69話 強く、誇り高き種族
「ぐぁぁぁ……!! な、何故だ!? 何故、私の幻術が効いていない!?」
色白だが端正な相貌を歪ませ、鼻血が垂れる顔面を抑えながらミラージュはアクトを睨む。その態度には、先程までの余裕は微塵も感じられなかった。
「いや、お前の幻術には見事に嵌ったさ。流石、伊達に世界最強を名乗っているだけはある。分かっていても防ぎ切れなかった」
「な、ならば何故!?」
「意識を持っていかれた後、直ぐに戻ってきただけだ」
事もなげに話すアクトはとんとん、と親指で自身の胸を指差す。ミラージュが霊的視覚を研ぎ澄ませて視ると、アクトの魂を構成する霊的要素が強く活性化している事が分かった。
「道術《強心法・猛人》」、精神活性化の術だ。でもそれだけじゃ、お前の幻術には耐えられない。だからエクスの、精霊が持つ精神攻撃への抵抗能力も加えて、お前の洗脳魔法から自力で戻ってきたんだ」
「~~~ッ!!」
「自分の幻術に絶対の自信を持ってるお前なら、ロクな確認もせずにのこのこ近付いて来てくれると踏んでいたぜ。お前は幻術の扱いは達者なのかもしれないが、それ以前に人間同士の腹の探り合いで負けたんだ」
「先輩……」
絶体絶命と思われた場面からの逆転劇。あれだけ良いように翻弄されていた幻術を、逆に利用してしまうとは。傷付きながらもまったく勝つことを諦めないアクトの背中に、尊敬の念すら籠った頼もしさを覚えるアイリスであった。
「思いのままに操っていると思ってた相手に、逆に操られてた気分はどうだ?」
「い、言わせておけばぁ……! 【惑え・暗き影の僕よ】!!」
幻術使いとしての能力とプライドに土を付けられ、ミラージュは怒りの声音で呪文を叫ぶ。すると、ミラージュの足元の影が枝のように伸びて分裂し、その影が地上に浮き上がる。実体化した影は蠢くように動物の姿を形作り、実に十数体もの四足獣型の魔物が出現した。
「行け!」
ミラージュが命じた途端、影の魔物達は動物の規格を超えた強靭な脚力を以て一斉に地を駆け、鋭い鉤爪を、牙をアクトの肉に突き立てんと殺到する。負傷した状態で捌くには、あまりにも圧倒的な物量。だが、
「無駄だ」
疾風が如き斬撃が舞う。押し寄せる影の魔物達のうち、アクトは実際に召喚され実体を持った四体だけを、一息で正確に斬り払った。胴体を一刀両断された魔物は魔素となって消滅し、幻術で作り出されただけの残りは、音もなく消滅した。
「なにっ……!?」
「驕ったな。テメェの幻術は確かに本物と比べても遜色ない精度だが、あれだけ見せられてたら嫌でも見分けが付いてくるってもんだ。テメェは技を見せ過ぎたんだよ」
「わ、私の幻術を見切った、だと……?」
自身が誇る幻術をこうも次々と見破られ、視界が怒りで真っ赤に染まっていくミラージュから、魔道士の基本的にして必須の感情制御能力が失われていく――が、
「……認めるしかありません。アクト=セレンシア君、貴方は将来、組織にとっての脅威……いや、現在ですら我々の思惑を阻む障害となり得る存在であると。最近、アイリスさんと親しくし始めた生徒の一人としか見ていませんでしたが……どうやら私は、とんでもないイレギュラーを見過ごしていたようだ」
「そうか。そりゃあ、お褒めに預かり光栄ってな」
ある時を境に、ふと我に返ったミラージュは、極めて冷静な声音で語る。沸騰寸前だった怒りの感情は、まるで別人にでも置き換わったかのように綺麗さっぱり失せている。
「故に私は決めました。アイリスさんの回収を最優先目標としていましたが、それは二の次とします。私は、『あの方』に与えられたこの全能力を駆使し、この場で貴方を確実に排除する!!」
「……!」
不意に、ミラージュの全身からこれまでとは比較にならない程に濃密で、そして得体の知れない魔力が溢れ、激しく渦を巻いた。
――来る!
