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「屋敷まで三時間はかかる。しき、突然連れ出して悪かったね。疲れているなら休むといい」
「あの、黒夜、様」
「様だなんて、やめて欲しいな。もっと気軽に呼んでくれないだろうか」
「黒夜、さん」
「うん、今はまだ、それでもいいかな。それで、どうしたんだい?」
「どうして私なんですか?会ったこともないのに、私の名前まで知っていて、それに決まっているって、どうしてそこまで断言できるんですか?」
先程から飲み込んでいたものがぶわりと溢れ出した。
一度口から出てしまうと、次から次へと言葉が飛び出していく。
「どこまで知っているんですか?もしかして父から何か言われたんですか?私の!私の、本当の両親の事も、知っているんですか…?」
「ああ、しき、どうか落ち着いて」
黒夜は私の肩へと手を伸ばしたが、それすら今は許せなくて、その手を払い落とす。
「落ち着いてます!私は落ち着いています!でも全然、分からないし、こんないきなり…怖い。怖いんです」
「驚かせてごめんね、しき。全部、僕が悪いんだ」
「悪いとか、悪くないとかじゃなくて。そういうんじゃなくて」
「不安にさせてごめん。怖い思いをさせてごめんね。でも、僕は君を手放す事はできない」
「だからどうして」
「今は君の全ての問いに答えられない。それは許して欲しい。けれど、いずれ分かる時がくるよ。だからその時まで待っていて。信用してなんて厚かましい事は言えないけど、【黒】の家名に誓おう」
再び黒夜の手が伸びて、私は振り払おうとしたものの、そんな抵抗すらも全て、包み込まれる。
「君を絶対、大事にする。君を一番に考えて、君を全てから守ってあげる。僕が君の帰る場所になるよ。だからどうか、泣かないで」
黒夜の言葉が、態度が、眼差しが、そう黒夜の全てが、その言葉の誓いを表していた。そんな黒夜から目が離せるわけもなく、その誓いをしっかり溶け込ませるかのように、見つめてしまう。
そしてそっと目尻を指先で触れられて、ようやく私は涙を流していたことを自覚した。
ドォォン
遠くで花火の音が聞こえた。車の窓から遠くへ目を向けてみたけれど、想像していた色鮮やかな夜空の花は見えない。音だけが続けて聞こえてくる。
ああ、でも、始まってしまった。
約束していたのに。楽しみにしていたのに。
私たちの、最後の花火が。
そんな私をみて「そういえば」と黒夜が言う。
「ねえしき、【緑】とはそんなに親しいの?」
「…幼馴染なので、とてもお世話になってました」
「今更敬語なんていらないよ、普通にしてくれるとありがたいな」
「でも」
「今更だよ。これから夫婦になるんだから、遠慮はなしにして欲しい。あぁ、それともペナルティーがあった方がいいのかな」
「嫌…」
本当に嫌な声が出てしまった。黒夜は私の髪を一房とっては撫で、また一房とっては撫でおろす。
「それはさておき。お世話になっているなら今度、本当に【緑】の家へ挨拶に伺わないといけないね」
「あの、縁やおばさんは、大丈夫、だよね?」
「それは何についての心配だろう。今日はひとまず、葵を置いてきたからその後という意味であれば問題ないはずだよ。彼らの生活に関しても今までと変わらない事も保証しよう」
今回の事であの家に万が一でも迷惑はかけたくない。だから黒夜からそこまで言ってくれた事に安心することができた。
「あぁ、でもしき、ひとつだけ僕のささやかな我儘を聞いてくれるかい?」
自らささやかと称されると、何故だろう、途端に警戒してしまうのは。
「これは僕も今初めて知ったのだけど、どうやら僕にも許せない事があったらしい」
「ひゃっ」
失礼、と一声かけてはもらったが、本当に失礼なことに黒夜は屈んで私の足首を掴んだ。そしてそのまま上へと持ち上げる。浴衣なので当然もう片方の足も同様に持ち上がり、両足はシートの上へと降ろされた。私は体を支えきれずに、シートで上体が倒れてしまう。しかし黒夜の手は変わらず足首から離れずに、更に着物の裾の合わせへと指を這わせて、膝へ太ももへとどんどん上がってくる。
「君はどんな服装でも似合うが、浴衣もとても似合っているね」
「やだ、やめ…っ!」
その指は帯で隠されている骨盤、臍を通りまた合わせの襟をまっすぐ上がり、遂にうなじまで来てしまう。
恥ずかしさにぎゅっと目を瞑る。頰に髪が触れるのを感じ、それと同時に間近で黒夜の声がした。
「けれど、他の男の色を纏っている君を見るのは、辛いようだ」
「ひぅっ!?」
耳元で熱い吐息を感じたと思ったら、黒夜は私の首筋を浴衣越しに食んだ。それも、長く、優しく。私はじっと固まり、されるがまま。
少しして満足したのか、首筋から黒夜は離れていく。そして私の背中に手を回し、再び抱き起してくれた。
「うん、思った通り。君には僕の色が一番似合う」
見ると、緑だった浴衣は、黒へと変わっていた。
淡いベースの灰色に、黒檀色の大きな花模様。
他のどんな色も、黒という色には敵わない。
いつの間にか、あの夜空の花が咲く音は聞こえなくなっていた。
花火はもう、終わってしまったらしい。




