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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅰ 水晶の街
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chapitre1. 新都の迷い人

【あらすじ】新都ラピスを統べる統一機関で、研修生として日々を送るソレイユとリュンヌ。統一機関の幹部候補生が発表される日、突然、どこからか現れた少年による襲撃事件が起きた。銃を乱射し、未知の言語で叫ぶ少年に、平和なカフェテリアは混乱に陥る。

 新都ラピスに朝が来ると、リュンヌは相方(パサジェ)のソレイユを起こしに行く。

 

 朝陽の差し込む渡り廊下を歩いて隣の棟へ行き、無数に立ち並ぶ扉の数を数える必要もないほど通い慣れた部屋に遠慮なくずかずかと入り込む。

 部屋の奥にある窓の分厚いカーテンを引くと、明るい光が部屋中に広がった。

 木製のベッドでもぞもぞと動く芋虫のような布団の塊たちから、抗議の意味を込めた唸り声が上がる。


 リュンヌは窓から見て右手、手前から数えて三つ目のベッドに近づく。せめてもの気遣いとして、地面に散らばったトランプのカードは踏まないようにしてやった。これを上層部に突き出せば間違いなく彼女の評価は上がり、この部屋の人間の評価は下がるのだが。

 まだ未練がましそうにベッドに貼り付いているそれから、容赦なく布団を剥ぎ取った。

 

「ルナぁ、起こしてぇ」


 中から聞こえた下品な猫なで声。腹が立つより先に、氷より冷たい軽蔑を抱いた。

 布団の中にいたのはソレイユではない。

 名前は覚えていないが同室の男だ。大方、トランプゲームに興じるうちに自分の寝床を誰かに奪われたのだろう。


 ソレイユのみがリュンヌに向ける呼称、ルナ。


 その名前をこの下品な男が口にしたことも耐えがたいが、更に腹立たしいのはその男の声に続いて布団の塊どもから一斉に笑い声が生じたことだ。はらわたが煮えくりかえった。たるんだ顔を一発張り飛ばしてやりたいが、そうすればリュンヌの評価が下がるのは必定だ。

 リュンヌは足下に落ちていたトランプを一枚拾い上げ、下腹部に力を込めて男共の笑い声よりさらに低い声を出した。


「黙れ。このカードをムシュ・ラムに見せるのは簡単だぞ」


 部屋がしんと静まり返り、ひとつのベッドから見事なオレンジ色の髪をした少年が駆け寄ってくる。

 リュンヌとほとんど身長の変わらない彼は、寝癖の跳ねた頭を彼女の前で下げた。


「ルナ、その位で勘弁してくれないか。君も! 何寝てるの、謝って」


「もう良い。ソルが起きたのだから私の役目は終わりだ、行くぞ」


 リュンヌはソレイユの横を通り過ぎ、部屋の出口に向かう。

 後方は何かざわめいていたが、それに振り返ることはしなかった。


 もう少し月日が経つと、起床時間よりも陽が出るのが遅くなる。

 寝起きの悪い相方を起こすのは更に大変になるだろうな、などと考えた。


 創都342年、(オトンヌ)

 次第に気温が下がる季節の幕開けだ。


 *


 リュンヌが歩く速度を一切緩めることなく食堂へ向かっていると、背後から走る音が近づいてきて、オレンジの髪がリュンヌの横に並んだ。

 へへ、と何故か誇らしげに笑っている。

 肩につくほどの長さで揃えられた髪はまるで女性のようだし、体格もリュンヌと大差ないが、これでも男性であるらしい。顔の造作だけでなく、その服装も中性的な雰囲気を後押ししている。襟のないジャケットとシャツ、機能性と動きやすさに優れたショート丈のボトムス、紅色のネクタイにしっかりとした革製の紐靴。