アクトは直感した。恐らく、ミラージュは奥の手、切り札の類の秘術をここで切るつもりなのだと。
「やらせるか!!」
瞬時に、アクトは全力で駆け出した。目的は当然、何かやろうとしているミラージュの狙いを挫く事だ。
アクトに、騎士道精神なんてものは欠片も存在しない。相手の術が完成するのを、むざむざと待ってやる道理は無い。
「はぁあああああ――ッ!!」
幻術での反撃は飛んでこない。何の障害もなくゼロ距離にまで入り込んだアクトは、無防備なミラージュ目掛け聖剣を袈裟懸けに振り下ろす――だが、
「なにっ!?」
聖剣がミラージュの身体を斬り裂いた瞬間、ミラージュの身体は幻のように消滅した。同時に、本物ミラージュが其処から少し離れた場所に出現する。
(しまった! さっきの会話の中で、言葉に仕込む幻術をかけられたか!?)
一杯食わされた、とアクトは歯噛みする。アクトがミラージュを倒すために色々と策を練っていたように、ミラージュもまた、自分達の敵と認めたアクトを倒すための算段を既に整えていたのだ。
「告げる――【我は鏡に映らざりし幻影・理に望まれず・理を望まぬ者・されど我が幻想は・世界を欺きし虚なり・我は汝・汝は我・刮目せよ・表裏一体の頸木を解き放ちて・いざ虚構を現実の物とせん】!!」
超長文呪文。だが、ミラージュは超一流の魔道士の詠唱すら凌駕する恐ろしい速度でそれを唱える。最後の一節を括った……その瞬間。
不意に、ミラージュを取り巻く周囲の空間が、絞り捩じ切られたかのように滅茶苦茶に歪曲し始めた。まるでその場所だけ別次元であるかのような、光すら歪ませる空間の中心に佇むミラージュの姿すらも、歪みに飲まれて消えていき――
「――なっ!?」
歪曲現象が収まり、徐々に元の空間の輪郭を取り戻した其処には……姿形、衣服、纏う魔力、おおよそ視認出来る全ての要素がまったく同じ、十五人のミラージュ=スぺクルムが佇んでいた。
「分身か!!」
驚愕に目を剥くアクトに対し、無言のまま不気味で冷たい笑みを浮かべたミラージュ達は、一斉に駆け出した。
(焦るな落ち着け! 相変わらず化け物じみた再現精度だが、所詮は全て分身。本物の奴は、この中で一人だけだ!)
幻術で生み出しているだけの分身に戦闘能力は無い。故に、警戒すべきは分身に紛れてこちらに接近する本物のみ。飛来するであろう攻撃に注意を割きつつ、本物の場所を割り出そうとする――そんなアクトの思惑は、想像を絶する形で粉々に打ち砕かれた。
彼我の距離が約半分を切った辺りで、ミラージュ達は同じタイミング高く跳び上がってアクトよりも高所を陣取り、
「「「「「【穿て雷槍】」」」」」
呪文を唱え、指先に形成されたゲートより放たれる雷閃が――計十五発。
「うっ――うぉあぁあああああああああああ――ッ!!??」
その常識外れの光景に驚きながらも、それらを全て躱せたのは、アクトの鋭敏な直感、抜群の反射神経、培ってきた経験……後は、奇跡としか言いようがなかった。無様な体勢で転がり、《魔道士殺し》で撃ち落とし、必死に雷槍の雨から逃げ惑う。
「ぜぇーっ! ぜぇーっ! はぁ、はぁ、はぁ……い、今のは……!」
アクトを襲った雷撃《貫穿雷槍》の雨――それらは全て幻などではなく、紛うことなき明確な実体と殺傷性を秘めた攻撃魔法であった。つまり、
「全員本物、だと……!?」
地面に穿たれた無数の穴を流し目に、アクトが戦慄の表情で呻く。極々一部の例外を除き、ただの分身が魔法を使えるなど聞いたことはない。ならば、魔法を放ってきたミラージュは全員が魔道士として本物という事になる。そうとしか今の出来事を説明出来なかった。
「ふふふ、驚きましたか?」
「これこそが、私の幻術使いとしての能力を総動員すること初めて発動出来る」
「固有魔法《虚ろなる我、終わりなき幻想なり》」
「この場に立つ十五人の私は」
「全てが私自身であり」
「全員が私と同等の能力を有しています」
「我々が作り出す終わりなき幻の前に」
「惑い、朽ち果てなさい」
アクトを三百六十度包囲するように散開したミラージュ達は、口々に言葉を紡いでいく。その表情は三者三様であり、全員がそれぞれ独立した人格と精神を備えている事に対する何よりの証左であった。
「なん、だと……ッッ!?」
口頭で説明されただけでも分かる図抜けたその代物に、アクトは今日一番の驚愕に見舞われた。それ程までに、ミラージュが発動した術の効果は馬鹿げており、一人の魔道士が扱うには規格外のものだった。
(本物とまったく同じ実体を呼び出すだと!? この世界で唯一無二の自己存在を複製するとか、コイツの自我はどうなってる!? しかも、本物以外の奴は術が切れた瞬間に消滅することが確定しているんだぞ!! 本物に従う確証も無いし、いつ自己崩壊を起こしてもおかしくない筈なのに!?)
