57話 一夜明けて
――嵐過ぎ去りし雨上がりの今日、この日は、多くの者にとって忘れることの出来ない、長い、長い一日であった。
レイクネス地方を襲った大豪雨は、一晩中その猛威を振るい、自然と人々を脅かし続けた。そして、日が昇り始める頃には、あのドス黒い雨雲は雨と共にすっかり消えており、空を覆う灰色の雲の隙間から日光が差し込んでいた。
されど、豪雨がもたらした被害はかなり甚大だった。木々は無残に薙ぎ倒され、居住区や観光街の建築物は屋根や壁が剥がた少なくない。街路には飛んで来た建築物の残骸や落ち葉が所狭しと散乱し、住民が忙しそうに撤去・修繕作業を行っていた。港湾区も岸辺に泊められた多くの船が転覆し、個人船舶持ちの漁師や商会の人間が必死で対処に追われている。
当然、一夏のバカンスをしに「青海大楽原」へ訪れた観光客達も、多大なる影響を受けた。観光街は修復に暫くのかなりの時間を要するし、海水浴場は豪雨のよる荒波で使い物にならないわで、彼らは予定を大幅に変更せざるを得なくなったのである。既に手配した馬車で早々に都市を去る者も少なからずおり、ツアー会社はなどは涙目になりながら予定を調整しているだろう。
その例に漏れず、ガラード帝国魔法学院一行の遠征学習で計画されていた特別講義も、山間部で発生した中規模の土砂崩れによって魔導工学研究所に続く山道が塞がってしまい、止む無く予定を変更せざるを得なくなってしまった。
……だがしかし、こうなる事を見越していた聡明な学院教師陣や研究所側は、予め手を打っていたのである。それが、大きな公共施設を丸々貸し切っての特別講義実施だった。
前日に研究所から招かれていた研究員による講義の内容は、生徒達の興味をそそる素晴らしい物だった。マグナや他数名の生徒なんかは、終始鼻息を荒くして聞いていた。
……ただ、今のアクトには講義の内容など、殆ど頭に入ってこなかった。そもそも、初めからまともに聞ける状態ですらなかったのだ。
◆◇◆◇◆◇
「……」
オセアーノ中心部に建てられた特別大ホール、普段は講演や演劇などに使われる公共施設のロビーを、アクトはとぼとぼ歩いていた。その小さく見える背中からは、いつもの飄々としながらも鋭利な覇気は微塵も感じられない。
「いやー、流石、帝国が誇る最先端研究所の職員さんの授業だったよな」
「そうね。研究所の方も凄かったし、本当に魔導工学専攻に心変わりしちゃいそう……」
「んー……俺は逆に、内容がサッパリ過ぎて意味わかんなかったぜ。やっぱ俺は、魔導兵志望かな」
ロビーには、今しがた終了した特別講義の興奮が冷めやらぬまま、魔法議論で盛り上がる生徒達が居た。今回は前半組と後半組が合同で講義を受けたので、大勢の生徒達がたむろしている。そんな彼らの熱意とは対照的に、彼の関心は心底冷め切っていた。
理由は知らないが意気消沈しているアクトを気遣ってか、彼を遠く離れた所から見守っている班のメンバーも声を掛けずに静観してくれている。こういう時にあまり関わってほしくないアクトとしても彼らの対応はありがたかった。
(俺は、馬鹿か……)
アクトの脳裏を絶えず巡り続けているのは、一睡も出来なかった昨夜の出来事……一人の少女が抱えた過酷な人生と待ち受ける残酷な運命。少女の、アイリス語った過去と現在の状況は、未だ実感の湧かない現実となってアクトを苛んでいた。
思えば、アイリスが人から遠ざかっていたのは、此処に理由があるのだろう。自分にもしもの事があって力が暴走してしまった時、その時周囲に居るであろう「誰か」を巻き込まないようにするために。
そんなアイリスが己の信条を破ってまで自分達と関わろうとしたのは……きっと、彼女は一度で良いから思い出を作りたかったのだろう。楽しい事など一度としてなかった孤独な日々、そして、訪れる自らの運命を前に、悔いの残らないようにするために。
あるいは……諦観し切った自分でも気付かない無意識の内に、アクト達へ向けて遠回しな助けを求めていたのかもしれない。これはあくまで全てアクトの推測であり、真意はアイリスのみぞ知るところだ。
(結局、先輩面しときながら、俺はアイリスの事を何一つ分かってやれていなかったんだな……)
だが、それをどうこう言ったところで最早、意味は無い。どれだけ引き摺ろうと、過去だけは変えられないのだから。重要なのは、アイリスをどうやって帝国の暗部から救い出し、レパルド族が抱える呪われし運命を脱却するか、その一点だ。もう自分は、全て知ってしまった。今更、見て見ぬフリなんて出来る訳が無い。
