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魔導帝国の英雄譚 〜そして少年は英雄になる〜  作者: 愚者
2章 学院生活編(中)~黒の剣団と獣の少女~
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54話 目覚める本能

 

 そこから先は、研究所見学のと流れるように時間が過ぎていった。アクトの機転によって何とか元気を取り戻したアイリスを連れ、彼らは改めて「青海大楽原(マリン・ブルー)」の観光街を探索し始めた。流石、国内有数のリゾート地、若者五人(+精霊)が楽しむにはまったく事欠かなかった。


 所狭しと街中に立ち並ぶ屋台や出店、個人経営の大型店。店先に並ぶ色鮮やかな衣類や伝統工芸品、厄除けの護符(アミュレット)、異国の品の数々。噴水広場では道化師のような服装をした者達が巧みな大道芸を行っている。彼らは全部回るには足りなさ過ぎる時間を計算して行動する……つもりだったのが、目移りする物があまりにも多過ぎて、途中から殆ど無視していた。


 昼食では「青海大楽原」の中でも代金に対する味の品質の高さで有名なオープンカフェ(リネアが前もって友人から聞いていたらしい)にて、テーブルいっぱいに並べられた南洋発祥の香辛料の効いた料理に舌鼓(したづつみ)を打ちながら、心ゆくまで談笑に耽った。エクスだけは目を輝かせながら終始口を動かし続けていたが。


 腹ごしらえも終われば、再び観光の再開だ。区画を変える度にがらっと様変わりする街並みに、彼らは心躍らせながら見て回り、時に体験し、様々な文化が入り混じった港湾都市を大いに満喫した。複雑な環境に身を置き続け、このような経験に乏しいアクトですらも、今この時ばかりは年齢相応の少年のようにテンションを上げて心から楽しんでいた。そして――


「――はぁ~楽しかったね。アイリスさんはどうだった?」

「はい、お陰様でとても楽しむ事が出来ました! この為にわざわざ班を組んでいただき、本当にありがとうございました」

「それは良かったわ。可愛い後輩一人満足させられなかったら、先輩の立つ瀬が無いってものよ」

「ん……(もぐもぐ)」


 気付けば日もかなり傾き、空が朱と金に染まりかける時間帯。巨大雨雲接近のために短縮された自由行動の終わりが近付いていた。


「きっと、私一人ではこうまで楽しむ事は出来なかったと思います。これも先輩の皆様方のお陰、改めてお礼を言わせてください」

「ちょっと、別に良いのよそんなに改まらなくても」

「そうだよ。折角の遠征学習なんだから、無礼講ってものだよ」

「コロナ先輩、リネア先輩……」


 片腕に手頃な荷物を提げながら、仲睦まじく会話を弾ませる女性陣、両手に食べ歩きの料理を持ちながら忙しそうに口を動かすエクス、そして、


「……で、何で俺らが荷物持ちやらされてるんだ?」

「重ぃぃぃ……ほんと、どんだけ買ったんだよ……」


 その両腕に、巨木から伸びた小枝の如き大量の荷物を提げる男性陣。二人とも、同い年の女性と買い物なんて年頃の男子からしてみれば羨まけしからん経験など今まで皆無、女の子の買い物は長く多いという噂を身を以て味わっている最中であった。


「これは罰よマグナ。覗きの主犯格としての落とし前はきっちり付けてもらうわ。アタシ達の怒りを鎮める為にも、せめてこれぐらいはやってもらわないと」

「あはは、頑張ってね」

「うぐっ……分かったよ。分かりましたよったく!」


 漢の浪漫を求める衝動的な部分と本来の彼らしい理性的な部分は別なのか、一応マグナも反省はしているようで、渋々ながらも従っていた。まぁ、それは置いといて、


「マグナはともかく、何で俺まで……おいマグナ、これもお前が持てよ!」

「やなこった! これ以上持ったら本気で腕がもげちまうよ!?」


 自分で面倒を見ると決めたアイリスの買い物と、自分の精霊たるエクスが興味を示した買い物は自身の予算で購入したのでそこに文句は無いが、それを優に上回る量の二人娘の荷物を持たされているのは、アクト的には実に不本意であった。


「それはまぁ、その場のノリってやつ?」

「この上なく理不尽だ……」

(ていうか……リネアはともかく、出発前に学院であれだけ真面目ぶってたのに、コロナもめちゃくりゃノリノリじゃねえか)


