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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅲ いざないの手紙
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chapitre30. 揺れ、動く

 揺動。


 上から下へ、下から上へ絶えず繰り返し、似通(にかよ)っているようで同じものの二度と訪れないうごき。不安定な揺らめき。


 しっかりとして頼もしい地面とは真逆の慣れない感触に、目を細めて身を任せた。


 揺るぎなく揺らぐ力に身を任せれば、川を流れる水と一緒になって、なにかを考える必要など最初からなかったかのように、自分の身体ごと全て忘れてしまえるような気がした。


 溺れたい。

 流されたい。


 そうすれば――


 *


 水面から顔を出した岩に船がぶつかる、がくんという衝撃でリュンヌは我に返った。


 木製の船は少し傾いたが、転覆することはなく進路を微調整してまた下流を目指した。振り返ると、岩を覆う植生の、側面の一部だけが削ぎ取られたように()げていた。たった一度の衝突でそうなったとは思えないから、おそらく川底の地形かあるいは水流のために、船がぶつかりやすい場所なのだろう。


 面白い発見を伝えようとして、伝えるべき相手の不在を思い知る。


 小船の半分以上を占有する直方体の棺に、そっと手を触れてうつむいた。

 顔に掛かる髪を払おうとして、ヴェールに爪先を引っ掛けてしまう。その勢いで花冠が外れ、水面に落ちて一足先に流れてしまった。息を呑んだが、もうラ・ロシェルの街並みは遥か後方に遠ざかっている。誰も、見咎める者はいないだろう。そう結論づけたリュンヌは、流れていく色とりどりな花を静かに見送った。視界を狭めるヴェールも外してしまう。ずっと一定の強さと方向を保って吹いている風が髪をなびかせた。


 季節はすっかり秋になっているのだと感じさせる冷たさだった。


 死者の見送り人、最後の友人(デルニエ・アミ)の正装は膝下から靴までが露出していて寒い。ただでさえスカートという服装に縁がないリュンヌは、その冷たさもさることながら内腿の皮膚が直に触れ合う感覚に慣れず、そわそわと足を動かした。


 悲しいという気持ちは、まだ浮かんでこなかった。こんなに自分の心を遠くに感じたのは初めてのことだった。身近にいた彼ほどではないが、リュンヌにも喜怒哀楽の感情があったはずだ。他者と心が通じ合ったことに喜び、理不尽な仕打ちに怒り、誰かの不幸に悲しみ、本の世界を楽しんだ。


 まるで、棺の中に眠る彼がリュンヌの感情ごと全て持っていったような。

 そんな想像をして、実に下らないな、と思った。


 しばらく眠った。


 波に揺られて眠るのは不快ではなかった。船揺れは、人によっては嘔吐感や頭痛を抱かせるらしいが、そのどちらもリュンヌには訪れなかった。


 再び目を覚ました。

 見える景色は大差なかったが、少し川幅が広がった気がした。棺に手を当ててみた。ドアをノックするときのようにコツコツと叩いてみた。もちろん、誰の返事もなかった。なのにもっと強く叩いてみた。ただ拳が痛くなっただけ。馬鹿みたいだ。


 彼の顔を見たくなって、リュンヌは棺の蓋に付けられた留め金を外してみた。存外簡単な仕事だった。全部で六つ、長辺に二つと短辺に一つずつ、取り付けられた留め金を時計回りに外していった。


 棺の蓋を持ち上げた。

 花の強い芳香の真ん中に彼がいた。


 リュンヌと同じ、麻のひとつなぎの服を着せられて手を組んでいる。右耳に付けていた金色のイヤリングは外されている。どのみち曇天の下では大して煌めかないだろう。明るい色の頭髪には櫛を通されて、いつもより少しつやがあるように見えた。


 ――ソレイユ・バレンシアは、今朝をもって研修生名簿から消えた。


 ラピスの規則に従って迅速に葬送の支度が成され、彼の死亡判定がなされてから六時間後である正午、相方(パサジェ)であったリュンヌ・バレンシアを最後の友人(デルニエ・アミ)として葬送の船が出された。ソレイユ・バレンシア殺害に関わったとして、カノン・スーチェンに拘束された元開発部ラム・サン・パウロは当該部局を通じて罰則を与えられる予定である。また、同日黎明に発生した警報の原因は不明であるが、政治部カシェ・ハイデラバード氏は状態の収束を宣言しているとのこと――


