《夜明け前には》
冷蔵庫から取り出したばかり出したばかりの冷や水を、顔面からバケツ一杯に浴びせられたような気分だった。
冷たさが目の裏側まで染み込んで、脳幹に突き刺さる。負った傷さえなければ、地面を割って跳び跳ねていたかもしれない。
「マジかよ」
腹にうまく力が入らないせいか、小さく吐き出した声は笑いを帯びたように震えていた。
壁に背中をへばりつかせたまはまの私の上に、赤い光を撒き散らす体が覆い被さる様に落下してくる。その頭の上で必要以上に存在感を放っていた帽子が落ち、私の鼻先にその鍔をぶつけた。
「おい……重い」
私の呼び掛けに、あの鼻に着くような口調は返ってこない。
「重たいんだって」
私の上でピクリともしない体。さっきまで馬鹿みたいに騒ぎ立てていたものだから、一瞬何かの冗談かとも思った。
だが、冗談にしては重すぎた。
動く力を失った肉の重みがした。
ぎりりと噛み締めた奥歯の間から誰へとでもなく漏れる。
「……勘弁してくれってば」
顔にぶつかった帽子を首を振るって除けると、まるで熱い抱擁でも交わすように倒れ込んできた男の肩越しに、見覚えのあるようなないような黒装束が見えた。
私が舌打ちする内にも、物陰という物陰から黒装束が溢れてきて、その数は瞬く間に両手の指に収まらなくなった。
いったい何処にどう隠れればこの数が収まりきるのか、棒切れでつついた蟻の巣穴を見下ろしているようで気色の悪い連中である。
「鼠が紛れ込んだと聞けば、ここでは二匹虫の息か。」
紙やすりどうしを擦るような掠れた声が、その真っ黒の中から聞こえてきた。
「あ?」
埃にざらつく瞼を瞬いて目を凝らすと、そのなかに黒い包帯で顔を巻いたような気味の悪い男がいる。
こいつが誰なのか、正直さっぱり見覚えはないのだが、さっきトラックを襲いにきた連中の親玉と見て間違いはないだろう。
親玉らしき包帯は続ける。
「聞こう、積み荷に紛れてた鼠ってのはお前らの連れか?」
『積み荷の鼠』
キュウのことと見て、十中八九間違いはないだろう。
だとしたら問題だ。向こうは既に連中に目をつけられているらしい。
頑丈にできているとはいえ、キュウ一人でどこまで持つだろうか。
まあ、他所を心配していられる私でもないのだが。
「鼠とか虫とかうるさい、ありんこ軍団。今マジで取り込み中だからあっち行け。」
「ふん……肝の座った娘は好きだが、生憎そういうわけにもいかない。」
「こっちはおまえなんか絶対あり得ないっつの、金払われたって付き合ってやんないし、豚の尻穴でも掘ってろ」
中指でも立ててやろうかと軽く身を捩ってみたが、体のありとあらゆるところに銃口が向けられるのを感じてやめた。
「ぐぬぬ……はぁ」
震えてからの、仕方のない溜め息。
数えるだけ気が滅入るだけだろうが、ざっと十や二十はこっちを向いているだろう。
全く、若干死人と怪我人相手に容赦という言葉を知らん連中である。
包帯は世間話でもするような口調だ。
「おたくらには悪いようだが、生憎家は仕事は確実にこなす主義だ。不安要素はたとえ羽虫の一匹だろうがしっかり潰しておきたいのさ。」
敵を前にしておいて、嫌に饒舌だ。私など所詮とるにも足らん存在だとでも言うのか。
「仕事熱心は禿げるって、田舎の婆ちゃんが言ってた。」
だからといって一矢報いる手段も持ち合わせない私はと言えば、この通り同じく舌を奮わせるだけなのだが。
そんな私の様子が面白く見えるのか、包帯男は立て付けの悪い雨戸のすきま風みたいな声で笑った。
「だからって、仕事しなけりゃじりじり死んでくだけだろう。血反吐垂らしてくたばるのも、汗水垂らして禿げるのも、選んでられない時代なのさ。全く、世知辛いもんだ。」
「同感だね、クソッタレ。あと……」
無数の銃口が私を捉える中、私は咄嗟に手元に隠していた物を大きく振り上げた。
「誰が羽虫だ、このハゲ」
「手榴弾!!」
誰かが声を上げるのが聞こえる。
「ぶっ飛べ!!」
硬い地面に叩き付ける様にして投げた発煙筒が弾けて、濃い煙の暗幕が瞬く間に私の姿を飲み込んだ。
この闇の中では、もはや私の姿は誰も捉えられまい。
だが、だからといってこの数を相手にやり返そうなんて気が起こる程骨の太い私でもない。
「……覚えてろよおまえら」
●●●●●●
「……」
突然の煙幕に騒然とした現場だったが、落ち着きを取り戻すのに大した時間は要しなかった。
「落ち着け、全員引き金には触るな。安全第一、大仕事前に怪我人出すなよ。」
煙の晴れた向こう側には先程までの人影はなく、代わりにその後ろの壁にはトラックが突っ込んだような大穴が穿たれていた。
