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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅲ いざないの手紙
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chapitre29. 夜明け

「カシェ・ハイデラバードに会ったのか?」


 恐ろしい形相で問いかけるムシュ・ラムの声は掠れ、呼吸に乱れが見えた。不確かな灯りに浮かび上がる顔からは汗が滴っていた。リュンヌのタイを掴み上げた手は小刻みに震えており、ムシュ・ラムの体力がかなり消耗しているのが見て取れた。


 リュンヌはムシュ・ラムの手を払いのけ、姿勢を立て直した。

 手が届かない程度の距離を開けて、部屋の扉側に陣取る。


 何かあれば逃げ出せるよう、両足を斜めに開いてムシュ・ラムと対峙した。彼に対し警戒が必要なのかすら分からなかったが、未明の暗さも相まってか、その姿は異様に恐ろしく見えた。力で敵わない相手ではないとは分かってはいるのだが。


 リュンヌは長い息を吐き、呼吸を整えることで心を静めようとした。


 ムシュ・ラムはやけに緩慢な動作で、払いのけられた右手に目をやった。予め仕掛けられた機械かと錯覚するような無機質な動きを目にして、背筋に震えが走り抜ける。薄く開かれた口から起伏のない声が発せられる。


「リュンヌ。答えなさい」

「その……はい。会いました」


 戸惑いながらリュンヌは正直に答えた。おそらく、カシェとムシュ・ラムの間にある、ぴんと張られた糸のような緊張関係に自分は踏み込んでしまった。リュンヌとカシェが接触したことは、彼にとってどんな意味を持つのだろうか。


 リュンヌの返答を聞いたムシュ・ラムは、「そうか」と平坦な声で言って、おもむろに拳銃を抜いた。向けられた銃口を、リュンヌは冷静に見つめる。


「どこまで聞いた? 正直に」


 ――本気で撃つわけがない、とどこか高をくくっていた。

 いくらムシュ・ラムだって、ラピスの最も重たい掟をそう簡単に破るわけがない。


 だからこそ、リュンヌは口にしてしまった。


 後から思えば軽率だったと言われても仕方がなかった。飽和した情報量や、地下世界から解放された安堵、非日常の空間が巧妙に手を組んで、リュンヌの冷静な判断力を奪っていた。


「――貴方を殺せと、そう言われました」


 そう言った瞬間、ムシュ・ラムの顔色が変わった。


 すぐ横の壁が弾けた。

 同時に、鼓膜を激しく震わせる衝撃。


 壁に使われた塗料が破片になって飛び散り、幾つかが頬に当たって落ちた。火薬の焦げた匂いが鼻をつく。ムシュ・ラムはがたがたと身体を震わせながら、今まさに引き金を引いた彼の指を呆然と見ていた。


 いま、撃ったのか?

 衝撃に背けた顔をゆっくりと正面に戻す。


 確かにムシュ・ラムはリュンヌに向けて発砲した。それも、下手をすればリュンヌを殺しかねない距離に撃った。

 脂汗が背中を辿る。

 本当に殺されるかもしれない。死の恐怖は味わったことのない冷たさを伴って、リュンヌの心臓に迫っていった。


「あ、ああ……。くそっ」


 対するムシュ・ラムにも尋常でない動揺が見えた。


 覚束ない手つきで拳銃をがたがたと取り回してマガジンを交換しようとするが、指の震えで弾かれて取り落とす。苛立ったように拳銃を床に捨て、何か長いものを取り出した。


 僅かな外光を跳ね返す、ぎらついた金属光沢。

 恐怖で喉が震えた。


 ムシュ・ラムはナイフを片手に、立ちすくむリュンヌに一歩また一歩と迫ってきた。明らかに正常な精神を失っている。制御を欠いた表情には、普段の冷静さなど見る影もなく、追い詰められた獣のような瞳をしていた。


