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はじめてのおるすばん!

フロア2.はじめてのおるすばん!


 体の底から湯水のように力が溢れた。手も足も出なかったプレアを含む六人相手に大立ち回り。最終的に内二人を気絶させて撤退に追い込んだのだから、呪文の力様々である。

 一つ心残りがあるとすれば、プレア達を追いたてる時、勢い余って蹴躓き、頭から壁に突っ込んで大穴を開けてしまったことである。呪文で強化されていた体はなんともなかったが、大局的に見れば大ダメージだった。

 ――そんな動乱から数時間が経ち、久住家は今、静かに夜を迎えようとしていた。

「んしょ……っと。応急だけどこれでなんとか……はぁ」

 ゲームの初回特典のタペストリーでなんとか壁の穴を隠した久住は、明かりのない真っ暗の居間からダイニングに戻ってきた。辟易しながらイスにもたれる。向かいの席では、リリックがテーブルをパタパタ叩きながら文句を言っていた。

「ねえー。お腹すいたんだけどー」

「俺だってそうだよ。晩飯は水で我慢すんだよ。節約だよ」

 久住はふんっとそっぽを向く。するとリリックは指先に炎の玉を浮かべ、

「消毒されたいの?」

「俺は汚物か!」

 結局久住は冷凍庫からチンするだけのピラフを用意するハメになった。くそう。

 冷凍ピラフを大皿に移し、レンジに入れる。タイマーセット。食事はいつもこんなもんである。唯一いつもと違うのは、二人前のピラフがレンジの中でくるくる回っているということだ。

 ピラフが回る様を見ながら液晶の残り時間をぼーっと過ごしていると、

「なあに、それ?」

 いつの間にかリリックが隣にいた。電子レンジが気になるらしい。

「あぁ、これは電子レンジ。コイツはな、水分のある物ならなんでも――」

「温められる機械なんでしょ? 私の屋敷のよりコンパクトだし、形も随分違うのね」

 久住は耳を疑った。

「え……? 魔界に電子レンジがあんの?」

 リリックは久住の触覚を鷲掴みにして言い返した。

「それくらいあるわよこのエロバカマキリ! 魔界をバカにしないでよね! 薄型のテレビなんて、最近は色々と飛び出して見えるようになってきたんだから!」

 バカにしたわけではない。わけではないのだが……、電子レンジ? 3Dテレビ? なんだろうこの失望感。そんなのでいいのか。いいのか魔界。なんだか威厳がないぞ。

 その後もズレた魔界自慢を聞かされ続け、テロレロテロレロテロレロリーン。

「ほれ完成したぞ。お待ちかねのメシだ」

 久住は最新の魔界家電事情の続きが始まらないうちにさっさとリリックの分を取り分け、皿を運ぶ。

「それは何?」

「冷凍ピラフ」

「れーとーぴらふ? ……おいしいの?」

「魔界出身のお嬢様の口に合うかは保証しないが」

「……量はそれだけ? 少ないわね。さっさとよこしなさいよ」

 つっけんどんな言葉とは裏腹に、リリックは満面の笑顔でテーブルへ先回り。そこへ久住が猛獣のエサやりのように恐々と皿を差し出すと、

 ガツガツガツガツ!

 ものすごい一気食いが始まった。しかも素手。よほど腹が減っていたのか、スプーンなんてまどろっこしい! と放り投げてしまったのである。

 リリックの食い気に圧されて立ち尽くしていると、リリックは手で何かを掴むパントマイムを始めた。で、それを口元に……あぁ水ね。ハイハイハイ!

 急に足取りがおぼつかなくなり、まともに立っていられなくなったのは、優秀なボウイさんの久住が水を汲みに向かおうとしたまさにその時だった。

「あ、れ……? なん、だこれ。おい……」

 重い。まるで体中から錨が下ろされたかのように体が重い。

 視界の端で、リリックがピラフの皿を片手に立ち上がった。

「そろそろだと思っていたけど、モグモグ……、ついにきたわね」

 久住は危うく倒れそうになるのを、テーブルに掴まってなんとか凌ぐ。

「えーっと、ほらあれ、ハチに刺された時の……、あな? アナフィラなんちゃらだっけ、その逆バージョンみたいなもんよ。起きたらちゃんと説明するから、さっさと寝た寝た」

 が、それも長くは続かなかった。リリックの大雑把すぎる解説が終わった瞬間、久住は頭の毛が全部抜け落ちるかと思うほどの脱力感と共に、ガックリと崩れ落ちた。


 上級悪魔特有の呪文、『他者強化(サクリファイス)』には一度きり、初回限定の副作用というものがある。呪文が解かれて即、あるいは多少の潜伏期間の後、三十分前後の昏睡を伴うというものだ。対象に魔力を注いで上級悪魔の力を分け与え、身体能力を極限まで高める仕組みなのだが、他人の魔力はあくまで他人。どうしても最初は注いだ魔力と相手の免疫がウブなお見合いのようにギクシャクし、拒絶反応が出てしまうのだ。

 とまぁ、ここまでは対象が魔者ならの話。人間に『他者強化』を唱えた前例なんか聞いたこともない。だが、リリックにとってそんなことは問題ではない。そもそも人間が上級悪魔の魔力に、『他者強化』の力に耐えうるかどうかさえ考えていなかった。よく言えば図太い。悪く言えば向こう見ず。簡単に言えばバカ。それがリリックなのである。

