《脆く、鋭く、きらきらと》2
私は別に、間違ったことなんかしていない。
かといって、キャロのあの目に悪意があったわけでもない。
これはたぶん、ちょっとした誤解から生じた認識のずれに他ならないのだ。
だから、こんなに胸を騒がしくすることに意味なんてない。
そんなことは分かっている。
分かってはいる。
分かってはいるのだが。
キャロと別れてもまだ、そんな考えが頭のなかでぐるぐると回っていた。
「ただいま」
手で押した玄関の扉が、いつもより三割増し重く感じた。
なんだか、気分が悪い。
胸の辺りで魚の小骨がつかえているような感じだ。
このままふて寝でもしようか。
だが、このままではどうも苛立ちが邪魔して、眠気が降りてきそうもない。
なら、また出掛けるか。
それにしても、今は誰かをぶん殴るような気分になれない。
「……んんんん」
むしゃくしゃして、意味もなく自分の頭を掻き回した。
こんな気分になったのは初めてだ。
この時間ならレミィが飯の用意でもしているだろう。とにかく彼女の顔でも見てから、一旦卓にでも落ち着こう。
逆立った髪の毛を手櫛で撫で付ける。
食って話せば少しは楽になるかもしれない。
そんなことを考えていると、後ろからきしきしと床を踏む音がした。
「あ?」
レミィか。だとしたら偉い問題でもあったのか、足音が酷くびくついている。
だが、そこにいたのはレミィではなく、何故かうちのなかなのにヘルメットを被ったキュウだった。
「きゅ……キューちゃん?どうしたよ、幽霊でもいた?」
「ミケ、ミケ……大変だよぅ……」
何故か声を絞りながら、足音を気にする様子を見せながら私の手を引く。
連れてこられたのは、居間へ入る戸の前。
それを指一本分ほど開けると、「覗け覗け」と言うように手招きをする。
「あ……?」
居間で何かあったのか。
恐る恐る覗いてみると、いつも通り何もない居間がある。
だが、妙に静かだ。
「……あれ」
いつも飯を食っている食卓を見ると、やっとキュウの見せたかったものが分かった。
レミィだ。
レミィが一人席につき、卓に突っ伏している。
なにやら酷く思い詰めているらしく、耳を済ますとぶつぶつ呟いているのが聞こえる。
「なんじゃありゃ」
「わかんない……」
どうやら、キュウにも原因はわからないらしい。
「お家に帰ってきたら、ふらふらって。」
「それからずっとああ?」
「うん。」
そう言えば、レミィは確か朔太郎のやつと出掛けていたが
もしや、朔太郎に何かされたのか。
それなら私も黙ってはおけない。
おのれ、あの野郎め、キャロのみならずレミィまでも。これが奴の仕業だとするなら、干物にして玄関先に吊るすばかりでは済まされん。
「レミィ!」
私が駆け寄ると、レミィはやっと顔を上げた。
「嬢?」
「レミィ、どうした!朔太郎か?」
私の剣幕に驚いたようすだったが、すぐに首を振った。
「い、いいえ……朔太郎とは別に、」
「じゃあどうした!なんなら今からでもぶん殴りに……」
「彼女は関係ないんです」
「え……」
「いえ、全く関係ないわけではないんです……けど」
レミィは顔を顔を背けると、小さく唸る。
「その事は別に、大した問題じゃなかったんです……もう、落ち着きました」
「お、おう……」
どうやら出掛けた先で一悶着あったことは間違いないようだが、なにか別に問題があるらしい。
「……なんだか、考えていたら自分でも手に負えなくなってきて……」
「……。」
その言葉に、私は口を閉じた。
そうか、レミィもか
私はレミィの向かいに座り、自宅用の出前サービスのメニューを開く。
「嬢?」
「……飲むぞ、レミィ」
「え?」
「こう言うときは」
一先ず強めのウイスキーからとり、卓の真ん中にどんと置いた。
「飲め。」
「でも……お酒は」
「命令。」
少なく注いだグラスを、レミィにつき出す。
「……割らないんですか」
「飲めってば。」
私が一杯煽ると、レミィもそれに倣って勢いよくグラスを傾ける。
「……うっ……これ……」
「頭ぶっ飛ばすにはこれがいい。」
無駄なことを考えなくてすむ分、思考がクリアになる。
一先ずウイスキー用に一式出前をとって、自分のグラスに氷を落とした。
「氷いる?」
「お水だけで……」
半々で割ったのをレミィの前に出して、私も自分のグラスに口をつけた。
「……何だか、自分がどうしたいのかわからなくなって……」
「……ん?」
三杯目に入ったところで、やっとレミィが口を開いた。
「わからないって?」
「嬢」
私の質問に答えることもなく、アルコールで顔を真っ赤にしたレミィは言う。
「あなたは私のことが好きですか?」
「っ!?」
下しかけた酒が喉で爆ぜた。
いくら酒が回っているとはいえ、平生のレミィの口から聞けるような言葉ではない。
噎せ返る私の事を気にしているのか、いないのか、彼女は続ける。
「私はあなたのことが好きです。これは別に、身体を預けあった仲であるだとか、そんなことも関係無しで、本当にあなたという人が大好きなんです。愛しています。」
「……おう」
思わずグラスを置いてしまった。
これ以上こんなのを聞いていたら、今度こそ噎せる程度では済みそうにない。
それに、今ので十分過ぎるほど頭はぶっとんだ。もうアルコールの助けなどは要らない。
だが、すっかり酔いの回っているレミィは私にお構いなしだ。
まるでたがが外れたように、夢中になって話を続けている。