精神性からしてまともじゃない。……いや、まともじゃない精神性だからこそ、こんな馬鹿げた術を行使する事が出来るのだろう。魔道士とは、正気や常識といったまともな概念を手放していく者から順に、魔導の深淵により近く至ることが出来る。
どれだけ理性で制御しようと、本質的にはそういう人種なのだ。
まさに怪物。「九魔鬼」《幻鏡》のミラージュ……都市伝説レベルで語られる魔道士、その類まれなる強大な幻術能力を支えているのは、穏やかな物腰の奥に秘めた途轍もない精神性と狂気であるという事を、アクトはここに至り理解した。
「この秘術を見せた以上、貴方を生かして返す訳にはいきません」
「此処で、確実に排除させてもらいます!」
「さぁ、逃げ惑いなさい!」
(くっ……マジでどうするこれは!?)
世界の認識そのものを騙すような大規模な事象改変を行っているのなら、持てる干渉力の全てを注ぎ込まなければならない。本人の言葉通り、他の幻術を行使することは出来ないだろう……だが、それを差し引いても規格外。限定的でありながらも、一対十五の戦いを強いられるという事なのだから。
「「「「「はははははははははっ!」」」」」
「うぉおおおおおおおおおおおおおお――ッ!!」
火球が、氷嵐が、雷槍が、突風が、光弾が、念動力が、精神汚染波が、束縛の呪いが――幻術を除くありとあらゆる魔法攻撃が、四方八方からアクトに襲い掛かる。《魔道士殺し》を起動した聖剣を全力で振るっても対処不可能な圧倒的物量。
「クソッ、またかよ!?」
「「「「「ははははははははっ! 無駄ですよ!!」」」」」
この術の凶悪な点はそれだけでは無い。アクトが荒ぶる魔法の嵐を傷だらけになりながらも突破し、近場に居た一人のミラージュを倒したとしても、それは幻と消える。そして、何処からともなく新たなミラージュが現れ、再び容赦のない攻撃を仕掛けてくるのだ。
まさに終わりなき幻想、十五人のミラージュによる無限の飽和攻撃。彼らが撃ちまくる魔法の総火力は、火力特化の魔道士が操る魔法の威力を、遥かに凌ぐ壮絶なものとなっていた。
(チッ、密林や廃墟みたいなゲリラ戦が可能な地形なら負ける気はしないが……此処は一切の遮蔽物が無い空間だ。こうするぐらいでしか、奴らの攻撃を凌ぐ術がねぇ……!)
並の魔道士ならとっくに消し飛ばされているであろう飽和攻撃。それをアクトは、巧みにミラージュ達の射線を重ねることで、同士討ちを嫌わさせる立ち回りで辛うじて猛攻を凌いでいるが、ミラージュが術を行使してからただの一度もまともな反撃に移られていないのが実情だった。
多彩な幻術へ突破口を見出した先の状況とは違う、真の意味での絶望的状況にアクトは追い込まれていた。良くも悪くも魔道士とはかけ離れた存在である彼に、最早、打つ手など無い――
(――いや、まだ手はある!!)
諦めるにはまだ早い。自分が諦めて良いのは、今も全力稼働しているこの心臓の鼓動が完全に止まる時、存在を繋ぎ留めるこの魂が世界から完全に消え去った時だけだ。
――十五人全員が本物と言っていたが、それは嘘だ。姿形、人格、能力……あらゆる要素が同一なだけで、ミラージュのカタチをした十四体の使い魔的存在を、本物のミラージュが使役するというのが、《虚ろなる我、終わりなき幻想なり》の効果なのだろう。
故に、術を制御しているであろう本物のミラージュは、この中に確実に存在する。それを見つけて叩くことが出来れば、術を強制解除出来る可能性が高い。だが、
(今の俺じゃ、本物の奴を見極めるのは無理だ。幻術で作り出しただけの魔法とは見極めるべき情報量の桁が違うし、何よりそんな余裕も無い!)