……けれど、一晩中、一日中考えてもその答えは、未だに見出せないでいる。
(いっその事、エレオノーラに頭を下げてアイリスの身の安全を保障してもらうか……いや、アイツが動くとはとても思えないし、アイツもどちらかと言えば帝国側。アイリスを検体にしようと企んでいるのは、エレオノーラ自身かもしれないんだ。かといって、俺が動いたところでどうにもならない問題、か……)
行動を起こそうと思えば簡単だ。難しくはあるが、不可能では無い。だが、偽善者ぶって無秩序な正義を振りかざし、仮にアイリスを救い出せたところで、得るモノは一時の救済だけ。その後に待っているのは、より複雑に捻じれた悲惨な末路だ。
この世界に「正義の味方」なんて都合の良いモノは無い。それで全て解決出来るのなら、この世界はもっと単純な筈だ。
(それに、誰かに守ってもらってるようじゃ、いつか絶対に上手くいかなくなる時が訪れる。何物でも無い、結局はアイリス自身が運命を切り開くしか方法は無いんだ)
ならば、何の権力も後ろ盾も無い、「斬る」事しか能が無い自分は、彼女に対し何が出来ると言うのか。ようやく片足から「過去」の鎖を引き千切って「未来」へ走り出したばかりの自分に、何が成せると言うのか。
何者でも無い、一介の剣士でしかない自分が出来る事には、絶対的な限界がある。じゃあ、このまま手をこまねいて見ているだけか……断じて否である。だが、そのアイリスを救う方法がまったく思いつかない。
(だが、アイツは……俺は何をしたら良いんだよ……クソッ!)
言葉では表せない苦悩と葛藤が堂々巡りし、アクトの思考がドン詰まりに達しかけたその時、
「マスター、よろしいですか?」
「……エクス」
不意に、血が滲む寸前まで握りしめられたアクトの拳を包み込む小さな両手。虚を突かれ一瞬固まったアクトが見やれば、その冷たい両手の持ち主は、いつもの無機質な表情でじっと彼を見上げていた。
「昨夜は抽出した情報の処理と分類の為に切っていたので分かりませんでしたが、今、マスターの感情揺れ幅値は大幅な変動を永続的に繰り返し、同期している私の方にもエラーを吐き出し続けています。マスターがこうまで動揺しているという事は……何か、あったのですね?」
「……!」
あぁ、これは隠し通せないな……透き通るような薄灰色の瞳に射抜かれてそう思ってしまった。感情の起伏が乏しい無機質な表情ながらも、エクスはいたって真剣に自分を見つめている。
そもそも、まだ仮初の契約とはいえ、自分とこの精霊は魂を通して繋がっているのだ。元より隠し事など出来よう筈も無いのだ。それにエクスなら、誰かに漏らすような事も無いだろう。このドン詰まりの状況を解決するためにも、精霊の知恵は是非とも借りておきたい。
「……そうだな。エクスには言っておいた方が良いかもな。実は――」
……班のメンバーと一旦別れ、大ホールの休憩室に移動すること約十分、アクトが昨夜の出来事とアイリスの素性を掻い摘んで話し終わった後、エクスは自身の想像を遥かに超える真実に無機質な表情を驚愕に染めながらも、どこか納得した様子だった。
「なるほど……私の推測が正しければ、恐らくその『神獣』という存在は、『大源』より生まれ落ちし‟原初の一たる魂”の持ち主……『原初の獣』の一体だと思われます」
「原初の、獣……」
新たに判明したぶっ飛んだ事実に、ふらりと強烈な眩暈を覚えるアクト。一体、アイリスと彼女の祖先はどれだけ複雑な素性と生い立ちを持っていれば気が済むのだろうかと思わずにいられなかった。
「……エクスは、実際に見た事があるのか?」
「いいえ。『原初の獣』の存在が最後に確認されたのは、私がこの世界に明確な意識を獲得するより前、『始まりの精霊』がこの世界でまだ活性化の状態にあった遥か太古の時代です」
「……つまり、上位精霊のエクスですら見た事が無いくらい、大昔の生物だって言うのか?」
「はい。『始まりの精霊』が眠りについた今、『統合意識体』に提示された古代に関する情報は、断片的な物しか存在しません。今や、私と同格の精霊以上に永き時を生き、智慧を蓄え続けた上位の精霊は、殆ど居ないと言っても過言でもありません」
最新の歴史研究でさえ、遡る時代は千年と少し。上位精霊のエクスは、それを優に上回る数千年の時を生きている筈だ。そのエクスが実際に見た事が無いと言うのなら……「神獣」とは、レパルド族とは、どれだけ前から存在していたと言うのか。
