初日の終業式A
「起きて、昴!」
「もう少しだけ……。」
「さっきも聞いたわよ!布団畳むからさっさと起きてって言ってんの!」
布団を引きはがされた僕はゆであがったエビの様に丸まり、最後のあがきを見せてみたけど、真横で掛け布団を綺麗に折り、押し入れにしまう遥の姿に申し訳なくなって起き上がった。
「す、昴。」
「なに?」
「あ、朝からそんなもん見せるんじゃないわよ!」
「しょうがないだろ!男はそういうもんなんだって、前にも行ったじゃないか!」
「いいからさっさとリビング行って!あとは畳んでおくから!」
普段は僕の方が早起きだからこういうことはないんだけど、如何せん三春くん襲撃の翌日ともなると体力的にきつい。『17歳の特権』は見た目以上に体力を使うってこともあって、あれだけ乱射されたら翌日にも響く。朝から起こった色々なドタバタにしょんぼりとしながらリビングに向かうと、ソーセージと卵焼き、白米が食卓に並んでいた。久しぶりの遥メニューだ。
手際良く布団をたたみ終えて寝室から出てきた遥は、一仕事終えた顔で満足そうに僕の前の椅子に座った。
「おいしそうだね。」
「ありがと。さ、早く食べましょ。5階に行ってゆうくん達を起こして上げないと!」
「二人とものんびり屋さんだからね。」
「えぇ。」
ゆうくんって呼ぶようになったんだな、水戸のこと。こうして一緒に生活しているけど、お互いの思い人は別にいて。その相手もまた僕たちと同じように同棲していて。そのあまりに歪な関係性に複雑な気持ちを抱きつつ、急いでご飯を食べ終えた。
遥は寝室に移動し、僕はリビングでそれぞれ制服に着替え終えた頃、タイミング良く家のインターフォンが鳴り響いた。
「昴、出て!」
「分かった~。」
着替えを先に終えた僕は、玄関に向かい扉を開けた。すると、扉の向こうには小柄なショートカットの少女が鞄を両手で持ちながらモジモジとしていた。
「お、おはよう…すばる……くん。」
「おはよう、紗綾。ずいぶん早いね。」
まさかの来客だった。普段遅刻寸前に教室に現れる彼女がこんな早くに起きてるなんて…。抱きしめたい気持ちは山々だけど、ここは玄関。三春くんのテリトリーだ。
「でも、こんな所に一人で大丈夫なの?」
「安心しろ、俺もいる。……ってか、俺の事見えてなかっただろ。」
「あっ、ごめん。おはよう、水戸。」
「素直に謝られると悲しくなるんだけど?」
「普段ならそんなことないんだけどね。」
「恋は盲目」なんて昔の人は言ったみたいだけど、まさにその通りだった。扉を開けてちょっと右を向いたところにいた水戸に全くといって良いほど気づけなかった。時計を確認して、より死角が大きくなるように扉を開き、水戸へのお詫びも兼ねて小声で彼らに告げた。
「ここを出るまであと10分くらいだし、寄ってく?」
「いいのか?」
「規定は『許嫁以外の異性と二人きりになることの禁止』と『公で他の異性と交遊することの禁止』だからね。」
「確かにな。あっちもそこは盲点だろう。」
どこまで親に従順なんだと思われるかもしれないけど、自分の命を守るためには定められたルールの中で生きていくほかない。だからこそ、昨日の決意を無駄にしないためにも、その『抜け穴』を考えておくことは大切だ。
部屋に二人を招き入れると、ちょうど和室から遥が出てきた。大分気が抜けていたのか、こちらの姿を確認した瞬間、少し大きな声を発した。
「ゆ、ゆうくん?!」
「おはよう、ハル。迎えに来たぞ。」
「昴!アンタ、ちゃんとアタシが出てきてから招き入れなさいよね!ちょっとでも早く入ってきてたらまだ着替えてるところだったのよ?」
「ごめん、ごめん。じゃああとは宜しくね、水戸。」
「ちょ、ちょっと!」
二人が楽しんでいる間、僕は紗綾をソファに案内し、一緒にそのふかふかを堪能することにした。
「あの二人、結構良い感じだね。」