「初めは、不安定なあなたを支えることを、単なる仕事だとしか思っていませんでした。でも、それもあなたの側に立ち続けている内に気が付いたんです。私は、臆病で、脆くて、それでも強がりで、そんな繊細なあなたが心を開いてくれることが嬉しかった。あなたの、小さな成長を見られるのが幸せだった。」
「……。」
確かに、ここに来てレミィと初めて会ったときはかなり世話を焼かせた。
迷惑もかけた、心配もかけた、その癖八つ当たりもした。それでも、こいつはずっと隣にいた。
「あなたはどんどん成長して、きっとこれからもっと素敵な人になっていく。たぶん、いつか私のお世話なんて要らないほど立派になります。」
「そんなこと……ないってば」
「いいえ、あります。昨日や一昨日だけでも、嬢はずっと大人になったのを感じるんです。」
「おとな……。」
言われてみれば、中身の濃い日々だった。
たくさん出掛けて、たくさん死にかけて、たくさんの馬鹿と喋った。
リアルの私が"黒江黒瀬"だったということを忘れるような日々を過ごした。
「ずっと、胸の隅に不安があったんです。嬢が私のお世話が要らなくなったとき、私はどこにいるんだろうと。」
「そりゃ……おまえは私の相棒だから、変わらず隣に……」
「そのとき、あなたの心は変わらず私の隣にありますか?」
その言葉に遮られて、私は口を閉じた。
レミィは寂しそうな顔で続ける。
「今朝、出掛けるときに、私は悔しいくらいに撒かれちゃいましたからね。……あのときはうまくのせられましたけど、知ってるんですからね」
「……あれは、その……」
「いいんです、あなたは元々ずるい人ですから。それを知った上で、私はあなたのことが好きです。でも……」
そのとき、レミィの目からほろりと雫が落ちた。
「いつかああやって出掛けたきり、私のところに帰ってこなくなるんじゃないかって。体ではなく、心です。」
レミィは自分の目許を強く拭う。
「あなたが社交的になるのは、とても嬉しいんです。引き込もってばかりじゃよくありません。だから、これは寧ろあなたが大人になるためには必要なことだと思います。」
しかし、目が真っ赤になるほど擦っても、その涙は止まらない。
「あなたが私に縛られる必要なんてないんです……。それでも、私はあなたの側にいたい……ずっと、いつまでも……。だから、私はあなたに違う形の繋がりを求めたんです……。でも、駄目でした。その程度じゃ、あなたをつなぎ止められない。むしろ、私の理想から遠退いてしまった。」
「……。」
言い切ると、レミィはグラスの底の酒を飲み干した。
「……改めて考えていると、頭が混乱してきて。いっそ、あなたを閉じ込めることができれば、ずっと側にいられるのに。幼いままのあなたと、ずっといられる……」
「レミィ……?」
「冗談です。それは私の自分勝手に過ぎませんから。……たぶん、私の心が堪えられない。」
長い沈黙が降りてきた。
レミィがグラスに氷を落とし、新たに酒を注ぐ。
「嬢」
マドラーでそれをかき混ぜると、いくらか柔らかな表情で問いかけてきた。
「あなたは、私のことが好きですか?」
答えは、すぐには出なかった。
"嫌いではない"
だが、それはたぶん答えにはならない。
かといって彼女の気持ちの前では、私の"好き"なんて、それ以下の価値もない。
「……。」
結局、最後まで言葉は出なかった。
「そうですか」
何故か、レミィの顔に浮かんだのは安心したような微笑みだった。
レミィが、私の方にグラスを差し出す。
「これですっきりしました。飲みましょう、嬢。」
「……。」
何故か鼻の奥が痛くなってきた。
咄嗟に差し出されたグラスを煽って誤魔化す。
その様子に、レミィは微笑む。
「それでいいんです。私の役目は、あなたを守ること。私は、いつでもあなたの成長を望んでいます。」
「……。」
レミィが、自分の分の酒を注ぐ。
「だから、その役目が終わったら私のことは置いていってくださいね?」
「……。」
「あなたは自由にならなくてはならない。その時に、こんな重荷は必要ありません。」
たぶん、今は絶対に泣いてはいけないのだと思う。酔っぱらっていたとしてもだ。
だから、全力で鼻をすすった。
「じゃあ……レミィ」
一言捻り出すだけでも重労働だ。
「おまえは、私が大人になるまで側にいてくれるんだよな……」
「ええ、もちろんです」
レミィははっきりと答える。
「あなたの心がここにあるかぎり、私はあなたの側にいます。」
そこでやや首を振ると、レミィは続けた。
「だから……できるだけ、ゆっくり大人になってください。」
「……。」
私は、黙ってレミィにグラスをつきだした。
=解説 (?)=
レミィはミケゾウの成長を望む一方で、"大人"になっていく彼女が自分の元を去っていくのをどこかで恐れています。
人間嫌いだった彼女が、キャロやアルトなどとの繋がりを持ち、世界を広げていくのを目にして、改めてそのことを自覚します。
レミィは、"ずっとミケゾウの側にいる手段"として、ミケゾウと恋人紛いの関係を築く流れに乗りましたが、最終的には自分のミケゾウへの執着そのものが、本来自由で奔放な彼女の重荷になると見て、この思いに至ったようです。
ミケゾウ自身も、改めてレミィに"好きか?"と問われて黙ったように、自分の心が既にレミィから離れ始めている、つまり"親離れ(?)"が始まっているのをここで自覚してしまったわけです。
この点は複雑ですね。
《偏屈少女と散弾銃》
少女が大人になったとき、散弾銃は……
というお話でした。




