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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅲ いざないの手紙
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chapitre28. 幻中の叡知

 ――何だ?


 黒い靄に浸食されつつあった視界が、まばゆい光に包まれた。


 リュンヌの目の前にはカシェがいたはずだが、意識が朦朧とした状況ではそれを顔として認識すらできなかった。もはや目に映る景色は意味を持たないただの映像だった。それが真っ白の一色に塗りつぶされた理由を、リュンヌはぼんやりと考えていた。


 脳を流れる血液が全て水飴にでも変わってしまったようだ。思考の展開速度が普段と比べて何十倍も遅く感じられた。リュンヌの鈍い思考に対して、周囲の状況は恐ろしくめまぐるしく変化した。


 人々の動揺。

 狂乱。


 首に掛けられていた手の力は消え失せ、リュンヌの身体は手摺りを越えて落下する。宇宙に投げ出された訳でもないのに上下の感覚を失い、手足を振り子みたいに揺らしながら宙に舞った。

 

 ――何だ?


 頭から落下したリュンヌの身体は、床にぶつかる直前で誰かに支えられた。抱きとめる、と言うほど丁寧なものではなかった。何者かはリュンヌの背中に強い衝撃を与え、くの字に曲がった身体に床よりは多少柔らかい衝撃が走った。一瞬呼吸が止まり、空気の塊が口から吐き出される。不安定なそこから転げ落ち、身体の側面が床に叩きつけられる。

 冷たい床が頬に触れた。ぼんやりしていた意識と身体が嫌でも引き寄せられる。


 次第に思考が明瞭になった。

 これは、幻像(ファントム)だ。


 かつて塔の上の部屋や、葬送の広場でリュンヌを飲み込んだ、あの得体の知れない空間。とはいえ、何度かの遭遇を経て多少性質が分かってきた。


 幻像(ファントム)は水晶を核にして発生する異空間だ。

 白い光が前触れもなく弾け、一定半径のなかにいる人間を飲み込む。彼らに過去や未来の景色を見せる。であれば――すぐに白い光は薄れ、違う時間の景色が見える、そのはず。


 リュンヌの想像通り、白色は靄のように薄れて消えていった。周囲をぐるりと取り囲む壁に沿うように立っていたはずの、銃を構えてこちらに向けていた集団は見当たらないが、いなくなったのではない。見えていないだけだ。だが、おそらく彼らも同様に幻像(ファントム)に飲み込まれ、先ほどまで捉えていたはずのリュンヌを見失っているはずだ。


 ようやく理解した。これは「好機」だ。上手く利用すれば、マダム・カシェと、その手の者たちに囲まれた絶体絶命の状況から抜け出せる。この機会を逃す手はない。


 だが、まず。


 いま隣でリュンヌの様子を窺っているこの気配が――敵か味方か、はっきりさせなければ。ステージから落下したリュンヌを放っておけば、十中八九、頭から床に衝突して死んでいただろう。そこをわざわざ助けたのだから味方であると期待したいところだが、とはいえ、油断は許されない。


「誰だ?」


 リュンヌは神経を尖らせながら呼びかけた。

 気を許しかけた心を引き締める。身体を起こし、敵意を感じればすぐ逃げられるように構えた。


 対する気配は凪いで静かだった。

 全く乱れていない声が平坦に応答する。


「無事か。走れるか」


 リュンヌは思わず息を呑んだ。

 名乗りこそしなかったが、聞き間違えるはずもない特徴的な声だった。彼がいるはずの虚空に、恐る恐る手を伸ばした。その手が自分のものではない手に触れる。その皮膚は乾燥して硬く、手のひらは厚かった。


 声はもう一度リュンヌに尋ねる。


「歩けるか」

「……ゼロ、なのか?」

「それは本当の名前ではないが、そうだ」


 声の主――ゼロが頷く気配がした。


 彼はまだ驚いているリュンヌの手首を掴み、立ち上がるように促す。なぜ、カシェの付き人だったはずの彼が自分を助けてくれるのか。おかしな状況だが、リュンヌにとって有利な状況には変わりない。


