失った平凡と、手に入れた特異体質
事件が起きる前までの梓は、とても明るくハキハキとした性格だった。年齢もあったのだろうが甘えん坊なところもあった。両親にも、そして村のみんなにも可愛がられて育って梓は、十歳になる直前、一度生死の境をさまよったことがある。
「お医者さん、あずは……梓は助かるんですか」
「こればかりはどうにも……意識が戻らないことには」
「ああ、神様! どうか梓をお助けください」
それは、夏の暑い日のことであった。
「見て、ほらお魚さん」
「すごいね、梓」
「もっと取ってくるね」
「あんまり遠くに行っちゃだめよ」
「はーい」
両親と近所の川に遊びに来ていた梓は、網を使って魚を取っていた。新品の赤いバケツに水を張り、そこに取った魚を入れる。驚くほど魚が取れてうれしくなった梓は、今度はより大きな魚を取ろうと川の中ほどまで進んでいった。
向こう岸は大きな岩山になっており、空には鳶が数羽、すいすいと飛んでいる。
「あ、いた!」
食い入るように川の中を観察していると、やがて石と石の間から黒い影が見え隠れするのを見つけた。かなり大きな影である。
そっと近づき、梓が網を水中に沈めたその時だった。
川の流れに、足を取られたのだ。
「ぎゃあああああああ」
「あ、梓?!」
「大変だ、女の子が溺れているぞ!」
「梓! お父さんが今助けてやるからな!」
今思えば、あんな川でなぜ溺れたのかも謎である。流れはさほど早くなく、梓たち家族の他にも数組の家族や、夏休みを利用してここへ遊びに来た学生グループが遊んでいた。河原や川の中の石につまずいて怪我をする人は毎年数人いるが、溺れた人は聞いたことがない。そして、梓が溺れて以降も、この川は相変わらず夏になるとたくさんの人が遊びに来ているし、梓以外で誰かが溺れたという報告も聞かなかった。
何とか父親に助けられ、近所の病院に運び込まれて一命をとりとめたものの、一週間たっても二週間たっても意識が戻ることはなかった。一向に目を開けない梓を見て、医者は、両親に、梓がこのまま植物人間になってしまう可能性があると説明をした。
それを聞いた両親は当然、嘆き悲しんだ。川に連れていなかければ、あの時梓を止めていればこんなことにならなかったという後悔と、何よりも大切にし、何よりも愛してきた我が子が、もう二度と目を覚まさないかもしれないという絶望が、二人を支配していた。
一方の梓は、そんな二人の様子を知る由もなく、病院のベッドでただ滔々と眠り続けていた。
ただ、この時、梓の意識――魂とでもいうべきだろうか――は、その場にはおらず、別の異空間を彷徨っていたのだ。
異空間で目覚めた梓は、霧の中にいた。そして先ほどまで遊んでいた川よりもさらに大きな川が流れているのを見つけてとても驚いた。しかも、川の中にいたはずがいつの間にか岸に上がっているではないか。
「おとうさーん、おかあさーん」
きょろきょろと辺りを見渡し、必死で叫んでみるものの返事もなければ、姿も見当たらない。もしや流されて別のところまでたどり着いたのかと不安になる。
「少し歩いてみよう」
方向感覚に自信があるわけでは無かったが、とにかく川に入って歩いてみようともう一度川に近づき、足を入れようとする。
「あ、熱いっ」
ちょん、と足の親指を付けただけなのに、その川の水は燃えるような熱さを持っていた。慌てて足を引っ込めて川から離れる。仕方なく川岸を、来たと思った方向に歩いていくことにした。
「おとうさーん、どこにいるのー、おかあさーん」
歩きながらも叫び続ける。やはり返事はない。しかも、歩いても歩いても景色が一向に変わる様子もなく、誰ともすれ違うこともない。梓が砂利をざっざっと踏んで歩く音と、さらさらと流れる川の水音だけが響いている。
先ほどまで、たくさんの人が川で遊んでいたのに、この一瞬で帰ってしまったというのだろうか。よく見ると川の向こうに見えていた岩山も見当たらない。この川の幅が、とてつもなく広いようで、向こう岸の様子が全く見えない。
やがて歩き疲れ、梓はその場にしゃがみ込んでしまった。裸足で歩いていたせいか、足の裏がじんじんと痛む。梓の大きな目からぽろぽろと涙が流れる。
「おとうさん、おかあさん……」
段々と叫び声も弱弱しくなり、最後には囁くような声になってしまった。泣いたところで両親が見つけてくれる可能性はなさそうだということは、先ほどから分かっていたが、他に今の感情を表現する方法もわからなかった。
どれほどの時間しゃがみこんでいたのだろうか。やがて上から声がした。
「おやまぁ、珍しい子どもがいるねェ」
「え?」
生まれたこの方聞いたことのないような皺がされた声に驚いて見上げる。そこには、とてつもなく大きな女が立っていた。霧の中でもわかるくらいに異様なほどに皮膚が赤い。
「あんた、石を積まないのかい?」
「石?」
「そうとも。親より早く死んじまった子はみんなこの河原で石を積むんだ。まあ、積み上げても壊されるんだけどもねぇ。親がこっちに来るまでここで石を積んでずっと過ごすのさ」
「あずはまだ死んでないよ」
「あら、死んでないって? じゃあなんでここにいるんだい?」
「それは分からないけど……でも死んでないもん!」
「強情な子だね。周りを見てごらんよ」