 彼の奔放な性格を窺わせる、見慣れた服装。


「お早う、ルナ。さっきはごめんね」


「別に気にしていないが……随分と下品な連中だな。正直なところ驚いた。まさかソルまで一緒になって笑っていないだろうな?」


「まさか。睨まないでよ。ぼくはむしろ蒼白だった、いつルナが銃を抜くかと」


「そこまで自制できない人間じゃない」


 そう言い返しながら内心、冗談でも銃を抜かなくて良かったと思った。

 愛想の悪さと鉄面皮で有名なリュンヌだ。部屋の連中は、彼女に喧嘩を売りたかったのではなく、からかって反応を見たかっただけだろう。彼らの手中で踊るなんて、リュンヌの自尊心が許すところではなかった。


 それに、とリュンヌは思う。


 きっとソレイユは、無愛想なリュンヌの相方(パサジェ)だから、同室の彼らに目を付けられているのだろう。目を付けるとは言っても、それは例えば先程のからかいのような、悪意と呼ぶにはあまりにも稚拙な悪戯だろうが。

 横目でソレイユの呑気な顔を見てふん、と鼻を鳴らす。


 まったく気の毒だ。

 こんな私が相方であり旧友であるばかりに。


 * 


 二人は新都ラピスの同じ地域で、同じように育てられた。


 生まれてから10年を数えた年の明け、一緒に『統一機関』所属の研修生となり、日々の訓練では相方(パサジェ)として二人ひと組での行動を余儀なくされた。

 新都の治安がまだ悪かった頃の名残で、研修生はみな相方(パサジェ)と呼ばれる二人組に分けられる。現代においては軍部くらいでしか実効的な役割を持たないのだが、実態に制度が何歩も後れを取っている。

 既存のシステムを撤廃するのが面倒なのだろう。

 そういう統治側の怠慢をリュンヌは日々軽蔑しているが、だからといって彼女の役割はそれを変えることではない。


 結局この時代遅れのシステムも、時間の無駄遣いとしか思えないからかいも、仕方ないものだと思って、歯車のように組み込まれて生きるしかない。

 それが最も経済的で楽なのだ。


 そうやってリュンヌは今日も一つ諦めを覚える。


 その冷え切った心根を知っているのかいないのか、ソレイユは窓から入ってくる朝陽を浴び、「あ、あの花咲いたね」と長閑な声でリュンヌに笑いかける。


「そういえば、ルナまだ髪を結ってないんだね」


 カフェテリアに向かう階段を降りたところで、ソレイユが思い出したように言った。

 リュンヌは頷く。


「いつもはアルシュに頼んでいるんだが、昨日から調子が悪いようで。実は自分でやってみたけど……絡まってダメだった」

「あは、ルナは癖毛だもんね。じゃあこのぼくがやってあげよう」

「出来るのか?」


 リュンヌは驚いて目を見開いた。


「ふふん、余裕だよ。床屋のお姉さんに教えてもらったんだ」


 ――どうやって美容師などという、縁のなさそうな人間と親しくなったのだろう。

 それを疑問に思っている間もなく、ソレイユに押されるままに壁際の椅子に座らされる。他人の指先が髪を拾っていく感覚。同室の友人、アルシュにやってもらうのには慣れていたが、結う人が違うとまたこそばゆい感触がする。

 時折鳥肌が立ちそうになるのを肩を強ばらせて耐えながら、終わるのを待った。

 

「はい、終わり。くすぐったかった?」


 庭に面した窓に、見慣れた三つ編みの自分が映っている。

 喉元まで閉めた七分丈のカッターシャツと、同じく紅色のショートタイ。きっちり着込んだ黒いスラックスに茶色のミドルブーツ。自分を隠すように纏っている、濃灰色のジレが膝上の高さまで落ちていた。相方(パサジェ)の彼とは対照的に、保守的なオールド・スタイルだ。そこにきっちりとまとめられた三つ編みが加わって、いかにも堅苦しい雰囲気を醸している。