「……は~あ」

 そんな渦中の人物リリックは今、静かに寝息を立てる久住を見下し、ちょくちょく足蹴にしている。人間がショック死を免れるだけの魔力免疫を有していたため、たまたま命を取り留めた久住だったが、こうも無残に扱われると「運がよかった」と言えるかは微妙である。

「……こんなエロバカマキリと組むなんて。は~あ」

 リリックの心は沈没船のごとく沈んでいた。正体を明かせるたった一人の人間が、選ぶ間もなくコイツに決まった。もれなく住居が手に入りはしたが、お世辞にも快適ではないし、出会って間もなく、ぢ、直に、むむ胸を触るような男と、一つ屋根の下で暮らすだなんて考えたくもない! でも、下手に騒ぎを起こせば他の人間にバレそうだし――

「んあぁ~~~~もうやめ! 頭使うのは私の性分じゃないわ! なるようになる!」

 開き直ったリリックはスッパリと思考を切り捨て、ストンと畳に座った。

 そして思う――暇だ。以前はこうしていれば、メイドが喜んで遊びに興じてくれたのに……。砂時計とエロバカマキリだけが取り巻きだなんて不幸すぎる。あぁ、早く帰りたい。キングサイズのベッドでバタ足しながらクッキーを存分に食べ散らかしたい――

「りりっく」

 突然、久住が喋った。リリックはお尻が浮くほどビクッとしてしまった。

 目覚めるにはまだ早い。早すぎる……。リリックはおそるおそる久住に目を向けた。

 なんのことはない。久住はまだ寝ていた。寝言のようだ。うなされているらしい。

「かべのあ、あな、べんしょう、しろ」

 壁に開いた風穴は、力を加減できなかった久住の過失だとリリックは思った。

「ちゃぶだい、ぐぅ、ちゃぶだい! あぁっ! ちゃぶだいのあしがぁ!」

 新しいちゃぶ台の足は、あのプレアとかいう女が逃げる時に引っかかって折った。バカ力なおっぱい女剣士の過失だとリリックは思った。

「おれの、おれのきっす。うぅぅ、ふぁーすと、きっす、だったのに!」

 あの状況を打破するには『他者強化』しかなかった。『他者強化』には契約がいる。契約を結ぶには口付けがいる。この流れは常識だ。誰の過失でもないとリリックは思った。

「んもう、分かった? 私にばっかり罪をなすりつけないでよね」

 そう言ってつま先で小突いてやる。まったく、こっちは暇つぶし探しで忙しいというのに、

「……りり、りりっくは。う、けが、けがは? ぶじか!?」

 忙しい――はずだったのだが、

「わ、私はケガなんてしてないわよ」

 なぜか、久住の隣でただ座っているのもいいかなと思えてきた。

 頭を振り、魔界の心象風景を消失させる。しきたりは有限だ。遅かれ早かれ、いつかは終わる。ならばそれまで、男のあしらい方の勉強とでも思って、このスケベ野郎と暮らしてやろう。もしヘンなことをしでかしたら……、その時はその時だ(ぶっころす)

「あおとしろ、すとらいぷ。しろあお。あおしろりりっくっ」

 今度は意味の分からない言葉を羅列し始めた。うなされているのとは違うようだが、顔が紅潮している。めんどくさいわねとつぶやきつつ、リリックは濡らしたタオルと……、ついでに目に入った久住の分のピラフを取ってくることにした。

 皿を片手に戻ってくると、久住がもう一度「ふぁーすときす」の話題をぶり返したので、リリックは不器用に久住の額にタオルをべしゃり。そして言ってやった。

「あのね。私だって初めてだったんだからいいでしょ。おあいこよ。それからこれ、どうせ食べられないでしょ? ……貰うかんね!」

 ――ガツガツガツガツ!

 一際激しいピラフ祭りが、仰向けに倒れた久住のすぐ横で始まった。

 

 ガラス窓から初日の出のように顔を半分だけ覗かせ、プレアは目を光らせる。

 二十時現在、室内には黒髪、黒髪、黒髪……のみ。よって敵影なし。

 プレアはそそくさと、「技術開発局」と書かれた表札脇の差込口にカードキーを差し込んだ。電子音が鳴り、プシューっと扉が勝手に開く。

 YUSYA第十三支部地下一階。太陽の光とは縁遠い部屋に入ると、ツンと鼻につく独特の薬品臭が出迎えてくれる。薄暗い室内でぞっとする数の計器とお見合いしながら、のろのろと白衣が動いている。プレアは技術局の怪しい雰囲気には慣れてきたが、人工的な薬品のにおいだけは慣れそうになかった。

 鼻を摘みたいのを我慢していると、一人のひょろっとした男とちょうど目が合った。

 男は気味の悪い緑色の液体が入ったフラスコを持ち、白衣を引きずるように歩いてきた。

「これはどうも、プレア支部長。相変わらずの常時鎧装備。威厳がありますね」

「そうだろう? 私は常に緊張感を絶やさないようにしているからな。ハッハッハ」

 プレアは誇り高く言ったが、周りには強がりというか、言い訳にしか聞こえていなかった。支部長はファッションに超絶疎い、というもっぱらの噂は、噂を通り越して第十三支部の常識になりつつある。