ミラージュの攻勢を捌くので手一杯の自分には不可能。一瞬でも気を抜けば消し飛ばされかねないこの戦いにおいて、別の事に意識を割くのは危険過ぎる。ならば、この戦いの趨勢を握るのは――
「アイリスッ!!」
ミラージュの包囲網を一時的に破ったアクトは、敵の目当ての人物にして、この場で唯一マークされていない少女に向けて鋭く叫ぶ。
「えっ?」
「お前が俺の目になるんだ! 本物の奴さえ見つけてくれたら、俺が確実に仕留める!」
「わ、私がですか!?」
「ああ! 俺の攻撃に悉く反応してみせたお前の力、レパルド族の力なら、奴らを細かく見分けることだって出来る筈だ!」
この世界に完全な魔法は存在しない。本物と分身の間には、必ず何らかの違いがある。そして、野生動物の本能に根付くアイリスの超鋭敏な察知能力なら、自分には分からない些細な要素の差異から、本物のミラージュを見つける事も可能だろうと判断して、アクトは頼んでいるのだ。
自身の力についてよく知っているアイリスもまた、詳しく言われずとも自分がすべき事を直ぐに理解した。しかし――
(また、暴走したら……)
それは、否応なく神獣の力を使わなければならないという事だ。また力を制御出来ずに暴走し、見境なく暴れ出してしまえば、今度こそアクトは手に負えなくなるだろう。根本的に何も解決していないのだ。
「俺じゃ、正確に見極められない。お前の力が必要なんだ!! 助けに来た奴に助けを求めるのは情けない話だとは思うが、その情けない先輩を手助けすると思って頼む!!」
「わ、分かっているんです先輩!! でも、でも、私には……!!」
また誰かを傷付けてしまうのではないかと思うと、怖くてたまらない。本当は誰も傷付けたくはないのに、疼きしこの呪われた血が、自身を理性なき怪物に変貌させてしまう。
(何をしているの私は!? 今も先輩が必死になって戦ってくれてるっていうのに……!)
情けない。結局、自分は凶暴な衝動に任せて全て壊し傷付けることでしか、自己を確立出来ない中途半端なケダモノなんだ――覚悟を決められず、自責の念に俯く少女の瞳から、一滴の涙が落ちる。
「アイリス……これは、ちょっとだけお前より長く生きてる人生の先輩達からの言葉だ」
そんなアイリスの苦悩と葛藤を見て取ったアクトは、ミラージュの猛攻を捌きつつ言った。
「俺が学院にやって来た頃、『人殺しの技術』としか思えなかった魔法との向き合い方に迷ってた時……あの生意気で、ムカつくぐらい輝いてたアイツは、俺にこう言ったよ」
「……え?」
顔を上げたアイリスが見ると、アクトはミラージュと激闘を繰り広げながらも、タイミングが空く度に彼女と視線を合わせる。ミラージュが数の差を活かして攻めかかるも、後一歩のところで彼を捉えられない。それどころか反撃を喰らう始末であった。
「力ってのは結局、どこまでいっても無色の存在なんだ。その力をどんな色に染めるのかは、それを使う人間次第だってな。その通りだと思ったよ。魔法には、人を簡単に不幸に出来る暗い面の数だけ、世界を豊かに出来る無限の可能性があるんだって。その境を見極めて、魔法の新たな可能性を探す為に、俺はあの場所で大嫌いな魔法を学んでいるんだ」
「……」
「アイリス、その力から逃げるな! その力で立ち向かうんだ! お前は呪われてなんてない! それは他でもない、アイリス=ティラルドだけの力なのだから!!」
アクトは思う。彼女の不幸な境遇を軽んじている訳では決して無いが……真に呪われた力というのは、其処に在るだけで周囲の何もかもを不幸にする、もっと歪で邪悪な力だ。
「心配すんな。もし暴走したとしても、もう一回ぐらい俺が止めてやるって。だから恐れるな!! 未来への一歩を踏み出した今のお前なら、きっと力を使いこなせる筈だって、邪魔すんなオイ!!」