 心の中で、そんな事を考えるアクト。買った物の総量から分かる、彼女達はこの観光街で生活費を除いた「お小遣い」ほぼ全てを使っていると。彼女達に「お小遣い」を渡しているであろうリネアの両親の顔すら未だに知らないが、余計な事を言えばあの赤髪の主サマからどうキレられるか分かったものでは無いので黙っておく、と一つ賢くなっていたアクトであった。


「……ん? ねぇ皆、あれ見て」


 不意に、リネアがある一点を指差す。全員がその方向を見やれば、南方に何処までも広がる水平線の遥か天上……無限に広がる茜色の空には、滅多に見る事は無いであろう超巨大な暗雲が立ち込めていた。数時間前は快晴だったと言うのに、凄まじい天候の変わりようだ。


「どうやら、本当に大雨が来そうな雰囲気だな。しかもこの調子だと、予定よりも早そうだぜ」

「そうみたいね。そろそろ時間だし、旅館に戻った方が良いかもね」

「だな。とりあえず、アイリスを宿舎まで送りに行くか。アイリスもそれで良いか?」


 調べた所によると、レイクネス地方に降り注ぐ豪雨とは本当に激しい物のようだ。とても傘一つで防げるような物では無い。巻き込まれないためにも早々に解散の雰囲気が漂う中、アクトは自分の傍らを歩くアイリスに同意を求める。


「ええっと……はい、分かりました。皆さんがそう仰るのなら……」


 状況が状況なだけに、アイリスも納得したようにこくりと頷く。……だが、表情の片隅に濃い寂寥感を滲ませ、何か言いたげな様子だった。そんなアイリスの心中を知ってか知らずか、アクトは苦笑を浮かべながら言う。


「お前、これでもう俺達と関わりが無くなるんじゃないか心配してるのか? 大丈夫だって。まだまだ遠征学習は終わって無いし、何よりこれが終わっても俺達の関係が終わる訳じゃ無い。その程度の薄っぺらい関係なら、元から班になんか誘って無いって」


 諭すようなアクトの言葉に、アイリスの目が大きく見開かれる。


 あぁ、この人達は本当に優しい人達だ。深入りする事、嫌われる事、‟秘密”が露見する事を嫌って、誰とでも一瞬の関係だけを築いてきた自分にはとても眩しい。こんなに卑屈で手の掛かる自分を受け入れてくれるのは、この先、()()余生の中でも現れる事は無いだろう。


 だから、今くらいは彼らに甘えても……


「……そうですよね。これで終わりじゃ、ありませんよね。……ありがとうございます。私、また一人で勝手に勘違いしてました」


 どこか安堵した様子でアクト達を見回し、表情を綻ばせるアイリス。その様子をアクトは勿論、コロナもリネアも、マグナもエクスでさえも、穏やかな笑みで人生の、魔道士の後輩を見つめるのだった。



 ――きっと、此処で平和に終われば、この場も誰もが今日という心躍る一日を安らかに終える事が出来たのだろう。だが……現実とは何時も無慈悲で残酷だ。少なくとも……アイリス=ティラルドという少女にとってはそうだった。


 楽しい気分もそこそこに、彼らがアイリス達のクラスが滞在している宿舎に向けて歩き出す――その時だった。


「――ッ!? 皆さん、周りを!!」

「「「……ッ!」」」


 差し掛かった十字路にて、いきなりアイリスが鋭く叫んだ。遅れて反応したアクト達が周囲を見回すと……其処には、他の観光客を強引に押しのけて、十人前後のガラの悪そうな男達が彼らを取り囲むようにして立ち塞がっていた。


「な、何!?」

「コイツら、何処から現れた!?」

「多分、人込みに紛れて近寄って来たんでしょ! にしてもこの数……!」


 そこそこ鍛えられた体格に、心ここに在らずといった虚ろな目を自分達に向けている男達に、彼らは体を強張らせて身構える。だが、中でも一番動揺していたのは、他者が放つ敵意や殺意に人一倍敏感な筈のアクトであった。


(間抜けか俺は!? 何でこんな奴らの気配にまったく気付かなかった!?)


 同じように身構えながら、自分の不甲斐無さぶりに強く歯噛みする。まさか、この南洋の空気に当てられて感覚が鈍ったか……いや、それを差し引いても、これだけ剥き出しにされた殺意を事前にまったく感知出来なかったのは不自然だ。……そう信じたかった。


(よりにもよってこんな時に……! 流石に持ち出し許可が出なかったアロンダイトは宿泊部屋の中だ。例の「呪い」のせいで不安定な存在を安定させる為に、今やエクスの力の大半は憑依してるあれに依存してるから呼び出せねぇ……!)


