21話 苦悩と過去
何事も無く平穏に終わると思われた学院生活……その日は平穏から一転して、最悪の日となった。少なくとも、アクト=セレンシアという人間にとっては、何年振りかという散々な一日だった。
謎の魔剣使いヴァイスが去った後、治癒魔法に長けたリネアは負傷したアクトとコロナの治療にあたった。幸い、コロナは気絶こそしているが外傷は打撲だけで済み、アクトも深刻な怪我は無いという事で、一通りの処置をしてから、彼らは肌寒い雨に打たれながらエルレイン邸へと帰って行くのだった……
「――はぁ~~……」
アクトは思わず疲労の溜め息を吐きながら、温かい湯船に浸かっていた。本人に自覚はあまり無いようだが、リネアの家は一応名家だ。それ故か、浴槽はちょっとした大衆浴場程の広さがあり、複数人が同時に入っても余裕のある大きさとなっていた。
途轍もない疲労感に襲われたアクトは、屋敷に帰って直ぐに泥のように眠ってしまった。そして、時刻が深夜を過ぎた頃に目覚めた彼は、起きて早々強烈な寒さに襲われた。
洗浄機能があるとはいえ、雨水を吸って湿った制服と、時間経過で乾いた雨水は彼の体温を着実に奪っていたのだ。このままでは風邪をひきかねないと思ったアクトだったが、ふと見た机には何事かが書かれた書き置きが置かれており、
『お風呂温めておいたので起きたら入ってください。今夜、エクスは私の部屋で一緒に寝ます。私じゃアクト君の力にはなれないかもしれないけど、何か悩みがあればちゃんと相談してくださいね。 リネアより』
流石、リネア。気配りの上手さと親切さが抜群だ。恐らく、アクトが深夜に目を覚まして寒さを感じる事を見越していたのだろう。ちなみに、エクスは夜寝る時だけはコロナかリネアの部屋に行き、彼女らと霊体化・睡眠する。
精霊に明確な性別は無いのだが、見た目は完全な幼女のエクスと年頃のアクトが同じ部屋で寝るのは絵面的にアウトという事で、このような策をとった訳だ。
「リネアには感謝だな。もう少しで本当に風邪ひいちまう所だったぜ……」
今の状況でそれだけは避けたい事だった。先刻、自分を下したヴァイスが零した奇妙な言葉が気に掛かっていたからだ。
単に、アクトの気を立たせるだけの噓八百だけなのかもしれない。だが、彼にはあの男がそのような出任せを言うような人間に思えなかった。あの時、ヴァイスが敢えて誇張したように口走ったあの言葉――‟素敵な事”……何か、途轍もなく嫌な予感がするのだ。
(あの男は、何者なんだろうか……)
中ば無意識的に、アクトは目を向ける対象を別の物に向けていた。脳裏に蘇るのは圧倒的な戦闘力を持つ漆黒のぼろローブを纏った謎の男とその力を更に高める魔剣、それに完膚なきまで叩きのめされた自分……苦々しい敗北の記憶だ。
(らしくなかったか、あんな奴の挑発にまんまと乗っちまって。でも、俺は……)
冷静な思考を保とうと努力はしていたが、あの時、アクトの心の中は燃え滾る怒りの感情で一杯だった。普段の彼ならもう少し冷静に対処出来ていただろうが……それを負けた原因にしたくなかった。自分が過去に触れられて怒りを覚えるという事は、まだ自分の中には「彼女」との思い出が残っているという事だから。
何度忘れようかと思ったか分からない血に塗れた過去ではあるが、アクト=セレンシアという人間にとって、彼らの存在は決して忘れることの出来ない不可侵の記憶なのだ。
(はっ、こんな時に感傷に浸るなんざ、俺も随分甘ったれになったもんだ……)
そう心の中で呟きながら、自嘲的な笑みを浮かべるアクト……その時だった。
「~~~!?」
彼は見た。浴室と洗面所を繋ぐ扉に映る人影を、その人影が今まさに扉の取っ手を掴んでこちらに入って来ようとする事を。普段の彼ならば問題無く気付けただろうが、傷心気味で鬱だった故か、直前まで接近に気付けなかったのだ。
アクト以外に、この屋敷に住む住人は全員女性(エクスは微妙ではあるが)だ。湯気で三人の内、誰なのかは分からないが、誰が入って来ても状況は修羅場必至だ。今から声を掛けようとしても人影の主が扉を開けるのは避けられない。だが、
(二度同じ手は食わん!)