「余所見の上に強がりとは良い度胸ですね!」
「もう身体はボロボロなのでしょう!?」
「彼女を制する力などもう残ってないクセに!」
「うっせ! 可愛い後輩の為なら、幾らでも命張れるってもんだ!」
――これまで何度も思ってきた。こんな力など持って生まれず、普通の女の子として暮らしたかった……けど、この‟血”を否定するという事は、大好きな両親と他の同胞の存在をも否定するのと同じではないか、と。
そういう迷いもあってからか、両親と離れてからはこの力と向き合うことをすっかり止め、ずるずると引き摺って今日まで生きていた。魔道具の力も借りて、強引に抑え込んできた。……けれど、
(血に抗うんじゃなく、血で抗う……)
それも終わりの時が訪れたのかもしれない。内に秘めしこの荒ぶる血を飼い慣らし、己が力とする。ずっと力から逃げてきた自分には、終ぞ思いつかなかった事だった。
(……思い出した)
そんな時。いつだったか、母が自分に言い聞かせてくれた話を思い出した。それは、今まで靄がかかっていたようにずっと思い出せなかった、一族に古くより伝えられてきた「教え」――
心せよ。我らの中に流れし獣の血を。
惰弱たる魂持ちし時、血は汝を喰らい尽くすであろう。
心せよ。理性なき我ら、本能のままに喰らう獣と変わらず。
我らは人、二足で大地を踏みしめる種族なり。
荒ぶる衝動に溺れることなく、逞しき心を以てこれを制す。
何者よりも強く在れ、何者よりも誇り高く在れ。
我ら、レパルドの民なり。
「……そうだ。私は……!!」
忘れるな。自分が何者であるのかを。陰謀? 裏切り? そんなもの知ったことか。自分に降りかかる木っ端の障害程度、一息に吹き飛ばせなくてどうする。
思い出せ。私達は強い。私達は誇り高い。私達は、誰よりも自由に世界を駆けることが出来る種族である事を……ッ!!
「【穿て雷槍】!」
「ぐあっ!?」
一方。ミラージュの一人が放った雷槍が、遂にアクトの左肩を貫いた。されど、培った身体制御術で伝達信号を意識的に操作、末端神経の伝達を瞬時に復旧。感電による筋肉の痙攣を最小限に留める。
(アイリスの雰囲気が変わった……腹ァ括ったんだな。よし、絶対に時間を稼いでやる!)
アクトとしても不思議な感覚だった。もうとっくに身体は限界を超えているというのに、まったく負ける気はしない。アイリスを救いたい、アイリスを守り抜くというその「意思」が、彼に無限の力を授けてくれる。
「しつこいですね!」
「いい加減、倒れなさい!」
「我々の理想の邪魔をするなぁ!!」
「生憎、諦めが悪いのだけが取り柄なもんでな。最後まで足掻かせてもらうぜ! うぉおおおおおお――ッ!」
ボロボロな状態にあっても尚、アクトは不敵な笑みを浮かべ、残された力を振り絞ってミラージュ達と全力で渡り合う。
「……」
その様子を離れた所で見守っているアイリスは、不思議と落ち着いていた。諦めてしまったから――否である。自分を救ってくれた少年が、必ず時間を稼いでくれると信じているからだ。故に、自身の事だけに集中しているのである。
(お願い、力を貸して)
心を静め、深く念じる。精神の奥深く、魂の奥に眠りし霊的器官「二之獣魔臓」へ――総身に流れる力の大本、神獣の「魂」に呼びかける。
(アナタが私の事を嫌っているのは分かってる。当然だよね。私はずっと、アナタを拒んできたんだから)
己の心臓とは別に鼓動するもう一つの心臓。その中に眠る神獣の「魂」は実際に生きている。産まれてこの方、ずっと傍に居て、ずっと同じ時間を過ごしてきた、半身とも言うべき存在。
(でも、今だけはお願い!! アクト先輩を守る為に、アナタの力を貸してッ!!)