 そもそも、この場には大量の衆目や部外者のアイリス、マグナまで居るのだ。条件は揃っていたとしてもこんな場所では聖剣を呼び出せない。アクトが尻目にエクスを見ると、視線が合った。どうやら考えている事は同じらしく、神妙な表情で首を横に振った。


「ちょっと、何よアンタ達!?」

「何なんだよ!? こんな大勢で取り囲みやがって、どけよ!」

「ちょっと抑えてよ二人とも! これだけ人が見てるんだもん、きっと誰かが警備官を呼んでくれるよ!」


 虚ろな目をして、どんな言葉をかけてもまるで無反応な男達に怒気を振りまきながら食って掛かるコロナとマグナ、それを冷静に宥めるリネア。確かに、相手が攻撃して来ない以上、事を荒げないようにするにはそれが最善なのかもしれない。


「……どうやら、そうボチボチと待ってもいられないみたいだな。奴さん達、どうやら本気のようだぜ」


 現実はそう上手く行く筈もなかった。キッ、とアクトが睨み据えるのは、不意に男の一人が懐から取り出した、刃渡り8セント程度のギラリと光る鋭利な刃。それを見た衆目から甲高い悲鳴が上がり、ナイフという凶器の存在にアクトとエクス以外の全員の表情が凍り付く。


(チッ、流石にコイツらに刃物持った奴と戦えってのは酷だな。仕方ない……素手で行くか!)


 直後、ナイフを構えた男がアクトに狙いを定め、無言で走り出した。何の捻りも無い考えなしの突撃、それだけに本能的な恐怖を掻き立てる愚者の一撃。数秒後、衆目は名も知らぬ黒髪の少年が理不尽な殺意の前に倒れる凄惨な光景を幻視した。だが、


「甘ぇ!」


 男とほぼ同時に駆け出す少年。彼の素性と特技をよく知る者達は、衆目とは真逆の光景を幻視していた。


「寝てろッ!!」


 ナイフを振り回しながら襲い掛かって来た男に、アクトは素早く距離をとって対応。焦れて一直線に飛び込んで来た所を、片足軸回転でこれを回避。男の側面に回って手首と首を同時に掴み、手首を引きながら瞬時に組み伏せた。


 唖然とする衆目、予想通りといった感じのコロナ達。まさに一瞬の出来事、それ専門の帝国軍人顔負けの暴徒鎮圧用格闘術のお手本のような制圧劇であった。


「俺に当てたきゃ、もうちょっと考えて立ち回るこったなって、おっと!」


 持っていたナイフを遠くに蹴飛ばした直後、一人目が突っ込んだのを皮切りに二、三と続いてアクトに襲い掛かっていく。しかしそれにも動じず、アクトは二人目の足を素早く払って転倒させ、飛び掛かって来た三人目には顎に軽めの掌底を叩きこんで吹き飛ばした。


「オラッ! もっと来いよ!」


 次々と襲い掛かって来る男達を、アクトは冷静に捌きながら打倒していく。とはいえ、全員が彼に襲い掛かる訳では無いし、何より数が数だ。数人の敵は彼の脇を通り抜けて他の者に向かって行く。だが、初動でこれだけ時間を稼げれば、彼が認めたあの少女が何もせずにいる筈が無い!


「【止まりなさい】!」


 刹那、リネアとエクスを守るような位置に立つコロナの指先から紫電が一直線に飛び、男の足元に着弾する。着弾した箇所の舗装路は大きく抉れ……なんて事はなく、学生規格の初等魔法で少し焦げただけだ。それでも、魔法を知らぬ一般人への威嚇には十分過ぎる――それが()()一般人の話なら。


「――ッ!? 嘘でしょ……コイツら、魔法に怯む素振りがまったく無い……!?」

「ま、マジかよ……!」


 魔法による威嚇射撃で動きは止まったものの、変わらず虚ろな目を自分達に向け続ける男達の不気味な気配に、コロナは額に冷や汗を流し愕然とする。


 学生と言えど、魔道士という肩書きだけでも一般人にとっては十分な抑止力になり得る。学院では基礎中の基礎の初等魔法一つ取っても、彼らにとっては畏怖の対象なのだ。ましてやこんなちょっと喧嘩慣れしてそうな程度の連中が、魔法の威を前にまったく怯まないなんてある訳が無い。