 ソレイユの長さなら髪を編む機会などないだろうに、どう練習したのだろう、後れ毛ひとつなく綺麗に仕上がっていた。くすぐったかった、という問いかけに、言うか迷ってから「少し」と答え、次に感謝の言葉を付け足した。


 *

 

 ソレイユ・バレンシア。


 リュンヌと同じである下の名は、生まれた街の名前を示す。

 新都ラピスで生まれた子どもは皆、7つある街のどこかに預けられ、生まれる前から決められていた各々の『役割』に沿って育てられる。

 ソレイユとリュンヌの場合は、統一機関の研修生となることが与えられた『役割』だった。

 本の中で、ソレイユとリュンヌとはそれぞれ太陽と月のことだと、そう書いてあった。そんな大それた名前をもらったのも役割あってのことだ。

 統一機関は新都のまつりごと、闘い、そして真理探究の全てを司る最高権力府であり、二人がそのような筋書きのもとに生まれ落ちたことは幸せで名誉なことだと、そう言われていた。


 実際、幸せではあるのだろう。


 毎日の朝食を取るカフェテリアでは、窓越しに新都の町並みを見下ろすことが出来た。彼らが日々を送る統一機関の建物は、新都のどれより高い。リュンヌは目を細め、ラピスの外縁を縁取る山から太陽が昇ってくる様子を見た。

 彼女のような役割の元に生まれつかなければ、まず見ることの出来ない景色だ。

 

「ルナ、お待たせ」


 ソレイユが大量の料理を盛った皿と共にリュンヌの座った席に近づいてくる。

 待ってなどいないが、という言葉をリュンヌは心の中で呟く。実際、彼を待つことなく食事を始めていたからだ。いつものことなのでソレイユは文句を言わないし、リュンヌも罪悪感を抱かない。


「何だか慌ただしいな」


 ソレイユへの返事の代わりに、リュンヌはそう言った。

 この時間の食堂はいつも空いていて静寂で――それ故に彼女は起床時間からすぐのこの時間に朝食を摂るのを日課にしているが――今日は平均していつもの2倍以上は人がいるように思われた。しかも、その多くが研修生だ。多人数で、あるいは相方(パサジェ)の二人組でテーブルに着いているのだが、かき込むように食事をしていて会話が少ないのも不思議だった。


「みんなやけに早起きじゃないか。一般に、陽が出るのが遅くなれば起きる時間も遅くなるものだと思うんだがな」


「そりゃぁ、ルナ、忘れたの?」

 焼き菓子を頬張ったソレイユが当然のような顔で言う。「ほら、今日は幹部候補生の発表日だ」


「ああ……」


 リュンヌも得心した。それと同時に、忘れていたことを少し恥に思う。


 暦の上での季節がエテからオトンヌに変わる今日。

 研修生としての残りの期間が1年半になるこの日は、研修生のなかでも優秀な人間が幹部候補生として選ばれる日だ。


 100名を超す研修生のなかから選ばれるのはたった15人。


 彼らは「候補生」と名前についてはいるものの、幹部としてそのまま就任することがほぼ内定するのだ。言われてみれば、たしかに大切な日。同期の面々がそわそわとするのも納得だった。


「そうか、アルシュが体調を崩したのも……」

「発表が不安だったのかもね。同室の子は、発表のことすら忘れてたらしいけど」


 ソレイユがわざとらしく片目を瞑ってみせる。

 ひと言余計だ、とリュンヌは片方の眉をつり上げる。


 ソレイユは彼女の視線から逃れるようにマグカップに口を付けた。その中になみなみと注がれているのは、山で採れた草から抽出された、ハーブティと呼ばれる代物らしい。リュンヌも一度口を付けたことがあるが、妙に薄い味と奇妙な香りであまり好きになれなかった。