アイリスは産まれて初めて、自ら神獣の力を求めた。もう逃げないように、大切な人を守るために、そんな決然とした願いを込めて。すると、
(これは……)
幾度となく己の理性を飲み込まんとしていた「血」の衝動は、アイリス自身でも驚くほど簡単に収まった。代わりに、暖かで頼もしさにあふれた力が満ちていくのが分かる。今までと違い、明らかに自身の血肉となって総身を巡るような感覚だった。
(そっか、こんなに簡単な事だったんだ……)
半身はずっと待っていたのだ。制御が効かず暴走した時の力は、溢れ出す力が行き場を求めて表出していただけ。でも、今は違う。自分自身を受け入れ、貪欲に求めれば求めるだけ、この底無しの力はどこまでも応えてくれる。
「……」
アイリスが力を受け入れ、静かに目蓋を持ち上げた瞬間……彼女の視界が、見ているモノが変わった。
目の前には、まったく同じ「匂い」を発する十五人のミラージュ、それを相手取るアクト。そんな彼らの肉体の外側や内側を、様々な色で構成された帯のようなモノが流れているのが見えた。
(これってもしかして……「生命の精髄」?)
以前にも何度か無意識的に見えることがあり、この現象を自分で詳しく調べた事のあるアイリスは知っていた。
「生命の精髄」――それは魔力と同じように、命あるモノなら誰しもが持つ‟命の煌めき”。昔、さる仙人が長年の修行の果てに開眼したという境地。アイリスはその違いを、生まれながらにして色で見分けることが出来た。
(この力なら……)
十五人のミラージュから漂う「匂い」はやはりまったく同じ。当然だ、魔法で生み出された使い魔的存在とはいえ、彼らのうち十四人は紛う事なき本物の偽物なのだから。流石に区別は付かない。
だが、「生命の精髄」なら、レパルド族が「匂い」と呼ぶ生物の表面的な雰囲気ではなく、誤魔化しの効かない‟命の煌めき”そのもので見分ける事が出来れば……
(もっと、もっともっとアナタの力を貸して! アクト先輩を助ける為にッ!!)
極限まで刮目する。精神を研ぎ澄ませて余計な情報は全て削ぎ落とし、一人一人の命の色を正確に、細かく、素早く見極めていく。息をすることさえ忘れ、ただひたすら‟視る”ことに集中したその果てに――
(……あっ)
アイリスは見た。苛烈にアクトを攻め立てる他のミラージュ達とは違い、攻撃はきっちり加えつつも少し離れた間合いで様子を窺っていた一人のミラージュを。
もし激しく動き回っていれば、きっと分からなかっただろう。彼女の目は見抜いた。そのミラージュが秘めた僅かな、だが明らかに他の十四人とは違う、ドス黒い輝きに満ちた命の色を……!
「見つけた……アクト先輩ぃいいいいいい!!! あそこです――ッッッ!!!!」
大声で身体が悲鳴を上げるのにもお構いなく、アイリスは指差しながら、有らん限りの力を振り絞って叫んだ。丁度ミラージュ達から距離をとり、その声を聞き届けたアクトは反射的に彼女が指差した方を見て――‟本物”を認識した。
どういう絡繰りでアイリスが本物のミラージュを見抜いたのかは分からない。だが、アクトも確かに見たのだ。アイリスに指差されたミラージュの相貌に浮かび上がった、本物以外が抱く筈が無い‟バレた”という感情を……!
「ナイスだぜ――エクス、《限界突破》だ! 限界まで振り絞れッ!!」
『――お待ちしておりましたマスター。残存魔力、全開放します!!』
アイリスの活躍を短く労ったアクトが吠えた次の瞬間、彼の総身から圧倒的な魔力の奔流が吹き上がった。それは戦闘開始の時と比べれば弱々しくはあるが、強く頼もしい銀の輝きに満ちていた。
本日二度目の《限界突破》。アイリスを抑えた時に使ってからここまでの戦闘において、好機が訪れるギリギリまで温存しておいた虎の子の魔力を、アクトは解放したのだ。
「覚悟しやがれ、ミラージュ=スぺクルム」
もう、幻には騙されない。偽物には目もくれず、アクトは本物のミラージュだけを真っ直ぐ睨み据える。
「させません!!」
「これで終わりだッ!!」
「死ねぇえええええ――ッ!!」
「彼女は我々がもらい受ける!!」
「消えろぉおおおお――ッ!!」
