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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅲ いざないの手紙
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chapitre26. 永い祈り

※傷害表現があります。苦手な方はご注意ください

 自分はエリザとムシュ・ラムの娘だった。


 だから、エリザはリュンヌをあれほど気にかけたのだ。生後すぐに引き離されて、10歳になってラ・ロシェルに戻ってくるまで会えなかった、自分の娘だから。


「気の毒にね」


 カシェの言葉は形式的だったが、彼女がリュンヌを本気で哀れんでいるのはその口ぶりから伝わった。憂うように長い髪をかき上げる。


「貴女には罪なんてない。ただ生まれてきただけなのに、勝手に押しつけられたようでさぞかし嫌でしょう」


 リュンヌには肯定も否定もできなかった。

 今、自分が生きていること。それが悪であるわけがない。


 自分がエリザとムシュ・ラムの直接の娘であること自体には、冷静に考えればそこまで深い問題があるとは思えなかった。非ソヴァージュの子供に混ざって研修生の立場を与えられ、今日この日までリュンヌが重ねてきた日時は、ほかの研修生と大差ないはずだ。血縁というものが機能していない社会に生きているがゆえに、エリザとムシュ・ラムが自分の両親であると言われても、それ自体に喜びも、あるいは嫌悪感のいずれも抱けなかった。


 ただ、自分の存在が、エリザたちの犯した禁忌の具現化であるということ。

 それが恐ろしく、また気持ち悪くもあった。


 リュンヌは底知れない恐怖から目を逸らすように、話を前に進めた。


「――では、これは罰なのですか?」

「何のことかしら?」


 カシェが穏やかな口調のまま尋ねる。


「エリザがここで眠らされているのは――ラピスの掟を破ったことに対する罰なのですか?」

「ああ……」


 カシェは得心がいったように肩を竦めた。そして残念そうに首を振る。


「いいえ、違うわ。私たちは妊娠したエリザを手助けし、貴女の成長を見守った。2人のしたことは決して褒められたことではないけど――でも一方で、新しい命である貴女や、そして貴女を生み出した2人を尊重することもまた、ラピスの考え方に矛盾しない。ふふ、私たち、そんな野蛮ではないわ。そうではないのよ。――実はあの冬、エリザは病に冒されていた。どうにかして私たちは、彼女を救おうとしたの」


 10年前、未知の病がエリザを襲った。


 正確にはリュンヌと出会う半年ほど前の、夏の終わりのことだった。


 症状は微熱と体力の消耗、そして筋力の減衰。決して致命的ではなく、またありふれた不調だ。ゆえにエリザは最初、自分が病に冒されていることにすら気付かなかった。日を追うごとに出歩くことが少なくなっても「年を取ったかしら」と冗談めかして笑っていた。だが次第に、身体を起こすことすら一苦労になり、嚥下や消化の能力が落ちていき、そこまで行くともうただの不調とは言えなかった。


 エリザを心配した2人は、念のためと思い医療棟に診察を依頼した。統一機関に対して好意的でない医療関係者に診てもらうため、2人はエリザに秘密で彼らに頭を下げた。


 診断の結果、細菌に汚染された肉を食したことが原因の感染症だと言われたものの、発症したのはラ・ロシェルの住人のなかでエリザただひとりだった。当時、開発部の幹部としてそれなりにキャリアを積んでいたムシュ・ラムが人脈を使い隠密に調査した結果、生産ラインのひとつで家畜に細菌性の感染症が蔓延していることが分かった。


 しかし実は、ラピスにおいては実にありふれた感染症でありながら問題視されていなかったことが後に判明する。幼少期の子供には感染しても大した症状が生じず、ほぼ全てのラピス市民が気付かないままに罹患したのち抗体を獲得していた。エリザのように大人になってから初めて感染するのは前例がなく、根本的な解決がなせないまま彼女の体力は奪われていった。


「――じゃあ、いつも図書館にいたのは」

「貴女と会いたかったというのもあるでしょうけど……移動が困難になっていたのね」


 リュンヌは肉の落ちたエリザの細い手首を見つめた。かつて本のページを捲り、リュンヌの髪を梳いてくれた、エリザの白い指先に手を触れる。その形を確かめるように、指先を辿らせた。


 衰弱していく彼女を救おうと、2人は苦し紛れの策を打ち立てた。


 医療棟と開発部が共同で進めている数少ないプロジェクトのひとつに「薬物投与による生命機能の恣意的凍結及び再開」通称「生命凍結」と呼ばれるものがあった。その名前が表すとおり、薬品による生命機能の一時的な停止によって時間を稼ぐ技術で、治療法の確立まで彼女を眠らせておこうというのが2人の案だった。