 水晶端末(クリステミナ)で投影した記事を、リュンヌは途中まで読んで閉じた。

 今さらムシュ・ラムの待遇がどうなろうが、カシェの目論見が成功しようがしまいがどうでもいいように思われた。色とりどりな花の中で眠る彼の、長い睫毛に縁取られた瞳が二度と開かれないのなら、何が起きたって無意味だ。


 リュンヌの世界に意味をくれていたのは、いつも彼だった。


 もちろんリュンヌが自分自身の意思に基づいてものを考えたり、意見を決めたことがないわけではない。だけど、自分より遥かに豊富で鮮やかなソレイユの感情は、常にその一部がリュンヌにも流れ込んでおり、リュンヌはそれを消化して自身の感性の中に取り込んでいた。19年の人生のなかで、いや物心ついてからで言えばもう少し短いが、常に流入と同化のプロセスを繰り返した。

 もちろんソレイユのなかでも似たようなことが起きていただろう。彼は彼なりにリュンヌの思考や発想をトレースし、反発したり納得したりしながら受け入れたはずだ。


 だから、多少の誇張表現を許せば、彼は彼女であり、彼女は彼だった。


 自分自身を失う喪失感と衝撃を味わったのに、まだ五体満足に息をしている矛盾。混ざり合って灰色になる心象風景のなかで、ぼんやり浮かんでいるリュンヌには足がない。満身創痍だ。心は死んでしまったようなものだ。これ以上歩く余力なんてない。


 それでも彼はリュンヌに、とっておきの靴をくれたのだ。


 自分の命と引き換えに、ラピスの外へ逃げ出す切符を用意した。彼のみならず、リュンヌの友人カノンがその作戦に関与していた。死者の弔いを最優先事項とするラピスの慣習を利用して、あらゆるプロセスに一時中断を言い渡し、リュンヌを最後の友人(デルニエ・アミ)としてラ・ロシェル郊外へ送り出す。ラ・ロシェルを出た葬送の船は、川の流れに従って流れていく途中、リュンヌの故郷バレンシアの近くを通る。バレンシアはラピスの中で栄えているほうではないが、人々は温和だ。彼らを頼れば、細々とではあるが安全な生活を送れるはずだ。


 バレンシアの近くを船が通り過ぎる時間までカノンは計算してくれていた。かつてリュンヌが、アルシュに対してやったように、幹部候補生として捧げ物を持ってきたカノンがぼそりと教えてくれたのだ。その情報によれば、あと三十分もしないうちに船は目印にたどりつき、リュンヌは船を下りないといけなかった。


 リュンヌはカノンが持ってきた捧げ物の包みを開く。中には、保存の利く食物と一緒にリュンヌの靴があった。同じようにアルシュの――彼女は死んだ彼女の相方(パサジェ)の補欠として幹部候補生に繰り上がったそうだ――持ってきた包みにはリュンヌの服が畳んで入れられていた。一緒に入れられていた見慣れた服は、一瞥し、それ以上は見ないようにして包みに入れ直した。

 船の上で麻の服を脱ぎ、着慣れた服装を身につける。今朝方の騒動でほつれたり破れたりした部分は、全てではないが繕われていた。


 服を着るということは、船を下りるということ。

 つまり、ソレイユに別れを告げるということだった。


 このまま棺と共に水底へ沈んでしまうのも悪くない選択ではあったけれど、アルシュが、カノンが、そしてソレイユ自身がリュンヌの生存を願い、そのために動いたことを思うと、リュンヌの衝動ひとつで全てをふいにするのは少し勿体なく思った。


 靴を履き、最後にいつも付けているイヤリングをつけた。

 昨日まではイヤリングを付ける前に、ソレイユが髪を編んでくれていたが、今となっては編む髪も、編んでくれる人も失われた。リュンヌは両耳を覆うように伸びた、切れ損ないの二房を手で(もてあそ)んだ。

 ふと思い付いて、毛束の先の方を掴んで三つ編みにしてみると、思っていたよりも簡単にできた。そこで、いったん編んだ髪をほどき、今度は根元から全て三つ編みにしてみた。二本の三つ編みを後頭部で一緒にして、アルシュのくれた包みに入っていたゴムで結ぶ。船から身を乗り出して水面を見ると、綺麗に髪をまとめた自分の姿が水鏡に映っていた。


