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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅲ いざないの手紙
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chapitre24. 未明の逃走

 眠りの殻に石を投げる者がいる。


 ソレイユは何度か寝返りを打った。しかし、眠りを妨げる音は止まない。目蓋の向こう側はまだ真っ暗で、夜明けが遠いことを告げている。友人が起こしに来るような時間でもないはずなのに。


「ルナ……?」


 寝ぼけたまま彼女の名前を呼ぶと、また例の音がした。大きくはないが硬い音だ。

 ――まるで石を壁に投げつけるような。


 それに思い至った瞬間、混然としていた意識が急速に鮮明になる。ソレイユは布団を剥いで起き上がった。靴も履かないまま、音の発信源を探す。不規則なリズムで、しかし継続的に鳴っている音は塔の反対側から聞こえていた。その部屋に駆け込み、窓の外を見た。


 暗い、大きい影が空中にあった。


 窓を開けると、髪が一本残らず後方に流れるほどの強風が彼の顔に叩きつけられた。

 風圧に耐えて目を開き、影の正体を見る。


 それは空中に浮いていた。


 巨大な昆虫を思わせるフォルムに、一対の回転翼。呆気にとられて見上げるソレイユの目の前に、縄ばしごが降りてきた。昆虫の腹壁が横にスライドし、中から人のシルエットが躍り出る。百メートルを超える高所に臆する様子もなく、その人、アルシュは身軽に縄ばしごを伝って下りてきた。強風に煽られた髪がなびいている。ソレイユの目の高さまで降りてきて、彼女は顔にかけていたゴーグルを押し上げた。グローブをつけた手をこちらに伸ばす。


「遅くなってごめんなさい。今、出られる?」


 目の前で起きていることを呆然と見ていたソレイユは、ようやく状況が飲み込めた。


「具体的な手段って、これのこと……?」


 驚きを通り越して、ソレイユは思わず笑い出しそうになった。いつも不安そうに眉をひそめていたはずのリュンヌの友人、アルシュが、不安定な縄ばしごに片手をかけて堂々と宙に降り立っている。星空を背負ってソレイユを見据える、その表情には一点の迷いもない。


 ソレイユは感激して叫んだ。


「凄い、アルシュちゃん。こんな大胆なことするなんて」

「どうもありがとう、でも静かにね」


 アルシュはソレイユの賞賛を冷静に受け取りつつ、唇の前に指を立てた。

 ソレイユは慌てて両手で口を抑える。

 興奮してつい忘れてしまったが、時刻は静まりかえった真夜中なのだから。


「リュンヌを連れてきて。行きましょう」

「うん。ありがとう」


 ソレイユは踵を返し、小走りで中央の部屋を駆け抜けた。真正面にある、リュンヌの寝室の前に立ち扉をノックする。


 一回。

 二回。


 扉に手を打ち付けるが、応答がない。背中を冷たいものが走った。リュンヌの寝起きは彼と違って悪くない。いつもの彼女なら、数回のノックで十分目を覚ます。


「寝てるの?」


 恐る恐る向こう側に呼びかけた。扉に耳をぴったりと付けるが、聞こえるのは窓から吹き込む風が笛のように鳴らす僅かな音だけだ。寝返りの音ひとつ聞こえない。


「――ごめん、開けるよ」


 どうか眠っているだけであってほしいという祈りを込めながら、しかしその祈りが裏切られる予感を胸に抱きながら、ソレイユは扉を細く押し開けた。


 彼の祈りは裏切られ、嫌な予感は的中した。


 窓際に寄せられたテーブルの上に置かれた彼女のイヤリングに反射する光が部屋を照らし出す。その青白い部屋のどこにも、友人の姿はない。仄かなミントの匂いが、彼女に成り代わったかのように薫っている。


「……ルナ」


 がっくりと膝をついたソレイユの目に、不自然に乱れたシーツが映った。

 