「そういうソルの部屋は、発表前日にも関わらず深夜までゲームに興じていたわけか」


 リュンヌが皮肉っぽく言うと、「あんまり大声で言わないでよね」とソレイユが焦ったそぶりを見せる。寝室に遊び道具を持ち込むことは、本来規律によって禁止されている。


 それが面白くて、リュンヌは少し笑った。

 こほん、とソレイユがわざとらしく咳払いをした。


「まぁ言いたくないけど、幹部候補生になれるなんて思ってるやつがいないのさ。ぼくんとこの部屋はそういう奴の部屋だしね。ほら、食堂に来てる顔ぶれを見てもさ、射撃で一位を譲ったことのないリオン、算術の講師に愛弟子と称されたカナル……秀才揃いじゃないか」

「その通りだな」


 ソレイユが目立たないようにカフェテリアを見渡して言った。

 リュンヌは頷く。


 統一機関では、昇進に関して実力主義が徹底されている。一方で、今ひとつ能力の開花しなかった人間にもそれなりの役職を与えるため、研修生のなかにも一定の割合で出世に無関心を決め込み、あまつさえ上層部に気に入られようと奔走する優等生を冷笑する集団が存在する。


 ――あんなに頑張らなくたって、生きていけるのにな。


 成績は良くたってバカな奴らだ。

 そう言い合って影で笑う。


 彼らの思想も一理あるのだけれど、それは根底にある劣等感を綺麗な言葉でラッピングしたもののように思えたので、リュンヌはその群れに染まらぬよう気をつけていた。

 

 リュンヌがこのように比較的冷静な、俯瞰した意見を持てるのは相方の存在によるところが大きい。広く交友を持ちながらどの他人にも迎合せず、反発せず、「そういうこともあるよね」と笑って包み込む、ソレイユという男。

 太陽(ソレイユ)のような存在感を持ちながら、雲のようにふわりと軽く人波を渡り歩く。


 具の溢れるサンドイッチに苦戦している橙髪の頭を眺めて、感謝しているんだぞ、とリュンヌは心の中で呟く。彼は食べるのが遅く、一緒に食事をしていると、いつもリュンヌが先に食べ終わってしまう。意図的にゆっくりと飲んでいた珈琲もなくなったので、先に食器を片付けてこようと席を立った。


 そのとき、やたらと声の大きい集団がカフェテリアに入ってきた。


 背中側にいても分かる、暴力的な威圧感にリュンヌは肩を竦める。嫌いな奴らだ。出来るだけ悟られないよう祈ったのだが、リュンヌの祈りも虚しく集団のひとりがこちらに気付いた。


「おやまぁ、バレンシアのルナちゃん」


 あからさまに馬鹿にした口調で、馴れ馴れしく話しかけてくる男。持ち主次第では優しさの象徴になる垂れ目に嫌らしい表情をこれでもかと湛えている。ルナより頭ひとつぶん以上背が高く、筋肉質なので体重も倍近いかもしれない。威圧的なこの男に、リュンヌは因縁を付けられている。


「良い朝だな、カノン・スーチェン」


 リュンヌが軽い口調で言い返し、横をすり抜けようとするが、その肩を掴まれた。不快だが、力の差ゆえに振り払えないことが分かっているのでリュンヌは諦める。


「まだ何か用か?」


 極力ニュートラルな口調でリュンヌは訊いてやった。感情的になったところで逆効果だ。


「随分と余裕ですねぇ。幹部候補生に選ばれる自信でもあるのかい?」

「さあ。別に選ばれようと選ばれまいと構わないな」

「開発部はそんなに広き門なのかい? ウチと違って」


 カノンがにやりと、嫌な笑みを浮かべた。幹部候補生の倍率はどこでも同じだろ、とリュンヌは心の中で毒づく。

 

 統一機関には、その受け持つ仕事内容によって三つの部門が存在している。


 順に政治部、軍部、開発部。

 何の順番かというと、発言力の強い順だ。


 政治部は他の2部門を使役し統括する立場という認識が強い。一方で、まだ新都が街としてまとまらず、内乱が頻発したころ、軍部の人間に指導権が集中したことがある。そのため、軍部の人間には我らこそ真の貢献者という意識もある。