そういうとふいに僕の腕をきゅっと抱きしめた。小さく主張する柔らかいものが腕を介して伝わってくる幸せ。心臓の音が聞こえちゃうんじゃないかと思うくらいドキドキしている自分と、頬を真っ赤に染めた紗綾。僕のつけていた腕時計をその小さい腕で数回いじると「あっ、もうこんな時間」と腕から離れ、立ち上がった。そして、今にも良い感じになろうとしている二人を前に、その小さな手を二回叩いた。
「はいはい。二人ともごちそうさま!もうそろそろ時間だよ。」
とその場を鎮めた。
「佐和。このタイミングで区切ったこと、覚えておけよ~。」
「いいもん。私はこうしてすばるくんの腕にくっつけるだけで幸せだし。」
なんでまたくっついてるんだろう。僕は幸せだけど、この状況をうちの同居人が堪えられるわけがない……。
「ずるいわよ、さやちゃん!」
やっぱり……。でも、腕に抱きついたままの彼女も負けてはいなかった。
「はるちゃんもやってみたら?」
「そ、それは恥ずかしい……。」
「僕、こんな遥を見たの初めてだよ。」
「うっさいわね!昴は黙ってなさい!」
そう言いながら僕たちに背を向けて拗ねる遥。ここから機嫌を直すのがいかほど大変かを二人は知らないからなぁ。そう思った矢先、彼女の頭を水戸がポンと撫でると、瞬く間に彼女の機嫌が直った。
「ゆうくん……ごめんね。」
「大丈夫。俺たちは、俺たちのペースで。な?」
「う、うん。ありがと……。」
あれほどまで扱いにくいと思っていた彼女を、いとも簡単に手懐けるとは…。恐るべし、水戸悠治。一部始終を僕の左腕にくっついたまま見ていた紗綾は、再び僕の腕時計を確認すると、名残惜しそうな上目遣いを浮かべたまま、ゆっくりと離れた。
「よし、昴。そろそろ行く時間だろ。うちの子、よろしくな。」
「そのまま返すよ。紗綾のこと、よろしく頼む。」
さっきまで紗綾に抱きしめられていた左手を遥に差し出し、彼女と手をつないた。
「さっ、行こうか。遥。」
「む~。」
「むくれないで、さやちゃん。アタシだってこんなやつと手は繋ぎたくないのよ?でも、招き入れちゃった以上、許嫁関係が存続してることをアピールしないと何されるか分からないから、しょうがなくやってんの!」
「遥……ひどい言い様だな。」
「まぁ、その間は俺で我慢してくれよ。佐和。」
「……うん。」
焼き餅焼きという意外な紗綾の一面が見られて、ほっこりした。と同時に彼女を一瞬でも他の男と歩かせないといけない自分の力不足を悔いた。そんな複雑な心境の中、僕たちは家をあとにした。
◇◆◇◆◇
「ねぇ、昴。今日のアタシの朝ご飯どうだった?」
「おいしかったよ。卵焼きは特に最高だったよ。」
「ありがと!嬉しいわ!」
三春くん対策とはいえ、今日は本当の彼女を直ぐ後ろに控えての会話。心を痛めながらも徒歩五分のこの時間を必死で埋めた。後ろでも、水戸と紗綾の似たような会話が繰り広げられていたみたいだけど、聞こえたらなんだかつらくなる気がしたので、少し早めに歩いて聞こえないようにした。
だが、校門を潜ってしまえば、もうこちらのもの。うちの学校は生徒のプライバシーを重んじるため、周りを高い塀が覆い、外からは校内の様子が一切分からないようになっている。校内に入るためには学生証・職員証についているICチップを読み込む必要があって、それがなければ入れない仕様。彼らは基本的に自分たちの仕事を大事にしたくないということもあり、自宅と学校には絶対に入ってこない、というわけ。昨日の告白がうまくいったのも、こういう万全のセキュリティーのおかげだから、普段は面倒くさいと思っていたシステムだったけど今回の件に関しては感謝したい。
1分ほど待った頃、やっと後ろを歩いていた二人が入ってきた。
「水戸、歩くの遅いぞ~。」
「ご、ごめんね、すばるくん!私が遅かったんだと思う。」
「そ、そうなんだ。じゃあしょうがないか。」
「昴。手のひら返しが過ぎるぞ~。」
「あはは……なんのことやら。」
水戸はまだなにか言いたげだったけど、紗綾がこちらへ移動を開始したので、諦めてくれた。ゆっくりと息を吐いた水戸は、何事もなかったかのように目線を僕の横にずらした。
「おいで、ハル。」
「い、言われなくても行くわよ。」