「なんだ、私でも出来るんじゃないか……」


 思わず呟いた言葉が自分の耳に届くと、突然視界が歪んだ。

 秋風に冷やされた頬を、何筋も涙が伝って落ちていく。ぼたぼたと落ちる涙が、棺に入れられた花弁を、彼の頬を濡らしていく。

 自分の流した涙に引きよせられるように、リュンヌはソレイユの胸に顔を寄せた。


 リュンヌは嗚咽しなかった。身体は指先まで凍りついたように動かず、ただ、涙だけが両目からひたすらに流れ続けた。色鮮やかな花の放つ甘い香りと、体温の失せた胸の感触を感じて目を閉じた。


 穏やかで単調な揺動に、次第に意識が遠のいた。


 今眠ってしまってはカノンの教えてくれた目標地点を通り過ぎてしまう。意識を手放そうとする自分に、リュンヌは懸命に言い聞かせたが、精神的にも体力的にも限界が近かった。涙を含んで重くなったとでも言うように落ちていく目蓋と、もう少し友人と一緒にいたいという甘えた気持ちが相まって、心地よい振動の中で眠りに落ちた。


 揺動。


 身体に響く心地よいリズム。揺りかごに乗ったらこんな感じだろうか、と想像する。


 揺りかごというものはラピスに存在しない。にも関わらずリュンヌがその名前を知っているのは、あの暖かい思い出のひと、エリザが教えてくれたからだ。彼女にとっても時代遅れなものだったそうだが、昔の人間は幼少の暖かな思い出の比喩として、よくその名前を出したそうだ。


 やがて、そんな思考も出来ないほど深い眠りに落ちた。


 そして夢を見た。


 冷たい水のなかに揺蕩う、くすんだ色の髪の毛。視界を煩わしく妨げるそれが、自分のものであるとすぐには気付かない。見上げる水面には色とりどりの花が浮かび、いくつかは壊れて花弁に別れていた。吐き出した息は空気の塊になって、光の差す方向に昇っていった。

 見開いた目が痛かったので閉じた。息を吐くごとに身体は重くなり、水中を浮遊していた身体はやがて下に落ちていった。息苦しさで喉がつまるのを、他人事のように遠くに感じた。


 暗闇と静寂の中でリュンヌが思考を止めたとき、遠慮のない強い力がその身体を引きずり上げた。光が、花の浮かぶ水面がぐんぐんと近づき、そして圏界面をすり抜ける。


 空気に肌を晒したリュンヌは、ぼやけた視界のなかに幻像を見た。


 太陽の名前を冠したあの幼馴染に、良く似た幻像を。そのオレンジ色の髪は濡れて額に貼り付き、赤みの強い瞳がはっきりと見開かれてリュンヌの顔を見ていた。濡れた服の貼り付いた腕は、今しがた力強くリュンヌを引き上げた腕だった。


 その口元が大きく動いて、何か叫んでいるようだったが、声は聞こえなかった。


 仕方ない。

 幻なのだから。


 彼の形をした幻像は、リュンヌを半ば引きずるようにして水の中を移動していき、やがて細かい砂の敷き詰められた場所にたどり着くと、肩で大きく息をした。リュンヌは熱っぽい頭でその横顔を見つめていたが、すぐにまた気を失った。


 気がつくと、無人の砂地で一人横たわっていた。


 雲に覆われていた空は、綺麗に晴れきった。太陽の傾きを見るに、昼はだいぶ過ぎたようだ。身体の冷えを感じたので服に目をやると、隅々まで濡れた上に砂まみれで、とても綺麗と言えるものではない。


 リュンヌは粟立つ二の腕を擦りながら身を起こした。自分はなぜ、こんな場所に眠っていたのか。リュンヌは理由を考えたが、頭は錆び付いたように動かなかった。数十秒を追憶に、正確には追憶しようとする努力に費やしたすえ諦めた。

 それから、眼前に広がる光景の意味を考えた。見覚えこそないが、知らないものではなかった。今度は数秒も要さずに答えをたたき出した。


 海だ。


 塩の溶解した巨大な水溜まりは、ラピスの中にこそ見られないが、惑星にとっては水の循環を駆動する大切なパーツだ。リュンヌは立ち上がり、ふらふらと導かれるように波打ち際へ歩いて行った。波に洗われた砂がこすれ合い、心地よい音を立てている。眼前に白藍の海が広がり、その彼方には定規で引いたようにまっすぐな水平線が伸びている。


 生まれて初めて見る光景に、リュンヌはしばらく目を奪われていた。


 ふと、遠方に投げかけた視界のなかに奇妙なものが映り込んだ。淡色の景色に、点々と鮮やかな色が落ちている。パン生地に巣くう黴にも似ていて、どことなく異様だったが、目を凝らせばそれが水面に浮かぶ花々であることが分かった。


 なぜ、あんな場所に花が?