漫画雑誌のクサい台詞を吐く主人公よろしく、ラッキースケベなんぞにあやかるものか! アクトは刹那の間に浴槽の隅に移動、扉から視線を切った。先日、コロナの部屋に押しかけて彼女の着替えを除いてしまった経験が、此処にきて功を奏した。そして――
「ふぅ、リネアには感謝ね。もう少しで風邪ひいちゃうところだったわ……え?」
そんな独り言を呟きながら浴室に入って来る人影――コロナは、浴槽の隅でじーっと近くの壁を凝視しているアクトの姿を認識瞬間、彫像の様に固まってしまった。
歳相応の瑞々しい肢体をバスタオルに包んでいるが、短めのバスタオルからすらりと伸びるおみ足や艶めかしいうなじ、鎖骨(しかし断崖絶壁である)がちらりと見え、彼女の麗しの肌を隠す何の障害にもなっていない。
幸い、驚愕の方が強かったようで、羞恥の感情は薄かった。もし比率が逆なら、アクトは彼女の炎を背中から受ける羽目になってただろう。
「なっ、なっ、アンタ何で……」
「何だ、コロナか。悪いな、先に入らせてもらってるよ。もう少しで出るから待っててくれないか?」
何時もは何かと理不尽な理由でコロナに主導権を握られるアクトだが……ここぞとばかりに彼は強気に主張する。何しろ先に入っていたのは自分、しかも彼女のあられもない姿(推測)を見た訳でも無いので、完全な無罪である。
これで大丈夫、とアクトが人知れず安堵の息を吐いた次の瞬間、コロナはまるで何事も無かったかのように身に纏うバスタオルを脱ぎ捨てると、広い浴槽の中に入って来た。背中越しに伝わる揺らめく波紋の感触と、自分のすぐ後ろに座ろうとする気配に、アクトは思わず唖然とする。
「あのー、コロナサン? どうして俺が入ってるのに湯船に入ってるんデスカ……?」
「え? 別に良いじゃない。アタシも起きてリネアの書き置きを見て来たんだけど、とにかくこの冷えた体を早く温めたいのよ。もう服も脱いじゃったし、今更出たらそれこそ風邪ひいちゃうじゃない」
どうやらリネアはアクトだけに書き置きを残した訳では無かったようだ。つまり、二人はほぼ同じ時間に目覚めてしまい、こうして鉢合わせしたのだ。何という偶然。
「いやまあ、それはそうなんだが良いのか? その……男の俺と一緒に風呂なんて」
「最初にアンタが居た時は確かにびっくりしたけどね。でも、お互い背を後ろを向いていれば何の問題も無いでしょ?それに――」
すると、コロナの左掌からボッ!と小さな炎が音を立てて燃え上がる。目を背けているアクトには何が起こっているのかは分からないが、彼女の言葉と近くで放たれる高温の熱気がそれを悟らせた。
「こっち振り向いたら、問答無用で燃やすから」
「あ、はい、完全に把握しました」
結局、コロナの侵入を許してしまうアクト。もしかすれば自分はこの先一生、この強気な赤髪の少女に逆らえないのではないだろうか……そんな未来を不意に想像してしまった。
(この先一生、か。俺は何時までコイツやリネア、エクスと居られるのだろうか……)
コロナとリネアとは校内選抜戦、「若き魔道士の祭典」が終わるまでという事で契約したが、その先は? 彼女らをヴァイスのような危険な輩から守ると一人誓ったが、それは何時まで? そもそも、ガラード帝国魔法学院を卒業したらその先には何がある? 人間関係とは恒久的に続く物では無い。この奇妙な生活も、ふとした切っ掛けや出来事で崩壊する事も十分あり得るのだ。
エクスにしてもそうだ。自分を慕ってくれているのは素直に嬉しいが、あの精霊と自分は何時までこの不完全な契約を交わしたまま生き続けるのだろうか?
