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《鳥籠》3

 



 ぬるま湯の底から浮上するように、緩やかに目が覚めた。


 いまいち包容力に欠けたソファ。枕代わりに二つ重ねた厚みの足りないクッション。壁にはレミィが選んだ時計。テーブルには私が使ったっ切りの爪やすりと、キュウが訳もなく拾い集めてくるカラフルなプラスチックの空薬莢。


 見慣れた光景が寝起きの霞んだ目に滲みる。


 午後5時過ぎの我が家が、なんの疑いようもなくそこにある。


 いつの間に眠ったのかとほんの一瞬過ったが、それも凝った背筋を伸ばすむず痒いような心地よさに消えた。


 うたた寝ひとつで脳みそを働かせても仕方ない。


 台所から聞こえる作業音。まさかキュウな訳もないので、レミィで間違いないだろう。

 決して広くはない家だ。ここで聞き耳を立てていれば、誰がなにをしているか隅々まで手に取るように分かる。


 それにしても、もう夕飯の支度か。


 緩んだ頭でぼんやりと時計を見上げる。

 いつもより何となく早い気もするが、腹の具合を測ればちょうどいい頃合いだろう。

 だとしら今から動いても仕方がない。ここで眠るでも起きるでもなく座ってるべきである。


 何もない時間が無意味にゆっくりと流れていく。空っぽの頭に染み入るように、融け出すように。


 私はいつの間にこの感覚を忘れていたのだろう。

 ここ数日動き詰めで、思い出す余裕さえなった気がする。


 昨日なんて








「……え?」


 ふっ、と

 まるで手に掬った水が指の間を零れていくような感覚だった。


 目を固く閉じ、そしてまた開く。

 先程までそこにあった、決定的ななにか抜け落ちてしまったようだ。

 僅かに残ったのは、形の定まらない煙のような違和感。


 ほんの一瞬前まで、自分が何を考えていたのかわからないのだ。


 いや、そもそも



「あ?」



 その一瞬後にはそんな違和感さえも霧散していた。



「私は……」


「嬢?」



 目の前にレミィの顔が現れて、私はやっと額にやった手を退けた。


 脱いだエプロンを片手に、怪訝そうな顔が私を見つめている。


「頭痛ですか?」

「あぁ……多分……いや」


 否定とも肯定ともつかない言葉を転がす私に、レミィの眉が下がる。

 しかしそんな顔をされたって、当の私が一番わからんのである。


「なんでもない、なんでもないって、はいおわりおわり」


 私は両手を打って、すっかり居心地の悪くなってしまったソファーから逃げ出した。


 大方寝起きで頭に血が通っていなかったのだろう。気にしたところで仕方ない。


 食卓に着くと、レミィが夕飯を運び始めた。


「平気なら少しくらい手伝ってください。」

「だるいからパス」


 レミィの溜め息を受け流し、さっさと箸だけを取る。

 今日の献立は煮魚だ。ゴボウと小松菜が添えてある。


 いい色に仕上がった皮を上にして、切り身が煮汁に浸っている。


 一先ず、箸をずぶりと突き立てて真っ二つに割る。


 別に嫌いではないが、毎度のことながらなんというか華がない。こんな物ばかり出されていると婆さんになってしまいそうな気がする。


「たまにはさ、こう……もっと派手なのないの?」


 卓に着いて早々の小言に、レミィは肩を竦める。


「私が聞いたときには"なんでもいい"としか言わないじゃないですか」

「そりゃまあそうだけどさ、その辺おまえのセンスだろ?」

「これが私のセンスです。お嫌なら他を当たってください。」


 無惨にほじくり返された身のなかから小骨を箸で避ける。最近は諦められたのか、行儀が悪いとも言われなくなった。


 不味くはないが、もう少し塩気が効いていても気がする。


「そんなこと言ってさ、おまえ外で食ったら怒るだろ。野菜がどうだ~とか、お酒がなんだ~って。」

「それはあなたが日頃滅茶苦茶な食生活を送っているからです。」

「……」


 どうやら意地でも私を婆さんにしたいらしい。

 仕方ない、口に入れるだけしてやろう。


