そのお茶の間、ダンジョンにつき
フロア5.そのお茶の間、ダンジョンにつき
プレアと賢者が久住家を後にして数時間後、丘の中腹に位置する雑木林の中にはYUSYAの大型テントが張られ、久住家攻略作戦の中枢として機能を始めていた。
ゴミ捨て場から拾ってきたようなスポンジの薄いパイプ椅子に座る賢者は、落ち着きなく歩き回るプレアのブーツの音を聞きながらイライラと貧乏揺すりをしていた。
――魔者は、俺です。
久住の言葉を思い出すたび、賢者は舌打ちを禁じえない。開戦に向け準備に明け暮れるYUSYAの面々は、そのたびにとばっちりを恐れて死角へ死角へ必死にステルスするのだが、下々の気苦労をよそに、賢者の頭の中にはどんどん薪がくべられていく。
久住は自らを上級悪魔と称した。最高ランクに近い魔者であり、プレアの部隊が遅れを取ったことも、『神の裁き』が効かなかったことも頷ける。授業中うっかり正体を書き記すなんて近年稀に見るドジっ子だが、同情はしない。容赦もしない。叩きのめす。
魔者という凶暴な側面をひた隠し、久住は人間を欺いていたのだ。
ゲーム好きの高校生という仮面を被って、賢者を騙していたのだ。
なのにあの洗濯板だけは、真実を知っていたのである。
許さない。許さない。許さない許さない許さない許さない許さない――
こうなったらもう理屈じゃなかった。久住が関わると、いつも賢者の思考はこんなもんなのである。もし賢者があと少しだけ冷静な頭を持ち合わせていたなら、久住の運命も大きく変わっていたに違いない。
その時、汗だくの平研究員が、宵闇を背負うようにしてテントに飛び込んできた。
「『絶対防音領域発生装置』、『光線特殊屈折パネル』、設置完了です。丘を囲みました」
待ち望んでいたとばかりにプレアは足を止め、聞き返す。
「よし。これで範囲内の音は周囲に漏れず、戦闘も目撃されないわけだな?」
平研究員は賢者の姿に気づき、落ち着きなく手をもみもみした。ちなみにこの平研究員、いつの日かは輝ける主任だった男である。
「もちろん! 実動は初ですが、賢者様と技術局の威信に賭けて問題ありません!」
トーゼンだ、と賢者は鼻を鳴らした。
「そうか。では周辺の状況はどうか?」
「作戦範囲内に部外者なし。丘に通じる道は水道工事という名目で緊急封鎖しました。さして重要な場所でもありませんし、近隣住民に不審がられることはないでしょう」
うむ、とプレアは頷く。通報されるか否かも秘密組織にとっては重要なファクターだ。
「ではシステムを起動させろ。それから、工事作業員の役を任せた者にはスポーツドリンクをボトルで支給しておけ。少しは不平不満も減るだろう」
入ってきた時と同じようにゼーハー言いながら平研究員が走り去ると、プレアはテント中央に置かれた、これまたどこからか拾ってきたような古い事務机に手を付いた。
「賢者、部隊の方はどうなっている?」
「戦闘要員は久住家を包囲中です。盗賊も剣士装備に切り替えさせてありますが、プレアさんの指示通り、一小隊だけ軽装のまま偵察に向かわせました」
賢者が小さなメモを読み終えると、プレアは重々しく唸った。第十三支部始まって以来の強敵を前に、総力戦の構えである。
「支部長、偵察部隊からの連絡です!」
テントの一角の通信班が騒がしくなった。若い研究員が大型無線機付属のハンドマイクを引っ張ってくる。待ちきれないとでもいうように、プレアも自から歩み出た。
「ご苦労! ……あー、てすてす、聞こえるか?」
――感度良好。こちら先遣偵察小隊。状況報告アリ。どうぞ。
「聞こう」
――裏口、窓はすべて閉鎖されており、いかなる解錠技術も通じず、黒い靄に覆われているため室内の状況は把握できない。魔者のなんらかの特殊能力と思われる。正面玄関は開いている模様。引き続き内部の偵察を行う。どうぞ。
「状況は確認した。慎重に行け。不用意に刺激するな」
了解、と一言返ってきて数秒後、スピーカーの音が一変した。
――し、支部長、ガーッ、我々は、ガーッ、正面……。
眉根を寄せながらプレアは言う。
「どうした? 通信不明瞭につき、繰り返されたし」
――ガーッ我ガーッ、……は、玄関、ガーッ、進入しガーッ……。
無線機と向き合う通信班の面々は、ツマミを回すやらスイッチをカチカチするやら、躍起になって感度を調節しているが、一向に雑多な音は改善しない。
――ここ……、外観からガーッ、像もできなガーッ、……広い空間ガーッいます。
不穏な空気を察して賢者も席を立つ。通信班は一層激しくツマミを回した。
――そこで敵と遭ガーッ、現在ガーッ、ガーッ中、くり返ガーッ……。
瞬間、声が変わった。聞き覚えのある男子の声になった。
――ガーッ、あ、これ入ってるの……? ガーッ、……えーっと、
直後無線の雑音は解消され、
――全滅、全滅しました。負傷者は丘に置いておきますんで、後よろしく。
たしかにそう言って、切れた。
「至急救護班を向かわせろ!」
プレアは乱暴にマイクを突き返した。事務机が壊れんばかりに激しく両手を叩きつけ、怒りを露にする。悪戯妖精の写真を見たあの時から、どうにも様子がおかしい。
「どうしますか? なんだか大事になりそうですけど」
プレアは顔を俯けたまま、挑戦的な声色で言った。
「正面突破しかないだろう? アレを用意させておけ」
「アレって……、まさか『魔力集約砲』のことですか!?」
呪文を収束・圧縮し、威力を数倍に増幅させて解き放つ装置、それが魔力集約砲である。当初は賢者が、とある科学ごっこのために設計したオモチャだったのだが、一体何を間違えたのか、段々と構造がエスカレートし、最終的に兵器としてロールアウトされるという宿命的な生い立ちをもつ。ちなみに、とある科学ごっこについて詮索しようとした輩はことごとく左遷されてしまうので、第十三支部の七不思議の一つとして有名だったりする。
「そうだ。アレを使う。威嚇、牽制、最悪の場合の敵地無力化も可能とくれば、使わないのは宝の持ち腐れだ」
「ですが、強すぎる抑止力は、時として直接的な武力より相手を追い込みます。逆上して人質を手にかけるかもしれませんよ? そしたらたいへんですー」
終盤の賢者は白々しかった。