「二手に分かれろ、片方は回り込め。向こうは死人一人担いでる筈だ。そう遠くまでは逃げられん。」
再び流動を始める黒装束の群れに、黒い包帯に表情を隠した男は呟く。
「誰がハゲだ、この羽虫」
○○●○○○
廃墟の扉を蹴破り、だが敢えてそこには入らず、私は横の道を進む。
簡単なトリックだが、まあ子供騙し程度にも働いてくれれば時間は稼げるかもしれない。
「あぁ、さんざん……」
ブーツの足首を握り、膝を両肩に掛ける様にして担いでいた体が突然ぴくりと動いた気がした。
「……人は引きずるもんじゃないだろが……」
私は一つ息を吐き、「うるせえ」と背後に返した。
「……蘇っての第一声ぐらい選べよ死に損ない。もっぺん死なせてやろうか。」
「……。」
「あと……」
ブーツの足首を握り直し、言いかけた言葉を飲み下した。
「……いきなり喋んな。息止まるかと思った。」
「嘘をつけ、心臓毛達磨の癖によ」
「女子に毛達磨とか、うっわサイテーだわ」
「ああ、そもそもそんな貧相通り越して皆無な胸じゃ大したもんも収まらんわな」
「……。」
とりあえず右足の小指を握り潰した。
「つーか、マジで生き返るとか……」
「いぎぎ……恐れ入ったか、このゴリラ女め……」
「いや素直に気色悪いと思ったよ」
ここまでこいつを連れてきてやった私ではあるが、まさか本当に生き返るとは思わなかった。傷をきちんと確認した訳ではないが、あの位置であのエフェクトは、一撃でLPを削りきれなかったにせよ出血ダメージやその他デバフで持ち直すのはほぼ困難だったはずなのだ。
悪運というか根性というか、頭は悪そうだがその分何かしらに恵まれていたらしい。
まあ、この様子だと暫く使い物にはなりそうにないのだが。
「元々、大して頼りにしちゃいないんだけどさ……」
「……何だって?」
「聞き流せっつの……それより重いんだからさっさと傷治せやこのリビングデッド、三分やる」
「んな無茶な……」
だんだん足が重くなってきた。心なしか目眩がするような気もする。
だが足を止める訳にはいかない。
内心いつ追い付いてくるともしれない追っ手に気が気でないが、どうせこの状況ではこうやって歩く以外にできることなどないのだ。忘れて足を動かすに徹する他ない。
「何で俺を置いていかなかった……」
唐突な問いを、私は無言でやり通す。
今更言うまでもないが、さっきから引きずっているのは私の上で死にかけていたあのテンガロンハットの男だ。
図体がでかかったら置いていくつもりだったのだが、引きずってみれば微妙というか絶妙なサイズ感だったがためにどうにも捨てて行けず、結局拾ってきてしまったという具合だ。
昔から物を始末するのは苦手だ。
どんなに余計な物でも、一度手に取ってしまうとどうにも置くか捨てるかの判断がつかなくなる。結果面倒くさくなってその場に放り出す。検討保留だ。そしてそのまま三分もたってしまえば、すっかり忘れてしまうのである。
私の部屋がいつまでも片付かないのは、つまりはそういう性分のためだ。
「なに妙な顔してんだよ……気色悪い」
「うるさいなさっきから。詫びの一つも言わんうちからガタガタガタガタおまえは。足首もぎ取るか、ん?」
「いっー!?」
私にとっては生乾きの小枝と人間の足首に大した差などない。
この程度なら二~三本束ねたって簡単にへし折れる。
だからといってそれをやってしまえば荷物が更に荷物になってしまうので実演はしないのだが。
足首を軽く捻ってやると、後ろもかなり大人しくなった。
「何で俺を置いていかなかった」
意外と物分かりのいいやつだと思い始めたその頃、また後ろが何かを言い始めた。
「勘違いとは言え、俺はおまえを殺しかけた男だぞ?」
「喋んな死に損ない」
「俺を置いていけば簡単に逃げられたたずだ。それに時間稼ぎなら、この体でも多少はできる。おまえが今俺を置いていけば……ぐおっ!?」
私が投げ飛ばした体は大きく宙を舞い、二次関数のグラフのような起動を描いてから地面を跳ねた。
「聞けよ、私の最後の善意だから。」
「げほっ……あ、あっ?」
続いて飛んできた一枚の黒い板がその男の横の地面に墓標のように突き刺さった。
さっきまでリュックに仕込んでおいたアイテム、防弾プレートだ。装備すると、プレートの耐久力の持つ間使用者の受けるダメージを一定量吸収する。
突き刺さったプレートには大きな穴がふたつ空き、消失寸前のひび割れのような演出が赤い稲妻みたいに走っている。
「私今胃が荒れそうなくらいイライラしてんだよ……。腹と胸に45口径食らって汗ダラッダラ、しかも後ろからは殺し屋軍団……言っとくけど、全部、おまえのせいだからな。」
