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ラピスの再生論  作者: 織野 帆里
Ⅲ いざないの手紙
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chapitre20. ビヨンド

 如何にすべきか、とリュンヌは頭を抱えた。

 

 自分は未来から来たと、そう信じている少年の主張する「未来」が、暦の上で「現在」と全く同じであることをどう(ティア)に伝えるべきか。考えるより先に話をする、が行動指針らしいソレイユも、流石に今度ばかりは難しい顔をした。ティアにどう伝えるかという問題以前に、そもそも状況が飲み込みきれないらしい。


「未来から来た、というのは間違いだったの?」


 ソレイユがティアには通じない言語で呟く。そうすると全ての根底が揺らいでしまう。いったい彼は何者で、どこから、いつからやってきたのか。


 いや、ティアの言った言葉を信じるならば、その質問に答えるのは簡単だ。


 彼は、リュンヌたちと同じ研修生。

 ラピスの最高権力府、統一機関の、創都三四二年からやってきた。


 問題は、それがリュンヌたちの境遇と全く同じであることだ。だが、ティアがあの襲撃事件の時まで、新都のどの記録にも載っていなかった存在であることは、今さら確認するまでもない。


「じゃあティアはどこから来たんだ?」


 結局、一番最初の疑問に戻ってしまった。

 机に肘をついて、「簡単に考えれば」とソレイユが落ち着いた口調で言った。


「ティアはラピスから来たし、創都三四二年から来た。字面通り受け入れるなら、つまり、ラピスがもう一つあるってことだ。ぼくらの知らないラピスが」

「少しも簡単ではないが……」


 リュンヌは飲み込みきれず、曖昧な返事をした。机上の空論やおとぎ話としてはソレイユの主張も理解できる。だが、現実として受け入れるにはあまりにも突拍子がない。


「――例えば」


 リュンヌは悪あがきを試みた。


「ティアがいる未来では暦の数え方が違うとか、そういう可能性はないのか? 偶然、数が一致したとか」

「まあ、無いとは言えないさ」


 ソレイユはあっさりと頷いた。「でもね」と返す刀で続ける。


「そもそもさ、違う言葉を使っているのが説明できないんだよね。未来のラピスから来たってことにすると」

「あぁ……そうか。なぜ公用語が変わっているのか、という問題になるな」


 リュンヌの返事に、そうそう、とソレイユが頷く。


「まあ、時代を経て言葉の形が変わる、あるいは転訛するという可能性はあるね。だけど、そうすると……」

「この本が今ある、という事実に矛盾するわけだ」


 リュンヌは、図書館で借りてきた本にちらりと目をやった。未来で作られた言葉について書かれた本が現在に存在するのはあり得ない。従って、リュンヌの仮説は却下できる。


「そう。だから、ぼくたちはもう一つのラピスの存在を認めるしかない」

「分かった。とりあえず、それを仮定しよう」


 二人が頷き合うと、ティアが心配そうな瞳でこちらを見ているのに気づいた。リュンヌはできるだけ表情を穏やかに保ち、彼を不安にさせないよう努めた。表情をコントロールすることには慣れていないので緊張する。


『……ティア。創都から数えて三四二年目の年より来たと、言ったな』

『はい。――でも』


 彼は少し瞳を彷徨わせたが、決心するようにぱっと顔を上げた。


『お二人は、それは嘘だと思ってるんですね?』


 向かいに座っているソレイユが、ほんの少し目を見開いた。リュンヌも同じような表情をしただろう。ティアに理解されることを防ぐため、わざわざ通じない言語で話したのに、空気だけで気取られていたようだ。


「隠しても仕方ないみたいだね」


 そう言ってソレイユは苦笑する。ティアの天性の才能なのか、それとも「もう一つのラピス」における訓練の成果かは分からないが、ティアはかなり勘が冴えるようだった。正直に話そう、と訴えかけている友人の視線を受けて、リュンヌは深呼吸してから話し出した。


『――まず、ティアが嘘を吐いているとは思っていない』


 ティアが幾分かほっとした表情になった。

 だが、とリュンヌは続ける。


『おかしな点は、私たちがいるこの時間もまた、創都三四二年の秋である、という点だ』

『……え?』 


 感嘆詞をひとつ零したきり、ティアは一切の言葉を忘れたように黙った。耳を穿つような静寂がしばらく三人の間に満ちていた。雲が太陽を隠し、部屋は薄闇に包まれる。ティアはゆっくりと顔を上げて、黄金色の瞳にリュンヌを映した。