 *


 同時刻、仄暗いバーにて。


「……お断りします」


 リュンヌは青ざめた顔できっぱりと断った。


 対するカシェは、さして予想外でもなかったかのように目を細める。密度の高い睫毛に縁取られた瞳が、光源を失って暗く沈みこんだ。いつの間にか新しいグラスを手にしており、微笑みの形に歪められた唇がグラスの縁に触れる。気化したアルコールを吸ってしまったのか、リュンヌの視界がぐらりと揺れた。蛍光色のカクテルが目に痛い。


「悪い話じゃないと思うわ。この私がついているもの、貴女は絶対に罪に問われない」

「そうじゃない……貴女は一体何を仰っているんですか?」


 リュンヌは痛みの残る頭を振った。


「自分の身の安全と引き替えに、ひとつの命を奪うなんてあってはならないことでしょう」

「貴女はそう思うのね。どうして?」

「それは――だって、貴女がたが言ったことじゃありませんか」


 言いながら、それでは反論したことにならないと気が付いた。

 案の定マダム・カシェは苦笑を浮かべる。


「じゃあ、それを撤回するわ。命が何よりも大切、なんて街中の平和ぼけしている連中にしか通じない綺麗事だもの。いらない器官を切り捨てるのは大小を問わずあらゆるレベルにおいて見られる。私にとって彼は“必要ない”のよ、と言ったらどうする?」


 どこか問答を楽しんでいるような雰囲気すらあるカシェに圧倒され、リュンヌは言葉を失った。


 人の命を何より重んじる価値観。

 それは、リュンヌたち研修生が意識的と無意識的とを問わず十年間刷り込まれてきた思想である。


 当然の、疑うまでもない正義だった。

 だが。それは一体、誰が唱えた正義だろう?


 マダム・カシェは政治部のなかでも有数の権力者だ。彼女の思想とはすなわちラピスの思想であり、研修生にとっての正義。ならば、そのカシェが意見を翻したのならば、研修生であるリュンヌも従うのが当然である――


 ――と、でも言わせたいのだろうか。


 リュンヌは心を奮い起こして、彼女の視線に真っ向からぶつかった。自分のこの目が、ただ景色を映すだけの鏡であってたまるか。真実を見極めるための窓だ。涙するための泉だ。そして、意思を語るための言葉だ。


「マダム・カシェ、貴女の言葉には左右されません」


 見慣れたオレンジ色の少年、幻像のなかで触れた手のひら、病室で語りあった声、遠くなってしまった図書館の記憶。いまの自分を形作る、愛すべきものたちを心に思い浮かべながら、リュンヌは毅然として答えた。


「命は何よりも重いというラピスの思想に私が共鳴した、それが全てです」

「そう。じゃあ、次は思考する人間としての貴女に尋ねるわね」


 カシェが表情一つ変えずに放ったその言葉は、裏を返せば、ここまでの問答は思考する主体に向けられたものではなかったということを意味する。仮にも幹部候補生の立場なのに、リュンヌはそれほど軽んじられていたのだ。


「――本当に死すべき命など一つもないと胸を張って言えるかしら。例えば、そう、この私に対して貴女はどう思っているの、優しいリュンヌ? 貴女の目の前で人に発砲し、ラムを殺せなどと命じる私は、貴女の世界で生きていて良いのかしら。ねえ、私が貴女の大切な人を殺したら、貴女は私を殺したいと思う?」


 言葉の物騒さに反して、カシェは悪戯っ子のような笑顔を浮かべる。


 彼女が何を言っても動揺しないよう、自制を働かせていても、リュンヌはほんの一瞬だけ無惨な死体になった友人たちを思い浮かべてしまった。吐き気がこみ上げ、口の中に胃酸の嫌な味が広がる。


 落ち着け。ただの思考実験、ものの喩えだ。

 深く息を吐く。


「マダム・カシェ、そうなれば私は生涯貴女を赦しません。ですが――貴女に思考する脳があり、則るべき正義がある限り、多様な人格のうち一つとして尊重すべきだと思います」