「いや、それについては今のところ憂慮する必要はない」
賢者はにやけそうになる口元を食いしばりながら、「といいますと?」
「積極的に存在を強調してこそ人質というものだ。要求や脅迫がない以上、わざわざこちらが下手に出ることもない。人質を利用するまでもないと思っているのかもな」
独り言のようにつぶやいた後、プレアはふぅと覚悟の息を吐き、宣言した。
「全軍に通達。現状では待機を継続。夜明けと共に機動部隊を投入し、雌雄を決する!」
賢者はふと、腕全体が震えるほどプレアが固くこぶしを握っていることに気が付いた。
「プレアさん? 張り切るのと力みすぎるのとは別物ですよ?」
無論、賢者もやる気だ。殺る気と言ってもいい。にもかかわらず、自分自身が冷めて見えるほど、賢者はプレアとの間に確かな温度差を感じていた。
「ふっ……。どうにもそうらしい」
プレアは得心したように言ったが、こぶしを和らげようとはしなかった。
そして賢者に背を向けた。まるで今の顔は見せられないとでも言うように。
「冷静でなくてはならないことは分かっている。だが、いざ魔者を目にしてしまうと、自分を抑えられなくなる。私は決まってこうだ。こういうヤツだ」
プレアは背を向けたまま、天を仰ぐようにしてポツリと言った。
「私は、人間が好きだ。だから魔者が許せない。人に仇なす魔者を許せないんだ……」
「そういうとこ、意外と優しいんですよね。プレアさんって」
「いいや違う。結局のところ私は、自分勝手なだけだ……」
なぜか悲しそうな声で答えたプレアは、早口で「涼んでくる」と継ぎ、テントから出て行った。しかしテント内には技術局製最新鋭の局所仕様小型エアコン、「モンスーンmkⅡ」が設置されているため、口実としては赤点である。
「優しいのも事実だと思うんですけどね、私は……」
プレアが自らも負傷者の救護に向かったことを、賢者は見抜いていた。
「たまには支部長さんのボランティア精神に付き合ってあげましょうかね」
賢者は気まぐれにテントを出た。後ろから小さく安堵の歓声が聞こえた気がした。
不愉快な夏の生ぬるい風に全身を撫で回されながら、賢者は考える。――なぜ、プレアと温度差を感じるのだろう?
YUSYAにかける日頃からの熱意の差だろうか。それとも、どさくさに紛れて洗濯板を叩き折ってやるとか、そんな利己的なことを考えているからだろうか……。
夜が明けて、朝日が昇った。
ここは久住家の居間。工場のような異次元空間。YUSYAに抵抗する最後の砦だ。
巨大なメインモニターに、朝焼けを背負ったYUSYAの大軍が色鮮やかに映し出された。うぉおおおお!! と鼓舞の合唱を轟かせながら、まるで一つの大きな生き物のように丘を駆け上ってくる。しかし、角ばった合金製のイスからモニターを見上げる久住とリリックには、冗談をほのめかしあう余裕すらあった。
「臨場感がすごいわね。まるで映画のワンシーンみたい」
「魔界の最新機器そろい踏みだからな。日本円に換算したいようなしたくないような」
例えば、壁と一体化した400V超薄型軟性電磁発光スクリーン(折り曲げ可能モデル)、屋内用の極精細小型監視カメラ(壁埋め込み式)、自律飛行偵察ユニット(通称、飛びまSKY)などである。魔界は色々と進んでいる。最後のヤツのネーミングとか。
「いよいよ戦場になるわね。覚悟はいい?」
「アイツらがあそこまで頑張ったんだ。覚悟なんてしたくないけど、できてるよ」
久住はスクリーン直下の壁にもたれている妖精達に目をやる。完徹作業を乗り越え、血走った眼をギンギンに見開きながら、彼女らはへらへら笑っている。限界の向こう側へ行ってしまっていた。傍らの山盛りポテトのような栄養ドリンクの空き瓶が彼女達のバックボーンであることは言うまでもない。
「頃合いだな」
久住は立ち上がり、かっこつけて腕を振りかざした。
「打ち合わせ通り行くぞ。『プロジェクト・お茶の間ダンジョン』、スタート!」
お茶の間ダンジョン――それは、異次元空間へ変貌を遂げた久住家連盟の死中の活。正義を挫き、こっちの都合を貫くべく誕生した、超自己中心的一夜城だ。
コンセプトは、時間稼ぎ。『悪魔の迷宮』には「主が定めた出入り口のみが機能する」という特色がある。これにより裏口や窓からの侵入を封じ、お行儀よく正面玄関から入ることを強要できる。久住達のいる居間へ辿り着くために、玄関、廊下、ダイニング、という順路を設定できるのだ。また、ローゼンタールの財力を以て魔界のアイテムをふんだんに取り揃え、妖精お手製の武器を加えた様々な仕掛けを随所に施した。これでタイムアップまで籠城しちゃおうという作戦である。
余談だが、すべての扉を否定したり、完全に行き止まりにするといった製作側の職権乱用は悪魔も許さないらしい。「侵入者が最深部に辿り着ける可能性がゼロであってはならない」という、スポーツマンのようなフェア精神があり、これを破ろうとすると、『悪魔の迷宮』自らが勝手に扉や道を創ってしまうのである。チートはダメ。ゼッタイ。
閑話休題。久住は脇に挟んでいたタブレット型の司令コンソールの電源を入れた。
端末の起動と同時に、部屋全体が低く唸り始めた。エンジンを入れた車のように細かく振動しながら、久住の足下に小さなオペレーションシートが三つせり上がってきた。そこへ、敗残兵のように肩を貸し合ってやってきた妖精達がすっぽり収まる。
「――迎撃を開始せよ!」
久住の号令を受け、妖精達がシートに付随したタッチパネルをいじくる。すると猛々しい音と共に、スクリーンの向こうのYUSYAの軍勢に青白い光線が次々と突き刺さっていく――
「……迎撃システム、正常に稼働中」
「か、家電粒子砲のオートロック、バッチリですので!」
「てってー的にやっちゃうよー!」
家電粒子砲は、くらうとビリビリして気を失うビームを放つ、非殺傷の妖精お手製光学式兵器だ。家の外壁やダンジョン内に多数格納してあり、火器管制によりガシャリとかっこよく出現する。電子レンジを直す時に閃いたとのこと。もはや手先が器用とかそういう次元ではなくなってきたが、この際もう何も言うまい。よきにはからえ。
ドガァァァァン! ウワァァァァ!