『どういうこと、ですか?』

『君が未来から来たという仮定が、そもそも間違っていたんだ』


 リュンヌは順を追いながら簡潔に説明した。自分たちがティアと同じく、統一機関に所属する研修生であること。ティアの証言と照らし合わせて、リュンヌ達が「もう一つのラピス」に住まう存在であることを、慣れない言語で、理解されることを祈りながら話す。


 話を聞き終えたティアは、神妙な顔で何か考えているようだった。


『――理解できなかったか?』


 リュンヌは不安になって尋ねる。年齢に不相応なほどに賢そうとは言え、見たところティアは十歳にも達していない。だが、彼は首を振った。


『聞いたことがあります。その話……』


 まぶたの裏に記憶を映し出すかのように、ティアは目を強く閉じた。


『誰かが話してた……』


 記憶の中の自分に語りかけるように、ティアは掠れた声で言葉を繰り返す。ティアの様子を見て、リュンヌはソレイユと目を見合わせた。ソレイユの目が「待とう」と言っている。リュンヌは頷き、ティアが記憶を辿る旅から帰ってくるまで辛抱強く待った。


 再び雲が風に流れ、窓から陽射しが降りそそぐ。部屋の温度が上がるのを待っていたかのように、ティアがぱっと目を見開いた。水晶をちりばめたような光が瞳の中に捉えられて泳ぐ。夢から醒めたときのような覚束ない顔のまま、『……思い出した』と彼は呟いた。


『五次元空間構想。ラピスの、とある集団が主張していた説です』


 ティアは彼らを「神秘の信仰者」と迂遠に表現した。


大いなる力(ビヨンド)、というものを彼らは信仰していました。水晶に宿る――人知を超えた力、だと』

『水晶か……水晶に神懸かり的なものを見出す集団は、こちらにもいる』

『やはりですか』


 ティアは不自由な手にぎゅっと力を込めた。手錠の鎖が触れ合って音を立てる。


『ラピスは水晶を用いた技術で発展したようなものです、よね?』


 ティアが確認するように語尾を上げたので、頷いてみせる。リュンヌの認識している、ラピスの技術史と一致する。やはり彼が来たのは、限りなく似ている別の世界からなのか。


『それで、その……五次元、というのは?』


 リュンヌが話を進めると、はい、と頷いてティアは右手を大きく広げた。指のすき間から陽光が零れ、扇のように広がった。二人にも見えるように、五本の指を一つずつ曲げていく。


『僕たちの認識している三次元に、時間の軸』


 親指から薬指までを順に畳み、最後に残っている小指をゆっくりと折り曲げた。


『そして、可能性の軸を足して……五つ、です』

『……可能性って』


 聞き返したリュンヌに、ティアは『えっと』と難しそうな顔をした。


『例えば、ええと、リュンヌさんは――激しく後悔していることはありますか?』

『全くない――ということは、ないが』


 リュンヌは曖昧に言葉を逃がした。ごく些細な後悔ならば、ある。もっと周囲の人と話しておけばよかった、という胸の奥に刺さる楔のような後悔が。だが、激しい後悔と言われると、それらしいものが思い浮かばなかった。というよりも、役割に沿って生まれた人生は一本道で、選択の猶予がなかったと言うべきだろうか。


『――まあ、ある人もいるのだろうな』

『はい。彼らは……“信仰者”たちは得てして大きな後悔を抱えています。過失で知人を亡くした者や、役割に背きその身分を追われた者など。そんな彼らが夢想するのは――もしあの時、違う選択をしていればどうなっていたのか、ということです』


 ティアは言葉を切り、苦いものを堪えるような顔になった。


 彼もまた、多くの人を傷つける結果になってしまった、あの日を後悔しているのかもしれない。


 もしもあの時、銃を持っていなければ。

 もしも、もう少し早く冷静になれたなら。


 そういった幾つもの、「あり得たかもしれないが、実際にはそうならなかった可能性」を反芻しては甘い夢に酔いしれ、夢から醒めては現実の哀しみに浸るループ。深い後悔に胸を灼かれた人々が、そういう行動に走るのは想像できた。