 無意識にそう問うた瞬間に、リュンヌは自分がここにいる理由を思い出した。いくつもの記憶が、映像や音あるいは文字の形をとって頭に雪崩れ込む。リュンヌはよろめいて波打ち際に屈み込んだ。ぴしぴしと音を立てて、細かいひびが繋がっていくように、断片的な記憶が一連のストーリーとして脳内に再構成された。


 生まれて以来の相方だった、ソレイユ・バレンシアが死んだ。


 だが、幻覚だろうか。

 それは夢だったのだろうか。


 崩れるべくして作られた葬送の船が崩れ、水中に放り出されたリュンヌを、彼の腕が引きずり上げたのは――本当に、リュンヌの祈りが作りだした幻なのか?


 万に一つ。

 いや、億に一つでも、そうでない可能性があるのなら。


 リュンヌは弾かれたように立ち上がり、砂浜に足を取られてよろめきつつも走り出した。向かう先は、自分が目覚めた場所。そこに、まるで誰かが意図的に並べたように、綺麗に整列している布包みがあった。捧げ物として船に載せられた包みの中身を、震える指でひとつひとつ確かめていく。


 ここに彼がいた痕跡を探そうとした。


 だが、荷物を洗いざらい確かめ、それだけでは飽き足らず周囲を見渡しても、ソレイユが残したメッセージ、あるいは彼が思いがけず折った枝や踏み荒らした草むらすら見つけられなかった。


 それでもリュンヌは、今度こそ、声を殺しきれず嗚咽しながら泣いた。


 たまらず顔を覆った指の隙間から、大粒の雫がいくつも伝って砂浜を濡らした。涙は海水と混じり合い、境目を失って広がっていく。全身が燃え上がるほどに熱い。言葉にならない声は叫びに近く、圧力を持って体内を押し広げんとする感情を吐き出すように、涙と一体になって溢れ、渦巻き、流れていった。

 その巨大な感情に名前を付けるならば、悲しみよりは喜びのほうが、どちらかと言えば近かった。


 ひとつだけ、空の包みが残されていた。


 そこにあるはずだった中身が何か、リュンヌはよく覚えていた。ちらりと見て、即座に包みに戻した、いつも彼が着ていた服と靴だ。襟のないジャケットとシャツ、機能性と動きやすさに優れたショート丈のボトムス、臙脂のネクタイにしっかりとした革製の紐靴。忽然(こつぜん)と消え失せたかのように、彼の服だけがなくなっていた。感情の波が少し引き、リュンヌは荒れた息を整えながら、空になった包みへ、何度も確かめるように視線を滑らせた。


 自分に、あるいは誰でもない誰かに問いかける。


 ――良いのだろうか。


 ソレイユが自分の服を持ってどこかへ向かったと、彼はまだ生きていると、そんな都合の良い夢を見ても。


 ――許されるのか。


 こんな頼りない物証ひとつで、一度たしかに心臓が止まったはずの人間が生き返るなんて、ありえない奇跡を感じても。


 ――そうだ、これは夢の続きではないだろうか。


 ソレイユの幻影が彼女の身体を水中から引きずり上げたのも、今目覚めている彼女も夢の中の産物で、現実のリュンヌは大量の海水を飲み込み、今まさに窒息しようとしている寸前なのかもしれない。


 腫れた目で空を見上げたが、当然、誰の答えもないまま、声だけが頭の中に反響していた。良いのだろうか、許されるのか、ここは現実なのか、そんな問いかけに何の意味もないことはリュンヌが一番分かっていた。


 唯一できるのは、信じたものを信じることだけ。


 *


 ぬかるんだ道に足を踏み出した。背負った包みを落とさないよう気をつけながら、腰の高さほどまで伸びた草をかき分ける。一歩ずつ、慎重に、リュンヌは川の上流に向かって旅を始めた。


 霞んだ遥か遠方に、統一機関の三本の塔が見えた気がした。



 IV いざないの手紙 了

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