俺は温泉に行く事になりました。
「凛花、今日は温泉旅行よ!」
11月の半ば、凛花たちはMSW内でのレベルは135に上昇していた。
土曜日の今日はもっとレベル上げに勤しむつもりだった凛花だが、なんとも間の悪い事に致命的なバグとやらが発見され、朝から緊急のメンテナンスが開始されていた。
復旧の見込みがたっていないという事なのでどうしたものかと思っていたところに、麗は凛花にそう告げてきた。
「また急だね、母さん」
「近所の温泉の半額チケット貰ったの。2人まで使えるから凛花も一緒に行きましょうよ」
「無料とかじゃないんだ……」
そして凛花の住む町の温泉と言えば一か所、それもかなりの近場だ。正直、旅行というほどのものではない。
更に高校生の男子が母親と一緒に温泉に行くというのもどうなのだろうか、とも思うのだが。
「まあ行くけど」
あまり積極的に行きはしないものの、凛花は温泉が好きだ。特に冬場の温泉は大好きである。
どうせMSWも今日はいつ遊べるようになるのかもわからないし、ちょうどいいかなと凛花は準備を始めた。
「そう言ってくれてよかったわぁ。もし行かないなんて言われたら幼稚園くらいの子供みたいな駄々のこねかたをしなくちゃいけなかったもの」
「どんだけ俺と温泉行きたいのさ……」
タオルと着替えを入れた袋を用意しながら、面倒な事にならずに済んでよかった、と凛花は思う。
麗は先に準備を終えていたらしく、凛花が準備を済ませるとすぐに出発した。
歩いてもせいぜい15分ほどの距離なので歩いていく。まだ雪が降りはしないが、時折吹く冷たい風はそれがもう近い事を教えてくれている。
しばらく歩くと、目的地に到着した。芹の湯という名前の温泉である。
受付で麗が半額チケットを渡し、本来の1人分の料金を払う。
「それじゃあ凛花、また後でね。ゆっくり入っててもいいけど、お夕飯までには帰りますからね」
「流石にそこまではゆっくりしないって」
現在の時刻は昼を少し過ぎた頃だ。温泉が好きとはいっても流石に凛花だって5時間6時間入り続けたりはしない。
久々の温泉であるのは事実なので、多少はゆったりと浸かるつもりだがそこまでの長湯にはならないだろう。
「おっ、奇遇だなリン」
服を脱ぎ、タオルを手に持った凛花が浴場に入ると、なぜか進太郎が体を洗っていた。
「あーいい湯だった」
「待て待て待て、今入ってきたばっかりだろ」
冗談だよ、と笑いかけて凛花も体を軽く洗い始める。進太郎からは1人分ほど離れた位置で。
「で、なんでシンがここに?」
「ああ、今朝、半額のチケットがついたチラシが届いてな。それで母ちゃんに連れられて来た」
「あー」
凛花の母は貰ったなどと言っていたが、普通にチラシとして配られていたものだったようだ。
という事は、茅原町に住むほぼ全員に配られているのだろうか。
「……でもその割にはあんまり人多くないような」
軽く凛花は見回してみるが、他の入浴者はまばらだ。半額というだけではそんなものなのだろうか。
「夕方からはチケットを見せると半額に加えて好きな味の牛乳1つ無料らしいからな。今はまだこんなもんなんだろう」
俺はあんまり混んでない方がいいからむしろありがたいけどな、と進太郎は笑う。
それを聞いて凛花も納得した。それならもう少し遅い時間からチケット利用者が増えるというわけだ。凛花も進太郎と同じく空いている方がいいし、同じ意見だ。
「はあぁー、あったまるなあ」
「そうだなあ」
体を洗い終え、泡を流して凛花は湯船に沈む。湯の熱がじわじわと全身に染み込んでくるのには思わず唸り声を上げる。
自宅の風呂場では味わえない、巨大な浴槽の解放感。これもまた温泉の醍醐味というやつだろう。
まあ、それはいいのだが。
「近くないか」
「いやあこんなもんだろう」
同じく凛花と共に湯船に浸かる進太郎は、すぐ隣にいる。多分、互いの間にある距離は5センチもないだろう。
何をしてくるだとかではないが、なんとなく凛花はチラチラと視線を感じる気がする。
「リン、何を見てるんだ?」
「ああ、この波打つ湯を見ていると、なんだか心が落ち着くだろう?」
「わかんなくはないけど……さっきからチラチラ俺の方見てないか?」
「まさか。俺は見るときはガン見するから、そんなみみっちい真似はしないさ」
「そっか、ならいいや」
よくはない。が、進太郎は凛花の方を見てはいないらしい。ならばとりあえずこの話は終わりという事でいいだろう。
そうなると、今度は誰が凛花を見ているのか、という話になるが、その疑問はすぐに晴れる事になる。
湯船の向こう側、湯気に隠れた場所から1人が凛花の方へと近づいてくる。
その人物はごく自然に凛花の空いている隣に座った。
「あら、偶然ですわね凛花さん」
「……本当に偶然なのかもしれないけどなんか夏条だけは偶然じゃない気がするんだよな」
現れたのは夏条涼だった。そしてその距離は進太郎よりも近い。というか肌と肌が触れあっている。
が、二度目という事もあってか凛花の心は落ち着いたままだった。進太郎がいる事で、いざという時は助けを求められる安心感を感じているからだろうか。
「あら、それはもしかして愛の告白ですか?」
「いや、そういうのじゃないからね。それと、さっきから俺の方見てきたのって夏条だよね」
「あっ、気付いていただけました?」
涼は嬉しそうに聞き返してくる。やはり、凛花に視線を向けていたのは涼だったようだ。
「お母様と一緒にこちらへ来るとの事でしたので、私も偶然ここで待ってたんですよ」
「今の発言のどの辺に偶然性があるのかよくわかんないけど。……っていうか俺と母さんの話どこで聞いたの?」
他愛ない話をしながら、ふと凛花の視線が下がる。すると当然涼の胸が見えてしまうので、すぐに凛花は顔を横に向けた。
「凛花さん、人と話すときはちゃんと相手の顔を見るべきですよ」
「いやあ、今はちょっと」
身長は涼より凛花の方が若干高いのだが、座った状態だと涼の方が高く見える。
その結果、普通に涼の方を見ると顔よりも下が目に入ってしまう事になり、凛花はそれが気が気でない。
涼本人はまじまじと見られてもあまり気にしなさそうではあるが、凛花はそうでもない。今は落ち着いているといっても、それでも見えてしまうといけない事をしている気分になる。
最初の内は意識していなかったが、一度その事を考え始めると急に顔が熱くなってきた。
このままだとまたのぼせてしまいそうな気がしたので、凛花は一度上がる事にする。
「じゃ、じゃあ俺はそろそろ出るから、夏条ちょっと反対側向いててくれないかな」
「いやです」
涼の反応を見て、凛花は余計な事を言ってしまったと気が付いた。
風呂から出ようとすると当然立ち上がる必要があるわけで、そうなれば涼の顔の位置あたりに腰が並ぶわけである。
見られないようにというつもりで言ったのだが、むしろその視線は凛花の方へと集中してしまった。
仕方がない。ならばと凛花は反対側を向き。
「……シン、なんで俺の方見てるんだ」
「ふっ、気にせんでくれ」
「……」
ふと、凛花の頭の中に「前門の虎、後門の狼」という言葉が浮かぶのであった。