「で、支部長さんがこんな辛気臭い場所に何のご用で?」

「まぁ~、その、だな。アイテムの補充をだな、お願いしようかと、思ってな……」

 プレアはしどろもどろだったが、ひょろ白衣は餅つきの手水係のようにテンポよく、

「なら僕が手配しましょう。そのために、局長がいない時にきたんでしょう?」

 中々に読みの鋭いひょろ白衣の一言は、プレアの頭に革命的な稲妻を落とした。

「……おっ、おお、お前にそんなことが、かか、可能なのか!?」

「いやぁまぁ、これでも僕はこのフロアの主任ですので」

 プレアはひょろ白衣改め主任様の手を取り、ブンブンと激しい握手を交わした。

「……そうか、おぉ、そうか! いや助かる。助かるぞ!」

「し、支部長さん? ちょっと手があらん方向に曲がってしまいそうなんですが?」

「む? おうっ、申し訳ない主任よ。つい力が入りすぎた」

 なんのこれしき、と主任は笑ったが、その手はさりげなく背中に隠されていった。

 主任は別の研究員を呼びつけ、一枚の書類を持ってこさせた。

「ここにサインを。後は私の方で回しますので」

「世話をかけるな。……さらさらさら、っと」

 主任がサインを簡単に確認し、白衣の内側に書類は消えた。任務完了。一件落着。

 ……が、なぜか嫌な予感がして、プレアは握手した時のように手放しでは喜べなかった。

 予感に後押しされて、プレアは早々に立ち去ることにした。

「では頼んだぞ。となれば長居は無用だ。おいとまさせていただく――」

 しかし、背後から、プシュー。それは技術局の扉の開閉音だ。

「もう行っちゃうんですか?」

 続いて声。暗澹たる空間にそぐわない、明るく活発な少女の声。

 プレアの頬を冷や汗がつたう。技術局の面々が一同に固まる。

 永遠にも似た時間が過ぎた気がした。なんならこのまま時が止まってくれても構わないのだが、そうもいくまい。錆び付いたロボットのように、プレアは回れ右をする。

 一人の少女がいた。周囲の大人と明らかに不釣合いな小柄で可愛らしい少女だ。一般的には修道服といえば黒だが、彼女のは白と淡い水色に染め上げられ、要所要所に金の装飾が施された風変りな見栄えである。頭には十字架の紋章が描かれた大きな司祭帽をかぶっており、そんな帽子の下からは、ふさふさした栗色のセミロングの髪が――

「ジャーンジャーン」

「げえっ! 賢者!」

 ドタドタドタ! 途端に局内が騒がしくなった。キビキビと白衣が動き回り、張りのある声が飛び交い始めた。これこそが技術局の本来の姿である。技術局局長、通称「賢者」、別名『B1フロアのご主人様』が居座る城砦である。

「せっかくきたんですから、ゆっくりしていってね! って言わせてくださいよ」

「い、いやしかし……。ほ、ほらみろ! 技術局も多忙そうだ――」

 ツカツカと賢者が歩み出る。その前を横切ろうだなんて命知らずはここにはいない。

 賢者はプレアの目の前までくると、プレアより一回りも二回りも小さい体で見上げ、

「ぜーんぜん忙しくなんてありません。技術局が忙しいのは、消耗したアイテムの補充を突然言いつけられた時くらいなもんですからね」

 笑顔であることが信じられないほど嫌味なトーンだった。さらに言えばプレアはそのアイテムの補充を頼みにきているわけで、居心地の悪さは二乗倍である。

「ふふっ、二人水入らずですね。さて、ご用件はなんですか?」

 気が付けば、プレアと賢者の側には誰もいなかった。研究員達はみな、見えない何かがあるかのように二人に近づかない。いつの間にか、主任の姿もない。

 プレアは右から左へ左から右へ、目をぐるぐる回しながらごにょごにょと言った。

「その……。アイテムの、ほ、補充をだな……、頼めないかな、と……」

「魔者との戦闘報告書、上がってきてませんけど?」

 返す言葉がなかった。プレアは今回の久住家偵察にて、メイドイン技術局の閃光玉と煙玉を二つずつ使っている。魔者との戦闘でではなく、パトロール中だった警察官の職質から逃れるために。帯剣を欠かさないため銃刀法違反の常習であるプレアは、幾度となく魔者用の戦闘アイテムを使い込んでいるのだった。

「どうせまた、警察とかから逃げるために使っちゃったんでしょう? まったくもう」

 プレアは唾をのんだ。やはりバレている。もうダメだ。一週間はねちねち言われる……。

「……仕方ありませんね、手配しておきますよ」

 ほうらみろ。早速悪口が飛び出し……、て、あれ……?