刹那、アクトはこの世界に潜む大いなる神秘の一端を垣間見たような気さえもした。エクスの話の端々に出てきた「大源」や‟原初の一たる魂”なる物が何なのかはまるで分からないが……そんな事よりも、アクトには遥かに大事なことがあった。
「……なぁ、エクス。俺は一体、どうしたら良いと思う?」
「どうしたらとは、アイリスの事ですか?」
「あぁ……分からないんだ。アイリスの事は絶対に放っておけない。あんな事を知っちまって、知らん振りなんて真似、出来る訳がねぇ。だが……!」
アイリスの生い立ちが捻じれに捻じれた歪な物であるという事は、もう嫌というほど理解した。そして理解すればするほど、彼女に対して何もしてあげられない自分の無力さを思い知らされる。自分がまだ齢十七の少年でしかない事を思い知られるのだ。
何より、アイリスは自身の呪われた運命に対して抗うことを既に諦め、現実として受け入れてしまっている。これでは自分がどれだけ手を伸ばし奮い立たせようとしようが、彼女には届く訳も無いのだ。
「本当の意味でアイリスを救うには、最終的にはアイリス自身の手で運命を切り開かせるしか方法は無い。だがな、もう諦めてる奴だけはどう足掻いたって救えないんだ……分からねぇ。どうすればアイリスを、クソッタレの運命から引き剥がせるんだよ……!」
休憩室の壁に拳を打ち付け、言い表せない様々な感情を語気に乗せて呻くアクト。もうどうすれば良いか分からず、やるせない無力さを何とか発散させるべく、もう一度拳を打ち付けようとアクトが腕を振りかぶる――直前、彼の背後に立つエクスが言った。
「私は精霊です。どれだけ大量の知識を蒐集し、人間が持つ様々な要素を解析しようと、マスターの、人間の感情を真に理解することは出来ないでしょう。ですが、マスターやコロナ、リネア……人間と実際に触れあった精霊の私だからこそ、一つ言える事があります」
「エクス……?」
こういう状況では珍しく饒舌なエクスの言葉に、動きを止めたアクトはゆっくりと振り返り、両者は向き合う形になった。いつも通り人形のような整った顔付きに人間とは思えない超然とした雰囲気を纏っているというのに、アクトの目には、今のエクスはとても人間じみて見えた。
「そ、それは……?」
「マスターはまだ、アイリスと『対話』をされていないのではありませんか? アイリスを待ち受ける運命は、確かに過酷で避けようのない未来なのでしょう。ですが、それは彼女が自身の運命を受け入れることにより生ずる未来、今どうするかはこれからの行動次第で変えることが可能です。彼女はれっきとした一人の‟人間”、なら、『対話』による説得の可能性はまだある筈です」
目から鱗とは、まさにこういう事を指すのだろう。藁にも縋る思いで問い、剣精霊が示した答えは、何ら難しくないごく当たり前の事だった。……だというのに、昨夜から散々抱えていた苦悩は、嘘のように消えていった。鉛のように重かった心が幾分か軽くなっていく。
「……そうか。俺、問題を解決する事ばっかりに目が行ってて、肝心のアイリス自身の事を蔑ろにしてたよ。結局、アイツの話を理解していたつもりで、実際は話の壮大さに付いていけずに、飲まれていたのか……はっ、俺も落ちたもんだ」
自虐気味に呟き、顔に手を当てて天上を仰ぎ……やがて、弱々しかったアクトの総身にいつもの鋭利な覇気が戻ってくる。
そうだ、「神獣」だ何だのはまったく関係無い。アイリス=ティラルドは一人の‟人間”、決して‟獣”などでは無い。剣士としてのプライドか、暴走した時に自分を硬直させた彼女の気配を意識するあまり、そんな当たり前の事まで失念してしまっていた。微塵にもその疑念を持った昨夜の自分をぶん殴ってやりたい。
無論、楽な道では無いだろう。よしんばアイリスを説得出来たとしても、待ち受けるのは様々な人間の思惑と意思が複雑に絡んだ茨の道だ。だが、何を差し置いても先ずは本人に抗う意思を持たせられなければ、何も始まらない。話は全てそこからだ。
なら、まず自分がすべき事、それは――
「……よし。エクス、アイリスを説得するのを手伝ってくれないか? 多分、一人じゃ難航すると思うからさ」
「はい、マスター。私はいつでも、貴方と共に」
にっと自分に笑いかけた己が主の立ち直った姿に、エクスは端正で無機質な表情を僅かに緩め、嬉しそうに微笑むのだった。