(情けねえな。エクスには過去の事は忘れて未来の事だけ考えろって言っときながら、俺はその未来にも、過去のしがらみにも囚われてるんだからな……)
ヴァイスによって揺さぶられた過去の記憶、それに連鎖して沸き上がってきた未来への不安。その二つに両挟みにされたアクトがどうしようもなくなったその時、
「――な~んか、また神妙な顔をしてるわね」
「え?」
背後で湯船に浸かるコロナが、呆れたような声音でいきなり話しだす。
「アンタの事だし、どうせまた、しょうもない事でうじうじ悩んでるんでしょ?」
「……うっせ。何で顔見てないのに、そんな事分かるんだよ?」
「分かるわよ。まだ日は浅いけど、アンタとは色々あったからね。顔を合わせなくても分かるわよ」
「……そうか」
他愛も無い会話だが、今のアクトには彼女の言葉が妙に心地よく感じた。その正体が何なのかは彼自身もよく分かっていないが、これが信用されている、という事なのだろうかと勝手に結論付けることにした。
「……ねぇ、アンタの過去の事、教えてくれない?」
「いきなり何だよ」
「前にアタシの昔の事も教えたでしょ。それでチャラよ……それに、あの男…ヴァイスって言ってたっけ、あいつがアンタの事喋ってる時のアンタの顔……正直、凄く怖かったわ」
「……ッ!」
「だから、教えて欲しいのよ。何時ものウザったらしいアンタを、あそこまで駆り立てる程の何かを。同じ家に住む者として、アタシにも何か助けになる事があるかもしれないし」
正直、アクトは迷った。一言いってやりたい事もあるが、彼女は純粋に落ち込んでいる自分を心配してくれているのだろう。コロナも、根は心優しい少女だ。ヴァイスのような見ず知らずの他人に無作法に踏み込まれるのは我慢ならないが、この少女になら話しても構わないと、心の何処かで思った。
今彼女に全てを話せば、この心に重くのしかかる負担も少しは和らぐだろう……だが、それでも駄目なのだ。この血塗られた過去はアクトだけの物であり、彼が命尽きるその時まで背負うべき宿業なのだ。『表』の世界で穏やかに暮らすコロナにこの話をして、「こちら側」に引き込むような真似だけは絶対に出来ない。それは、彼女を守るという自分の誓いに矛盾するからだ。
「……コロナ、お前はやっぱ優しいよ。だから、一つ教えてやる。『好奇心猫を殺す』って言ってな、妙な詮索で『こちら側』に踏み込み過ぎると、元の世界に引き返せなくなるぞ。何気ない優しさが自分の身を滅ぼすって事、覚えとくんだな」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよアクト!」
コロナの優しさを払いのけるように言ったアクトは湯船から出て扉の方へと向かう。その背中をコロナが呼び止めようとするが、彼は止まらない。そして、取っ手を掴んで浴場を出ようとするその間際、
「……昔、昔、ある所に、一人の少年が居ました――」
「え?」
突然、謎の語り口調でアクトは話し始める。それは何らとりとめのない、悲しき結末の昔話――
「とある不思議な魔女に育てられた少年は、戦いにしか生きる意味を見いだせず、来る日も来る日も、悪い魔法使いと戦い続け……やがて、その幼い心を壊してしまいました」
「……」
「そんなある日、少年は一人の女の子と出会いました。少年と違い、女の子は戦場に見え置きながらも、常に笑顔を絶やさない太陽のような人でした。そして、少年は戦場に咲いた一輪の花に瞬く間に恋をしたのです」
何処か昔を懐かしむようにアクトは語り続ける。
「少年は変わりました。女の子や仲間を守る為に、少年は必死に戦いました。悪い魔法使いを斬る事への抵抗はありましたが、それでも自分にとっては、戦場を他の仲間や女の子と駆ける日々を、悪くないと思え始めたのです。しかし――」
先の穏やかな声音とは一転して、アクトは声のトーンを一気に落ちして語り始める。その拳は限界まで強く握りしめられ、今にも血が流れ出んばかりだった。
「ある日、何時ものように少年は仲間や女の子と共に戦場に出て……ほんの、ほんの僅かな時間の間に、女の子を永遠に失ってしまいました」
「……!」
「こうして、守ると誓った一輪の花をあっさりと枯らしてしまった少年は、全てに対して絶望し……残された仲間を裏切って戦場から去りましたとさ」
全てを語り終えたアクトの手からは血が滴り落ち、浴場の床を赤く汚す。湯船に浸かるコロナからは死角になっていて丁度見えないが、今のアクトの表情は、怒り・後悔・憎悪……様々な悪感情が混じった複雑な物になっていた。
「とまぁ、こんな所だ。別に、お前が期待していたような壮大な物語でも何でもない、ちょっとした只の悲劇って訳だ。これで満足だろ? お前には悪いが、これは俺だけが背負うべき業なんだ。だから、これだけは譲れない」
「ちょ、待っ――」
コロナの言葉を待つより早く、アクトは浴室から出て行ってしまった。後には、不可解な疑問を抱えたままのコロナだけが残された。
「はぁ……あいつ、言うだけ言っておいて出て行ったわね……」
呆れの溜め息を吐いたコロナはそのまま湯船に深く浸かり、口からぶくぶくと泡を吹く。落ち込んでいても、やはり最後まで食えない男だと、彼女は諦めながら思った。
(俺だけが背負うべき業、か。前々から思ってけど、アクト、アンタもアタシと同じような背負うべき物を持っているのね。最近まで落ち込んでたアタシが言えた事じゃ無いけど……)
イグニス家の事で悩んでいた自分を励ましてくれた彼本人が、一人で背負うべき業だと言うのなら、
(何で、どうして、そんな風に悲しそうな声で話すの……? 本当は誰かに助けて欲しいんじゃないの……?)