 薬品は開発中のもので、動物実験こそクリアしたものの完全に人体に対し安全とは言えなかったが、カシェがプロジェクトメンバーにその話を(ほの)めかすと、是非使ってくれと彼らの方から申し出があった。偽装された市民としての権利こそ持っているものの、ラピスにおいて知る人の少ないエリザは危険性を伴う実験に最適だったのだと、カシェが共同プロジェクトの目論見に気付いたのは先のことだった。カシェは見込みの甘さに歯噛みしたが、一度決まった決定を覆せるほどの権力は当時のカシェにはなかった。


 当のエリザは、プロジェクトの思惑を知ってか知らずか、生命凍結を承諾した。


 だが、彼女が唯一気にしたのは他ならぬリュンヌのことだった。

 当時のリュンヌはまだバレンシアで生活しており、その冬に故郷を離れラ・ロシェルに移動してくることになっていた。エリザが生命凍結によって眠りについてしまえば、次にリュンヌに会えるのは何年後か分からない。その前に一目リュンヌに会いたいとエリザが望んだのだ。


 そして、彼女の願いは受け入れられた。


 眠りにつくのが遅くなれば、それだけ完治が遠ざかることを分かっていても、リュンヌと共に過ごす時間を選んだ。リュンヌと共に図書館で過ごしたあの冬は、エリザ自身が自分の身体を犠牲にしてまで求めたものだった。もうすぐリュンヌたちと会えなくなってしまう、会えないつもりでいるのがいいと呟いた真意が今なら分かる。休みの日になればエリザと会えるつもりでいたリュンヌはひどく突き放されたような気持ちになったが、それが彼女の身体の限界だったのだ。


 時を超えて語られるエリザの愛情に、胸が締め付けられるのを感じた。


「……ありがとうございます」


 リュンヌは視線を落としたまま言った。


「あら、何が?」とカシェが問い返す。


「私とエリザに話すための時間をくれたことです。――それに、ソヴァージュの私をラピスに受け入れてくれたことも。でも、だったら」


 だったら、どうして?

 リュンヌは絞り出すような言葉とともに、非難の視線をカシェに向けた。


「どうして、私の記憶を消したのですか? エリザの身体に負担をかけてまで、私と対話するための時間を持たせたのに、私の記憶から彼女のことを丸ごと消し去ってしまったら、その時間の意味はなくなってしまう」

「なくなりはしないわ。だってエリザはそのことを知らないもの……」


 カシェは、心臓が凍るような冷たい笑みを浮かべた。


 手のひらが汗で滑るのを感じた。目の前にいるのが政治部の有力幹部、敏腕だが底知れぬ恐ろしさを秘めた人物と言われるマダム・カシェ・ハイデラバードであることを束の間失念していた。彼女は静かに唇を開いた。剥がれかけた口紅がかえって恐ろしさを増幅させる。


「リュンヌ、初めから貴女たちの記憶を封じることは既定事項だったのよ。彼女は自分の経歴を明かさなかったようだけど――ラピスの創都前から来た人物と会話するなんて、余程のことがなければ許されるわけがないでしょう。もちろん、エリザには知らせていないわ。貴女の中に大切な記憶を残せたと信じたまま眠りについている」

「――非道ですね」

「何とでも。知らないことは起きていないのと同じことだわ」


 そしてエリザは、リュンヌが統一機関に迎えられる前日に眠りについた。図書館が空っぽになっていた、あの日だ。リュンヌと、共に話を聞いていたソレイユが記憶を封じられたことなどつゆ知らず、長い眠りに身を任せた。


「快復の目処が立つその日まで、ね」

「――では、10年経ってまだその治療法がまだ確立していないということですか?」


 リュンヌの質問に、カシェは緩く首を振った。


「いいえ。とっくに研究が終わっているわ」

「では、なぜまだ眠っているんです」

「治療のために必要なのはたったひとつ。でも、それが足りないの」


 カシェは捧げられた花を一輪取り、エリザの枕元に添えた。エリザの水気のない髪と、さっきまで生きていた花の対比は異様な雰囲気を醸し出した。友人を想う憂いの表情と、冷酷な幹部の表情がカシェの端正な顔に交互に現れる。


「必要なのは――」


 その言葉の背後で。

 金属の咬み合う、カチリという音がした。


 初めのひとつが聞こえた次の瞬間、あらゆる方向から雨のように音が降り注ぐ。リュンヌは慌てて姿勢を立て直し、周囲を見回した。


 言葉を失った。


 先程までは自分とカシェ、そしてゼロしかいなかったはずの空間に、何十人もの人間がいた。

 よく見れば壁には、リュンヌが出てきたのと同じような扉が、目立たないようにいくつも設けられていた。カシェの配下の人間が壁の向こうで控えていたのだろうか。彼等は円を描く部屋の壁に等間隔に並び、みな一様に、リュンヌに銃口を向けていた。