水戸の声に合わせ、僕と繋いでいた手を解いた遥は後ろの方に向かった。そして、入れ替わるように左腕に抱きついたのは、紗綾。
「改めまして、おはよう。すばるくん。」
「お、おはよう。ちょっと、恥ずかしいな」
「この時間は誰もいないみたいだし、大丈夫だよ♪」
朝、あれだけ恥ずかしがっていた紗綾だったが、遥たちに触発されたのだろうか、顔を真っ赤にしたまま笑顔でこちらを見上げてくる。その姿に思わずこちらまで照れてしまい、それからまともに会話をすることなく、教室に到着した。
「すばるくん、緊張してるの?」
「う、うん。」
完全に真逆の表情をした僕と紗綾。恐る恐る教室の扉を開けてみたけど、僕と遥の唯一の共通点である「時間に余裕を持って行動する精神」の甲斐もあって、学級委員長の荒川くらいしかまだ教室にはいない。いつの間にか行方の分からなくなったC組勢を待つことはやめ、僕と紗綾は教室に入った。
「おはよう、荒川。」
「おはよう、岩ちゃ……。」
「どうしたの?」
「な、なんでいつもゆっくり登校してくる佐和さんがお前と同じ時間に登校してるんだ?あれか!いつも言ってる許嫁設定のやつか?無理矢理やらされてるのか?」
「荒川くん、安心して!今日は、すばるくんと一緒に登校してきただけだから!」
「す、すばるくん?」
「あっ……ごめん、すばるくん。」
「紗綾は嘘つくの下手だって分かってたから、気にしないで。」
「さ、紗綾?お前ら、もしかして……。」
「まぁ…そういうことかな。」
「そうなの。荒川くん、内緒にしててね。」
「……ごめん、佐和さん。今日は早退するわ。」
まだ始業まで時間があるので、「早退なのか?」というツッコミはさておき、荒川は足早に教室をあとにした。
「すばるくん、なんで荒川くん泣いてたの?」
「紗綾って意外と無自覚だよね。」
「へっ?」
ホワっとした話し方に見合う紗綾の鈍感力には脱帽する。人の事には驚くほど敏感な彼女は、自分のことになると人一倍鈍感になる。おそらく委員長も含め、これから学校内にも大量の「三春くん擬き」が現れる気がして、一層自分の行動を律する必要性を感じた。
(いつも通り話すようにしよう)
そう決意した僕だったが、紗綾はそんなことお構いなしに話してきた。
「今日って、やることって全校集会だけだよね。すばるくん、午後予定ある?」
「バスケ部が放課後に練習試合で使うみたいで、うちはお休み。」
「そ、それじゃあさ。放課後、一緒に調理室に寄ってもらえないかな?その、お昼ご飯一緒に食べて欲しいなぁ、なんて。」
「喜んで。調理部のご飯、楽しみにしてるよ!」
「ハードル上げないで~。」
一生懸命その小さな手を振り抵抗する紗綾がかわいくて、先ほどの決意は舌の根の乾かぬうちに脆くも崩れ落ちた。それからしばらくも話し込んでいたが、数分と立たないうちに廊下から少しずつ足音が聞こえ始めたので、それ以上話し込むのはやめた。
よっぽど嬉しかったのか、彼女は笑顔のままお昼のメニューについて何か小さい声でぶつぶつと独り言を呟きながらクラスの一番前の席に座った。そして、スタンバイしていたかのようなタイミングで、普段教室の三番手である那珂川が入ってきた。
「あれ?さやちゃんおはよう~!早いね。」
「えっ!そ、そうなんだよ!今日はちょっと早起きしちゃって~。」
「そうなんだ!明日は雪かな?」
「千夏ひどいよ~。」
相変わらずの仲の良さに少しばかり嫉妬しつつ、机の中に筆箱をしまい、鞄を廊下にあるロッカーにしまうといういつものルーティンをこなした。
「おはよう~。」
そんな中、クラスでも数少ない学校指定鞄を持って現れたのは磯原太一。ここまで紗綾以外はいつも通りの順番だ。だが、教室を軽く見回したあと、彼は廊下に戻ってきた。
「あれ、岩ちゃん。荒川は?」
「早退するって言って帰ったよ。」
「皆勤賞間近だったアイツが?なんか、本当につらいことがあったんだな。」
「そ、そうかもしれないね。」
とりあえず、笑って誤魔化しておこう。詮索されたら面倒なことになるから。