 しかし、それにしても味が薄い。


「醤油」


 調味料の並べてある食卓の隅へと手を伸ばす。

 いつも通り、極めていつも通りの仕草である。


 そして、だからこそその違和感の一端に触れることができたのかもしれない。


 伸ばしたままの手に醤油の小瓶が渡されることはなく、目をやった先には誰もいない。


 いつも夕飯時には決まってそこに座っていて、手を伸ばすと毎回間違えてソースを渡してくる彼女が。



「キューちゃんは……?」



 言い様のない不安が口をつく。

 そう思えば、何かがおかしい。


「なぁ、レミィ……キューちゃんは?」


 奴がいないなんて明らかにおかしい。

 よりによってあの大食らいが飯の支度に気がつかない訳がない。


 私の問いに、レミィは黙って箸を進めている。


「おい……何とか言えってレミィ!あいつがいないなんて……」


「嬢」


 箸を叩きつけるように置いた私に、レミィはゆっくりと顔を上げた。


「食事中ですよ?」

「……!?」


 後ずさったわたしの背後で、椅子が音を立てて倒れた。

 そこにいたのは、まるでいつも通りの、行儀の悪さを注意するような顔をしたレミィだった。


 膨れ上がった疑念が遂に私の身体を動かす。


「……誰だ?」


「……。」


 じりじりと下がる私に、レミィの形をした"それ"は答えない。


「……誰だよおまえ、キュウをどこにやった!!」


「嬢?」


 "それ"は、まるでなんのことか理解していないかのごとく首を傾げる。

 その瞬間、燻っていた不安が爆発した。


「クソっ!!」


 私は逃げるように部屋の扉へと走っていた。

 この家は何かがおかしい。


 ここから今すぐ出なければならない。


 しかし、扉のノブに手をかけた瞬間に愕然とした。

 どれだけ力を込めてもノブはまるで動かず、軋む音ひとつもあげないのだ。


「なんだよ……これ!!」



「駄目ですよ?」



 背後まで迫っていた声に、身体が凍り付いた。


 いつの間にそこにいたのか、私の両肩に手が乗っている。


「私たちはここで暮らすんです。ずっと、ずっと二人で。」


「……あ……!?」


 突然膝から治からが抜け、床に崩れ落ちた。

 しなだれかかるように私を抱いたレミィの声が、耳から全身へと染み込むように聞こえる。


「誰の邪魔もありません。誰も必要ありません。あなたは、ずっとあなたのままでいればいい。ただ私を求め、私だけを見ていればいい。」


 かかる吐息は蕩けるように甘く、柔らかい。


 激しさなど微塵もない、絹を撫でるような柔らかさで私を床へと押し倒す。

 まるで自分の物では無くなったように動かない身体を、痺れるような脱力が包み込んでいく。


「やめろ……」


 全力で上げたはずの叫びは肺の奥で萎み、口をつく頃には掠れた音になっていた。


 思い出した。

 私はこの感覚を知っている。この瞬間を覚えている。


 "もう、すでに何度も繰り返している"


「ああ、私はこんなにもあなたを愛しているのに、あなたはいつも遠くに行ってしまう。それならば、私はあなたを引き留めます。それがあなたの羽根を落としてしまうようなことでも……」


 何度も何度も繰り返しては、この歪な空間の正体に気が付き、その度に彼女の腕にからめとられる。


「少しずつ、少しずつ……あなたがあなたの形でいられる極限まで……私は一枚ずつ抜き取っていく。あなたが羽ばたき方を忘れるまで、あなたが空の色を忘れるまで……」


 からめとられる度に、私はひとつずつ記憶を、感情を抜き取られていく。彼女が理想とする私になるまで、少しずつ。


 この温かさは、柔らかさは、もはや知るレミィのものなどではない。


 まるで大きな怪物の舌にねぶられるような、ゆっくりと呑み込まれていくような。


「大丈夫、なにも怖くなんてありません。あなたはここにいるだけでいいんです。もう、あなたを傷付けるものは何もありません。」


 囁きが染み込んでいく。

 痺れが身体をゆっくりと飲み込んでいく。

 また何もかも忘れていく。



 ここはいったいどこだ?