 リュンヌは満身創痍の身体に鞭打って立ち上がる。

 足に嫌な痛みが走ったが、幸いにも立てないほどの怪我はしていない。ゼロは左手をリュンヌの左手首に、右手を肩に添えて歩き出した。銃を構えた奴らがいるだろう壁際に近づくにつれ、リュンヌの身体は強ばったが、ゼロの手が誘導するままに歩くと、彼が的確に人を避けて動いているのが分かった。

 まるで周囲が見えているかのような正確さにリュンヌは首をひねる。


「なぜ動けるんだ? 周囲が見えないのだろう?」

「見えずとも、推し量る材料は無数にある。音や風、振動に体温。このような閉鎖空間ならば、特に風の動きが顕著だ」

「――うん?」


 ゼロの言っている意味が分からず、リュンヌは間の抜けた言葉を零した。厳密に言えば理屈は分かる。だが言うに易く行うに難い、途方もない集中力と鍛錬を必要とする作業ではないだろうか。


 リュンヌの疑問を感じ取ったのか、ゼロの気配が微妙に変化した。表情を緩めて微笑むような穏やかな変化だった。


「矢は風を切って飛ぶんだ。風を読めなければ、打てない」

「そうか。……記憶を奪われていても、弓の腕前は衰えないのだな」


 彼が記憶操作を受けていることについてはあまり言うべきでないとも思ったが、リュンヌは感慨を口に出さずにいられなかった。ゼロ――その名前はカシェらによって与えられたものであり、本当の名前は別にある彼は、元は弓術でかつてない好成績を収めた研修生だ。幹部候補生に抜擢されるも、ムシュ・ラムに歯向かったために記憶と身分を奪われた。


 それでも弓の腕は未だに確かなようだった。

 リュンヌも、寸分違わぬ正確な射撃を何度か目にしている。多くを奪われて、それでも尚、研修生だった頃の片鱗はまだ残っているのだ。


「弓術は、俺にとっては歩き方を忘れないのと同じだ。――こちらへ」


 賞賛を受けた彼は、少し早口になって答えた。まるで照れ隠しのような反応だ。


 ゼロに誘導され、もと来たのとは異なる扉を潜って部屋の外に出た。

 扉の先には、似たような細長い通路が続いている。促されるまま通路を進むと、着いた先には例の昇降装置があった。ゼロが装置のパネルに手を触れると、僅かに機械音がする。昇降装置の扉が開いたようだった。


 ゼロはリュンヌに、装置の中に入るように促した。


「……私を逃がしていいのか?」


 困惑とともに、彼のいるだろう方向に問いかける。彼はマダム・カシェの付き人をしていた。リュンヌを逃がすような真似をしてただで済むとは思えなかった。


「マダム・カシェの機嫌を損ねた男が撃たれたのを忘れたか? 今すぐ引き返せば、彼女に知られずに済むかもしれないぞ」

「だがそうすれば貴女は死ぬだろう。俺は貴女を逃がしたいんだ」

「なぜ自分の身を挺してまで――」

「俺は」


 リュンヌの言葉を遮って、ゼロはかつてなく強い口調で言った。


「貴女と、それから彼……ああ、何と言っただろうか、夕焼け色の髪をしたあの少年に感謝しているんだ。この程度は、恩返しにもならない」

「ソルの――ソレイユ・バレンシアのことか?」

「ああ。そうだ、その名前だ。思い出した……」

「恩、とは何だ? それに、貴方は――半日に一回記憶処理を受けているのだろう。なぜ彼のことを知っている」


 それは以前、ゼロ自身が言っていたことだ。正午と深夜の十二時に記憶消去を受ける。現在、正確な時刻は分からないがおそらく明け方の5時頃。最後に記憶処理を受けてから今に至るまで、ゼロはソレイユと会っていないはずだ。


「確かに俺は記憶を奪われている」


 彼の抑制された低い声を聞いたときに、リュンヌはようやく気付いた。初めて会ったときよりもずっと、ゼロの口数が増えていることに。人形のように感情のなかった口調が、強い意志を持つ人間のそれに変化していた。


 いつかのソレイユの言葉を思い出した。


『彼が継続的な記憶を持てないこと、それは人格の否定に等しい。ムシュ・ラムは、ゼロ君に機械になれと言ってるんだ』


 記憶を半日ごとに奪われるというのは、半日に一度人格をリセットされることだ。いかに複雑な思考を繰り広げても半日が経てば全て失われる。だから、かつてのゼロには人格も感情も感じなかった。だが今、ゼロの掠れた声が、溢れるほどの喜びに満ちていた。