「賢者、どうかしたのか? 今日はいやに素直というか、なんというか……」

 こんな胃に優しい展開などあるはずがない。プレアはむしろ不安だった。

「えへ、分かっちゃいます? 実はですね、ちょっといいことを思い出しまして」

 ぺろりと賢者は舌を出した。こうしていると普通の女の子に見えるが、彼女は人間でありながら高い魔力を持ち、魔法を唱えることのできる特別な存在なのだ。組織的な立場こそ上だが、プレアは権力で抑えつけたりはしない。賢者の反感を買うとどうなるかを、プレアは病棟送りにされた機動部隊の各隊長達に大変よく学んだ。

「ほらこれ、覚えてます? 私とプレアさんとの、や・く・そ・く、です」

 賢者は相変わらずプレアを見上げながら、ンフフと色っぽく一枚の紙を取り出した。

 あっ! とプレアは声を上げた。わなわな、と手が震える。

「前回の補充は条件付きでしたよね? そしてその条件とは――」

「次に不当な理由で補充を申し出たら、技術局のトイレ掃除を一週間受け持ちます……」

 プレアが呻くような声で暗唱すると、賢者はパチパチと手を叩いた。何か抜け道があるはずだ、とプレアは契約書をひったくって穴の開くほど見るが、紙にはしっかりとプレアの字で、プレアの署名がある。知らないとは言えなかったし、賢者の条文は完璧だった。

「では、私は準備があるのでこの辺で」

 賢者はすたこらと、一段高い位置に設けられた局長用のデスクへ歩き出した。

「準備だと……? 待て、準備とは一体?」

「もちろん、出撃の準備です。受け持ちこそ裏方ですが、幹部クラスには単独で現場に出る権利がありますよね? 魔者疑惑を報告した責任もありますし、それにほら、」

 気を遣ってか、はたまた当てつけか、賢者は声のトーンを落とし、

「失敗だったんでしょう? 引き継ぎますよ。もし今日の任務を完遂しているなら、たとえアイテムでヘマをしても、プレアさんはもう少し自信のある顔つきでいるはずです」

 ぐっ……。返す言葉がなかった。任務を果たせなかったことはまだ誰にも伝えていないのに。賢者の肩書は伊達ではない。

 賢者はデスクの引き出しから魔法を唱える際に用いる大きな魔導書を取り出し、リュックサックのような専用のホルダーにくくりつけ、「よっこらしょ」と背負った。

「大人しくトイレ掃除して待ってて下さい。ちゃーんとお土産に手柄を持ってきますよ」

 屈辱だった。一隊長であり、一支部長でもあるプレアは、剣ではなくラバーカップを振るう姿なんて、便器をきゅぽんきゅぽんする姿なんて、屈辱以外の何者でもなかった。

 プレアの中で必死に堪えていた悔しさメーターが振り切れた。

「くそっくそっ、くそおおぉぉ――――っ! いいか、覚えていろよこの小悪魔めっ!」

 トイレをピカピカにしておいてやるからな! 向上的な捨て台詞を残し、プレアは鎧をガシャガシャ言わせて技術局を去っていった。

「……支部長と面と向かってやり合えるのなんて、貴女だけですよ」

 デスクの下に隠れていた主任が顔を覗かせ、白衣のシワをぱんぱん伸ばしながら言った。

「え? そうですか?」

「一応上司というか、支部長ですし……。それにおっかないじゃないですか。雰囲気というか、顔つきというか……」

「それは常にYUSHAとしての気概を背負ってるからですよ。仕事熱心なだけです。それこそ、おっかないほどに」

 賢者はくすくすと笑った。主任も愛想笑いを返す。助かったと、主任は思っていた。突然賢者に、白衣の裾をぐっと握り締められるまでは。

「私も一応、あなたの上司なんですけど」

「……え? えぇ。はい。そんなこと当たり前じゃないですか――」

「でも私、その白衣の内側のモノについて、何も聞いてない気がするんですけど」

 ロックオンアラートが鳴る。

 主任は硬直し、頬をヒクつかせた。冷や汗が白衣の中のシャツに染み込んでいく。

 賢者はおもむろに手を鉄砲のように構え、主任にぴったり狙いをつけ、「BAN!」

「……ふっ、またつまらぬアカウントをBANしてしまった」

 後日、主任に待っているのは平研究員降格の辞令なのだが、それはまた別の話である。

 

 ジャジャン、デレレッデレッデー。

 その朝久住の目を覚まさせたのは、長らく共に朝を戦ってきた目覚まし時計ではなく、携帯電話のコミカルなメール着信音だった。

 誰からだろう? 半分夢の中にいながら、久住はゾンビのように手を伸ばし、ベッドの脇のサイドテーブルを当てずっぽうにパシパシ叩いた。

 首尾よくストラップが引っ掛かり、久住はもぞもぞと時代遅れの二つ折り携帯を開く。アプリゲームの台頭を否定するつもりはないが、ゲームはゲーム機に任せてほしい。携帯は電話とメールで十分だ。というのが、スマホに手が届かない久住のもっぱらの負け惜しみだ。

 さて、メールである。見覚えのないアドレスだ。件名は、「メアド変更!」だ。

 ――めげずにメアド変えました!(テヘペロ) 誰だか分かるかな?三星

 考えるまでもなく妹だった。着拒に踏みきったというのにこれか。テヘペロじゃねーよ。三星ってなんだよ。ミ☆ってか? もうこっちがメアド変えてーわ!