「そうか。初めから、初めから殺しておくべきだった!」

「ま、待ってください!」


 リュンヌは震える声を張り上げた。


「貴方が私たちをマダム・カシェから守ってくれていた、そうなのでしょう?」


 賭けに近い発言だった。


 だが、彼女の言葉を聞いて確かにムシュ・ラムの表情が揺らいだ。その変化に勢いづけられて、リュンヌは萎みかけの勇気を振り絞ってさらに畳みかける。


「彼女のために私や、自分自身の命を差し出すのは間違いだと考えたんでしょう? 貴方も! 同じです! だって私たちは、その」


 家族、という覚えたばかりの言葉が口から零れかけたが、リュンヌはぐっと飲み込む。代わりになる、ありふれた表現を探した。


「……味方。味方になれるはずです! (こころざ)す方向は同じ、なんですから」


 自分でも見苦しいと感じるほどの命乞いだったが、ムシュ・ラムにはどうにか届いたようだった。年齢以上に老いて見える、深いしわの刻まれた顔に、ふと少年のように純朴な表情が宿る。見開いたまぶたの間に光が差し込み、どん底の暗闇を宿していた瞳が輝いた。


「お前は、違うのか?」


 疑問、あるいは無垢な驚き。

 それは一切の邪心を感じさせない、単純な表情だった。


「あの女が差し向けた無数の手たちと、違うと、そう言うのか?」


 彼の言葉と同時だった。


 激しい音と共に、吹き飛ばんばかりの勢いで扉が開いた。


 突然明るくなった視界にリュンヌは目を細める。次の瞬間、ムシュ・ラムが右肩を押さえて崩れ落ちた。がっ、という息混じりの呻きが聞こえると共に、カンと硬い音をたててナイフが床に跳ねた。


 リュンヌは強い力で肩を引かれ、引きずるように光の下へと連れ出された。


 壁に背中が叩きつけられ、肺を押されて空気を吐く。彼女の身体を守るように立ちはだかった、見慣れた後ろ姿が彼だと認識するのに数秒かかった。


 右手に持っていた鞭を、左手に持ち替えて代わりに銃を構える。腕を広げてリュンヌを庇った、逞しくはないが、誰よりも頼もしい親友の後ろ姿。光を受けてはためくオレンジ色の髪が、リュンヌの見開いた目に焼き付いた。


 一抹の安堵ののち、リュンヌは今の状況の悪さに気付いた。


「待て、今は庇うな!」

「なんて?」


 浅い角度で振り向いたソレイユが、訝しげに眉をひそめる。リュンヌの言葉が聞こえなかった、というよりは理解できないという表情だ。


 その横顔の向こうで、ムシュ・ラムがゆっくりと立ち上がる。鞭で穿たれた傷だろうか、血の滲む右肩を片手で抑えていた。確かに浮かんでいたはずの穏やかな表情が、今は真っ黒に塗りつぶされていた。


「――余計な知恵を付けたな、リュンヌ。よもや味方を装って始末しようとは」

「違う、だから……ソル、銃を下ろしてくれ。敵対するな」

「あれが敵じゃないって言うの? なんで、どうしたの? ルナ、おかしいよ、そんなにボロボロになっといて」


 ソレイユは誰が見ても分かるほどの怒りを迸らせる。

 吊り上げられた細い眉を見ながら、ついに爆発してしまった、と感じた。


 彼のムシュ・ラムに対する怒りは臨界に近かった。リュンヌと違って彼は十年もの間、それを最も近しいはずのリュンヌにすら打ち明けずに保ち続けていたのだ。外面で明るくふるまえば、かえって内心の闇は色を濃くしただろう。


 塔に幽閉されて以降、二人は頻繁に衝突していたが、それは飛び散る火花のようなもので、本心によるぶつかり合いは今までずっと回避されてきたのだ。


 ソレイユは強硬な姿勢を崩さず、撃鉄を起こして引き金に指を掛けた。だが、その指が細かく震えている。間違っても引き金を引かないように細心の注意を払っているのが分かった。ムシュ・ラムにもきっと見抜かれているだろう。他人に向けて銃を撃つというのは、本来、それだけ異常な行為なのだ。


 腕を庇うように前屈みに立ち上がったムシュ・ラムが、ふと廊下の方に目をやった。


 リュンヌがその視線を追うと、ソレイユの後を追ってきたらしいアルシュと目が合った。ムシュ・ラムと相対するソレイユ、そして彼を止めようとするリュンヌを目にして、状況を掴みかねたのか眉をひそめる。