「――貴方たちは俺に話しかけた。そして、俺に興味を持ち、会話をした。それだけのこと、と言うだろう。だがそんな機会さえ元々の俺にはなかった。いや、古い記憶は未だに奪われたままだから、なかったのだろう、と言うのが正しいが……」


 彼は少し咳き込みながら話した。


「会話というのは……実に複雑なものだ。聞いた言葉に触れ、自分の内面を振り返って答えを探し、適切な言葉を紡ぐ。そこには必ず『自分自身』が介在する。俺は貴方たちとの会話でもって初めて、自分とは何か、なぜここにいるのかを自分自身の意思によって考えた」


 するとどうなったか。

 ゼロは日夜繰り返される記憶処理への耐性を徐々に獲得していったのだという。


「記憶というのもまた、複雑なものだ。おそらく統一機関の技術を持っても完全な消去は不可能で、一面的に抑えているのだろう」

「――そういえば」


 リュンヌにも腑に落ちる点があった。


「私が施されていた記憶処理も、名前ひとつをトリガーとして復元できるほど不安定なものだった」

「ともあれ……俺は貴方たちに深く感謝している。だから」


 ゼロの穏やかだった口調は、一転して厳しい口調になった。


「今すぐ逃げるんだ。リュンヌ」

「でも」


 リュンヌは慌てて彼を引き留めようとした。


「貴方が殺される」

「貴女が俺と共に戻って生き延びる確率よりは、俺がひとりで生き残る確率の方が高い」

「だけど……」


 彼の主張は間違っていない。

 最低限の訓練は積んだとはいえ、丸腰で銃を持った数十人にも及ぶ軍勢を相手に生き延びる自信はなかった。それに対してゼロならば、銃と弓を持っているうえに、リュンヌを逃したことを知られない限りは彼らの味方として扱われる。


 分かってはいても、ゼロを置いて一人逃げることに抵抗があった。


 リュンヌが逡巡していると、通路の方から大きな衝撃音がした。逃げられたことに気付いた追っ手だろうか。思わずリュンヌが身を竦めたのとほぼ同時に、ゼロは彼女を押し倒すように装置に押し込んだ。


 空気が抜ける音がして、ゆっくりと扉が閉まっていく。急いで身体を起こし、リュンヌは扉の向こうにいるだろう彼に呼びかけた。


「ゼロ……!」

「大丈夫だ。行け、いいから」


 そう言って立ち去りかけた気配が、ふと振り返った。


「そうだ。もしも知っていれば、俺の本当の名前を教えてくれないか?」

「貴方は――サジェス・ヴォルシスキーだ」


 リュンヌは引き留めたい気持ちを堪えながら言った。教えてしまえばもう二度と会えないのではないか――そんな嫌な想像を、首を振って追い払う。


叡知(サジェス)か。いい名前だ」


 ゼロ、改めサジェスは愛おしむように自分の名前を口の中で転がした。冷静さと明晰な思考を兼ね備えた彼によく似合った名前だ。(ゼロ)という皮肉じみた名前よりもずっと彼の本質に近い。


「リュンヌ、任せてくれ。追手は誰一人向かわせないから」


 かつての幹部候補生、サジェスは頼もしい声でリュンヌに語りかけた。

 それから、少しだけ声を潜めた。


「……首の傷と、髪。申し訳ないことをした。いつか改めて謝罪する」


 その言葉を幕切れに、装置の扉は閉まったようだ。

 彼の言葉を聞いて、リュンヌは首の後ろに傷を負っていたことを思い出した。恐る恐る、手で探るように触れると、水が染みるようにじわりと痛みが広がった。僅かな血のにおい。後頭部の髪は横一線に切り裂かれ、両耳を覆う二房を残して失われていた。普段は髪に隠れていた首が露出することで、ひりつくような傷の痛みと風の冷たさが感じられた。