 罪を赦さないことと、その存在を許さないことは全く別だから。

 リュンヌはそう続けようとしたのだが、カシェは思いもよらぬ言葉に反応を示した。


「多様な?」


 カシェは一瞬、目を見開いて完全に停止した。


 数秒の間に笑いが顔中に広がり、それが臨界に達すると突然表情が崩れた。破顔した、と言うには凄惨すぎる笑顔を浮かべて、カシェは部屋中に高い笑い声を響かせた。指先につまんだカクテルグラスの液面が零れんばかりに揺れる。


 それは、リュンヌが今まで耳にしたことがない種類の音だった。


 悪夢のほうがまだ良いと思えた。きつい酒の匂いが充満した、何処ともしれない薄暗い部屋に、甲高い狂ったような笑い声を上げる恐ろしい女性と共にいる。


 リュンヌは縋るような気持ちで背後を見た。


 割れたガラスを掃いているゼロが、相も変わらず感情の読めない目を一瞬向ける。彼だってカシェの手先であってリュンヌの味方側ではないのだが、今はその洞穴のような瞳がある種の救いになった。永遠に続くような錯覚を覚えさせた笑い声がようやく静まると、カシェは涙の浮かんだ目元を拭う。彼女にも涙腺があるのか、とリュンヌはおかしな感想を抱いた。


「ああ、面白い……多様性なんて、それこそラピスが一番に捨てたものでしょう? 人間を機械のように設計して利用する街で、多様性なんてどこにあるの?」

「……ありますよ。人は関係性の中に生きる生き物です」


 リュンヌは脳を必死に働かせて反論の言葉を紡ぎながら、一方でどこか違和感を感じてもいた。厭世や、あるいは人に対する冷笑のようなものが、カシェの言葉には見え隠れしている。ラピスを愛しているようで憎んでいる。嘲っている。


「生きてきた人生の数だけ多様な思想を持つものでしょう。どれだけ画一な教育を尽くしたって、その感じ方は一人として同じじゃない」

「なるほど。ええ、その考え方はとても価値あるものだわ」


 講師が優秀な生徒に向けるような賞賛を口にして、でもね、と冷たい口調で言う。


「その理想を追求するには、人は贅沢を覚えすぎたし共同体は衰退してしまった」

「……どういう意味ですか」

「多様性の名の下にいらない遺伝子を飼っていられるほどラピスは豊かではない。選択的特化によってラピスは生き返り、それができなかった世界は滅びた。多様で豊かな社会、なんてお伽噺を唱えていた頃はね、ラピスが一万個あってもまだ足りないほどの人間がいて、この星の全てが人の配下にあった……貴女なら知っているでしょう?」


 カシェの目がすっと細められる。


 視線はリュンヌに向けられているが、その焦点は遥か背後にあるようだった。見えるはずのない過去を語る口調は甘く穏やかで、カシェの鋭利な風貌に、エリザの穏やかな微笑みが重なって見えた。


 そう、もしエリザが生きていたらカシェくらいの年齢なのではないだろうか。


 感情を刻んだ証である目尻の皺が、彼女の滑らかな肌にも現れているだろうか。ステンドグラス越しに図書館にさし込む日光の彩りが、まるで今ここにあるかのように思い出される。


 いつもエリザの顔に降り注いでいた穏やかな光。


 年を経ても笑顔の形はそのままであってほしいと、頭の片隅でそんなことを考える。

 心の中に浮かんだエリザの笑顔は、リュンヌの置かれた状況をつかの間忘れさせ、暖かい安らぎをもたらした。


「――でも」


 カシェの唇に浮かんでいた綺麗な弧が、端から歪んでいく。


 夢見るようだった口調が急速に冷めていき、氷の温度を取り戻した。カシェのひと言で、幻視していた日光の煌めきは跡形もなく消え去り、リュンヌはバーの薄暗さを思い出した。


「でも、その時代は終わってしまった。それが全てなの」


 カクテルを飲み干し、グラスを置いた右手がバーカウンターの向こうに消えたと思うと、次に現れたときには拳銃を持っていた。あまりに自然体の動作で警戒する間もなく、気がつけば銃口がリュンヌの額に当てられていた。金属の冷たい感触が額に押しつけられる。