 朝から嫌なものを見たと思いつつ携帯を投げ捨てようとすると、再び手の中からメロディが溢れてきた。

 画面のアドレスにはまたも見覚えなかったが、件名の名前には見覚えがあった。

 件名 水上研耶より

 もちろん飛び起きた。

 震える指先でメールを、開いた。

 ――突然のメールごめんなさい。お友達からアドレス聞いちゃいました。テヘペロミ☆

 お前もかよ。

 ――昨日は久住くんの趣味が気になって気になって、思わず帰り道を狙い撃ちにしちゃいましたが……、ちょっと無神経でしたか? イヤな気分にさせちゃってたら、ごめんなさい。迷惑じゃなければ、またゆっくりお話聞かせてくださいね!

 ぴーえす.今日、何か用事ありますか?

 久住は戦々恐々とした。

「……どうしてこう、立て続けに妙なイベントが起きるんだ?」

 久住はともかく、光速の打鍵で返信に取り掛かった。

 ――ないですよ。気にしてません。さようなら。お家にいるけど。忙しいので。

 これでいい。ここまで気のない短歌で返せば、このイベントは進行不可能だろう。久住は水上研耶のあらゆるフラグを潰すことに余念がない。

 んじゃ、送信。

 ふぅ、と思った。肩と首をぐるぐる回し、一仕事終えたサラリーマン気取りである。

 久住はもたもたと私服に着替え、部屋を出て、階段を下りた。扉脇のタペストリーを尻目に、傾いたちゃぶ台が新たなランドマークの居間に入る。

 そっと覗く。居間の隅に敷いてやった煎餅布団は――からっぽだ。

「お? ひょっとすると、ひょっとして!?」

 しかし、ベキ、とよく分からない音がした方を振り返ると、ダイニングからひょっこり顔が出た。濃紫の長髪に真っ赤なリボン。久住の日常を遠慮なくぶち壊しにしてくれた文字通りの悪魔、リリックだ。

「なんだ……、やっぱりまだいんのか。ハァ」

「なんだとは何よ。住ませてくれる約束でしょ? 今さら文句言うなんて女々しいわよ」

「正直に言う。寝てる間にこっそり帰らないかなー、って心底期待してた」

「私だって帰りたいし、そりゃ試したわよ。でも、電撃は走るわ反重力で吹っ飛ばされるわで、ワームホールに入れないのよ。手紙の通り、ホントに帰れないわけね」

 それでか、と久住は思った。肌にはところどころ黒くすすが付き、ワンピースは伝線したストッキングみたいになっている。電撃を浴びたせいだろう。

「……あのさ。何か適当な服、貸そっか?」

 久住は窓の外を見るようにしながら言った。悪魔とはいえ一応は女の子として扱わないと、こっちが今のワンピースのようにボロボロにされてしまいかねない。

「ヤ。アンタの服ダサイ」

 そしたらリリック、久住のデカデカと文字が入った(文面は「Hello World」)Tシャツとジーンズ姿を見て、言うに事欠いてこれである。

「これはこの私の服なのよ? そんじょそこらの綿や絹とはわけが違うんだから」

 そんじょそこらの綿や絹だろうが、と食って掛かった久住は、ワンピースの穴ぼこを凝視して言い分を理解した。千切れた繊維の先がうにうにと小刻みに動き、穴の向かい側に向かって伸びていく。少しずつ、だが確実に、ワンピースは再生していた。

「抗菌、防臭、通気性に優れ、さらに耐火耐熱耐水耐圧、しかも完全自己再生保証品よ」

「マスゲーのラスボスみたいな服だな……。へ~、どんどん穴が塞がっていきやがる」

「ちょっと何まじまじ見てんのよこのヘンタイ! このエロバカマキリ!」

「あああああああああ! 許し、ごめんなさ……、ああああああああ!」

 数分後、猛烈な往復ビンタに晒された久住は畳に打ち捨てられていた。

「……俺、顔洗ってくるわ」

 ひいこら言いながら洗面所に行こうとすると、ハチに刺されたマンガキャラのような久住の顔に笑い転げていたリリックに呼び止められた。

「アハハハ――あ、ねえちょっと! その前に私に人間界のキカイの使い方を教えなさいよ。お腹減ったわ。どうやって『れーとーぴらふ』を生み出すのよ?」

 リリックは手招きしながらキッチンの方へ消えていった。久住は、リリックを呼んだ時に聞こえた『ベキ』という音を思い出し、胸騒ぎを覚えた。

 おじおじとリリックを追い、キッチンを覗き込んだ久住は、頭の癖っ毛をピンと逆立たせた。

 そこにはトースター、電子レンジ、炊飯ジャー。久住の生活を支えるキッチン御三家が、見るも無残な姿で横たわってた。

「ほら、私っていつもメイドに任せっきりだったから使い勝手が分かんないのよ。とりあえず、なんとなく食べ物の気配がするやつを叩いてみたんだけ――どおぉぅっ?」

 久住はごちゃごちゃ言うリリックを突き飛ばして駆け寄った。

 ふふ、久住さんよぉ、こいつぁダメだ。俺の体は、俺が一番分かってるからよぉ。

 何を弱気な! 大丈夫、傷は浅いぞ! 