始業時間が近づくにつれて、続々と教室に入ってくるクラスメイトとだらだら時を過ごしていると、今日一日の始まりを告げるチャイムが鳴った。そして、それを待っていたかのように前の扉が勢いよく開き、羽鳥先生が現れた。
「集会だ。並べ。」
背の順に男女並べさせられた僕たちは一学期最後の全校集会に向かった。
◇◆◇◆◇
僕の名字と紗綾の名字は五十音順ではどうやってもかみ合わない。背の順に並べば、僕は真ん中くらいで彼女は先頭。こういった集会ではどうやっても彼女と並んで話すことは出来ないので、とにかく退屈になる。そして追い打ちを掛けるような校長先生のお話。なぜ覚えきれないような『ありがたいお話』を紙にプリントアウトしてわざわざ準備してくるんだろう。そんな素朴な疑問を抱きつつもそれを声に出すことは出来ない。うちの担任が学校でも有数の「恐い先生」だからだ。少しでも誰かと喋ったり、ウトウトしたりしようものなら、待ってましたと言わんばかりに羽鳥先生が横に現れる。
普段なら、寝ても起きても地獄な展開だが、今日は少し違う。このあとのお昼ご飯があるから。どんなご飯なんだろうとか、いつもそれを食べてる水戸はずるいなとか、そんなしょうもないことを考えている時間は、この退屈な時間も快適なものに変えてくれる。続々と注意されていくクラスメイトを他所に、僕は充実した時間を過ごしていた。そして、気がつけば、全校生徒がお辞儀をして、帰りのHRに備える時間になっていた。
体育館から校舎に戻る流れに乗って移動する中、不意に肩を叩かれ振り返った。
「お疲れ、岩ちゃん。」
「大甕か。」
彼とは僕の中学からのつきあいで、割と何でも話す親友。今回の告白の件でも実は相談に乗ってもらったりしていた。昨日の今日なので、まだ報告はしてないけど。
「どうしたの?」
「今日、放課後 暇?」
「ごめん、今日はちょっと用事があってさ。」
「ってことは、やっぱりうまくいったんだな。あれ。」
「えっ、ど、どうして分かったの?」
「お前顔に出やすいもんな。ずっと佐和の事見てたじゃん。」
「う、嘘!」
「ホント。佐和は、佐和で先頭のくせにちょいちょい後ろ向いて怒られてたし。」
お互いに似たもの同士なんだな。無意識にそうしていた自分が恥ずかしくて、もはや反論する言葉もなかった。
「佐和、可愛いもんな。お前にもったいない彼女だよ。」
「大きなお世話だよ。」
「とにもかくにも彼女もお前を選んだわけだし。良かったな。」
「ありがとう。」
「幸せそうで何よりだよ。でも、俺もちょっと狙ってたんだけどなぁ。」
「え、そうだったの?」
「そりゃあな。あんな性格の良い美人、普通の男が放っておくわけないだろう。」
大勢の生徒がいる廊下で男二人がひそひそと話すという、まったく不可解な現象に物怖じすることなく僕の背中を叩く感触。恐らく彼女だ。
「すば……岩間くん、お疲れ様~」
「お疲れ、佐和さん。」
紗綾、もうギリギリだ。これ聞かれてたらもうバレてるかもしれない。
「おっ、噂の二人さん。やっぱり揃うと似合うな~。」
「ありがと。大甕くんがそう言ってくれると心強いよ!」
「ところでさ。お二人さん、今日の朝腕くんで登校してたの知られてるのは、知ってる?」
「「えっ…。」」
委員長くらいしか登校していないあの時間帯。周りには誰もいなかったのに、どうして知ってるんだ……。動揺が隠せない僕たちに対し、大甕は容赦のない更なる追撃を加えた。
「その様子だと自分たちしかいないと思ってたんだね……。生徒会役員って、一番早くに来て仕事してんのよ。岩ちゃんとかが普段朝練してるのと同じ感じで。で、生徒会室は校門側に面した数少ない教室なわけよ。」
「そうなんだ……。」
「もちろん知ってるのは生徒会役員の5人くらいだろうけど、俺も含めてみんな噂好きだからね~。あっ、ちなみに内原と水戸のペアもその時点で察したよ。」
「一網打尽ってわけか。困ったな~。」
「私は別にいいんだけどね。すばるくんとの関係、隠したいわけじゃないし。」