 瀟洒(しょうしゃ)な空間に似合わない、黒光りする無数の銃口。


 不覚を取ったことを悟りつつ、リュンヌは逸れた銃口をカシェに向けて構え直す。何十もの銃口を向けられている状態で、それには今さら何の意味もないように思えたが、リュンヌにはそれ以外取るべき術が考えられなかった。


「――必要なのはたったひとつの命」


 カシェの策に嵌められたのを悟りながら、リュンヌは周囲に目を走らせた。

 隙はないか、抜け道はないか、必死に脳を回転させる。


 だが当然、銃を構えた何十人もの人間を退けて逃げることなど不可能に等しいことは、考えるまでもなく分かっていた。先程のバーのように不意を突くのも不可能、おまけに逃げ道もない。カシェを人質に取ったところで無意味だろう。自分も巻き込まれかねないような人員の配置をする以上は、カシェは自らの命を擲つ覚悟でこのような場に持ち込んだのだろうから。


「細菌に汚染された臓腑の代わりになる器官が必要なのよ」

「……移植、ですか」

「ええ。エリザの時代ではよく見受けられた技術ね。残念ながら私は適合条件を満たしていなかったけれど、ラムは適合している。そして、彼らの遺伝子を引いた、娘である貴女も」


 無数の銃口に晒されているのは自分も同じなのに、カシェは振り切れたように晴れやかな笑みを浮かべた。言葉に反して異常なほどの笑顔だった。もはや彼女の顔は、感情の表出する場として機能していないのだろう。


 さあ、と唇を開く。


「選んで。ラムを殺すか――ここで殺されるか」


 カシェはベッドを回り込み、動揺しているリュンヌに詰め寄った。のけぞったリュンヌの銃口が自分の額に押しつけられるのにも全く構わず、カシェはリュンヌの首に手を伸ばす。女性にしては大きな手のひらが、信じられないほど強い力で締め付ける。まだ閉じていない首の後ろの傷跡に指が食い込み、血が流れ出すのが分かった。


 気道が圧迫されて顎が震えだす。


 苦痛とそれ以上の恐怖に支配されながら、リュンヌは必死で打開策を考えていた。だが、カシェを殺したところで自分は殺され、ムシュ・ラムを殺すのも嫌だが、何もしなければ殺される。


 エリザを人質に取るのが唯一の方法だったろうか。誰よりも尊敬するエリザに銃口を向けるなんて考えたくもないが、効果的ではあったかもしれない。しかし今の状況からでは、どのみち不可能だ。


 ああ、常に自分は後手に回るのだ。

 自分は殺され、エリザの甦生のために使われる。


 ひとつの命を掬うために、ひとつの命を捧げる行為。


 それは狂気のようで、しかし、何をしてでも友人を助けたい気持ちが全く理解できないわけでもなく。命は何にも代えられないけれど、命どうしの交換なら重さは同じと言えるのかもしれない。暗くなり始めた視界に映る水晶をぼんやりと眺めながら、それも悪くはないか、と考えた。


「――羨ましいわ。ただ己の命ひとつでエリザを助けられるんだもの。この子に捧げられる身体が、私も欲しかった……」


 苦悩と高揚が混ざり合って狂気に染まったカシェの顔を見た。目頭が裂けそうなほど見開かれた両目から、壊れたように涙が流れる。一体何がどうしてこの人はそこまで思い詰めてしまったのか、リュンヌには知る由もないが、たった一つだけ分かることがある。


 彼女の半生はこの日のためにあったということだ。


 哲学、執念の強さ、周到さの全てで負けた。諦めてはならないと、心の奥底で賢明に叫んでいる声があった。リュンヌだってまだ生きたいと思う。負けたくない意思はある。だが、もはや意思の力だけでは覆せない状況だ。


 全てを諦めるその代わりに、許してくれ、と祈った。


 ソル。

 アルシュ、カノン、ティア。


 様々な人の顔が頭の中で浮かんでは消えていった。友人、あるいはこれから友人になれたかもしれない何百もの人を思い浮かべた。記憶力が良いというのは損だ。未練が多いということだから……。


 どうか、私のいなくなった朝が、今よりは少し良いものでありますように。誰にも通じないと知っていて、それでも祈りを捧げるしかできなかった。


 そして。


 力を失った指先から何かが滑り落ちたとき、塞がりかけた視界一面が真っ白な光で焼き尽くされるのを見た。

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