「いいぞもっとやれ!」
「ヨーイチ! ヒトがゴミのようよ!」
それにしてもこの家主達、ノリノリである。
その後の家電粒子砲祭りは、久住に「スペルカードみてえだ!」という心からの称賛をさせる弾幕を見せ付けた。それにより戦力の三割を瞬く間に失ったYUSYAは迎撃センサーの圏外へ一時撤退を余儀なくされ、久住達は万歳三唱した。
「ちょろいもんだな。所詮は有象無象のコスプレ集団だ」
「ヨーイチ、まったくもってその通りよ!」
「あ、YUSYAの人たちが、なんか棒みたいなのを持ってくるよ」
「……降参の白旗?」
「え、ええと……。というよりあの量は、何かを組み立てるようですので」
銅が正解だった。YUSYAはなにやら、黒光りするパーツを組み上げている。
「なんだありゃ? おい、カメラを望遠にしてくれ」
異様な物体だった。ガッシリした三脚を杭のように地に打ち立て、そこから互いに平行な四本の棒が砲身のように伸び、その棒と棒の間を電流がバチバチ飛び交っている。
ゆっくりと、剣士達の間をすり抜けて賢者がやってきた。彼女は三脚に支えられた譜面台のような部分に魔導書を置き、手をかざした。ポツっと砲身に明かりが灯ったかと思うと、それは次第に力を増し、煌々という輝きに目を細めるまでになった。
「な、なんかヤバそうだぞ! 撃て! 先手必勝だ! 射程には入ってるんだろ!?」
「えーっと、じゃあロックをマニュアルに切り替えて……、スイッチってどこだっけ」
瞬間、モニターが赤黒い衝撃波を捉えた――
直後、家が揺れた。バツン、とモニターは色を失い、照明はチカチカと息継ぎし、頭上に木屑と鉄屑が降り注ぐ。そこらじゅうからミシミシと嫌な音がした。
「だ、第一から第六攻撃システム蒸発!」
「……及び、第七以降、屋外すべての迎撃システムに致命的なエラーが発生した模様」
「か、カメラもほぼ機能停止ですので! 上空の生き残りで再構築しますので」
数秒後、巨大モニターに再び映し出された映像によれば、どうやらYUSYAは二階をリフォームしてくれたようだ。オープンテラスになった久住の部屋は、オモチャ箱をひっくり返したように私物が飛び散っている。
「内部の『悪魔の迷宮』ごと消し飛ばすとは相当の威力ね」
「……それよりも」、と銀。「……YUSYA、玄関フロアに突入」
砲台壊滅、弾幕を無力化された久住家は、いいように下っ端兵に取り付かれていった。
一斉に「どうすんの?」という視線を浴びた久住は、だらりと弛緩しきっていた。無慈悲に家を半壊させられた憤りと、正義の名の下に執行される容赦ない武力への恐れで、久住の心情は凄惨な有様だった。給食の残りをひとまとめにした食缶のような惨たらしさだ。いろんな意味で吐き気を催す。
「ちょっと! こんなサクサク攻め入られて、本当に平気なんでしょうね!?」
リリックに胸ぐらを掴まれ、久住は宙吊りに処された。
「ま、まかせろ! こっからばんかいするから! おろせ、おろ、してください……」
フン、とリリックが手を離す。取り組みに敗れた力士のようにくずおれた久住に、リリックの冷たい視線がメテオのごとく降り注ぐ。
「さっきのブザマな顔のどこからその自信が出るのか、聞かせてもらおうじゃないの」
「……いいだろう」、久住は銅に爪楊枝みたいなちっさいサインペンを借り、キュッキュと床に図を描いた。
「いいか? お茶の間ダンジョンは、庭、玄関、廊下、ダイニング、居間、の全六層で成り立っている。まぁご存じのとおり、庭はあっけなく攻略されてしまったわけだが――」
そんなことは知っている、とでも言いたげにリリックが指をポキポキ鳴らすので、久住は即座に新しい図を描き足した。
「そのマスは何よ。マルバツ? 五目並べ? ふざけてんの?」
「おいよせゲンコツを下げろ! これは玄関の簡単な見取り図だ!」
コホンと久住は咳払い。行き過ぎた趣味の世界の幕開けだ。
「いいか? 第二層、西洋建築風の異次元玄関フロアは、完全に仕切られた小部屋を魔法のアイテム、『空間跳躍の板切れ』のパネルを使って、ワープで行き来して進む仕組みだ。部屋の中央には方位計が描いてあるけど、それ以外にはパネルが四隅に置かれてるだけで、目印もヒントもない。部屋の数は八百。ゴールに通じるたった一つのパネルを見つけるまで、延々同じ景色がループするわけだ。どうだ? 富士の樹海みたいだろ?」
「樹海だか知んないけど、ようは片っ端から調べればいいんでしょ? 相手は数だけはいっちょまえだし、自分達で目印つければいいし、ハッキリ言って相性最悪じゃない」
「その通り。でも逆に言えば、片っ端から調べるしかないってことだ。時間は十分すぎるほど稼げるし、これ以上枷を加えたら『悪魔の迷宮』のルールに引っかかる。仮に正解のルートがバレても、その頃は大軍の足並みはバラバラになってるさ」
リリックは急に久住が頼もしく見えてドキドキマックスであったが、批判的だった舌の根も乾かぬ内に手のひらを返すのが恥ずかしくて、皮肉な感想を返した。
「ふ、ふぅーん。……で、でもなんかこれ、ゲームにでも出てきそうな仕掛けね!」
「よく分かったな! これはかの有名なポケモ『おにーさん』キジムのスケールを百倍相当にしたものだ。バカだから当時は苦労したよ。攻略とか聞くも癪でさ~」
リリックがズッコケそうになるのを耐えているとも知らず、久住はさらに力説する。
「続く第三層、遺跡風廊下フロアはさらに凶悪だ。簡単に言えば巨大迷路だが、シリーズの二度と行きたくないダンジョンランキング一位、ドラク『ちょっと!』ダルキアへの洞窟、その五『メーデーメーデー!』落とし穴地獄を参考にしたんだ! スケールは百倍! 穴の数は二百倍! しかもリメイ『大変だよ!』ら穴は空きっぱなしじゃないときた! これは鬼蓄!」
「は、はぁ……」
「のこのこ歩く愚か者は、無数の落とし穴に待ち構える『空間跳躍の板切れ』でお家の外にさようなら! そうなればまたあのヤマ『おにーさん』玄関からリスタートするしかない。さらに迎撃システム完備。家電粒子砲から身を守りながら迷路を進む必要がある。まぁドラ『ねえ』やらシ『おーい』デビルの鬼エンカウントも、メガン『ねえ!』ラキもないんだから十分良心『ねえってば』思うが『おにーさんおにーさんおにーさん!』」