 開発部はというと、職人堅気で出世欲のない人間が多いせいで、その差は世代を経て薄れるどころか、上から下に引き継がれ、広がり続けている。


 カノン・スーチェンは軍部の人間だ。

 そして軍部の構成員の多分に漏れず、非力で小柄な開発部を小馬鹿にしている。


「軍部には優秀な人材が多いからな」


 カノンから目を逸らしたまま、リュンヌは差し障りないように答えた。


「それに比べて開発部は簡単に幹部候補生になれると! 羨ましい限りだよ」


 カノンはわざと大声で楽しげに喋った。


 案の定、神経質な顔で食事を取っていた何人かがこちらに攻撃的な視線を向ける。幹部に選ばれたいあまり、普段より早く起きてしまうほど熱心な研修生にとっては、気に触る発言だろう。


 だが。

 もともと煙たがられているリュンヌが多少舐めた発言をしたところで、今さらどのくらい意味がある?


「べつに、私は嫌われ者だ。残念だがカノン・スーチェン、お前の牽制は大して効かないぞ」

「はは。牽制だなんて人聞きが悪いなぁ、ルナ……」

「気安く呼ばないでくれ。……なぜ嫌いな人間の名前を愛称で呼ぶ? その理屈が理解できないな」


 肩を掴む手から力が抜けたのを感じ取って、リュンヌは素早く距離を取った。

 会話で人を突き放すのには長けている。


 カノンの間合いから下がり、相対する。


「幹部に選ばれるか不安なのはいいことだ。端から諦めてしまうような人間よりは、そちらのほうが私は尊敬できる。だが、私に当たるな」

 

 カノンが呆気にとられたような顔をする。

 リュンヌが彼の面倒な会話を強引に切り上げるとき、いつも彼は小さな目を見開き、にやついた口元が僅かな後悔に染まる。


 その顔は、彼が完全に悪性の男ではないのだなとリュンヌに確信させるのに十分だった。


 この男が始めにリュンヌに関わってきたのは、歴史学の授業だった。

 リュンヌは幼少期から本ばかり読んでいたので、歴史の成績はかなり良く、それを知ったカノンがノートを貸してほしいと頼んできたのだ。はじめは特に何も思わず貸していたのだが、次第に変な絡まれ方をするようになった。鬱陶しい、関わりたくないと思う一方で、この男が本当は向学心のある人間だということが次第に理解できた。


 共感などしたくはないが、解釈することはできる。リュンヌに難癖を付けるのは誰かと話したいだけだろう。憎まれ口を叩くのは多分人付き合いの下手さゆえ。


 分かっていても、戯れに付き合ってやるほどリュンヌは優しい人間ではない。

 もう良いだろう。そう察してリュンヌは踵を返し、カノン・スーチェンに背を向けた。

 

 だが、そこで脳天気な声が割り込む。


「あれ、ポレールちゃんの相方のカノン君だよね? ルナと知り合いなの?」

「いい、ソル。行くぞ」

「あのね、ポレールちゃんに伝えといて! この間教えてもらったかごの編み方、分かんなくなったからまた教えてって――」

「行くぞ、ソル」


 リュンヌは無視して歩き出した。せっかく立ち去るチャンスだったのに、ソレイユのせいで無駄にするところだった。あまり社交的なのも考えものだ。


「待ってよぅ、ルナ――」


 カフェテリアの入り口に向かいかけたリュンヌの五感は、突然機能を停止した。

 理由は、あまりに大きな音、そして振動。


 数秒、無音の闇の中を漂って、気付いたら壁に叩きつけられていた。

 

 *

 

 ――襲撃?