もはや紗綾は開き直っていた。僕の呼び方を変えることもやめ、普通に名前で呼んできてるし。僕も別に疚しいことは何もない。ただ、本家「三春くん」の警戒と共に、学校に出現すると思われる「三春くん擬き」からも自分の身を守らなくてはならなくなるのが面倒なだけ。
「でも、紗綾の言うとおり、別に隠す必要もないか。」
「男だね、岩ちゃん。ちょっと見直した。」
「でも、大甕もベラベラ喋らないでくれよ。」
「当たり前だろ。ただ、岩ちゃんのお相手があまりに豪華だから一応忠告ってこと。」
「ありがとな。」
横を歩いている紗綾は今にも腕を抱きそうな雰囲気を醸し出していて、若干焦りも感じていたけど、おとなしくしてくれていたので、無事に教室までたどり着くことが出来た。
◇◆◇◆◇
帰りのHRと軽い掃除を終えた僕と紗綾は、予定通り調理室に向かった。近づくにつれてどんどんと濃くなっていく香り。これは…
「今日の先輩のメニューは麻婆豆腐かな~。」
「えっ?今日、調理部も部活あるの?」
「自由参加なんだけどね。ちなみに、夏休み明けには小さい大会とかもあって、夏合宿もあるんだよ~。」
「ごめん、てっきり全休かと思った。」
「それ、朝に水戸くんも言ってた!」
……なんかもやもやするなぁ、それ。
「あっ、でも部活あるんだったら僕邪魔じゃない?」
「そんなことない!……むしろ来て欲しくて。」
ニコニコと笑っていた紗綾だったが、調理室前に着くや否や、顔色を変えて息をゆっくりと吐いた。
「どうしたの、紗綾。」
「あっ、ごめん。なんでもない!行こう!」
ガラガラと扉を開けると、奥にはこの匂いの根源と思われるフライパンの前で手際良くその面倒を見ながら再度メニューに取りかかる眼鏡を掛けた女性が一人。
「おはようございます、赤塚先輩!」
「おはよう、さやちゃん。そちらの方は?」
「……前に相談させていただいていた人です!」
「岩間昴くんね。いつも、さやちゃんがお世話になってるみたいで。」
「えっと……その。」
「自己紹介がまだだったわね。」
そういうと、彼女は火を止め、こちらに目線をくれた。
「調理部三年生、部長の赤塚のどかです。」
「先輩、ホントにお料理が上手なんだよ!」
「ありがとうさやちゃん。でも、まだまだよ。今日はさやちゃん頑張るんでしょ?準備しちゃって良いわよ。」
「いつも頑張ってないみたいじゃないですか!」
「いつもより、頑張るのよね!」
「からかわないでくださいよ~」
いそいそとエプロンを着用して、奥にある冷蔵庫から食材を取り出して、丁寧に調理台に並べ始めた。いつの間にか片付けを終えた赤塚先輩は、俺を食卓のある部屋に案内してくれた後、自分の作った麻婆豆腐を食べ始めた。
「あなたの分は彼女が作ってくれるから、楽しみに待っててね。」
「ありがとうございます。」
よく考えたら、紗綾が普段どんな人とふれあっていて、どんな生活をしてるか、よく知らなかったな。
「普段、さあ…佐和さんってどんな感じなんですか?」
「おそらくあなたが見てきた通りの優しすぎる子よ。優しすぎてちょっと心配になるけど。」
「やっぱりそうなんですね。ちょっと安心しました。」
「あっ、そうそう。わたしのことは気にしないでいつも通りの感じで接して良いからね。」
「昨日お付き合いを始めたばっかりなんですけどね。」
「そうなの?朝、あんなにいちゃついてたのに?」
「えっ?!何で知ってるんですか?」
「そりゃあ、わたしが生徒会副会長だからじゃないかな?」
そんなマンガみたいな展開があるのか。一瞬、その現実を疑ったが、よく考えてみたら今日の全校集会でも彼女は壇上にいた気がする。こうなるならちゃんと聞いておくべきだったなぁ。
「でも、あんなに幸せそうな顔したさやちゃん見たのは初めてだったから、結構安心したのよ。」
「そうですか。」
「たぶん、あなたも彼女も許嫁の件があるから大変だと思うけど、なにか協力できることがあったら言ってね。」
「ありがとうございます。」