 機械の振動がリュンヌの身体を揺らす。装置の床と共に上昇しながら、リュンヌは天を見つめていた。正確には天のあるべき方向を、というべきだが。


 助かった安堵と、これからどうなるのだろう、という恐怖が胸の中でせめぎ合っていた。


 上昇している途中で何か透明の壁を突き抜ける感触があり、正常な視界が取り戻された。幻像(ファントム)の範囲を抜け出したようだ。リュンヌは一先ず安堵の息を吐いた。同時に、今まで考える暇のなかった、幾つかの思案事項が浮かび上がってきた。


 何といっても第一にはエリザのこと。第二に、リュンヌの出自のこと。第三に、記憶を取り戻しつつあるサジェスのこと、第四にはカシェと彼女の手下らしい多くの兵士のこと。


 様々なものを見過ぎて、とても整理しきれなかった。それらについて解釈したり、自分にとっての意味を与えるのは後日の仕事に回す。最も大切なひとつの事実だけを、複雑に混ざり合ってうずまく記憶の中から掬い上げた。


「……エリザが生きてた」


 言葉にすると、それは事実として胸の中にすっと落ちてきた。


 まだ頬に流れた涙は乾いていない。心臓は早鐘のように打っている。かつて憧れ、信頼した人の衰えきった姿を見た哀しみは深く、明けない夜のように胸を暗く満たした。だがそれでも、確かに生きているエリザと出会えた喜びもまた、同程度の振幅を持って心を揺さぶった。胸が内側から張りつめたように息が苦しかった。感情を吐き出す先を求めて短い呼吸を繰り返す。


「エリザ、何を感じたらいいんだ? どうしたらいい、私は……」


 答えを期待しない問いかけは狭い空間を跳ね返り、リュンヌ自身に戻ってきた。


 お前はどうしたい、リュンヌ?


 今まで、主体的な意見を持つのが怖かった。そのくせ周囲から何かを強いられては反発して、ああでもないこうでもないと弾かれ回っていた。深く息を吸って吐く。少し冷たい空気を肺に満たして、どこまでも昇っていくような天井を見上げた。


「エリザを助けるために、か……」


 視界が真っ白く塗りつぶされる前の瞬間、カシェがほとんど泣き叫ぶような形相で言った。――羨ましいわ。ただ己の命ひとつでエリザを助けられるんだもの。この子に捧げられる身体が、私も欲しかった。


 政治部の重鎮、カシェ・ハイデラバード。


 彼女がその地位を手に入れるのは容易な道筋ではなかっただろうが、それはもしやエリザのためなのか。ひとつの命をもうひとつの命を以て救う、それが可能なだけの権力をつかみ取るためなのか。


 人の命を奪うことはラピスにおいて何よりも難しい。


 と、いう言い方は正確ではないが。人の命ほど簡単に奪い取れるものも少ない。この言葉の意味するところは、命が人為的に奪われたと知れ渡った瞬間に、あらゆる方向から繰り出される追及を掻い潜ることの難しさを指す。軍部の率いる警防団が地の果てまで犯人を追いかけ、統一機関の威信に賭けてもその身を捕まえる。


 ひとたび殺人者として捕らえられた者がどうなるかは少年ティアが良い例だ。


 あれでも子供であることや、やむを得ぬ事情があることを考慮してかなり好待遇だが。一人でも手に掛けてしまえばもう真っ当な生活は送れない。快適な住環境は当然のように奪われ、牢獄に追いやられて一生を労働に費やすのが通例だ。


 ラピスに死刑は存在しない。


 たとえいかなる大罪人であっても、命を命によって償わせるのはラピスの正義と真逆の思想だ。その代わりに、自然の摂理によって死を迎えるまでの全ての時間をラピスのために費やし、対価として与えられるはずの生活インフラはぎりぎりまで絞られる。


 そう、それでも、残りの半生を投げ捨てる覚悟さえあれば殺すこと自体は可能だ。だがおそらく、殺した人間の臓器を移植することは許されない。だからこそマダム・カシェは、秘密裏に人を殺してエリザに与えるだけの権力を手に入れようとした。

 実際、その目論見(もくろみ)は成功直前まで行ったのだ。


 そこでふと、ある疑問に思い当たった。


「なぜ、黙って私を殺さなかったのだろう?」


 ただでさえリュンヌは塔の上に幽閉された身だ。攫って殺すことに何の苦労もないだろう。ソレイユの目があるといっても、彼ごと葬ってしまえば良いだけの話だ。二人が幹部候補生に選ばれて塔の上に誘い出された時点で、仮にリュンヌたちを殺したとしても、その犯行を見咎める人間は誰ひとりいなかったはず。