 久住は炊飯ジャーを抱きかかえ、魂の会話を交わしながら患部を覗き込む。が、命綱とも言うべき電源コードは完全に断裂。プラスチックの外装は叩き割られ、持ち上げると中からバネやらネジやら基盤やらが落ちてきた。……即死だった。

 久住はそっとジャーの亡骸を置き、同じくバラバラに粉砕されたレンジとトースターの破片をかき集める。そして、この世の終焉だ、といった顔で天を仰いだ。

「……どうすんだよ。……壊れちゃってんぞ。これ」

「壊れちゃったの?」リリックは苦もなく人差し指を立てて言ってのけた。「なら新しく買えばいいじゃない」

 久住は両手で顔を覆う。この家は借家だ。蛍光灯や壁の破損を直すのは責務だ。最早家計はいっぱいいっぱい。家電を買いなおす余裕なんてとてもない。

「……せめて反省の色を混ぜてくれよ。弁償するからとか、お詫びに何かとか――」

「あーあー! お腹ペコペコー!」

 嗚呼、憧れの次世代ゲーム機よ。初回限定版よ。ダウンロードコンテンツよ――

 あくまで空腹のみを主張する居候の隣で、大切に貯めていたお年玉貯金が巣立っていく様を思う久住は、男泣きに男泣きした。


 午後一時。古めかしい木の時計からすすけたハトが飛び出して、パッポー、だって。

 ぐぐぅぅぅぅ~~~~。気を紛らわそうとハト時計をからかってはみたものの、そんなことで騙されるリリックのお腹ではないのだ。

 この日のリリックの昼食は、カップラーメン――を食べる久住を横目に飲み放題の水だった。罪と罰、というヤツである。かつてのピラフ祭りの主賓は、既に無人島に漂流したようなやつれっぷりだった。

「……もう、軽く四リットルは水飲んでるわね」

 生々しいことを言いながら、リリックは畳にペタリと女の子座りをして、完全に再生したワンピースの裾を摘んでは離し、また摘み……を繰り返している。

 こんな途方もなく空しいことをしているのには、ワケがあった。

 リリックは睨みつけるように視線を持ち上げた。その睨みを受け止める三本足のちゃぶ台には、一枚のわら半紙が置いてある。タイトルは、「久住家居候の誓文」だ。

 一、正体がバレるような行動、行為はしないこと。

 一、家の備品、又、家そのものを破壊しないこと。

 一、パンツを洗濯されても泣かないこと。

 これら条文の下に、赤字でオフィシャルペナルティが書かれている。

 上記の条項に反した場合、及び、家主に多大なる迷惑をかけた場合、次に有効な食事一回を抜きとする。(カウントは累積する)

 一回破れば一食抜き、二回破れば二食抜きというわけだ。

 久住は先ほど、壊れた機械の新調にトボトボ出掛けた。一時間もすれば帰るらしい。

 今度何か仕出かせば夕食も抜きにされて餓死してしまう。びびって扇風機にも触れないリリックは、窓を全開にして、畳にゴロンと寝転んだ。お昼寝なら何も壊さないし、迷惑をかけることもないし、空腹も多少は紛れると思ったのだ。外から風が入るたび、じわりと浮かんだ汗が冷えて気持ちがいい――

「……かまきり、じゃなくて、ヨーイチぃ……。おなか、すいたよう……」

 やがて、ぷすー、とリリックの電源は静かにオフになった。

 天使のような寝顔で悪魔が小さく寝息を立てること十数回……。

 ピリリリー! けたたましい音が静寂を突き破り、せっかく夢の中へと沈み始めていたリリックの意識を釣り上げた。

 久住が仕掛けた監視トラップだと思い、リリックは起きざまに反発した。

「なによもうー。おひるねくらい、したっていいじゃないのよー!」

 しかし、頭がハッキリしてくると、どこかで聞いたことのある音だと気付く。

 リリックはハッと飛び起きると、部屋の隅のカラーボックスへ向かう。「げーむそふと」と呼ばれる箱で埋まった三段構造の一番上に、ポツンと長細い機械が置かれている。それは、ピリリリー! と音が鳴るたび、ピカピカと赤く点滅していた。

「デンワ……。デンワだわ……」

 屋敷でメイドが使っているのを見たことがあった。やはり魔界のものとは少々デザインが違うわけだが、間違いなくそうだ。

「ふん、このリリック様の眠りを妨げるなんていい度胸ね……っ!」

 真っ二つにかち割ろうとした――寸でのところで、脳裏をわら半紙がヒラリとよぎった。

「じ、ジョーダンよジョーダン! 私、アナタとは仲良くしたいと思ってるんだから」

 電話の子機をいい子いい子しながらリリックは思った。ローゼンタールの令嬢ともあろう者が、このいつやむかも分からない音の嵐が過ぎ去るのを、ただ指を咥えて待つしかないだなんて――いや……、待てよ?

 一度深呼吸をして、リリックは赤ちゃんを抱くように電話の子機を持ち上げた。

 そう。逃げずとも、壊さずとも、しかるべき対応をとればいいのだ! しかも、うまくいけば、底辺まで落ちた家主の信頼も取り戻せるかもしれない。ご褒美がもらえるかもしれない。スイーツがいいな! リリックは自らニンジンをぶら下げるのがうまかった。

 もしもし、どちら様ですか? ヨーイチは外出中です――こんなとこかしら? 私って才色兼備! リリックは何一つ自分を疑わずに子機を耳に当て、大きく息を吸い、

「もも、もももしもしもしも!」

 カーッ、と耳まで赤くなった。

 からっきしだった。べ、別に緊張なんてしてないんだからねっ! 