女が言うと、徐々に周りの霧が晴れだし、今まで聞こえなかった声が聞こえるようになった。
「うう、お母さん」
「お父さん早く来てー」
周囲では、梓と同じ年くらいの子供たちが、泣きながら石を積んでいた。恰好も様々で、パジャマを着ているような子もいれば、制服の子もいる。もちろん、梓のように水着を着ている子供もいる。しばらく観察していると一人の子供が「出来た!」と叫んだ。その子は梓と同じ年齢くらいであろうか。頭に包帯を巻いている。顔つきや服装からして男の子のようだ。右手は怪我をしているのか、だらりと力なく下ろされている。全く動かないというわけではなさそうだが、石を拾い上げて積むような力は入らないらしい。そんな右手を抱えながらも、どうやら決められただけの数の石を積み終わったようだ。右手に力が入らないとなると、左手一本で積んだと見える。積み上げるまでにどれくらいの時間がかかったかは分からないが、左手だけだと考えると、半日で終わるような量の石ではないことは、梓にも理解できた。
男の子が喜んだのも一瞬、それを見ると先ほど声をかけてきた女が子供に近づいていく。
そして、高く積み上げられた石を、なんと右手を振り上げて何の躊躇いもなく壊してしまったのだ。
「あああ何するんだ!」
「だめだめやり直し!」
「うわああああああん」
せっかく積んだ石を、いとも簡単に、無感情に壊されて泣き叫ぶ子を見て、梓は何も言えなくなった。そして霧が晴れたおかげでようやく女の姿がはっきり見える。
真っ赤な皮膚に、ちりちりの髪、するどい牙を二本生やしている。これでもかというほどに目つきが悪いせいで、すこぶる人相が悪い。そして、右手には、先ほど石を壊した時に使ったと思われる金棒が、しっかりと握られている。壊したことに対しての罪悪感なんぞ、みじんも感じていないようだった。むしろ、梓の目にはその鬼が、せっかく積み上げた石を壊すことを楽しんでいるようにすら見えた。
その様子は、人間なんかではない。凶暴で冷酷な鬼、そのものだった。
「さあ、あんたも積むんだよ。そして私に壊させるんだ」
「や、やだ……梓は死んでないんだってば!」
「死んでるんだよあんたは。さっき川で溺死したんだよ」
「死んでない!」
「死んだんだ!」
「嫌だー! うわあああああああああああん」
その場にいるどの子どもよりも大きな声で、梓は泣き叫んだ。それを聞いてつられるように他の子供の泣き声も大きくなっていく。やがて河原一帯は子どもたちの泣き声に包まれた。どこの子も石を積む手を止めて、ひたすら感情を吐き出すかのように泣いている。
「うるさいねぇ、お黙り!」
「うわあああああああああ」
「うえええええええええええん」
「あーあーもー収拾がつかないね、全く!」
女の鬼は参ったという感じを見せながらも金棒を振り回して梓を威嚇する。それでも梓は泣くことを辞めなかった。むしろ威嚇なんかに負けないとでも言うかのように暴れまわった。先ほどまでの疲れを感じさせないほどに暴れ、声が枯れても泣き続けた。
女の鬼はすっかり弱ってしまい、金棒を下ろした。その衝撃が、地面を伝って梓たちにも響く。そしてふうっとため息をつくと、女は梓にこう持ち掛けた。
「分かった分かった。一度だけ生き返らせてやる」
「ほんと!?」
「ああ。ただし!」
女の鬼が声を荒げた。
「今度死にそうになったら次はないからね。それと、一度ここに来た子供は、戻っても普通には暮らせないよ、現世とあの世の区別がなくなるからね」
「あの世…?くべつ?」
まだ九歳の梓には、少し難しかったようで首をひねる。
「そうさ。あっちに戻っても、あんたは俗に言う幽霊や化け物が見える体質になるってことだ」
「うん」
安易に、梓は返事をする。両親の元に戻れるのなら、何でもよかった。
「あと、十六歳になった時にある試練を下す」
「しれん?」
「ああ。あっちにはまだうようよと子供の幽霊がいるからね。その中の一人をちゃんと成仏させること」
「成仏?」
「こっちの世界に来させるのさ。もう死んでるのにいつまでもあっちを彷徨ってちゃあいつまでたっても生まれ変われないからね。十七歳までにそれが出来なかったら、あんたはおきてを破った者として、死んでも天国へはいけない。いいね?」
「うん」
またここでも、梓はなんとなく返事をする。
「じゃあ分かったらとっととお行き」
「うん! ありがとう!」
「もう親を悲しませるんじゃないよ!」
金棒で肩を叩きながら、女の鬼が梓を見送る。梓も手を振って別れを告げた――。
「鬼さん!」
「!? 梓!?」
「梓、分かる?! お母さんよ!」
「おかあ……さん? おとうさん……?」
「あ、梓……良かった……本当に……」
梓がこの世で目を覚ました時、両親は泣きながら梓を抱きしめた。愛する我が子が、目を覚ましてくれた、再び自分たちのもとに帰ってきてくれたのだ。
「鬼さんは?」
「鬼さん? かわいそうに、怖い夢を見ていたのね……」
「ううん、鬼さん、最初怖かったけど優しかったよ?」
「もう忘れなさい。二度と、お父さんたちが怖い目には合わせないからね」
意識が戻らなかった以外は、流された際についた傷も治っており、その日のうちに梓は退院した。その日から、梓の両親は異様なまでの過保護になった。