話していたこの僅かな時間の間にあっという間にお皿によそってあった麻婆豆腐を平らげると、残りの入ったタッパーをお弁当用の箱にしまい、それをリュックに入れた。
「じゃあ、わたしは今から彼氏とデートだから。ゆっくり使っていいわよ」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。あと、彼女は料理の時に本気の目をするから、見てあげるといいわ。」
「分かりました。」
「じゃあね」と部屋をあとにする先輩の背中を背に、僕は調理室へと繋がる扉をゆっくりと開けた。その隙間から見えるのは、これまでに無いくらい真剣な表情の紗綾だった。オーブンの前でじっとその中を見つめる彼女の大きな目は、中の様子にひたすら集中していた。声を掛けることも出来なさそうなので、食卓で料理が来るのを待つことにした。
それから数分後。イタリアンの独特な香りが調理室から漂い始め、お腹が時折鳴り出した頃、やっとその扉が開かれ、三角巾を被った笑顔の紗綾が現れた。
「おまたせ~!」
「良い匂いだ!」
「ラザニアだよ~♪」
正直、料理の美しさとかそういうことはよく分からないから、見た目だけではよく分からない。でも、その絶妙な焦げ目だとか色合いは、僕の好みだった。フォークでその端を四角に切り取り、お皿に取り分けてくれた彼女に感謝した後、軽く息で冷まして口に運んだ。
「いただきます!」
「召し上がれ~♪」
口に入れた一瞬で、もう言うことは決まった。
「おいしい!!」
「よかった~。」
「紗綾も一緒に食べようよ!」
「ありがと!」
そういうと、紗綾は自分の分の食器を用意し、なぜか僕の真横の席に座った。
「……あ、あのさ、すばるくん。」
「ん?」
「お願い、聞いてもらえない?」
「僕が出来ることなら、なんでも!」
「あの…、私とすばるくんって、その…付き合ってるよね?」
「うん。」
「それでね…あの……私、小さい頃からの夢で…好きな人に、食べさせてもらいたくて…。」
あれだけ嬉しそうにしていた彼女が、急に恥ずかしがりながらそう言った。照れる彼女がどうにも愛おしくなって、ゆっくりと首を縦に振った。
「じゃあ、あーんして。」
「あ、あ~ん……」
こちらに体を向けた紗綾はその小さな口を開けた。その大きさに合うように小さくラザニアを切り取って、まずは息で軽く冷ました。このシチュエーションとお互いの距離が近いことが相まってか、その一瞬一瞬に自分が緊張していくのが分かった。
徐々にそれを彼女に近づけていくのに合わせて、あがる心拍数。そして、口にそれが軽く触れた時、紗綾は目を閉じて受け容れた。
「ど、どう?」
「おいしい。」
どうにも艶っぽいその優しい笑顔。時折見せるこの表情に幾度も惚れさせられた僕にとって、この距離でそれを見られるのは幸せだった。
「今の……間接キスだね。」
「あっ、ご、ごめん。」
「私は、すばるくんと、ちゃんと……キス、したい。」
「えっ……。」
そのときの僕には、拒否権がなかった。僕の頬は両手で挟まれて固定され、そこにグッと紗綾の顔が接近してきた。そして柔らかい接触。目を閉じた彼女のその甘美な表情は、きっといつまでも忘れられないものだと思う。
僕のファーストキスは、最愛の人が作ってくれたラザニアの味だった。
<アフタートーク>
遥:内原遥よ!よろしく!
昴:その同居人の岩間昴です。
遥:この度は『はるかさんとすばるくんの事情』#2Aをお読みいただき
昴・遥:ありがとうございました!
遥:やっとタイトルのアタシたちのアフタートークね。
昴:でも、実は今回遥ほとんど出てないよね。
遥:うっさいわね。アタシたちはアタシたちでいろいろあったのよ。
昴:そうなんだ。
遥:詳しくは #2Bで見てちょうだい!
昴:宣伝はちゃんとやるんだね。
遥:当たり前でしょ!だって……さやちゃんばっかりずるいもん。
紗綾:ごめんね、はるちゃん……。
遥:いいのよ…って、アンタ!ここまで出てきたらさすがに怒るわよ!
昴:それでは皆さん、また次回!
遥:昴、勝手にシメてんじゃないわよ!
紗綾:じゃあね~。
遥:こら~!!