 唇を噛んだティアが、思考を切り替えるためか頭を振り『それで』と言葉を継いだ。

 顔が暗い影に閉ざされて、その表情は読めない。


『――そのとき、もしも、自分が夢想したとおりの世界があると言われたら、そちらに傾きたくもなる。そうは思いませんか?』

『ああ……それで、可能性の軸か。選択の結果で分枝した、理想の世界……』


 ようやく、話の着地点が見えた。

 ティアは頷く。


『干渉も観測もできないけれど、理想の選択を反映した世界があると、深い後悔を抱えた人々に説いているようです。そして、水晶に祈りを捧げることにより、誠意が大いなる力(ビヨンド)に届けばその世界へ行ける、と……。それによって勢力を集めている集団の仮称が“信仰者”です。こちらではどうか分かりませんが、僕のいたラピスでは、統一機関を批判する勢力が無視できない程度ありました』


『反体制派か……あまり聞かないな』


『こちらは幾分穏やかなのですね。実は、あちらでは市民の反発が年々大きくなっており、数回ですが突発的な暴動が発生したこともあったのです。“信仰者”たちも、あまり穏やかとは言えない集団でした』


 ティアが悲しげに眉をひそめて言った。彼がこちらに移動してくる前、市民が統一機関の中に雪崩れ込んできたと話していたのも、機関の支配が行き届かなくなっていることの証左だろうか。

 リュンヌが言葉を書き留めたノートを読んだのか、ソレイユが「そういう、統一機関の権力を良しとしない人たちならこちらにもいるよ」と呟く。


「そうか?」

「そりゃ、いるさ。特権をよく思わない人たち。確かに、具体的な行動を起こす……とまではいかないけどね、個人レベルならいるよ」


 当然でしょ、とばかりにソレイユが肩を竦めた。


 確かに、一歩街に出ればいかに自分たちが恵まれた身分にいるか分かる。権力も物資も集中している統一機関に、決して友好的でない眼差しを向ける人は少数ではない。彼らが批判しているのは統一機関や権力そのものであり、リュンヌ自身ではないとはいえあまり愉快ではなかった。


 だが、今は少し違う意識を持って彼らに思いを馳せることができた。


 無意識のまま、自分たちは呑気に特権に浸かっていた。自分だけではないから、特権の存在に気づかなかったから、というのは言い訳にならない。知らないというのが如何に恐ろしく罪であるか、ようやく理解できるようになったのだ。


 自分が歯車だったことを、今になって実感させられる。誰かの意思によって配置された部品。ただそこで、然るべき仕事をこなしていれば飼ってもらえる存在だった。


 リュンヌは暗いほうに進んだ思考を振り切るように、ティアと視線を合わせる。


『それで……つまり、ティア、君は可能性軸上を移動してきたことになるのかな』

『五次元空間構想を仮定するならば、はい、そうなります』


 やや釈然としない顔で、ティアが頷いた。自分自身が巻き込まれるまで、可能性軸上にあるもう一つの世界などは、所詮、市民の世迷い言だと思っていたのだろう。感傷と後悔が、ティアの表情から見て取れた。


 僕は、とティアが苦々しい声で言う。


『――元のラピスに帰りたい、とは思っていないんです。償いきれない罪を犯しましたし、それに、こちらのラピスはあちらほど秩序が崩れていないようです。だけど、僕はこれから……』


 どこに行けばいいのでしょう、と心細げな言葉を膝に落とした。


 自分が別の世界から来たと知って、彼の孤独はさらに増しただろう。たった一人別の世界から迷い込んだ、幼い少年にかける言葉が思い付かず、リュンヌはただ黙って彼を見つめるしかできなかった。小柄な体躯には不釣り合いな落ち着きを兼ね備えているが、そうは言っても子供なのだ。


 ティアは正午の近づく空を、憂いの表情で見上げた。

 その顔がふと、緩む。桃のような頬に光を受けて、産毛が煌めいた。


『……やはり、ここはラピスです。僕の故郷だ』


 瞳にラ・ロシェルの街並みを映し、その口元が柔らかくほころんだ。

 不安げに見つめるソレイユとリュンヌに、はにかむような笑顔を向けてみせる。


『それが分かっただけでも、それに――あなた方がいるだけでも、僕にとってはこれ以上望めないくらいの救いです』


「今、なんて?」


 ソレイユが聞いてくるので、ティアの言葉を訳して伝えると、ソレイユの顔がぱっと喜びに溢れた。思わず身体が動いてしまったというように、彼はティアの小柄な身体を抱きしめる。


「良かったぁ……」


 言葉の意味は分からずとも、ソレイユの喜びようは伝わったらしく、突然の行動に戸惑っていたティアの表情が少し柔らかくなった。ティアを解放したソレイユが、リュンヌの顔を見て別の種類の表情を浮かべた。楽しげに笑っている。