特に脇腹の方はもう滅茶苦茶だ。
リアルなら転げ回る間もなくあの世行きレベルの傷だが、ここは耐久力さえ持てば銃弾何発だって堪えるゲームの世界だ。死にはしない。
尤も、無視できるほどの傷でもないが。
しかし奇妙だ。あの程度ならまだプレートで凌げた筈なのだが、どういうわけかこの通り、プレートは見事に破壊されダメージがまるまま抜けてきたようだ。
貫通性の高いライフル弾ならともかく、並みの拳銃弾の成せる業ではない。
「いったいおまえがどんな勘違いしながら引きずられてるのかなんて知らんし、ぶっちゃけ知りたくもないけど、私がタダで許すと思うなよ……。」
今度はその男の襟首を掴み、私はまたずるずると歩き出す。
「ぐぇっ、し、絞まる、絞まる絞まる……!」
「黙れうるさい。ここから出たら覚悟しろおまえ。身ぐるみ剥ぎ取ってからぼこぼこにして天日干しにしてやる。鯵みたいに。」
「鬼かよ……ぐぇ!?」
「知るか馬鹿。仮に鬼だったとしても怒らせたのおまえだからな。」
「ぐげげ……これはヤバイから……スタン値蓄積判定入ってっからこれ……!?」
いい気味だ。
私にここまで手を煩わせておきながら、自分も楽に助かろうなんていう話がそもそも虫が良すぎるのである。
「……ぐえっ……た、タップ、タップ……!?」
「今更謝っても聞かないからな、絶対」
「ちが……う……」
「あん?」
離してやると、男は地面に尻をついたまま青白い顔で肩を上下し始めた。
「ヒー……し、死ぬかと……もった……」
「だから何だってば」
「そりゃ……そのさ」
男は頭を掻くの襟を弄るのした後で、やっと小さく口にした。
「さっきはその……悪かった……ありがとう。」
「……」
最後に帽子の鍔を引っ張って表情を隠すと、顔を背けながら「それだけだ」ともごもご言った。
「なぁにが『それだけだ』か」
「ぐえっ!?」
また襟首をふん掴んで引きずる。
「誠意なら後でたんまりふんだくるから、心配しないで引きずられてろ。」
「待って今の誠意ぜんぜん誠意に聞こえなかった……てっ!?」
「あ?」
突然、男を引きずる腕を強く握られた。
もちろんその程度でどうにかなる私の握力ではないのだが、驚いて振り向いた次の瞬間に私は目を見開いた。
「後ろだゴリラ女ァ!!」
「……ッそだろ!?」
物陰から身を乗り出す黒い影。
暗くてよく見えないが、その肩に乗っている長い筒のような物は確かに確認できた。
RPG-7
ここいらでは最もポピュラーなロケットランチャー。SOGO内ではどんな戦車だろうが2~3発で廃車にしてしまう、個人運用可能な兵器中では最強クラスの瞬間火力を誇る一品である。
担いでいる当人は包帯同じく覆面か何かで表情を覆っているが、小さく『あばよ』と言っているように見えた気がした。
「ヤバイのが来てる!!」
「分かってるわ畜生!!」
直撃を食らえば否応なく即死、爆風やその他ダメージでもこのコンディションでは耐えられる自信がない。
だからといって、この距離では避けられる気もしない。
「逃げろゴリラ女!!」
「誰がゴリラか!無茶言うなし!!」
逃げろと言われたって、いまさらどたばたしてどうにかなる訳がないのは目に見えている。
これは遂に、私も年貢の納め時ということなのだろうか。
いったいどこで何をしたツケなのだかはさっぱり思い出せないが、何となく日々の堕落っぷりが招いた結果のようにも思えてくる。
ある意味、今日に至るまでの決して真っ当とは呼べない人生に対してやっと反省し始めたのかもしれない。
そんなことを考えている辺り、私もまだまだ染まりきらない部分があったようだ。芯まで曲がりくねった性根の悪い人間だったと自負してきたのだが、この期に及んで顔を出した純潔な自分を今更誇るべきなのか恥ずべきなのか、よくわからん。が、最後まで中途半端に煮えきらない女だったのは少々悔しい。
「レミィ……」
意味もなく口から出てきて、やっとその顔が頭に浮かんできた。
すると、なんだか悔しさが余計に強くなってきた。
「畜生……レミィいいいいい!!」
「お呼びですか」
私に向けられたロケットの弾体との間に、突然何かが割り込んできた。
同時に飛び散る薬莢と、奇妙に響く銃声。
小さく聞こえた呻きとヒット判定の赤い光の演出に続いて、傾いた砲身が夜空に向かって白い煙の尾を吹いた。
「今度はちゃんといますよ、嬢」
振り向いたその顔を認めるのに、時間は必要なかった。
銃を手にした相棒が、そこには立っていた。
SOGOの車両はバランス調整のため結構破壊しやすくできています。