「リュンヌ、無事? では、ないようだけど……」


 久しぶりに見る友人は、半月の間に随分と芯の強い顔立ちになっていた。だがその頼もしさも、今に限っては逆効果だ。ムシュ・ラムを追い詰めて逆上させるだけでしかない。


 ムシュ・ラムが嘲るような笑顔を浮かべた。


 嘲りの対象はリュンヌたちか、

 あるいは自分か、

 あるいは誰か。


「――ありがとう、リュンヌ・バレンシア。思い出したよ。肉体的な命を奪うのはラピスの掟上もっとも愚かな行いだ。ただ、殺さずとも生かさず、厳重に閉じ込めてあれば災いは起きない」


 ひくつく唇でそう呟き、次の瞬間には背後から、少し変わった銃のようなものを取り出した。ムシュ・ラムは右手をアルシュに向けて伸ばし、躊躇なく引き金を引いた。


 アルシュの首筋にごく小さい穴が開き、血が滲みだした。傷口に触れようとした手が途中で止まり、彼女は驚いた顔のままゆっくりと床に崩れ落ちる。倒れてからもしばらくは手が何かを探るように動いていたが、目蓋がどんどんと落ちていき、十秒も立たないうちに彼女は目を閉じて動かなくなった。


「アルシュ!」

「――叫ぶな。ただの麻酔銃だ」


 彼女に目を奪われていたリュンヌは、銃口がこちらに向いているとようやく気付く。


 直後、軽い発砲音が聞こえた。


 それより一瞬だけ早くソレイユが身体を翻し、膝をついていたリュンヌに被さる。彼の白い首筋に目の前で小さな穴が開き、血が溢れた。みるみるうちにソレイユの手足から力が抜けていく。リュンヌは、バランスを失ってこちらに倒れ込んだ彼の身体を支えた。


 リュンヌの肩に預けられた彼の顔から、ルナ、と小さく呼ぶ声が聞こえた。


「ごめんね」


 謝罪の真意を告げないまま、彼は口を閉ざす。直後にソレイユの身体が強ばってびくりと跳ね、数秒の間小さく痙攣した。抱きかかえた身体から生々しい震えを直に感じ取り、悔しさと怒りがない交ぜになった。自分の口から、奥歯が強く擦れ合う音が聞こえる。


 その身体が完全に動かなくなると、途端にずしりと体重が掛かる。リュンヌは重たくのしかかってくるソレイユの身体を全身で支えて、ふと違和感に気付いた。


 嫌な予感がした。垂れ下がる前髪をかき上げて、ソレイユの顔を見つめる。


 閉ざされた目蓋。頬は青白く冷たい。唇は力なく弛緩している。石像のように重たい身体は完全に静まりかえっている。


 ――まさか。

 床にだらりと垂れた右手首を掴んだ。


 脈がない。


 胸元は全く上下していない。

 息をしていない。


 生きている人間特有の暖かさがない。


 ない。

 ()()が生きていることを示す証拠が、何もない。


「……何を、している?」


 リュンヌの異様な行動を目にして、却って冷静さを取り戻したらしいムシュ・ラムが訝しげに尋ねた。


「麻酔薬と言いましたか。……本当に?」

「なに?」


 頭が痺れているようだった。


 何かが、

 そう、感情が足りない。


 悲哀。

 それは、どういう感覚だったろうか?


 本来なら抱くべき感情をどこかに忘れたまま、リュンヌは表情の欠落した顔をムシュ・ラムに向けた。淡泊な声で告げる。


「生きてない」

「そんな筈が――」


 言いかけたムシュ・ラムがはっと顔を上げる。彼の言葉尻に重なって、複数の足音が近づいてきた。先頭を歩く足音はやや不規則で、靴の音に混じって杖をつく音が聞こえる。足音は明確にこちらに向かっており、リュンヌたちのすぐ近くまでやってきて静止した。


 聞き覚えのある声が名乗る。


「開発部第七課及び教育特編課統率長、ラム・サン・パウロ殿。こちらは軍部警防団第四隊隊長カノン・スーチェンです。C-17-28にて発報された警報に基づき昇降装置の使用を申請したいのですが……」