 

 だとしたら内部の人間だろう、と判断する。銃を抜くが、それと同時に内部の人間に怪我をさせた場合の規定を思い出した。


 ――殺せば最低でも、研修生の身分は剥奪となるだろう。


 一秒で、撃つのは最後にしようと決めた。

 リュンヌ自身の命が、他者の命と交換するに足ると判断される、それだけの状況証拠はまだ無かった。

 

 そして次に、安全確保を考える。彼女が倒れていたのは遮るもののない壁の前。即座に隠れる場所を探すべきだが、それより先にカフェテリアの入り口、外敵の方向を見た。

 

 索敵。


 小柄なシルエット。両手で握りしめた――銃。


 その見た目に驚き、ほんの少し回避動作が遅れた。

 銃口が彼女に向いている。

  

 なにか喚く声と共にリュンヌの身体が吹き飛んだ。吹き飛んだ、と彼女は感じたのだが、実際は柱の陰に突き飛ばされた――おそらくは、庇われたのだ。遅れて気付く。


 我に返り、身体を柱の陰に引き寄せる。小柄な身体も隠れる場合に限っては得だ。

 浅く息を吐くと、目の前に巨大な影が落下した。


 カノン・スーチェンだ。

 どこか怪我をしているのか、普段は高圧的な顔を歪めていて、とても痛々しく思われた。リュンヌは視線を引き剥がし、状況把握に努めた。


 周囲の音がようやく聞こえるようになった。


 激しい打撃音のようなものが絶え間なく響く。銃を乱射しているようだが、着弾に伴って鳴る音は爆発音に近い。リュンヌの知っているどの武器にも合致しない特徴だった。窓でも割れたのか、風が吹き込んでいる。


 そして、それをかき消すほどの叫び声が聞こえる。


 声?

 混乱の滲んだわめき声に、違和感を覚えた。


 仮にも統一機関の人間なら、取り乱して大声を上げたりはしない。戦とは縁遠い開発部の人間だって、突然の戦闘で慌てない程度の訓練は受けている。カフェテリアで和やかに談笑していた人々が、一瞬のうちに表情を切り替え、冷静に状況を伺っていた。静電気を帯びたようにピリピリと肌に触る、張り詰めた空気。


 リュンヌはカノン・スーチェンの巨体を影にしながら周囲を窺う。

 

 窓ガラスに映る像を見て、わめき声を発している主が分かった。

 銃を撃っているその人自身だ。


 その叫びは意味を為していない。錯乱して銃を撃っているのなら抑えるのは少々面倒だぞ、とリュンヌは舌打ちをする。そして、何故自分が彼の姿を見て驚いたのか、それを理解した。


「……変に幼いな」


 小声で呟く。研修生以上の身分でなければカフェテリアに立ち入ることは不可能で、現在最年少の研修生は10歳だ。だが、身の丈と不釣り合いに大きい銃を乱射している彼は、どう見てもそれより幼いように見えた。

 あの年齢帯の子どもは年々大きく成長するため、歳によって見た目が全く違う。その分個人差も大きいが、どう見ても小柄で、リュンヌの見込みに間違いは無いだろうと思われた。

 

 リュンヌは、今更のように思い出して相方(パサジェ)の姿を探した。目立つオレンジ色の髪はすぐに見つけることが出来た。

 思いも寄らぬ場所に。


「何をやっているんだ、ソル……」


 ソレイユは割れた窓から外に出たのか、壁のへこみに指を掛けてぶら下がっていた。

 そのまま勢いを付けて、頭より高い場所にある窓枠に靴を引っ掛け、器用に登る。彼は窓枠沿いに進み、あっという間にリュンヌの視界から消えた。

 助けを呼ぶか裏周りするつもりなのだろう。それにしても雑で危険なやり方だが、ソレイユが危険に身を晒すことをためらわないのはよくあることだった。それに、研修生ならうっかり手を滑らせて落ちるような身体能力はしていない。