 口の中が乾き、顔の筋が強ばった。

 憂いを帯びたカシェの目がリュンヌを見据えている。


「さ、もう一度考えて。ラムを殺せる?」


 これは脅しだ。リュンヌは呼吸が荒くなるのを感じた。公正な取引とはとても言えないが、そもそも上官と職員の関係はそういうものだ。命じられたならば理由など考えず唯々諾々と従うのが当然なのだ。リュンヌは絶望的な気持ちになりながら、それでも目を逸らさずカシェの顔を見た。


「――なぜなのですか」

「何のお話かしら?」

「なぜ貴女はムシュ・ラムを殺そうと言うのですか。そして、なぜ私に殺させようとするのですか」


 質問の意図の半分は、絶望的な状況を少しでも遠ざけるための時間稼ぎだったが、もう半分は純粋な疑問だった。


 リュンヌは会話をしながら、椅子の背に隠して手錠の様子を調べた。右手首と手錠の隙間はほとんど埋まっているが、左手首のほうは少し余裕があった。利き手でないぶん僅かに細いのだ。時間をかければ左手なら抜けるかもしれない。


 同時に、視線を逸らすふりをして背後を確認した。リュンヌたちが来た通路とバーの境目に扉はない。本来のここは、人々が自由に行き交うことのできる場所なのだろう。逆に言えば、手錠と後ろで見張っているゼロ、それにカシェさえ何とかすれば逃走は容易だ。


「理由が欲しい? そうね……」


 カシェは最適な言葉を探すように唇を緩く結び、視線を斜め上に向けた。

 リュンヌは左の手のひらを筒のように丸め、手錠をずらし始めた。血流が妨げられて指先が痺れるが、構わずに進める。


「あの男は禁忌を冒したの。――もう二十年前の話になるわね」

「――そんなに前のことですか」


 その声音が少し非難めいたのは、仕方ないと言わざるを得ない。時間が経てば罪が軽くなるわけではないが、なぜ今になるまで裁かれなかったのだろうか。リュンヌの疑問を含んだ声に、カシェは鷹揚な笑みを浮かべた。


「放っておいたわけではない。待っていたのよ、リュンヌ、貴女を」

「だから、何故、私なのです?」


 額に触れる冷たい銃口から伝わる、身体中を痺れさせるような恐怖に耐えながらリュンヌは強い口調で聞き返した。その背後で、左手から手錠がずるりと抜けた。圧力から解放された指の骨が軋むような痛みを放つが、構ってはいられなかった。

 座る腰の位置をずらし、地面に足先を付ける。


「それはね――」


 もったいぶった口調でカシェが唇を開いた瞬間を逃さず、リュンヌは右手首を振り上げた。顔を横に逸らして銃口を避けつつ、カウンター上部のラックに整列しているワイングラスに外れた手錠を叩きつけた。幾つかは派手な音を立てて粉みじんに割れ、幾つかはラックから滑り落ちる。


 破片やグラスがカシェに降り注いだのを確認する暇もない。


 リュンヌは身を翻し、地面を蹴る。


 斜め後ろに立っていたゼロの脇をすり抜け、開いたままになっていた扉から通路に転げ出る。惨劇を予想させる派手な音が背後で響いたが、リュンヌは構わず立ち上がって駆けだした。来た道をそのまま戻ろうかと一瞬考えたが、それよりは通路の複雑さを利用すべきだと考え、運を天に任せて脇道に飛び込んだ。


 突然、ブザーの物々しい音が鳴り響く。

 同時に、辛うじて物の輪郭が見える程度だった薄暗い通路が真っ白に照らされた。


 カシェの手による事態なのかはともかく、隠れにくくなったのは明らかだった。

 だが、明るさに目さえ慣らしてしまえば逃げる側にとっても有利だ。


 リュンヌは動揺せず、とにかく歩を進めた。


 どこで通路が繋がっているか分からない。だから、できるだけバーから距離を稼ぐように走るのが最善だと考え、左折した次は右折、その次は左折とリュンヌは息を整える暇もなく走り続けた。


