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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅲ いざないの手紙
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chapitre22. 決断の夜

「返事は書いた方が良いのだろうか」

「読んだことがアルシュちゃんに伝わればそれで良いから、必要ないと思う。この子がちゃんと戻る保証もない」


 ソレイユの意見にリュンヌが納得したので、二人は伝令鳥(ポルティ)を放した。怪我をしているのではと心配したが、窓の外に出してやると元気に羽ばたいて遠ざかった。鳥が言葉を理解するはずもないのに、ソレイユは伝令鳥(ポルティ)に手を振り「またねぇ」と笑った。


 その午後は、ティアの話す言語を二人で勉強しながら過ごした。


 そして、満月が天頂に近づく深夜。


 じゃあ明朝に、と言い残してソレイユは部屋を出て行った。残されたリュンヌはイヤリングを外し、ジャケットを畳んでベッド脇の机に置いた。編んだ髪を解いて肩に下ろす。ブーツは既に脱いで、壁際に揃えてある。


 部屋の灯りを消し、月明かりだけが照らすベッドにぼんやりと身を横たえた。

 窓から流れ込む夜風が、日に日に冷たくなっていくのを感じる。


 いつもなら翌日に備えて目を閉じるのだが、今日に限っては目を開けたまま暗い天井を見つめていた。胸郭の内側で鳴る心臓の音が聞こえそうなほどの静寂に身を預け、リュンヌは今日のことを思い返していた。


 思えば長い一日だった。

 昨日までの、飽くほどの空白が嘘のように。


 頭の中に、記憶を映した小片が幾つも散っていた。


 図書館のステンドグラス。

 ティアの黄金色の瞳。

 薄墨と濃茶で記された、二つの手紙。二人の差出人。


 その顔を交互に思い浮かべて、短い溜め息をついた。


 長年の友人、アルシュからの手紙。

 誠実さと謙虚さが窺える文体は、塔の下で起きている事態を簡潔に綴っていた。


 すでに多くの協力者がいるなどとは、どこか信じられない一方で、やはりそうか、と納得している自分もいた。ゼロ、あるいはサジェスのように、幹部候補生に選ばれてから音沙汰を絶った研修生は少なくないのだろう。彼らの知人が抱えていた小さな疑問が、アルシュの持ち込んだ「証言」、即ちリュンヌたちが塔の上に幽閉されているという仮説によって集積したと考えれば、あながち無理な話でもなかった。


 そして、彼女の洗練された文章と選ばれた言葉とは対照的に、断片的な表現を並べたもう一つの手紙。文章こそ短いが、それに反比例するように強い衝撃を与えていった。


『一人で、誰にも告げず、明朝、午前3時に』


 記憶に焼き付いて離れないその文を、小さく呟いた。

 約束の時間はもう遠くない。決断までに残された時間が、刻々と減っていく。


 リュンヌは半身を起こし、部屋の壁を見つめた。

 隣室にはソレイユが眠っている。


 決めなければ。彼にメッセージの内容を伝えるか、隠したままメッセージの内容に従うか。文末に添えられた一つの名前さえなければ、リュンヌの行動は決まっていた。誰よりも信頼できる幼馴染に、隠し事をする理由なんてないはずだった。


 エリザ、彼女の名前さえなければ。


 それに、ティアが言っていたことも気になった。彼のいた世界で、五次元空間構想を唱える“信仰者”たちを率いていたのはエリザという名の人間だったという。どうも、エリザが何らかの鍵を握っているように思えてならないのだ。もちろん、記憶の中にしかいないエリザにもう一度会いたいという感情はあるのだが、それを差し引いてもなお、エリザのことなら何であれ知りたいと思った。