そんなコロナの心の声を感じ取れた者は、当然ながら誰一人として居なかった――
◆◇◆◇◆◇
風呂から出たアクトはロクに乾かしもしていない濡れた髪のまま、灯りの消えた暗い廊下を歩く。窓の外では未だ激しい雨が降り注いでおり、一向に止む気配が無かった。
「……エクス」
アクトの鋭い表情が見据える先には、一人の少女の姿を模した精霊――剣精霊エクスの姿があった。リネアから譲り受けた寝間着姿のエクスは、リネアの部屋に居た筈なのだが、エクスは精霊。霊体化してしまえば部屋だろうが何だろうがお構いなしにすり抜けられる。
「マスターの魔力励起を感知致しましたのでこうして参上した次第です。それで、何か御用でしょうか?」
「ああ。その前に、俺は君に一つ謝らなければならない。……あの時、俺は君の手助けを拒んでしまった。その結果があのザマだ。俺は、心の何処かで君の力を借りる事を拒んでいたのかもしれない。許してくれ」
「……顔をお上げくださいマスター。貴女は私の主にして対等な存在、私の力を何時使うかは、マスターの自由なのです」
深々と頭を下げて謝罪するアクトに、エクスは穏やかな表情でそれを許す。学院生活が始まって以来、エクスは感情表現が豊かになっていた。更に、自分が主と対等な存在である事を認めてくれた事が、彼にとっては嬉しい出来事だった。
「ありがとう。そして、その上で聞いて欲しい……決めたよ、エクス。俺は、『アイツ』との思い出に踏み込んだあの野郎を、絶対に許しはしない。これは、俺が過去を乗り越えて未来を見据える為に絶対な事だ。けど、今の俺じゃ、奴には絶対に勝てはしない。だから、君の力が必要なんだ。虫の良い話だとは思うけど……どうか力を貸して欲しい」
「……勿論です。貴方は私に言いました、過去の事は忘れて未来を見据えろと。そんなマスターが未だ過去に囚われているのなら、その呪縛を斬り裂くのは契約精霊である私の本懐。どうか存分に、私の力をお使いください」
「……! これは」
心からの誠意を込めて紡いだアクトの言葉に、剣精霊は力強く応える。その時、アクトは自分の深層意識の底にある魂――「精神体」に何者かからの強い干渉が働いたのを感じた。契約者であるアクトと精霊であるエクスの魂の同調が高まり、「契約」に根付く「呪い」に若干の「綻び」が生じたのだ。
「決まりだな……ようやくだ。呪いとか、偽りの契約とかどうかなんて関係無い。此処からが俺と君…いや、お前との本当の契約の始まりであり、これがその最初の戦いだ――」
激しい雨が降り続く夜が明けたその日、アクトはエクス共々、授業を丸一日休んだ。と言うより、コロナ達が起きた時には、既に彼らの姿は屋敷の何処にも無かったのだ。残された書き置きには「心配するな」と一言残されていた。
彼女達は心配ながらも、仕方なく二人だけで登校して、その日の授業を受けた。昨夜、居住区の一角で激しい乱闘騒ぎがあったという噂が一時、学院を巡ったのだが、その真相を知る者は学院において二人だけだ。そして、噂は噂のまま、濃密な情報の流れに溶けていった。
何の変哲も無い日常を終えた彼女達が帰宅して直ぐに、アクト達も帰って来た。疲弊しきってあちこちボロボロのアクトに二人はどんどん問い詰めたのだが、彼はそれをのらりくらりと曖昧に誤魔化してしまった。
エクスにも一応聞いたみたが、当然、完全黙秘。前もってアクトに口止めされていたようだ。
そんな訳で、昨日の今日で突然の奇行に走ったアクトを心配するコロナ達だったが、かと言って何かが出来る訳でもなく、その日はお開きになった。エルレイン邸の誰もが複雑な感情を抱えながら、その日の夜は過ぎていく。
……数日後。ガラード帝国魔法学院創立史上、最大最悪の悲劇が幕を開ける。それはこの帝国を、世界を揺るがす大波乱の始まり、その第一歩であった――
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