久住はくるりと回転して、耳元で叫び続けていた海月の頭を鷲掴みにした。
「なぁクラゲちゃん。君のせいでリリックが困った顔をしているよ?」
「アタシが割り込まなくても別に変わ――あぁッ! 許して、どうか万力の刑だけは!」
「ったく……。で? 何が大変なんだって?」
海月はハッとした。
「そう! おにーさんに伝えなきゃいけないことがあるの! 見て! あれ見て!」
雛鳥のようにピーピー喚く海月にせがまれ、久住はモニターに一瞥くれた。
大画面で迫力の前線映像をライブ中継していたモニターは細かく分割され、まるで神経衰弱のように廊下フロアのすべての部屋を映している。一見同じ映像がズラっと並んでいるだけだが、目を凝らすとYUSYAの姿がちらほら見え隠れしていた。
「……思惑通りに進んでるような気がするが?」
「そう思い込んでるだけだよ!」海月が再びピーピー言う。「待って……、あ、いた! ほら一番上の、右から五番目だよ! ほらほら見てってば!」
仕方なく、久住は指を差して細かいマスを数えた。
一番上の、右から五番目――そこにいたのは顔馴染み、賢者だった。魔導書を片手に、パネルの側を炎で焦がしている。
「っふふ、炙り出しかもとか思ってんのかな? なんか可愛い」
「かわっ!? あんなヤツただのアホよ! 相手にする価値もないわ!」
「んもーっ! おにーさんもおねーさんも、目を離しちゃだめぇーっ!」
割り込んできたリリックにまで話の腰を折られ、海月はついにキレた。
「なんだよ」「なんでよ」
「いーから見てて!!」
顔を見合わせ、肩をすくませ、久住とリリックは言われた通りモニターを見続けた。
軽く床に焦げを付けると、賢者は満足したのか、ひょいとパネルに乗り、消えた。すると今度は、赤髪の女性が部屋に現れた。言うまでもなくプレアである。
いや、プレアだけではない。続々と名前も分からぬ一介の兵士が部屋に飛んでくる。プレア達は何不自由なく焦げ付いたパネルを見つけ、順番に上に乗り、消えていく。
ちょっと視点を遠ざけてみると、そこら中の部屋で同じ現象が起こっていた。賢者を先頭に、さながら行列のできるラーメン屋のように整然と列を作っているではないか。
「……これなら混乱もないし、統制も取れる。賢者の名前は伊達じゃないってことか」
「ね? ね? だからアタシ言ったでしょ、ヤバいって!」
「でも! 先頭のアイツが正しい道を進んでるとは限らないじゃない! こんなのどうせ、行き当たりばったりの浅知恵に決まってるわ!」
明らかに負け惜しみだったが、たしかにその通りだった。このお茶の間ダンジョンには、久住の未来と過去、すべてが詰まっているのである。そう簡単にルートが看破されるはずないと久住は思っ――
「あ」
思わず漏らした声をなかったことにしようと、久住は口を真一文字に結んだ。
「何よ、『あ』って」
「や、別に。……昼飯どうしようかなーって思って……」
「ダウト。今の『あ』は、ヨーイチが油断してザコ敵で死んだ時の『あ』だったわよ」
リリックはこういう時ばかり鋭い。
ゆっくり頬を掻きながら、久住は、言った。
「実を言うと……、賢者が正しい道を進んでいるとは限るというか、なんというか……」
リリックは、問いかけるようにトントンと久住の胸を人差し指でノックした。
「ヨーイチ言ってたわよね? 八百もの部屋があるって。そんで部屋には四枚のパネルがあるんだから、えっと…………、そうね、三千二百枚のパネルがあるんでしょ? そんな天文学的な数字なのに、どうして三十分足らずで正解がバレちゃうのよ!」
天文学的というのは、800×4の答えを銅に耳打ちしてもらうリリックの頭脳スケールにすればの話だが、彼女の言っていることは概ね正しい。超大なフロアの全貌、ワープの相互位置と規則性。それらをチャチャっと、学校のお昼休みと大差ない時間で把握するだなんてどこの世界の天才少女だ? 飛び級で大学か? MITか?
いいや、賢者の成績は可もなく不可もない。彼女はただの情報通信科の高校生だ。
――ゆえに、答えは簡単だった。
「『左上、左下、左下』……」
「……は?」
「部屋の北を上と考えた時、賢者は『左上、左下、左下』のパネルを繰り返してる。そのループは、このフロアをクリアすることができる最短ルートなんだ……。賢者は最初から、元ネタの攻略法を知ってたんだよ! 手練だったんだよアイツは!」
ピシャアァッと雷に打たれたようにショックを受ける久住。だが、それはリリックにとってあまりにバカバカしいピンチの理由だった。
「ジョーダンじゃないわ! これはゲームじゃないのよ!? 現実はセーブもロードもリセットもきかないの! それなのにこの……、このオオエロバカマキリ!!」
リリックは久住の髪の毛のカマを掴んで引きちぎろうとした。久住は悲鳴を上げた。
「いてええぇ! 俺も悪かった! なんの捻りも加えずにゲームを再現しちゃったのも、賢者をただのアニオタだと侮っていたのも、俺の甘さの結果だよ! でもさ! 普通現実でゲームの攻略法を応用しようとするヤツなんていないだろ! まさかソフトが特定されるだなんては思わないだろ!」
ここで銀が、気付かなければよかったとでも言いたげな口調で言った。
「……おにーさん、たしか、廊下フロアもゲームを元にしたんじゃなかった?」
凍りつく一同。
「……それは賢者が廊下の元ネタを知らない方に賭けるとして――」
「どこ行くのよヨーイチ!」
リリックは独りでに歩き出した久住を呼び止めた。久住は歩きながら答えた。
「体を張るのさ。お茶の間ダンジョンの責任者は、俺だからな」
数歩遅れて妖精達が、仲間と顔を見合わせながら久住の後に続く。
しかしリリックは、久住が見えなくなってからも、しばらく立ち尽くしていた。