 心が落ち着かず、リュンヌは窓際に寄って月を見上げた。

 自分の名前の元となった、その天体はラピスの遥か上方で、静かにこちらを見ている。


 思えば月と人間の関係は不思議なものだ。


 太陽がなければ、作物は実らず、街は凍りつき、人は残らず死に絶えるだろう。だから人間が太陽を崇め奉るのは当然のことだ。


 だが、月はどうだろう。


 月は何もしてくれない。ただ夜空に輝き、時折、夜の孤独を慰めてくれるだけの存在だ。正直なところ、リュンヌは自分の名付け親であるその天体があまり好きではなかった。最も近い場所に、太陽の名を冠した友人がいるから、というのもその原因だろうか。太陽に比べてひどく矮小で何の役にも立たない存在、という意味に思えたのだ。


 ――それでも。


 不安定な心を抱えて見上げる月は、ぞっとするほど美しかった。


 欠けも割れもしない、まっさらな円。限りなく白に近い青色の光が、等方的に広がって夜空を染める。複雑な形状と色彩の組み合わせである自然界において、異質なほど無機質で単調。


 それが月なのだ。夜の静謐を見下ろす目のような存在だ。


 ふと、疑問に思う。――どんな理由で自分は、(リュンヌ)と名付けられたのか。


 運用目的に基づいて人間が「生産」されるラピスでは、機械的に名詞を割り振って名前が決定される。だから、おそらく意味は薄いのだろう。それでも名前とは、ここにいるリュンヌを表す唯一の言葉だ。名前が全ての礎なのだ。


 では自分もまた月のように、静かに見守っている存在のまま終わるのか。新都の人間に期待されているのは、きっとそういう人生だ。疑わず、手を出さず、粛々と眺めるだけの人間。


「それで良い、わけがない」

 

 夜空を目に映し、リュンヌははっきりと呟いた。時にはリスクを背負いながら、それでも現状に抗うこと。それこそ人間らしさというものじゃないか。新都が忘れさせてきた、本来の人間像だ。テーブルを窓際に寄せ、月明かりを頼りにリュンヌは文字を綴りはじめた。薄墨の手紙に従うと決めた。但し、何もせずに行くのではない。罠であるかもと分かっていて、それでも一縷の望みをかけて向かうのだから、こちらも準備をする。


『親愛なるソル』


 漆黒のインクが紙面に文字を刻んでいく。伝言を一通り仕上げ、インクが乾いたのを確認して、紙をシーツの下に挟む。ブーツに装着した銃の状態を確認する。そして最後に、ジャケットの裾にとあるものを隠した。


 扉を慎重に押し開け、塔の中央の部屋に向かう。

 隣の扉にちらりと視線をやり、その部屋が静まりかえっていることを確認した。


 リュンヌは正七角形の部屋に入り、水晶端末(クリステミナ)を起動した。


 暗闇に投影された画面を操作し、昇降装置の解錠を要請した。今まで何度試しても認証に失敗したのに、リュンヌがコマンドを打ち込むと軽い音が鳴り、次いで聞き慣れた重低音が部屋に響き渡った。昇降装置が作動しているのだ。


 『認証成功』の文字が、ホログラムの画面に浮かんで消える。


 目の前にせり上がり、側面をスライドさせて暗闇の内壁を見せた昇降装置に、リュンヌは乗り込んだ。振り向くと同時に扉が閉じ、下向きの加速度を感じる。円筒形の空気ごと下に降りていく感覚は何度か味わったもののまだ慣れず、二の腕が粟立つのを感じた。


 十数秒後、上向きの加速度と共に装置が停止した。


 リュンヌは足首に手を伸ばし、銃を抜いて後ろ手に隠し持った。深呼吸をしたのを見ているかのように、装置の扉が静かにスライドする。


 祈りの間。


 静寂と暗闇が満たされた部屋に、扇形に光が差し込んでいた。扉が開いており、シルエットになった誰かがいる。明暗の差が激しく、その顔は見えないが、長い髪が腰の辺りで揺れているのが分かった。


「リュンヌ。待っていたわ」


 涼やかで優しい声が、彼女に呼びかけた。

 その声によって、ほんの一瞬、リュンヌは全てを忘れた。


 自分がいる場所、腹に据えたはずの決意、状況、立場、その全てを。代わりに思い出す。今の半分の年齢だった頃の、あの暖かい半年間の記憶が蘇る。赤っぽい絨毯、陽光の差し込むステンドグラス、ふわふわの掛け布団、そして――