 何もかも、私たちのあの家を模して作られた空間。



 ああ、そうか


 ここは、彼女の中だ



 彼女の抱いてしまった、私の抱かせてしまった、歪んだ理想の中だ







 いつの間にかそこにあった物。

 私と彼女の間に生まれてしまった、取り返しのつかないerror(エラー)だ。








 ○○●●●●







 明けの流星作戦は誰も予期できなかった結末を迎えた。


 円卓の精鋭を集めた作戦部隊は、決して少なくない被害を出しながら辛くも撤退。体勢を立て直すべく、応援の到着を待っていた。


 突如涌き出た大量のerrorの群れは、既に半数以上が自壊を始めている。しかし、急遽現地に設けられた作戦本部から望む光景は凄惨だった。


 崩れかけたerrorの残骸が、黒く禍々しい煙を上らせながら蠢いている。


「スズメより報告、error追加で接近中!」

「負傷者は集合!errorの傷が最優先だ!」

応急班(ラッコ)まだか!?」

「補給持ちません!もう出せる武器がない!」


 付近に展開していた保安隊、本部から急遽駆けつけた特務隊第七班(スズメ)第八班(メジロ)が合流したものの、現場は混乱を極めていた。



「……またとんでもないトコに呼ばれちゃったよな~、これ」


 損害を受けた第五班(タカ)に代わり、現在前線に目を光らせているのは第七班だ。


 班長のカズマは狙撃銃のスコープ越しに、蠢くerrorを見つめていた。


「こんなキモ怖いモン監視するくらいだったら一生雑用がよかった……!」


『リーダー、愚痴るならマイク切ってくださいよ……ただでさえ休暇返上して出てるのに気が滅入るっす。』


「そんなの今更だろ!つかそういう次元じゃない!」


 わずか数百メートル先では、何とか持ち直した第四班(ハヤブサ)第八班(メジロ)の支援を受けながらerrorの進行を阻んでいる。


「……向こうも時間の問題とはいえ……」


 errorは、大概の場合時間とともに崩壊していく。

 大型の場合は衝撃を加え分散させる必要があるが、今回のものは小型ばかりなので、個々の撃破は難しくはない。だが、問題は数である。


 加えて、彼方に見えるあの巨大なドームだ。


 errorであることは確認されているが、今までのものとは明らかに様子が違う。

 目立った動作はなく、文字通り山のように動かないが、だからこそ非常に不気味である。


「なんだよアレ……マジで勘弁してくれよ」


 握り込んだ手が汗に滑る。


 その時、背後で土を踏む音がした。


「誰だ!」


 腐っても特務隊班長。積んできた経験は並みのプレイヤーを上回る。


 素早くサイドアームに持ち替え、音のした岩影を狙う。


 前衛の取りこぼしか。

 もしそうなら、自分一人の手には負えない。


「おい……カズマか?」


「うぇっ!?」


 岩から這うように出てきたのは、ずだ袋のような物を背負った同じくずだ袋のようになった黄泉月だった。


「し、師匠……!?」


「わかったら(それ)を下ろせ」


 背負っていた物を下ろすと、自分もその横に大の字に倒れた。


「本部と繋げるか?……悪いが迎えを寄越してほしい、これ以上荷物は運べそうにない。」

「荷物って……これ!?」


 黄泉月の下ろしたものに、カズマは悲鳴のような声を溢し。


「イナリさん!?」


 全身傷だらけになっているが、確かにイナリだ。

 気を失っているのか、倒れたままぴくりともしない。


「拾ったはいいが、来るも途中errorだらけでな。お陰でこのザマだ。」

「なんで通信寄越さないんですか!本部はもうほぼパニックですよ!」

「途中でぶっ壊れた。木崎はそんなもん途中で捨てちまったらしい。」


 カズマは額を押さえる。


「……スズメ1番より本部、師匠とイナリさんを保護、2人とも重傷、迎えに2~3人ください。あと治療の準備……うわっ」

「まて」


 黄泉月がカズマのヘッドセットを引ったくる。


「私だ。治療より先に団長に用がある、伝えておけ。」


 返事も待たずにヘッドセットを押し付けるように返すと、また大の字になる。


「そう言えば師匠、カラスの連中も帰ってないらしいっすけど……」

「スルガの奴とは途中で別れた。部下を拾いにいくらしい。あれじゃまず絶望的だがな。」


 カズマは歯を噛み締める。

 馬の合わない奴ではあるが、スルガの真面目さは理解している。半ば頭のネジが外れかかったような部下でも、彼は骨を拾うまで諦めないだろう。


「大丈夫だ。あれでも鈴村(スズムラ)木崎(キザキ)油屋とろろ(バカ)明星(アケホシ)の次くらいには出来のいい奴だ。それに、死に場所を選ぶ根性だけなら人一倍だ。」


「そもそも他のやつらには全く無かったがな」という呟きは、カズマの耳には入らなかった。


「……ちなみに、その序列だと俺はどの辺っすかね?」


 カズマの問いに返す言葉はない。

 振り替えると、黄泉月は目を瞑ったまま黙っていた。


「そりゃないっしょ……」


 カズマは向き直り、再び監視に戻った。







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