっこう騒ぎになったんだよ。

 流れるような口調で語って、なのに、と顔色を変えた。


「なのにどうしてここにいるの? ねえ、教えて。どうして名前を変えたの?」

「――何かの間違いじゃないか。私はロンガ・バレンシアだ」


 無意識に目を逸らしたロンガに、縋り付くようにサテリットは距離を詰めた。


「図書館の住民簿を見たの。ロンガ・バレンシアっていう名前の人間は過去20年に渡って記録されていない」

「それを知ってどうする」


 ロンガは声量を抑えながらも、焦りが滲むのを隠しきれなかった。


「集会で告発でもするのか? 統一機関に対する心証は悪いからまず追い出されるだろうが――」

「違う。――教えて欲しいの!」


 サテリットの叫び声に驚いたのか、近くの枝から音を立てて鳥が飛び立った。

 ロンガは慌てて口元に指を立て、「抑えて」とささやく。慌てたように口を塞いで頷いたサテリットが、ふうと長い息を吐いて小声で再び話し始めた。


「……私はバレンシアを出られない。この足だし、それにアンが許さない。だから教えて欲しいの。ラ・ロシェルのこととか、統一機関での暮らしとか」


 そう言ってから、元々下がり気味の眉をさらに下げた。


「貴女を追い出そうなんて思ってない。リヤンが哀しむもの。シャルルもアンも、それに私自身も。貴女が正しい出自を言えない理由だって、痛いほど分かるよ。だから、ね? ただ教えて欲しい。それだけ。私が生涯見られないだろうことを沢山見てきた貴女に」


 その日から、週に一度の夜語りは少し変わった。


 2人、屋根に並んで腰を下ろす。夏は夜風に涼みながら、冬は毛布に身を包みながら声を潜めて話す。

 サテリットと話す夜は、かつて図書館でエリザと語らったあの冬によく似ていた。

 未知の世界に向けて無限の好奇心を寄せるサテリットに、ロンガは幼い日の自分を重ねずにはいられなかった。バレンシアでの日常を愛しながらも遠い地に思いを馳せる彼女に、かつてエリザがそうしてくれたように、統一機関で過ごした日々を思い起こしながら一つ一つの質問に丁寧に答えていった。

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