 となれば、考えられる事は二つだ。男達が何らかの理由で魔道士が振るう魔導の業に慣れているのか、もしくは……此処に至り、アクトの推測が確信に変わった。


「マスター、恐らくこの者達は……」

「ああ。恐らく暗示系の魔法か、もしくは洗脳……」


 不意に、アクトの脳裏をよぎる、彼の組織が作り出した狂気と邪悪の産物。現状、軍用魔法を使ってはいないので一概にそうだとは言えないが、男達の様子があの《静かなる狂気》で洗脳された被害者とかなり似ているのも事実だ。


「お前ら止まりやがれ! 【駆けろ閃光】ッ!」

「【止まりなさい】って、【言ってんのよ】ッ!」


 威嚇が無意味だと理解しているのか、苦々しげな表情でマグナとコロナが雷閃を放ち続けるが、男達が止まる気配は無い。ジリジリと距離を詰めて来ている。


 最早、傷付けないようにだ四の五の言っていられない。魔道士たる者、降りかかる火の粉は振り払うまでだ。男達が暗示魔法や洗脳などで操られていてとしても、無力化するのに一番手っ取り早い方法がある。それは、


「お前ら、こうなったら物理的に動きを止めるしかねぇ! 俺が引き付けるから、《緊縛魔鎖(バインド・チェーン)》を長く広範囲に展開出来るよう改変詠唱しろ!」

「「「……ッ!」」」


 アクトの叫びに、彼らは持ち前の聡明さと判断力で彼の意図を読み取り、頷いて直ぐに詠唱に入った。その間、アクトは男達の攻撃を避ける事だけに集中しつつ、注意を準備中のコロナ達から逸らすような大立ち回りを繰り広げる。


 アクトの事を本格的な脅威と見なしたのか、他の男達も懐から、しっかり持っていたらしいナイフを取り出すが、


「曲げろ!!」


 それは、誰に向けたのか分からないアクトの唐突な叫び。当然、衆目に意味が理解出来る筈もなく、辺りをきょろきょろと見回すだけだ。……この場で唯一、彼の意図を理解出来る()()を除いては――


「「「……ッ!?」」」


 直後、男達が持っていたナイフの刃があらぬ方向にぐにゃりと折れ曲がった。無理矢理捻じ曲げられたと言うよりかは、何か得体の知れない力によって形そのものを変えられてしまったような……


 虚ろな目をしていた男達の間に初めて動揺が走り、それを好機と見て取ったアクトは瞬時に懐に飛び込む。目にも止まらぬ早業の一撃で彼らを蹴り、殴り飛ばし、一箇所に集めるように調整する。そして、


「「「戒めの鎖よ・狼藉働く不逞の輩を・拒み阻めよ・長きに縛れ】!」」」


 遂に準備していた三人の魔法が完成した。虚空より現れる高密度な魔力の鎖、風邪を鋭く切って宙を駆ける大量の鎖は、ぐったりしていた男達の体という体に絡まり、一切の身動きを取れなくするのだった。



 ……その後、事の一部始終を見ていた衆目の通報で駆け付けた警備官達によって、男達は捕縛連行された。《緊縛魔鎖》を解いて連行される途中、男達は誰一人として一言も話さないのが不自然だったが大人しくお縄に付き、詳しくは詰め所の方で詳しく聞くという事になった。


 アクト達に対する事情聴取は一切無し。これは状況的にと言うよりも、単に魔道士たる彼らを変に騒動に関わらせて事を拗らせたく無いという警邏庁側の思惑だろう。面倒事を避けるためにアクト達もそれを承諾し、騒動は終息した。これだけ目撃者が居る上に完全な正当防衛なので、暴力行為や校外での魔法使用などに対するお咎めは無いだろう。


「はぁ、焦ったわ……やっぱり世の中変な人達が居るものね」

「本当だね。一時はどうなる事かと思ったけど、怪我人もゼロでよかった……」


 コロナとリネアの言葉は、その場の誰もの胸中を代弁していた。平和なリゾート地のど真ん中で勃発した騒動に観光客や周囲に店を構えている人々も心穏やかという訳にいかなったものの、騒動が終息するにつれて野次馬も徐々に散っていき、観光街は元の賑やかさを取り戻していく。


「何にせよ、全員無事で本当によかった。アイリスも無事、で……」


 ふと、アクトは当然のように自分の隣に立っているであろう後輩の少女に声をかけ――其処に居たのは、自分の制服の裾を引っ張って自分にピタリとくっついている銀髪の少女――エクスだった。