お茶の間ダンジョン第四層は、がらんどうの大広間に、くすんだ色の巨大コンテナがド下手なテトリスのように転がる、港の倉庫のような空間になっている。まとまった材木や可動式クレーンまで点在し、潮の匂いと船の汽笛があっても不思議じゃない。
例によって例のごとく数多の家電粒子砲で武装されているこのダイニングフロアは、チートを忌み嫌う久住でさえ、本編の一部としてそれを受け入れそうになる、特別バイオレンスな箱庭ゲームをテーマにしてあるのだが、久住のそういう所がピンチを招いたばかりなので解説は自粛している。
しかしながら、こうして久住自ら出張ってきたわけだし、このフロアにはとっておきの切り札もある。まだまだ久住は勝負を諦めていないし、戦局に絶望してもいなかった。
タブレット端末の簡易モニターによれば、YUSYAは現在、廊下フロア序盤で家電粒子砲と落とし穴相手に奮戦中。またも誰かさんの攻略法による快進撃が始まるやもしれないが、それを踏まえてもここに辿り着くまではしばらく猶予がある。
「どうして善良な一般市民の俺が、こんな戦いに巻き込まれてるんだろうな……」
「……おにーさん、それは語弊がある。正確には、善良な一般市民だった、だと思う」
「悪魔に味方なんてしたから、神様もおにーさんを見捨てたんだよ」
「その説が有力ですので」
「銅お前、段々お前の中の俺の地位下げてるだろ」
だからこのように、他愛のないキャッチボールをやっていられるのである。
だが、一人、リリックだけはその輪に入っていなかった。少し離れたコンテナの影に座り込み、ぼんやりと頭上に広がる星空を見上げている。
「そ、それにしてもさー! おねーさんが人質だっていうのにあんまり遠慮ないよね!」
リリックの横顔を寂しそうに見ていた海月が、いかにも海月らしい気の配り方をする。
「そりゃあな、リリックだしな!」
久住も一緒になって背中を押そうとするが――なんか引っ掛かる言い方するわね!――なんていつもの反応は返ってこない。
仕方ない……。久住は重い腰を上げるかのように井戸端会議の輪から抜けた。面倒見のいい先輩気取りでリリックに近づき、問いかける。
「どうした、急にそんな寡黙なキャラになって。人質の演技にはまだ早いぞ」
チラリ。目の前に立つ久住を一瞬だけ見て、リリックは俯いてしまった。
「……いいの」無気力な声だった。「もういいのよ、ヨーイチ」
久住はもう少しで、タブレットを落としてオシャカにするところだった。
「もういい? ……もういいって、お茶の間ダンジョンがか? 諦めるってことか!?」
リリックは立てた膝に顔を隠すようにして、頷く。
久住はムキになりそうな自分を抑え、面倒見のいい先輩を続けた。
「もしかして……、俺の作戦がメタクソだったのに、緊張感もなくペラペラ喋ってるから、半端な気持ちでやってると思ったのか? ……ちょっとスネてんのか?」
リリックは顔を隠したまま何も言わない。
「……その辺は、ちょっと無神経だった。お前の未来を左右する問題だもんな……。悪かった。でも心配すんな! 俺にはこのダンジョンと、お前達と――」
久住は全神経を頭に集中させた。さんざカマキリとバカにされた頭頂部の一対の癖っ毛が、ひゅんひゅんとまるで意思を持ったかのように踊り出す。かと思えばそれはぐぐんと伸び、しなる鞭のように空気を切り裂き、鋼鉄のコンテナを、
「うおおおおぉぉぉぉっしゃらあああああ!」
ズバババババババンッ!
まるで大根のツマのように細切れにした。
後ろからおぉ~っという歓声と、ぴゅ~っという口笛。
「――新たに目覚めたこの特別な力がある!」
YUSYAの偵察部隊を相手にした際の『他者強化』で、久住はこの力に目覚めたのだ。頭の『カマ』を自由自在に変化させ、斬ったり叩いたり縛ったりできる。攻撃している自分の姿は、たしかに自慢できるようなビジュアルではないが、これが意外と強力で頼りになる。長らく悪口を言われる時にしか役に立たなかった個性が昇華したのは、選ばれし者って感じで気分がよかった。清々しく胸を張る久住は、いい具合に頭のネジが取れてきているのだった。
「絶対にしきたりを成功させてみせるからさ! だからお前は安心して――」
「絶対? 安請け合いはやめておけ。自信は人を大きくするが、過剰な自信は身を滅ぼすぞ」
突然、軽々しい口調の男の声が聞こえた。
反射的に振り返る。錆びた青いコンテナにもたれ、横顔でキザに構えた男が立っていた。
ビュンッ! 目を見張るスプリントで久住の後ろに逃げこんだ海月達がタブレットを奪う。
「うそうそっ! YUSYAのみんなは、まだ廊下の迷路にいるんだよ!」
「……あの人だけ孤立してる。魔法みたいに。これは謎」
「み、道に迷ったんですので? たまたま先に進めちゃって困ってるんですので?」
しかし久住の観点は、後ろで好き勝手言う妖精とは異なっていた。
久住にとっては、人が現れた事実より、見覚えある白衣姿の方が信じられなかった。
「よう久住。折角の夏休みに、女の子と一緒に引き篭もりか? 健康的だな」
気さくに笑う男は誰あろう、久住をクラスの晒し者に仕立てた張本人、上戸教諭なのである。
「……せ、先生? なんでここに……?」
上戸教諭は変質者のように突然ガバッと白衣を広げた。どういう仕組みで隠していたのか不明だが、白衣の中からガランガランとメイルやヘルムや剣が落ちてきた。
「残念だが今の俺は先生じゃあない。YUSYA第十三支部所属の諜報部員、ウェイドだ」
久住は、初めてプレアが現れた時のことを思い出した。賢者がすべての元凶だと思っていたが、あの時プレアは賢者の情報で確信を得だけで、元々は諜報部からの情報でやってきたのだ。そして上戸教諭は久住のノートを直接読んでいた。情報の出所は上戸教諭だったのである。
「……じゃあ今日は、臨時の家庭訪問ってわけじゃなさそうですね?」
「まー、そうなるな」
ウェイドが慣れた手つきで赤縁メガネを上げるのを見ながら、久住はこれまでにないスピードで頭を働かせていた。
一体何が目的なんだ? 偵察か? 囮か? それとも銅が言ったように、本当に一人道に迷ってたまたまここへ辿り着いたのか? 今なら先制できるが、どうする……?