特定の一人を庇うという、明らかに偽物しかとり得ない行動を露見してまで、十四人のミラージュ達は無数の法撃をアクトに浴びせかける。だがしかし、死を目前にした状況が迫っているというのに、アクトは落ち着き払った様子で聖剣を腰の辺りに構え――
「一之秘剣・改――《縮地・光追》」
刹那、稲妻が地を駆けた。猛る銀光を身に纏い、背後で生じた魔法の炸裂音すら遠くへ置き去りにして、彼我の距離を瞬きに潰した迅雷は、聖なる白刃を一閃する。
「終わりだ」
「……え?」
僅か一瞬の交錯。遠雷が如き音と共に、いつの間にかアクトは本物のミラージュの背後に背を向けて立っていた。されど、静かに残心するその手に握られた聖剣は、既に振り抜かれており、
ぼとっ。まるで、斬られた事をようやく認識したかのように、ミラージュの左腕は床に落ちた。
「ぐ――ぐァアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!??」
更に遅れて、ミラージュの悲痛な叫びが響き渡る。あまりに異常な速度と精度で振り抜かれたためか、切断面からは殆ど出血がなく、聖剣を微かに濡らす彼の血霞は、熱を帯びて水蒸気さえ上げている。
そして、どれだけ本物と同じ能力・人格を有していたとしても、所詮は虚構の存在に過ぎないというべきか。本物が深刻なダメージを受けたことで、偽物のミラージュ=スぺクルムは断末魔一つ残さず音もなく消滅した。
「うっ……」
絶体絶命からの形勢逆転……と思いきや、不意にアクトの身体が傾ぐ。辛うじて倒れそうになるところを、彼は聖剣を杖代わりにして何とか踏みとどまった。
《縮地・光追》は、通常の《縮地》の約三倍以上もの速度を一瞬にして出すことが出来る絶技だが、代償として軸足となるどちらかの脚を犠牲にしなければならない。無茶な動きをするので身体全体にかかる反動も強い。
まさに必殺技。出したからには、必ず敵を殺していなければならない技なのだ。その理念の通り、身を砕いてまで繰り出したアクトの全身全霊の一撃は、確かにミラージュを両断する筈だった。だが――
(やられた……コイツ、もしもの時の為に幻術を残してやがったのか!!)
腕に残る不快な手応えに拳を握り締め、アクトは歯噛みした。恐らくミラージュは、自分が反応出来ない程の速さで攻めたてられた時のために、予め仕込んでおいた固有魔法《潜伏幻術》を緊急回避に使ったのだろう。
元はカウンターを狙っての備えだったのだろうが、結果としてアクトの攻撃は躱されたのではなく認識をズラされたことで、ミラージュは致命傷を免れたのだ。
「ぐぁぁぁ……! よくも、よくもやってくれましたね……ッ!!」
左腕の切断面を抑え、ミラージュは憤怒と苦悶に満ちた表情でアクトを睨む。人の心を見透かしたかのような余裕の態度は完全に消え去り、剥き出しになった憎悪と敵意が発露している。
ある意味、こちらの方が人間臭くて良いと思うアクトであった。
「魔法を行使する左腕は落とした。テメェの幻術は見切ったし、あの馬鹿げた固有魔法も使わせない。俺の身体もガタはきているが、手負いのモヤシ野郎を仕留めるには十分過ぎるぜ。ここらで降参をお勧めするが?」
「笑わせますね……! 我々ルクセリオンが、貴方達に自ら降るなどあり得ない!! それは末端の下級信徒とて同じ事、骨身の一片に至るまで我らが『天導師』様に捧げる所存です……!!」
どうやら最後まで引く気は無いらしい。出来ればさっきので決めたかったんだがな……心の中で舌打ちしつつ、アクトは満身創痍の身に残りの力を込めたようと――その時。
りん、りん、りん……鐘のような甲高い音が突如として鳴り響いた。その発生源は、今しがたアクトが斬り落としたミラージュの左腕から。見やれば、その腕にはローブの上から小さなリング型魔導通信機が嵌められていた。
「くっ……時間、ですか。仕方ありませんね」
先程までの敵愾心はどこへやら。悔しそうに呟くと、ミラージュから放たれていた強烈な敵意はあっさり霧散した。どういう風の吹き回しだとアクトが怪訝な表情で警戒している間に、彼は自分の左腕をさっさと拾い上げ、
「【■■■・■・■■■■】……」
口元でぼそりと何事かを唱える。構成言語は古代アストラム語では無いが、明らかに「呪文」の類を。