「何ですか、マスター?」

「……!」


 きょとんと首を傾げるエクスに、アクトは緊迫の表情で周囲を忙しく見回す。だが、あの小柄な眼鏡の少女は何処にもなかった。


「おい! アイリスは何処に行った!?」

「「「……え?」」」


 刹那、アクトの脳内に猛烈に嫌な予感が走った……


 ◆◇◆◇◆◇


「――はっ、はっ、はっ……!」


 観光街の喧騒から遠く離れた人気の少ない旧市街地、再開発の際に大勢の人々が移動して今は少し寂れた雰囲気が漂うそんな場所を、眼鏡を掛けた黒髪の少女――アイリスは恐怖を顔に滲ませ、息も絶え絶えに全力で走っていた。


「ぜぇ、ぜぇ……まだ追って来てる……!?」


 そんな彼女の後を、ガラの悪そうな男三人が猛然と追いかけ続けていた。その目は酷く虚ろで、一切の感情が死滅しているようだった。全力疾走から既に十分以上、体力などとっくの昔に尽き、今は言い様の無い凄まじい恐怖から生じる火事場の馬鹿力というべきモノで、何とか気力を繋いでいる状態だ。


(アクト先輩は、他の先輩方はどうなって……)


 あの時は突発過ぎて気付かなかったが、思い返せば妙な出来事だった。あの十字路で自分達を取り囲んでいた集団、そのうちの三人が自分にだけ狙いを定めて襲って来たのだ。奇妙な事に、その様子を先輩方が気付くどころか、衆目も誰一人気付く様子は無いようだった。まるで、自分達という存在が()()()()()()()()()()()()()ように。


 どれだけ逃げ続けても男達が追跡を止める事はなく、どれだけ自分が大声で助けを求めても他の観光客が気付く様子もなく……誰一人助けを得る事が出来ずにこんな場所にまで逃げ込んだアイリスを――更なる絶望が襲った。


「はぁ、はぁ、はぁ……あっ……!?」


 気力・体力を何とか繋ごうと必死に酸素を求め、一心不乱に狭い路地裏を走るアイリスの前に立ち塞がる巨大な壁――行き止まり。彼女は複雑に入り組んだ路地裏の一角にある突き当たりに入り込んでしまったのだ。その直後、


「嘘っ……ひっ!?」


 こつ、こつ、こつ……自分に近づく絶望の足音。逃げ道を失い、精も根も尽き果てた自分、助けなど望めそうも無い人気のなさ、虚ろな目をした名も知らぬ男達の懐から覗く、鋭利な鈍色の刃。


 目前に迫り来る明確な「死」のイメージを前に、アイリスが抱いた感情とは「後悔」でも、ましてや「恐怖」でもなく……純粋な「憎悪」だった。


(何で!? 何でいつも、こうなるの……!?)


 それは、俗に言う走馬灯という物なのだろう。アイリスの脳裏に浮かぶ様々な者達の顔……こんな自分を守って帰らぬ人となった両親、こんな自分を認めてくれた、数少ない大切な人達の笑顔。そんな光景を最後に、アイリス=ティラルドの人生は幕を閉じる……それを、‟本能”が捻じ伏せた。代わりに湧き上がる、底無しの「憎悪」。


(折角掛け替えのない大切な人達が出来たと思ってたのに、また私から奪っていくの!? 私は、幸せになっちゃいけないの!?)


 ……何時もそうだ。自分が幸せを望もうとすればするほど、それは残酷に自分から遠ざかっていく。自分が何か大切な何かを手に入れると、他の大切な何かを奪われていく。そんな理不尽な人生の繰り返し、気付けば自分は何もかもを失い、後にはこの忌まわしき‟呪い”だけが残った。


 私は……世界が大嫌いだ。望んでもいないのにあのような呪われた境遇に生まれさせ、自分から理不尽に何もかも奪っていった醜いこの世界が、大嫌いだ。これ以上、自分から奪うと言うのなら――


(嫌っ……)


 どくん――何かが鼓動する。


(何もかも、嫌っ……)


 どくん――何かが胎動する。


(全部……全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部)


 どくん――何かが崩壊する。


「全部――嫌ぁああああああああああああああッッ!!」


 路地裏に響き渡る少女の甲高い絶叫、振りまかれる圧倒的で濃密な‟第二の気配”、今まで彼女の‟呪い”を封じる「楔」の役割を担っていた「眼鏡」がひび割れ――


「■■■■■ーーーーーッッ!!」


 全てを血染めの海に沈める‟獣”が、目覚めた。



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