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男性で【黒】の髪と目を持つ人は、この世界では一人しかいない。ただ唯一の存在。他のどんな色をも凌駕する、絶対的な君主である【黒】の家の当主、その人ただ一人。
知識では知っていたものの、私には縁のない人だと思っていた。
そんな人が、どうしてここに?
よほど間抜けな顔をしていたのだろう。第三者のチッと舌打ちが聞こえた。
「葵」
あおい、と【黒】の当主から咎めるように呼ばれたその人は、後ろから憮然な面持ちで現れる。
惹かれてしまうのは、その瞳。
深く、それでいて透き通るような、綺麗な瞳。色は【青】。
その外見に似つかわしくない舌打ちが再び聞こえる。
「いつまで呆けた面をしてるんだ。早く手を取れ。黒夜様に恥をかかせる気か」
「葵」
「お忙しい黒夜様にこんな辺境の家まで迎えに来させてこの態度とは無礼がすぎる」
「葵」
「事の重大さが全く分かっていない。娘、何とか言ったらどうなんだ」
「葵、いい加減にしなさい」
終始、眉間にしわを寄せてお小言を並べた葵に、【黒】の当主…黒夜が牽制をする。
彼の一言で、葵はその口を閉ざした。
「いきなり来たのはこちらの都合で、彼女はまだ何も知らない。それに僕は言ったはずだ、僕の伴侶、と。その伴侶に向かって無礼な口をきいているのは誰で、僕に恥をかかせているのは一体誰なんだろうね、葵?」
「……申し訳ございません」
「ねえ葵、それは誰に謝っているの?」
「申し訳ございませんでした、伴侶様」
きっちり九十度、葵が頭を下げた。けれど私の頭は余計に混乱するばかりで役に立たない。
そんな私に、【黒】の当主が優しく微笑む。
「ごめんね、しき。準備はできるだけしてきたけど、追いついていないところもたくさんあるんだ。けれどまずは自己紹介からかな。遅くなったけど僕は黒夜。これでも【黒】の当主をしている」
「あの…伴侶って…」
「僕は君をずっと探していた。これに関しては残念ながら君に拒否権はないんだ。しきは僕の伴侶だともう既に決まっているから。他の我儘なら何だって聞いてあげるけどね」
「どうして…?だって、私、貴方の事を何も知らないのに」
「大丈夫、これから知っていけばいいよ」
何も知らない。私がそう言った途端、黒夜の漆黒の瞳が、深くなった気がした。
私はすっかり油断していたのだろう。黒夜が一気に距離を詰めてきて、それに反応ができない。けれど、無意識に後ずさった。
「しき、屋敷へ案内するよ」
「えっ、私、駄菓子屋とか…」
「大丈夫、準備はしてきたと言っただろう?駄菓子屋は【赤紫】に任せたし、同様に君をもらう許可も取っている。何の心配もいらないよ」
「まさか」
「あとはしきが来てくれるだけ。それとも、」
黒夜は私を引き寄せると、耳元で言葉を紡いだ。
「ここでやりたいの?仮契約」
「っ!」
一気に顔に熱が集まる。絶対真っ赤になっているだろう。
仮契約。それは本契約の前に行う、婚前の契約。この人は自分のものだと、文字通り唾をつける行為。
羽衣は全てこそ染まらないが、先端から二の腕あたりまで色づく。まさかそんな事、知らない人やましておばさんの前でなんてできるわけがない。
そんな私の前で黒夜は膝をつき、指先へ軽くキスをした。
「だから早く行こう、しき。僕の屋敷へ」
「しき」
今度は聞きなれた声が、後ろから私の名前を呼んだ。黒夜に手を取られたまま振り向くと、未だに座礼をしているおばさんと、その後ろに縁がいた。
常盤色の浴衣を着て、とてもよく似合っている。けれど、本人の顔色が良くない。
私は黒夜に手を取られているのも忘れ、縁の元に向かおうとしたのだが、それができなかった。否、許されなかった。
「葵、あとは任せる」
黒夜は手を滑らせて私を抱き込んだ。着慣れない浴衣では心許なく、慌てて首へと手を回す。
そのまま黒夜は歩き出し、見慣れた立派な庭を通り過ぎて、道に停めていた黒塗りの車中へ私を優しく降ろしてくれる。
何も言うことさえできないまま、黒夜も乗り込み、車は動き出してしまった。