「色々と勘ぐってるようだから言っておく。俺は戦いにきたわけでも、偵察にきたわけでもない。道に迷ったなんてのは論外だ」
久住はたじろいだ。表情から思考を読み取られたのか、それとも単なる偶然か。
どちらにせよこの男、侮れない。
「同僚を出し抜いて、単独行でここへ来た俺の目的はただ一つ――」
コツ、コツ、静かに歩き出したウェイドの姿が、三歩目で忽然と消えた。
「コイツだ」
声に振り返ると、瞬間移動のように現れたウェイドが、リリックの腕を掴んでいた。
「リリックは渡さない! その手を離せ!」
久住は集中力を研ぎ澄まし、触覚攻撃を解き放つ。上空に飛び上った妖精達は護身用に携帯化したマグナム型家電粒子砲を構え、三方から狙いを定める。
しかし、
「熱烈な歓迎、痛み入るよ」
ウェイドは神速の触角攻撃を片手で軽くいなし、家電粒子砲の直撃にも悠々と耐えてみせた。
「この短期間で『他者強化』をここまで使いこなすとは、正直見事と言いたいとこだが、お前の実力は俺の足下にも及ばない。悪戯妖精共は中々ユニークな武器を作ったようだが、そりゃ俺に言わせれば光の出るオモチャだ」
鼻で笑うウェイド。久住の緊張が一気に高まる。
「さ、『他者強化』って……。一体何を、どこまで知って――」
ウェイドは笑いながら、赤渕のメガネに手を掛けた。
「そんなもん、一から十までに決まってんだろ?」
赤縁のメガネが取れた瞬間、久住は納得も得心もいった。
ウェイドは、人間ではなかった。魔者であった。「『賢竜族』だ……」、という海月の物珍しそうな声とシャッター音が聞こえた。
「コイツは『パンドラメガネ』だ。優れたファッションアイテムでもある。いいだろ?」
鋭い爪が伸び、テカテカ輝くブルーの鱗に覆われた手で、ウェイドは自慢げにメガネをかざした。白衣の下からは太く長い尾が地べたに垂れ、伸びた首の後ろにはオレンジ色の毛が鬣のようにふさふさと生えている。突き出た口元には分厚い板金も噛み切れそうなノコギリ状の歯がずらりと並び、鋭利な刃物のような三白眼がじっとこちらを見据えている。不自然に盛り上がった白衣の背中は、翼を折り畳んでいるからに違いない。体長こそ人間の時と大差ないものの、神秘と恐怖の象徴であるドラゴンの姿は、久住達の目を釘付けにした。
「俺はローゼンタール家の忠実なる従者、ウェイド・ロロブリジーダだ。今回のしきたりのために、人間界に送り込まれた。もしもの時の備えとしてな――おっと、すまない」
苦悶の表情を浮かべるリリックに気付いたウェイドはメガネを掛けて人の姿に戻り、鋭い爪でリリックの腕を傷つけていないか確認した。使い魔の砂時計が現れ、ウェイドを咎めるように飛び回った。
ひとまず、彼と戦う必要はなさそうだ。久住は触覚をただの個性に戻し、尋ねる。
「なんで、ローゼンタールの魔者がYUSYAなんかに? なんで学校の先生なんかに?」
「いち早く魔者の情報が入ってくるからだ。それに俺の主、ロックロットのは試練を望んでいた。のうのうと暮らされてはただの通過儀礼になってしまうからな。もちろんお嬢様を追い立てるようで申し訳ないとは思っていたが、そういう意味では都合がいいだろう? 学校の先生をやった理由は……、ただの趣味だ」
ウェイドは「はっはっは!」と自分のオチに自分で笑い、またすぐ真顔に戻った。
「久住陽一、お前には感謝してる。時には体を張って、時には人間としての尊厳を賭けて、お前はお嬢様を守ろうとした。――だが、もうその必要はなくなったよ」
久住は知らぬ間に砂が落ちたのかと思い、飛び回る砂時計を見た。
「……俺には、まだ砂が残ってるように見えるんですけど?」
ウェイドは面倒くさそうにポリポリ頭を掻いた。
「言ったろ? 俺はもしもの時の備え、つまり保険だ。しきたりを失敗させないためのな」
ウェイドは白衣の内ポケットから何か上質な紙のようなものを取り出し、久住に歩み寄る。
「家柄の伝承による呪縛からの解放、人間との絆魂契約破棄、及びワームホール通過制限の解呪許可。これはそれらをまとめた証書だ」
一言でいえば、リタイアってことだ。
放たれた最後の一言は、言霊のように久住の脳内で何度も跳ね返り、そのたびに全身が寒気立つような不快感を刻み込んでいった。
現実も、真実も、何もかもが信じられなくて、反響する言霊を拒絶するように、突きつけられた証書を跳ね除けて久住は迫った。
「リタイア、だって……? そんな……、ちょっと待てよ! ローゼンタールの従者だかなんだか知らねえけどさ、勝手すぎるだろそんなの! なぁ!」
「勘違いしないでよね」
一同の視線は一斉に、今まさにウェイドの襟首に掴みかかろうとしていた久住からリリックに向けられた。
「リタイアを決めたのは、私の意志よ」
リリックはぶっきらぼうに、小さな紙を取り出して見せた。
コウモリの紋章が描かれた紙切れだった。久住のポケットでコンビニのレシートのようにぐしゃぐしゃになって眠る、契約の紋章とまるっきり同じ紙切れだった。
――ただ一点、真っ赤な血判が押されていることを除いて……。
「この証書は、本来なんの力もないただの白紙。重要なのは、お嬢様が持つ契約の紋章だ。紋章に血判が押印されると、こっちに文字が浮かび上がり、合図になるってわけだ」
久住とリリックがこれからどうなるのか、ウェイドはそれ以上何も話さなかったが、意味深げな笑顔だけで十分久住には伝わっていた。「知ってるよな?」と彼は語っていた。
久住は惨めさに耐えかね、こぶしを握った。
抑えていた叫びが、堰を切ったように溢れ出た。
「なんでだよ!? どうしてだよ!? ふざけんなッ! 俺の、俺達の、今までの苦労はなんだったんだよ! 何の相談もなしに――なんで逃げるようなマネしてんだよ!!」
「アンタが不甲斐ないからよ」
リリックの声は、冬空のように静かで冷たかった。
ウェイドは証書をしまいながら、肩越しに親指を立てて廊下フロアの方を示した。
「水上は――いや、賢者は迷路の種を見破った。バリアを張りながら一列になって、右手を壁に付けながら進んでるぞ。剣士達を引き連れて、じきここへ来る」
リリックは答えに窮する久住の癖毛を、何度もそうしてきたように粗末に引っ掴んだ。