すると、ミラージュの周囲を無数の魔力線が縦横無尽に走り、一つの魔法陣を描く。そして……足元の影から染み出すように、闇で形作られたアーチ状の「門」が、ミラージュの背後に出現した。
「非常に残念ではありますが、‟主命”とあらば折れざるを得ません」
「主命、だと……?」
「今日の宴はここでお開きとさせてもらいます。ですが、これで諦めた訳ではありません。次こそは必ずや、アイリスさんを我々の手中に納めさせていただく。それでは……」
そんな予告を一方的に突き付けて、ミラージュの姿は闇の中に溶けて消えていくのだった――
「逃がすかあの野郎ッ……ぐぅぅぅ……!!」
完全な消滅まで後十秒といったところか。ミラージュが消えると同時に、「門」もどんどん収縮していく。その「門」目掛けて、アクトが飛び込むように走り出すと、強烈な激痛が彼の身体を襲った。
右脚を中心に発生した立つことすらままならない痛みに、アクトはその場に膝を付いてしまった。
「クソが……動きやがれ……!!」
「だ、駄目ですよアクト先輩! 身体も相当ですけど、先輩の右脚、酷いことになってますからね!?」
自分もボロボロな事に構わず駆け寄って来たアイリスの言う通り、アクトの右脚は見るも無残なことになっている。本人は気付かなかったが、耐性の無い者が見たら卒倒するレベル。とても追跡出来るような状態ではなかった。
『私も反対です、マスター。先の権能解放によって残存魔力が一割を切りました。これ以上の戦闘続行は、マスターの命に関わります。ここは深追いするべきではありません』
脳内に語り掛けてくるエクスも冷静な判断を下す。身体が限界なのは事実だし、二人に止められれば反論することも出来ず、アクトは追跡を断念するしかなかった。
「私の拙い技量じゃ気休めにもならないと思いますが……じ、【慈悲深き天使よ・其が癒しの御手を・我が腕に宿し給え】!」
有り余った魔力を用いて、アイリスは治癒《慈愛ノ加護》を唱え、アクトを癒す。治療を受けている最中、煮え滾っていた思考も徐々に冷め、元の冷静さを取り戻していく。
(……落ち着け。グレイザーが言ってた通り、その場の勢いで熱くなるな。俺がここに来た本来の目的は何だ?)
そうだ。自分の目的は、肌に触れて治療を行いながら心配そうな眼差しを向けてくるこの後輩を救い出す事だ。誘拐の主犯格であるミラージュを撃退した今、当初の目的は既に果たされている。
あんなむざむざ危険人物を放っておくのも非常に癪ではあるが、ここで自分が追跡に出れば、残されたアイリスはどうする? 研究所内にはまだ連中の仲間や自動人形が残っている可能性もある。その場合、彼女を一人にするのは最悪の選択だ。
目先の敵にかまけて目的を見失ってはならない。出来ない事は仕方無い。後はグレイザーや、恐らくこの都市に来ているであろう他の仲間に何とかしてもらうとしよう。
「い、一応、最低限の応急処置だけはしましたけど、大丈夫ですか?」
「……ああ、一先ずは大丈夫だ。下手くそって言ってた割には良い手際だった。ありがとな」
この戦いにおける自分の役目は終了。そう割り切ったアクトは、ずっと張り詰めっぱなしだった肩の力を抜くのだった。
「それにしても情けない。助けに来た相手に手当されちゃ世話ねぇわな」
「い、いえ! アクト先輩は、こうして私を助けに来てくださいましたし……だから、これくらいは……」
ようやく戦闘の緊張から解放されたからか、二人の間に何とも言えない沈黙が流れる。お互い、言いたい事が山ほどあるのを理解しているのもあって、尚更上手く言葉を作れずにいた。
……けれど、この場で一番先にしなければならない事。それくらいはアクトにも分かった。
「せ、先輩。私は――」
「言いたい事も沢山あるだろうし、聞きたい事も沢山あると思う。でも、とりあえずは――」
沈黙に耐え切れなくなったアイリスの言葉を遮るようにして、アクトは傷が癒えて少しだけ楽になった身体で立ち上がる。そして、穏やかな表情でアイリスへ手を差し伸べた。
「こんな辛気臭い場所からとっととおさらばして、帰ろう。俺達の居場所へ」
そんなアクトの行動に、アイリスは一瞬呆気に取られるが……やがて、目に小さな涙を浮かべながらも、
「――はいっ!!」
本当に嬉しそうに、花咲くように笑うのだった。