 まあ、上手くやってくれるだろう。

 だから助けが来るまで時間を稼ぎ、少しでも被害を食い止めなければ……。 

 リュンヌは相方(パサジェ)について考えるのを止め、目の前の事態に意識を戻した。


 銃の持ち主――少年は泣き喚きながら、何かを叫んでいる。


 ――意味を為さない叫びだと思っていたが、違うのではないかと考え直す。


 それは知らない言語であったが、訳も分からず喚いているのとは違うようだった。

 彼は何を主張したいのか、それが理解できれば多少活路があるかもしれない。リュンヌは賭けのつもりで、少年の上げる声の意味を解釈できないかと集中した。すると、途切れ途切れの悲鳴に挟まる同じ言葉があることに気づいた。

 その間にも少年は近づき、銃声は大きくなる。


 リュンヌは暴れる心臓を抑えながら、それでも少年の声を聞いた。

 

 ふと、

 埃の匂いを思い出す。


 それは図書館。

 古い本の匂いだ。


 埃が積もった壁の本棚から、一冊一冊取り出して読んだ、幼き日のリュンヌがいる。


 ステンドグラスの壁に寄りかかって、一文字ずつ追いかけた。陽光の降りそそぐ色あせた紙に印字された、壮大な冒険の物語、道に生えている草の種類、美味しい珈琲の淹れかた。

 本の中には全て書いてあった。

 その中には、リュンヌが知らない言語もあったのだ。


 思い出してくれ、回想の中の自分に祈りを捧げる。

 

 ――助けて!


 突然、その言葉が耳に飛び込んできた。一瞬、逃げ遅れた者でもいたかと考えるが、そうではない。あの少年が、助けて、と言っているのだ。


 この国の公用語ではないが、リュンヌはその言語を聴いたことがある。

 

 ――僕を助けて!


 どの本で読んだのか、もう思い出せない。

 撃つのを止めろ、は何と言えば良い? 名前を聞くにはどうすればいい? 

 必死で記憶を辿る。


 記憶の奥底、手が届くギリギリの箇所にあった、信憑性は決して高くない知識に、さて、今、全てを賭けられるかどうか。

 強い振動と衝撃が背中を揺らした。

 隠れている柱を銃弾が掠めたようだ。

 背筋の冷えるような鈍い音と共に、頭上に白い壁の破片がぱらぱらと落ちてくる。 


 もう一秒も迷う暇はない。賭けるしかなかった。

 深く息を吸う。

 

 リュンヌは声を張り上げ、銃声に負けないように叫んだ。

 

『止まれ! 君の名前は何というんだ?』


 その瞬間、少年が明らかに動揺したのが伝わった。引き金に掛かっていただろう指の力が抜けたのか、銃弾の雨が止む。ひびの入った壁に身体を隠したまま、慎重に少年のほうを窺った。呆然とした表情で立ち尽くす少年が、声の出所を探すように所在なく視線を彷徨わせた。


 その数秒の間を、見逃さなかった者がいた。


 少年の背後から何かが飛んできた。空を切ったそれは彼の持つ銃に直撃し、派手な音を立てて弾き飛ばした。銃は床を転がり、リュンヌの近くまで滑ってくる。


 その反動で痛めたらしい手を庇おうとする少年の背後から、ソレイユが現れる。


 銃を払い落としたのは彼の仕業か、とリュンヌは察する。銃を撃っていたのは非力そうな少年だ。武器さえ奪えれば無力化できるだろうと分かる。ソレイユの目的は最初から、裏を取って隙を突き武器を奪うことだったようだ。


 突然現れたソレイユを見て、少年は泣き出しそうな表情になる。


 彼は、ごめんねと優しく言いながら少年の両手を握り、体格差を利用して行動を制した。嘘のような静寂のなか、リュンヌは柱の陰から出て、精一杯の社交的な笑顔を浮かべ同じ質問をもう一度繰り返す。


『君の名前は何だ?』


 恐る恐る、少年が言う。細い声で、しかし、はっきりと。


『僕の名前はティアです。ここは、どこですか?』

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