「ほら見なさい。何がお茶の間ダンジョンよ。何が安心しろよ。半日も経たず追い込まれて、絶望的って言葉すら生ぬるいじゃない! 体を張る? 特別な力? 粋がってんじゃないわよ! エロバカマキリなんかに任せてたら、家名がいくつあっても足りないわ!」
久住の瞳にリリックが、リリックの瞳に久住が映る。
何も、言い返せなかった。開いたままの口から、言葉になりそこねた空気がすきま風のように抜けていく。
だがそれは、侮辱された怒りからでも、浅はかな自分への後悔からでもない。何か言いかけては、やめる……。いつからか多くなったリリックの躊躇いがちな態度と、その訳が、分かってしまったからだった。
思い返せばリリックの様子がおかしくなったのは、久住が契約の紋章を手に入れた時期と符号する。リリックも久住と同じように紋章を渡され、久住と同じように自分はどうすればいいのか、どうするべきなのか、悩んで、考えて、迷っていたのだ。消えるタイミングを探していたのだ。ずっとずっと、久住のために――
「……行けよ。お前なんか行っちまえ。こっちこそ清々する」
吐き捨てたその瞬間、「そんなあ!」、ぴゅんと海月が飛んできた。
「あと少しなんだよ? たしかに今回おにーさんは……、ちょっとかっこ悪かったけど、でもせっかくここまできたんだから、みんなで力を合わせればきっと――ムグムグぅ!」
久住は小さな全身をいっぱいに使って二人の緩衝材になろうとする海月を抱え込み、胸板に押し付けるようにしてそれ以上口が利けないようにした。
リリックは鋭く久住を睨んだ後、それ以上に鋭くウェイドを睨んだ。
「で? どうすればいいわけ?」
「どうもこうもない。即行で解呪を済ませて魔界に帰る。ワームホールを塞いで一件落着」
ウェイドは意地悪く笑った。
「辛いようなら、お前たちの記憶を消してやろうか?」
リリックは一瞬動揺したように唇を舐めたが、すぐに平静を取り戻した。
「そぅ……、ね。アリかもね。落ち着いたらお願いしようかしら」
それが賢明な選択で、お互いのためだと久住も思った。
「じゃあ、行くわ。ほらアンタ達も、早く準備しなさいよ」
久住の腕の中の海月と、その向こうで置物のように立ち尽くす銀と銅を一瞥するリリック。
人間界の記念にでもするつもりなのか、自分でバラ撒いた鎧を手際よく片付けながらウェイドが言葉を投げてきた。
「おめでとう久住。晴れてお前は自由の身だ。お前の最後の仕事は、間もなく来るYUSYAの先陣に泣きつくだけだ。真実を話してもいいし、お嬢様に操られていたとパチこいてもいい。どうせ後で記憶を消しちまうんだしな。YUSYAにしたって戦闘狂集団じゃない。事情を話せば分かってくれるさ。……あー、説明は慣れん。口が疲れた」
「おぅ、その疑問はもっともだな。でも安心しろ。主が去れば根城たる『悪魔の迷宮』も消失する。多少の猶予はあるだろうが、早々にYUSHAを追い出しとけよ。内部に大勢いる状態で元に戻ると、最悪空間が空間が崩壊するからな。家が破裂すんのは悲惨な光景だぞ」
「忠告は助かりますけど、俺としては破壊された二階の保障の方が欲しいところです」
「抜け目のないヤツ。……さすが俺の生徒だ」
ウェイドはニヤリと笑いながらひらひら適当に手を振り、「ちゃんと手を回しとく。人間界も悪くなかったぞ」だとか言いながら久住の横を通り過ぎた。
一拍遅れて、リリックが続いた。
久住は咄嗟に、思わず、反射的に、去り行くリリックの手を取ってしまった。
ぎゅっ、とリリックが強く手を握り返した気がした。
「『他者強化』は魔界に戻るまで続けるわ。別れの合図になるし、もしYUSHAの説得に失敗した時とか、何かの役に立つかもしれないから」
しかし次の瞬間、
「さよなら、ヨーイチ……」
その手は、するりと抜けていってしまった。
そろそろ立て付けの悪いガラス戸を開けた頃だろうか――下町の路地裏のような狭くほの暗い居間への通路を眺めながら、そんなことを考えていた久住の耳に、まるでやまびこのような人の叫び声が、微かだが、たしかに聞こえてきた。YUSYAの雄たけびだ。
「俺も、俺にできることをしなくちゃな……」
やおら久住は通路に背を向けた。最後の大仕事が待っている。
一目で降伏が伝わり、すんなり和解できる出迎え方を考えないといけない。両手を頭の後ろで組んで地面にうつ伏せになっていようか? それとも、着ているシャツを引き裂いて、手作りイカダの帆のような白旗でも用意しようか……。
「……なにやってんの?」
顎に手を当てて知恵を搾り出そうとしていた久住の視線の高さに、海月が飛び上がってきた。イライラ丸出しの言い方だった。
「何って、考えてんだよ。せっかく普通の夏休みが戻ってくるってのに、ここでぶちのめされちゃ笑えないだろ。ほら、お前らも荷物まとめろ。帰れなくなっても知らないぞ」
銀と銅にも聞こえるように後半のボリュームを一際大きくしながら、久住はうんざりしたように答えた。
「え? だってほら……、おねーさんは?」
海月は引きつった顔で聞き返した。
「お前だって見てただろ? 俺とアイツはしきたりで繋がってた。そのしきたりは終わった。だからもう関係ない。何もかも悪い夢だった。そういうことだ」
久住はイライラしてどんどん早口になったが、それと同じくらいの早口で海月は訴えた。
「強がらなくても大丈夫、きっとまだ間に合うよ! おねーさんを追いかけよ――」
――我慢の限界だった。
「いいんだよ! これでいいんだ。アイツも俺も、これでいいんだよ!」
久住は肩をわななかせ、殺気立った目で海月を睨みつけた。
「リリックは自分の意思で出て行った! 分かるか? 俺達のために出て行ったんだ! 引き止めていいわけない! アイツの決意を、無駄にしていいわけないだろ!」
久住は豆鉄砲をくらったような顔の海月を押しのけ、拒絶するように背を向ける。
「自分の……意思……? 自分の意思だって!?」
しかし、海月はしつこく回り込んできた。
「分からないの? アタシ達より長くおねーさんと一緒にいたのに?」
「黙れ」
「おねーさんが本気で、アタシ達のために、自分の意思で出て行ったと思ってるの!?」
「黙れ!」
「おねーさんは、引き留めて欲しかったんだよ! ホントは最後までおにーさんと――」
「黙れ黙れ黙れ! 黙れって言ってんだろッ!!」
久住は全身に滾る怒りを力に変えて、思い切り腕を振りかぶった。