 ブンブンと頭を振る。平気平気、ちょっと噛んだくらいなんだっていうのよ。とにかく落ち着くの。落ち着くのよリリクロット!

「どど、どちどち、どちらさま、でしょう?」

 あぁ……っ、あぁもうっ! もうっ!

 この上ない恥ずかしさと緊張でリリックはフラフラしてしまう。目が小刻みに左右に揺れて、焦点がどこに合っているのかも分からない。こんなもーん! と今すぐ子機を投げ出したい衝動に駆られるが、ちゃぶ台のわら半紙がそれを許さない。

 持ち前の負けん気とプライドだけでどうにか正気を保っていると、リリックはふと、相手がまだ一度も喋っていないことに気が付いた。

「……あ、あの~?」

 相手を覗き込むようにリリックが言うと、

 ――久住か。

 それはひどく聞き取りにくい、機械的な声だった。

「あぅ、あぅ。あっ、そうです、くずみのいえです。よ、ヨーイチは、がいしゅつで、」

 ――一度しか言わない。よく聞け。

「えぇ? えぇ!?」

 ――妹は預かった。返して欲しくば、今すぐ三丁目の公園までこい。

「ひいぃぃーっ!」

 泣きそうだった。無理! デンワ無理! 相手の顔も見えないのに、なんなんよこの高度なやり取りはっ!

 ――分かったな? 用意するものは……、

 モウダメカモシレナイ、と思った。もしこれが大切な連絡だったら? 自分が出しゃばったせいで台無しになったとしたら? 掴みかけていたスイーツが、夕飯が、遠のいてゆく――

 イヤだ! それだけは阻止よ! 退却NO! リリックは海兵隊のような心持ちで子機を強く握り直した。

「ま、待って! どちらさまですか? どちらさまなんですか?」

 ――答える義務はない。

「なんでよ! 私には聞く義務があるのよ! どちらさまって聞いてるでしょうが!」

 情けない自分に、ちゃぶ台の誓文に、ケチな相手に、変な声に。あらゆることにイラついていたリリックの口からは、知らずのうちに、あるがままの自分ってやつが飛び出していた。

 ハッと口を押さえるリリックだったが、

 ――……え? ……あぁ、え?

 幸か不幸か、手ごたえアリ。効いてる? 効いてるわ!

「どちらさまなのよ。教えなさいよ」

 一か八かこれでいこう。そう決めたリリックは生き生きしていた。持ち前のツンっぷり、Sっぷり、全開である。

 ――わ……、分からないのか? この声、この会話の流れで。

「ハァ? こんな薄気味悪い声なんて聞いたこともないわ!」

 薄気味悪い声はコホンコホン、と咳きを入れて間を作り、

 ――俺は、誘拐犯だ。

 リリックはカラーボックスの上にメモとペンで、ユーカイハン、と走り書いた。

「で?」

 ――で!? ……で? ってお前……。

「用事は? って意味よ!」

 ――いやそれは分かるが! ……誘拐犯の用事って言ったら、誘拐しかないだろ。

「ふぅん」

 ――さっきも言ったがな、あれだぞ? 妹を預かってるんだぞ?

「つまり?」

 ――早くこいってことだろ!

「こいって、私が行けばいいの?」

 ――そうに決まってるだろ! あと警察には連絡するなよ、あくまでも一人でだ!

「ハイハイ。場所はさっき言ってた公園? 三丁目だっけ?」

 ――ああそうだよ! 身代金もいらないから今すぐこい! いいな!

 ブツッ、とノイズを残し、それきりツーツーとしか聞こえなくなった。

「……何よ、ヘンなの」

 リリックは子機を置くと、要点を押さえたつもりのメモ用紙を見た。

 ユーカイハン。目的、ユーカイ。三丁目の公園。ミノシロキン、いらない。

 ただ公園に行けばいいのだろうか。ミノシロキンがいらないというのは、手ぶらでいいということだろうか。急げと言っていたし、多分そういうことなのだろう。

「ま、行けば分かるわよね」

 そういえば、まだ一歩も家から出ていなかった。リリックは期待半分不安半分で玄関に向かう。正体がバレそうな行動は禁止だが、外出は禁止とは書いてない。……ちょっと屁理屈っぽいとは思うが、仕方ない。これは緊急の用事なのだ。

 放ってあった履物から、単純に楽そうだという理由でくたびれたビーチサンダルを選ぶ。

「うっ」

 玄関を開けると、目がくらみ、思わず声が出た。それほど人間界を照らす太陽の光は強かった。魔界なら、いくつかの種が耐えられずに蒸発してしまうだろう。

 光に慣れた頃合でくらんだ目をゆっくりと開けると、今度は声が出なかった。

 風にそよぐ緑の絨毯。遠くに見えるネズミ色の高い高い塔。青々とした空。白い雲。何気なく息を吸い込むと、驚くほど澄んでいて透明な味がした。

 すべてが新鮮で、不思議で、ワクワクした。世界が違うと、こうも環境が変わるのだろうか。翼を広げ、この大空を飛び回ってみたいと思った。リリックにとって人間界は、言わば好奇心というシロップをたっぷり塗ったホットケーキのように、お腹いっぱい堪能したいものになろうとしていた。