 リュンヌはゆっくりと顔を上げる。

 目が合うと、杖をついたカノンは僅かに口の端を吊り上げた。


 そして、即座に表情を変える。

 何かの役を演じているかのような大仰な身振りで、倒れているアルシュ、そしてリュンヌに抱えられたソレイユを順に確認したのち、手に携帯型麻酔銃を持ったままのムシュ・ラムに視線をやった。カノンは冷たくも余裕を含んだ声で、ムシュ・ラムに問いかける。


「少し事情が変わりましたね。その者たちは死んでいるのですか?」

「そんなはずがない!」


 ムシュ・ラムは青ざめた顔を振った。


「眠っているだけだ」

「そうですか。まあ、調べればすぐ分かることですが」


 カノンの言葉と共に、背後から武装した隊員が二人進み出てそれぞれ倒れているアルシュとソレイユに歩み寄った。彼はリュンヌに覆い被さるように倒れているソレイユの身体を引き上げ、簡易的なバイタルチェックを施したようだ。

 数十秒もしないうちに彼らはカノンに耳打ちをし、隊列に戻る。報告を受けたカノンは表情を崩さないまま、ムシュ・ラムに向かって両手を広げて見せた。


「そちらの幹部候補生、ソレイユ・バレンシア。亡くなっているそうですよ」

「馬鹿な。何かの、冗談だろう……」


 ソレイユよりもよほど死人然とした青ざめた顔で、ムシュ・ラムは膝をついた。ムシュ・ラムの痩せた背中に、カノンは落ち着いた声音で語りかける。決して大声ではないが、その声は静かな廊下に十分すぎるほどよく響いた。


「人の手によって人が殺される、それは何よりも重大な罪である。もしも殺人がラピス内で発生したならば、犯人の確保及び死者の処置は最優先事項となり、あらゆる任務を中断してでも遂行する必要がある」


 リュンヌはその文章を知っている。

 ラピスの掟である、「祖の言葉」の一節だ。


 暗唱を終えたのち、カノンは薄く唇を開いた。


「――警報の対応は後々に。ラム・サン・パウロ殿、貴方を拘束します」


 その後の処置はあっという間だった。


 ムシュ・ラムが拘束されて連れて行かれ、アルシュとソレイユはそれぞれ別の場所に運ばれていった。目の前で起きる一連のできごとを、まるで透明な板を隔てているかのようにリュンヌは呆然と眺めていた。やがてリュンヌの怪我に手当をしていた隊員もいなくなり、ひとり最後まで残っていたカノンがリュンヌの顔を覗き込んだ。


「なあ、リュンヌ。辛いだろうけどあんたは……ソレイユ君の相方(パサジェ)として、葬送に出ないといけない。立てるか?」


 リュンヌはゆっくりと面を向けた。


 こちらを覗き込むカノンの顔越しに、朝の光が見える。差し出された手に縋り、リュンヌは立ち上がる。足がまるで自分のものではないような違和感があった。

 何かを言おうとした喉が詰まる。


 声が出なかった。

 全身の神経が焼き切れてしまったのかと感じるほど、身体の制御が効かなくなっていた。


「リュンヌ。よく見て」


 カノンは開いた方の手で自分の口元を指さす。その口元がゆっくり動いて、言葉を紡ぎ始めた。いくつかの文章を話し終えると、「分かったか?」と尋ねる。リュンヌが僅かに顔を上下させたのを確認すると、カノンは「じゃあ、ついて来てくれ」と言って歩き出した。


 朝陽が瞳に刺さる。


 目が締め付けられるように痛んだが、涙は出なかった。

 吐き気がこみ上げたが、何も吐けなかった。


 何一つ外に出せないまま、体内で膨れ上がる混乱をどの感情にも分類できず、ただ太陽の眩しさを感じていた。

 

『葬送の船に乗って、そのまま逃げるんだ』

『そうすれば、リュンヌは安全に外へ逃がせる。それが彼の選択なんだ』

『君は生きるんだ。そのために、全てがあったんだ』


 歩き出そうとしたリュンヌは、ふと足元に革の袋が落ちているのを見つけた。手のひらに収まるほどの、空っぽの袋だ。リュンヌは何となくそれを拾ったが、とくに意味があるとも思えず、そのまま床に戻した。

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