「エリザ?」


 そして、誰よりも信頼したひと。


 彼女の名前を、リュンヌは影に向かって呼びかけた。全てが曖昧な、甘い夢の中に迷い込んでしまったようだった。踏み出す足が、綿飴を踏むように覚束ない。そこに彼女がいるような気がした。手を伸ばせば、あの日の図書館に行ける。最後の別れとなってしまったあの日の、続きがあるような気がした。


 もし、

 あの日、エリザと別れずに済んでいたら。誰かの言葉が、耳の奥で反響した。


 ――後悔していることはありますか?

 ――そのとき、もしも、自分が夢想したとおりの世界があると言われたら?


 あの穏やかな時間が続くのなら、何もいらない。布団にくるまって本を読んだあの冬が、春になっても夏になっても、秋も、次の冬が来ても、ずっとずっと続いていたのなら。ああ、それなら、それならどんなに良かっただろう。


 後悔。

 そして憧憬。


 蜂蜜のように優しく、どろりとした感覚は、瞬く間にリュンヌを飲み込んだ。あらゆる輪郭が溶けていく世界の中で、光を背負って立つ影だけが明確だった。


 そこにエリザがいる。


 リュンヌがそう確信した瞬間、力が抜けた指先から、銃が滑り落ちかけた。


 金属の冷たさと重さが、かろうじて引っ掛かった指の関節に響く。その硬質な感覚が気付け薬となって、リュンヌは正常な視覚と認識を取り戻した。崩れた姿勢を立て直す。


 扉の向こうにいるのはエリザではない。


「――マダム・カシェ」


 冷たい絶望と共に、リュンヌはやけに息苦しいのを感じながらその名前を呼んだ。さっきまでそこにエリザがいるような気がしたのは、幻覚以外の何ものでもない。強いて言うなら髪が長いことを除けば、カシェとエリザは全く似ていないのに。彼女の雰囲気に飲まれてしまった、という他に言いようがなかった。


 カシェが哀れむような顔で微笑んでいるのが見えた。


 そして、ようやくリュンヌは、もっとも大事な、致命的な事実に気がついた。

 だが、あまりに遅かった。


 それに気付く頃には、膝から力が抜け、視界が傾いていた。頬に絨毯が触れる感覚がする。金属質な音は多分、銃を取り落とした音だ。朦朧とした視界のなかで、カシェが膝を折り、リュンヌに顔を寄せるのが分かった。


 その顔の半分を、黒いガスマスクが覆っている。多分初めから、この部屋には人の意識を奪うような、麻酔ガスが充満していたのだ。もしかしたらカシェをエリザと誤認したのもガスの作用だろうか。――そうであってほしい。似ても似つかない他人を、他でもないエリザの姿と見間違えるなんて、できれば嘘であって欲しかった。


 カシェが長い前髪をかきあげる。マスクにはめ込まれた透明な板の向こうで青い瞳がまたたき、リュンヌの顔をのぞき込んだ。


「直前で気付いてしまったのね。可哀想……」

「貴女ですね? あの手紙は」


 リュンヌは動きを止めようとする思考に鞭打って言葉を紡いだ。

 口が上手く回らない。


「エリザの名前を使うなんて――」


 目蓋が鉛のように重く、ついに抗えなくなってリュンヌは目を閉じた。途端に、今まで意識と呼んでいたものが遠ざかり、自分の最奥に収縮していく。最後に思い描いたのは、太陽のような相方の顔だった。


 やはり、嘘を吐いても、なにも良いことなどなかったのか。

 失望感を最後に、リュンヌは意識を失った。


 *


 リュンヌが意識を手放したのを確認して、カシェは後ろに視線を投げた。控えていた、顔を隠した男が二人歩み寄り、一人がリュンヌを担ぎ上げる。もう一人が部屋の換気設備を作動させ、部屋を施錠する。そのどちらにも目をくれず、カシェは廊下を歩いて行った。


 彼女の後に男たちが従う。

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