 五分ほど走っただろうか、今までとは趣の違う場所に辿りついた。


 縦に長く伸びる巨大な空洞めいた空間。上下に果てしなく伸びた円筒の形をしており、どこまで続いているのか目視では確認できない。穴の周りをぐるりと一周できるように細い通路が設けられており、リュンヌが飛び出したのはその通路の一角だった。異様な空間に目を奪われるが、何よりも目を引いたのは、空洞を上下に貫く直径二メートルほどの柱だった。通路から二箇所、円筒に向かい伸びている脇道がある。


 リュンヌにもその柱が何か分かった。


 昇降装置だ。


 この上下方向に果てしなく広がる巨大な施設――と呼んで良いのか分からないが――を行き来するために、昇降装置が設けられているのは容易に理解できた。


 リュンヌは恐る恐る通路を歩き、装置の目の前まで進んだ。通路は一歩を踏み出す度に心許なく揺れ、手摺りは体重をかければ折れそうなほど腐食が進んでいた。柱の壁面に一部凹んでいる面があり、その中には両側に開きそうな溝があった。扉の役割を果たすのだろう。その脇に、取っ手のようなものが斜め上に突き出ている。容易に押し下げられる構造から、恐らくオン・オフの情報を伝えるスイッチだろう。


 すると、昇降装置の起動回路だろうか。

 リュンヌは祈るような気持ちで取っ手を押し下げた。


 カチリ、という何かが合わさったような手応えがあり、同時に滑車の駆動する音が空洞中に響きわたった。轟音が遥か下方から足元に迫ってくる。空気が抜ける静かな音と共に壁面が左右に開き、装置の内側を晒した。


 リュンヌは導かれるように、内部の小部屋に歩を進める。


 内側の構造は、塔の上と祈りの間を繋いでいる昇降装置によく似ていたが、唯一の違いは扉の脇に手のひら大のパネルが貼り付けられている点だった。パネルは青緑の光に縁取られ、中央に『待機中』の文字が浮かんでいる。導くように点滅しているそのパネルに指先を触れさせると、光の色が赤に変わり、文字が変わった。


『認証失敗』


 耳障りなブザーが鳴り、ちかちかと点滅したのち画面は元に戻った。あざ笑うようなパネルの無機質な文字に唇を噛み、何度か試行錯誤するが結果は同じだった。昇降装置の想定されるユーザーと、リュンヌのような部外者を何らかの方法で見分けているようだ。焦燥感で震える自分の指を見て、ふと気がつく。


「――指紋か?」

「いいえ、静脈認証よ」


 リュンヌの独り言に、艶のある声が答えた。


 身を強ばらせたリュンヌの背後を、質量を持った閃光が駆け抜けた。身体が横に引っ張られて、リュンヌは昇降装置の壁に身体の側面をぶつけた。首のすぐ後ろで嫌な振動音がして、恐る恐る手を伸ばすと、壁にまっすぐ突き立った矢だった。それで服の襟を射貫かれたのだ、と気付く。

 首筋の後ろを触れると、ぬるりとした嫌な感触がする。触れた手を見るとそこには、血と髪の毛が混ざり合ってまとわりついている。


 リュンヌが不自由な姿勢のまま通路を振り向くと、無表情で弓を構えるゼロの後ろに、顔の半分を血に浸したマダム・カシェが微笑んでいた。


「素敵よ。リュンヌ、なかなか面白かったわ」


 彼女が口の端を釣り上げると、頬に刻まれた切り傷が開いて鮮血が滴り落ちる。浮かんでいる笑顔の凶悪さと相まって、リュンヌに身が軋むほどの恐怖を与えた。


「貴女の意志の強さ、思い切りの良さは感嘆に値する。その度胸を買って――私からも、切り札を見せるわ」


 またね、とカシェの口元が動く。


 その瞬間に昇降装置の扉が音を立てて閉まり、部屋は激しく振動しながら降下を始めた。振動で矢が抜け落ち、支えを失ってリュンヌは床に崩れ落ちる。自分が震えているのか、装置が揺れているのか判然としないまま、自分の髪の毛が散らばる床に力なく座り込んだ。

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