「ルナ、頬が緩んでる」

「なっ……ソルこそ」


 二人は一瞬だけ言い争って、それから互いに照れたような笑い声を零した。


 少し乱れた髪を直す、ティアの耳が僅かに赤かった。ソレイユは隠しきれない喜びを周囲に蒸散させるような笑顔を浮かべている。自分はどんな顔をしているだろう、とリュンヌは気になった。ソレイユの言葉を信じる限り、そこまで無愛想な顔ではないようだが。


 そのとき部屋に、突然場違いな音が響いた。

 ソレイユが瞬時に表情を変えて、「ノートを隠して」と口の形で告げる。


 低く単調な音は、昇降装置の稼働音だ。


 ムシュ・ラムか、ゼロがやってくる。恐らくはティアを迎えに来るのだろう。


 ノートを隠すのは、ティアが未来ではなく別世界からやってきたことをムシュ・ラムに伝えるべきか否か、の判断がまだ下せないからだ。選択の結果で分岐した別の世界が存在するという話は、下手をすると妄言扱いされかねない。そうなればティアがどんな扱いを受けるか、想像するだに恐ろしかった。


 ゼロが置いていった鍵で、ティアの手錠と椅子を繋ぐ錠を外す。


 ソレイユはノートの隠し場所を探していた。部屋には机と椅子以外何もなく、ノートを隠すというのは意外に難しい注文だった。


「窓の外に吊そうか」

「本気か?」


 本気本気、と言いながらいとも容易くソレイユは窓の桟に足をかけた。片手で窓枠とノートを掴み、もう片方の手でベルトに隠した鞭を抜き、ノートのリングに通した。それがロープの代わりらしい。


 その様子を見てティアが不安げな顔をする。


『大丈夫ですか……?』

『うん、まあ平気だろう。気にしないでくれ、ああいう奴なんだ』


 リュンヌはティアを立たせ、部屋の扉を開けてやった。ティアは廊下に出て、中央の部屋に向かう。


 歩くたび、淡い色の癖毛がふわふわと揺れる。

 その後ろ姿を見て、ふと違和感を覚えた。


 違和感の正体はすぐに分かった。


 リュンヌは、中央の部屋に入る直前でティアを引き留める。不安げな彼に振り向かないよう言い、その細い首の後ろを見た。


 ともすれば髪に隠れるだろう場所に、墨を薄めたような色で、文字が書いてあった。

 目を近づけないと気づかないほどの薄さだ。三行に渡り、文字が記されている。


 しかもそれは、ティアの話す言語だ。


 理解が及んで、リュンヌは言いようのない恐怖に襲われた。ティアが自分でここに文字を書ける訳がない。誰かに書かれたのだろう。


 であるならば、きっとこれは。

 見たくない気持ちを堪えつつ、リュンヌは一行目を読んだ。


『親愛なるリュンヌ』


 やはりそうだ、と確信する。これは、リュンヌ一人に向けられたメッセージだ。第三者がいる。ティアが異言語を話すことも、この言葉の構造も、リュンヌがそれを読めることも知っている人がいるのだ。


 恐怖で喉が渇いた。それを抑えながら、リュンヌは文字の解読を試みる。

 二行目が一番長かった。


『一人で、誰にも告げず、明朝、午前3時に』


 文章として成立していない。

 これを書いた人物もまた、ティアの言語に精通している訳ではないようだ。


 だが意図は分かる。そして、恐ろしいのは二つ目のフレーズだった。


 誰にも告げるな。その言葉が、リュンヌの相方であるソレイユを指しているのは明白だった。言葉の主は、二人を分断しようとしているらしい。


 そして、短い三行目に目をやる。その、たった一単語を目にした瞬間、リュンヌは眩暈を覚えた。身体が平衡を失い、よろめいて壁に手を突いた。全身が熱くなったが、皮膚は凍ったように冷たい。震えそうになる声を必死に隠し、リュンヌは不安げなティアの顔をのぞき込んで問いかけた。


『エリザ……という名前を、知っている?』


 リュンヌにとって、最も大切な名前のひとつが、三行目に書いてあった。


 いや、エリザがこれを書いたのではない。

 ――エリザである訳がない。では、誰かがエリザの名前を騙っているのか。 


 問いかけられたティアは、口をぽかんと開けた。

 丸く開いた口から、『はい』と肯定の言葉が紡がれる。


『彼女は、五次元空間構想を唱えていた“信仰者”のトップです。なぜ、その名を知っているんですか?』

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