 いや、ただ一人だけいる。

 それに気付いて、リュンヌは思わず心臓を抑えた。


 他ならぬムシュ・ラムだ。


 ――彼に守られていたのだろうか。

 自分の娘であるリュンヌを、守ろうとしたのだろうか、彼は。


 血縁によって結ばれる絆というものが何なのか、ラピスに生きるリュンヌは知らない。選り抜かれた遺伝子のカクテルから発生する孤独な存在こそが命であり、その存在はどこにも帰属しない。唯一、帰属する先と呼べるのは、新都の共同体そのもの。全ての命は、全ての人間はラピスの息子、あるいは娘。そんな教育を受けて生きてきたのだ。突然、身近な人間が血縁関係にあると言われて、いったい何を感じたら良いのか。


 数秒、真面目に考えたが、やがてリュンヌは口元に僅かな笑みを浮かべた。


「分かるわけがないか」


 だって何も知らないのだから、思考しようがない。これから少しずつ分かっていく、かもしれない。あるいは一生分からないのかもしれない。自分はこの、簡単に受け入れるには大きすぎる事実に対して何を思い、どう関わって生きていくだろう?


 それを考えるための時間が、つまり命なのだ、と思い至った。


 リュンヌとムシュ・ラムの関係だけではない。身の回りに見えている、あるいは隠れているあらゆる不思議に目を向け、疑問を抱き、見比べて比較し、組み合わせて新しいものを得る。命を捧げるとは、その創造的で未知な作業を諦めることだ。


「ああ……」


 深い溜め息と共に、壁に力なくもたれ掛かった。

 目を閉じた暗闇の中に、かつて見た図書館の景色を思い描く。


「ごめんなさい、エリザ。私の命はあげられない」


 たとえ、その煌めきに満ちた思い出のなかに二度と帰れないとしても。あの穏やかな微笑みが永遠に失われたとしても、それでも、まだ見ぬものを見るために残された時間を、誰かのために捧げようとはどうしても思えなかった。


 閉じたまぶたの隙間から、静かに涙が伝っていった。深く静まりかえった悲しみを形にしたような、混じりけのない涙だった。まだ生きているリュンヌは、死んでいないが生きているとも言えないエリザへ、一方通行の祈りを飽くことなく捧げつづけた。


 揺りかごのような振動に身を任せつつ、ただ一心にエリザに思いを馳せていると、次第に現実と思い出の境界が曖昧になっていった。今ここにあるリュンヌ自身の身体から思考が乖離していき、陽光に満ちた図書館へ歩み出していく。だがいくら足を動かしても、その場所に辿りつくことは決して叶わず、ただ幼い日の自分が無邪気な笑顔でエリザと向かい合っているのを、亡霊のように眺めているのだった。


 穏やかで暖かく、悲しい夢は昇降装置の停止と共に弾けて消えた。


 床に両足を投げ出していたリュンヌは、人工的な光が顔に触れるのに気がつき、重たい目蓋を押し上げた。昇降装置の扉がいつの間にかスライドして開いている。向こう側の部屋は暗い。だが全くの暗闇というわけではなく、暖色の光源があり、放射状に広がる灯りが何かに遮られて不思議な模様を描いていた。


 リュンヌは重たい頭を振り、霞む目を擦る。


 身体を起こしてもう一度目を凝らすと、それが人間の影であるとようやく気付いた。揺らめく光に照らされて歪むシルエットが、当惑したような低い声で呟いた。


「何を、している?」

「……ムシュ・ラム?」


 呆然としたままリュンヌがその名を呼ぶと、彼は少し腰をかがめたようだった。彼の顔がランタンの光に浮かび上がる。仮面のように凍りついた顔の中で、光のない双眸がまっすぐリュンヌを見据えていた。

 からん、と軽い音がして、部屋の灯りが消える。暗闇の中、ムシュ・ラムはリュンヌのタイを乱暴に掴んで顔を引き寄せた。


 彼は低い声で問いかける。


「カシェ・ハイデラバードに会ったのか?」


 至近距離から放たれる威圧感に、身体が底から冷えるような恐怖を覚えた。

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