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と、いうことが、ほんの数分前の話だった。
今、目の前にはたくさんの人垣。その奥にひょっこりと新緑色がちらちらと見える程度で、かろうじて「あそこに縁がいるんだ」ということが分かるくらい。
「…………」
確実に間違えた。
確実に選択肢を間違えてしまった。
「縁くん、せっかく会えたんだからこれから遊ぼうよ!」
「そうだ、新しいカフェができたのよ、美味しいって噂なの、行きましょうよ」
子供達に人気の縁は、これまた昔から女の子にも人気だった。
けれどそれは当然の話で、家色の等級も良く、職業は【青】の自衛軍、更に顔も整っているとなれば当たり前だが周囲が放っておくはずがなかった。
ちょっと外を歩いただけなのに、あっという間に縁は女の子達に囲まれてしまった。
縁がモテるのは昔から知っていた。とはいえ、こうやって一緒に外を歩くのは久しぶりで、油断してしまったのは事実。
そして縁も女の子達を無碍にできない。
早速拉致されそうになっている彼を遠くから眺めて、私はこっそりと小さくため息をついた。
でもこうなったら仕方ない。
昔から女の子から人気の縁だからこそ、同様にこの人垣も昔からよく見る眺めだった。
縁は困り顔を浮かべつつ、段々と私のほうへと近づいてくる。こちらをちらちらと伺っているので、私は先に行くよと指で合図して、縁に背を向けた。
こんな感じで別れても、縁はいつも夕飯の前には必ず帰ってくるので心配はしていない。ただ少し残念だと思いつつ、私は私でおばさんのおつかいのためにお店へ向かった。
おつかい自体は元々、そんなに多くを頼まれていなかったため、目当てのものはすぐに見つかった。ちゃっちゃと必要なものを購入し、来た道を折り返す。
縁と別れた場所にまで戻って来たが、そこには縁を含めた女の子達の姿はもう、なかった。
縁の家は、私の家の並びの角地に位置する。歩いて一分もかからない、所謂ご近所さん。
縁の家には塀があり、その塀の中には立派な庭がある。庭にある道を行くとその先に、格式高い日本家屋が建っている。それが縁の家。
昔は何も考えずに出入りしていたものだけど、今はその外観に少しだけ緊張してしまう。
私はひとつ深呼吸してから、敷居を跨いだ。
「こんにちは、お邪魔します」
ガラガラと横扉を開き、少し大きな声で呼びかける。
返事がなかったけれどいつも通り、玄関で靴を揃えて廊下を渡る。
そうして辿りついた少し奥の部屋に、その人はいた。
「あら早かったのね、おかえりなさい、しきちゃん」
笑顔で迎えてくれたのは、真っ白のエプロンをつけた縁のお母さん。
いつも私が来るたびに、おばさんは「おかえり」と声をかけてくれる。そんなおばさんが大好きで、私は気持ちを込めて「ただいま」と言葉を返す。
「縁がうちに寄ってくれて。だから早めに出てきたんです」
「まあ、家には顔も出さないで真っ直ぐしきちゃんの所に行ったのね?相変わらず薄情なんだから」
「そんなことないですよ。縁は優しいです」
「優しいと薄情とは別物なのよ。今度見せてあげたいわ…それで縁はどうしたの?」
「うーん…カフェですかね?」
「カフェ?」
私は先程の事の顛末をそのまま話す。
おばさんも慣れた展開ではあったものの、「まあ呆れた」と眉をひそめた。
「せっかく帰って来たっていうのにそんな事で時間を無駄にして。もっと別の使い方があるでしょうに。もう誰に似たのかしら」
「無駄だなんて。この前、縁にもそろそろ相手を固めて欲しいって言ってたじゃないですか。もしかしたらいい子がいるかもしれないですよ?」
「道端で声かけて誘う娘なんて信用できないわ。そもそも何年かける気でいるのかしらあの子は!ほんと私の方がヤキモキしちゃう」
おばさんは思いっきり、不機嫌です、という感情を全身で表していた。
そんな様子のおばさんに対して私は何も言えず、ただ苦笑いを浮かべてしまう。そんな私を見て、おばさんはむーっとした表情をした。
そんなおばさんに、何と言えばいいのか分からない。困りながらもおばさんと目を合わす事約五秒。
おばさんはふぅと息をもらして一度下を向く。
そして顔を上げたおばさんは、いつもと変わらない、見慣れた笑顔のおばさんだった。
「まあしきちゃんに言ってても仕方ないわよね。さて、あのバカ息子のために夕飯の支度を始めるから、しきちゃんも手伝ってね」
そう言っておばさんは立ち上がり、台所へと歩いて行く。
私も「はい」と返事をして、立ち上がる。
実は私のエプロンは既に常備されており、部屋の柱にかけてある。
そのエプロンの紐を腰の後ろで縛り、おばさんの後を追って台所に向かった。