だが、拳は空を切った。振り抜いた拳の勢いに振り回され、久住は不細工に転んだ。
無意識のうちに久住は海月を、いや、彼女が掲げたモノを傷つけまいとしていた。
一枚の写真。それは、久住とリリックが取っ組み合ってケンカしている写真だった。
――いつからだろう。頑なに突き通してきた家を守るという思いに、ある変化が生じたのは……。守りたいと思い描く家に、新たに四つの人影が映るようになったのは……。
しかし久住は、そんなイメージからずっと目を逸らし続けてきた。気付かないフリをしてきた。もしリリックに拒絶されたら、もし周囲に否定されたら――そういう閉鎖的な恐怖から、逃げ続けていたのだ。
「伝えてあげて。簡単だからこそ伝えられなかった思いを、おにーさんの言葉で」
そこには、写真の中には、大切だからこそ踏み出せなかった臆病な自分が、ずっと言葉にできなかった思いのすべてが詰まっていた。
――リリック達はもう、ただの居候ではなくなっていたのだ。大切で、かけがえのない存在になっていたのだ……。
久住はむくりと起き上がる。握り締めていた手をゆっくり開き、写真を受け取る。
「でも……、俺なんか……っ!」
最後まで気丈さを繋ぎ留めていたプライドというか細い糸が切れ、じわり。目の前が水の入った水中メガネのように一気にぼやけた。独り言のように、思いが口から溢れ出す。
「気持ちの一つもロクに伝えられない意気地なしなんかが、こんな俺なんかが今さら行ったところで……。もう、どこにもアイツに合わせる顔なんか――」
「……合わせる顔なら、」
「ここにありますのでッ!」
バチン! 飛んできた銀と銅の小さな二つの手が、久住の頬に手形を残した。じんじんという両頬の痛みが、霜焼けのように悴んでいた胸にしみる。
そんな久住の前に並んだ青い三つのスモックは――誇らしくするどころか、モメていた。
「ちょっとっ! 見せ場だったのに! アタシがキメ顔でしたかったのにぃ!」
「……でもこれで記事が最後まで書けるんだから問題な――もぐもぐ」
「あは、あは! ぎ、銀ちゃんさんも、リーダーも、ほら、仲良く仲良くですので!」
後ろから抱き付いて銀の口を塞ぐ銅の周りを、海月が腕を振り回しながら旋回中。
久住は清々しくため息を吐いた。こんなヤツらに心を突き動かされたのかと思うと、この先どんな屈辱にも耐えられそうな気がする。
「……説得されたっていうより、うまく言いくるめられたって感じだな」
久住ははにかみながら目尻の水たまりを拭い、つぶやく。
「けど、おかげで目が覚めたよ。後は……、そうだな、当たって砕いてやるだけだ!」
海月も、銀も、銅も、初めて百点をとった小学生のように目を輝かせた。
「んじゃ、ガツンと言ってくるか。俺達に遠慮なんていらねえもんな」
「そーそー。今のアタシ達みたいにね」
ヘヘ、と海月は笑った。久住は海月の頭をぐしぐし撫でた。
「観念しろ、久住陽一イィッ!」
その時、これまでおぼろげだったYUSYAのやまびこが、はっきりと久住の名前を呼ぶのを四人は耳にした。
久住は思い出したように妖精達からタブレットを奪い返すと、モニターでYUSYAを視認する。今まさに、YUSYAはこのフロアに突入してきたところだった。
「ゆ、YUSYAの人達ですので! ついにここまで来ちゃいましたので!」
「……家電粒子砲でオート迎撃すれば少しは時間が稼げるかも」
「いや、あの第三層を抜けてきた連中だ。もうオートなんかじゃ足止めできない!」
「じゃあどーすんのー!」
「決まってんだろ?」頭で考えなくても、自然と体が動いた。「オートがダメでも……。いつの時代だって人の力、マニュアルが残ってんだ!」
一斉に、部屋中の砲門が火を噴いた。
カーソルを合わせ、撃つ。撃つ。撃つ。怒涛の十六連射。ワンパターン化を避け、だからわざとリズムを持たない。逆に相手のリズムを読む。威嚇射撃であぶり出し、見越し射撃で首を獲る。それらを極限までマルチタスクで同時に行う。持てる技術をすべて費やし、己の限界に迫るスピードで操り続ける。指が攣る。目が追いつかない。息が苦しい。だが、決して久住のスピードは落ちなかった。
「無理だよ、無茶だよ、『他者強化』でもこんなスピード、おにーさんの体がもたないよ!」
「……俺に、できるのは、……こんなこと、くらいだ……」
「え……?
「異次元も操れない、物も作れない、戦う力だって借り物だ……。結局、本当の俺、久住陽一にできるのは、俺にある力は、ゲームだけなんだ。無理でも、無茶でも、俺が戦えるのは今だけなんだ! 俺の、俺達の家を守るんだぞ。俺も一緒に戦わせてくれ!!」
「おにーさん……」
見栄でも強がりでもない。事実、久住の砲撃はYUSHAを圧倒し、完封していた。
だが、全滅まで秒読みという段階で、冬眠するテントウムシのように残党が潜んでいたコンテナの後ろから、一つの影が飛び出すのを久住は見た。
逃すか! 嵐のような指さばきが光る。だがその影には――プレアとプレアに担がれた賢者には――通じなかった。
プレアの速力と反射神経の前には、砲撃なんて殆ど無駄撃ちに等しい。それでも久住は、陽動とフェイクを幾重にも積み重ね、何度も必殺の一撃を生み出すのだが、そんな必中の家電粒子砲でさえ、まるで見えない加護に包まれているかのように彼女達の手前で屈折し、拡散し、阻まれるのだ。
頭の後ろからタブレットを覗き込んでいた妖精達が悲鳴さながらに叫ぶ。
「ふぐぅ、あの二人にバリアなんてズルだよー! うあうあーおにーさーん!」
だが、久住は諦めない。自分のために。海月達のために。そして、アイツのために――
大きなロスと知りつつも、一瞬手を止め、振り返り、三人を見て、久住は言った。
「今ヤツらを食い止められるのは俺だけだ。でも俺は、リリックを諦めるつもりはない。だから頼む、力を貸してほしい!」
三人は間も置かず、一斉に言った。
「おにーさんの思い、届けてくるよ!」
久住は頷きながら背を向け、タブレットに集中する。パタパタと妖精達が飛び去る音を聞きながらプレアの姿を探す………………いや、姿が見当たらない!
「会いたかったぞ、久住陽一ィィィィィ!」
折りしも、何十もの鉄板を叩き割ったような豪快な音と共に、遠くのコンテナの破片が飛び散った。
風穴の開いたコンテナの中から、矢のような速さでプレアが突っ込んでくるのを久住は見た。