「……おっとっと、早く行ってあげないと、ユーカイハンさんが困るわね」

 万が一にも赤いリボンが解けないようにきつく結び直し、外の世界を見るきっかけをくれた誘拐犯に感謝すらしながら、背の低い雑草をサクサク踏んでのん気に丘を下っていく。

 公園ってどこにあるのかしら? リリックは一瞬考えたが、別に悩むことではなかった。

 いざとなれば、誰かに尋ねればいいのだ。これだけは、魔界と一緒だ。

 

「むふ、ムフフフフ」

 茂みの後ろから怪しい声が漏れている。ガサガサと青葉を掻き分ける音が聞こえたかと思うと、鼻の頭に葉っぱを乗せた少女がすぽっと茂みから顔を覗かせ、右よし、左よし。誰もいないことを確認したところで、少女は青虫のように茂みから這い出してきた。

「時間通りの到着ですね」

 枝に引っ掛かってずり落ちた司祭帽を整え、スマホで時刻を確認する少女は誰あろう、YUSYA技術局局長、賢者その人だ。

 ぱんぱんと神聖な服に付いた汚れを粗末に払って立ち上がる。獲物を探す捕食者のような賢者の目が光る。

 ターゲット捕捉。丘の上の一軒家、久住家。

 ここまでの賢者の計画は非常に順調と言っていい。徴用した機動部隊隠密機動班、通称盗賊(シーフ)の報告によれば、久住をおびき出す架空の脅迫電話作戦は無事成功とのこと。後は賢者が突入してちょちょいのちょいだ。プレア隊の下っ端から(脅迫で)得た情報によれば、ワームホールは居間にあるような気がするらしい。

 一応魔者戦も考慮しているが、強力な魔者であればこそ、一人でのこのこやってくるようなバカな真似はしない。大方人間界に興味を持った悪戯妖精か『子鬼ゴブリン』)だろう。賢者なら片手で捻ってぽいできる相手だ。

「……フッ、……フフ、フフフフ」

 思わずニヤける。ワームホールを発見・封鎖したとなれば、久住に大いに感謝されちゃうに決まっている。『キミは命の恩人だ』、『えー、そんなこと――ありますけどね……っ!』、そ、その晩二人は軋むベッドの上で、とと、永久の愛の契りを――ふおおおぉぉぅー!

「……ふぅ危ない危ない。トリップして最高にハイになるところでした。じゅるり」

 思わずよだれが出るほどお手軽で魅力的報酬な任務だからこそ、既にプレアが出向いていると聞いた時は落胆したものだ。諜報部は普段ガセネタばかりのくせに、こういう肝心な時だけ真っ当な情報を掴んでくるからたまらない。結果的にプレアがしくじったから大目に見るが、そうでなければ幹部権限で乗り込んでいるところだ……。

 それにしても、ちょっと気になる。――諜報部はどこから久住の情報を手に入れたのだろう? しかも、妄想にかまけて行動が遅れたとはいえ、賢者を上回る早さで――

 ……まぁ、いっか。

 賢者はそろそろお預けが辛くなり、玄関へ突進した。

「さぁ久住くん! この私が平和な日々と約束された未来をさしあげますです!」

 ドアノブに手を掛ける。鍵が掛かっているだろうが心配ご無用。賢者のストーカーまがいの、もとい丹念な調査によれば、スペアキーはエアコンの室外機の下に――

「……って、あれ?」

 賢者が自分のリサーチに陶酔している間に、玄関は全開になっていた。

 たしかにこの街の治安は悪くない。悪くはないが、無施錠とはあまりに不用心だ。まぁ、妹が誘拐されたとなれば家の鍵なんていちいち掛けていられないかもしれない。ちなみに、これで簡単に上がりこめるぞー、だなんて思っちゃあいない。

「ふんふんふん、おじゃましま~す」

 鼻歌まで飛び出すご機嫌で、賢者は玄関をくぐって靴を脱ぎ、上がり、振り返ってしゃがみ、脱いだ靴を揃え、顔を上げた。

 そこにいた。

 人が。

 驚きのあまり、賢者はあらゆるパーツが顔から飛び出したかと思った。

「だ、誰だお前! 何勝手に人様の家に上がろうとしてんだ! ……さてはお前も昨日のコスプレ集団――じゃなかった、YUSYAとかいう組織の一員だな!」

 夏の日差しを後光のように浴び、逆光で影と化しているその人物は、ズビッと指を差し、その勢いで腕からぶらさげたでっかい袋に振り回されていた。

「いやいやいやいや、私は別に怪しい者ではありま――」

「え? あれ? ていうか、よく見たら、」

 賢者が言い訳マシンガンを放とうとすると、その銃口を押さえるようにぐいっと声が割り込んできた。ついでに、目の前の人影もぐいっと一歩出た。

「け……? もしや、けにゃさん?」

 後光が途切れ、ようやく賢者の目にセンスの悪い服が映る。相手の顔が映る。

 それは紛れもなく、同じクラスの久住陽一であり、この家の主の久住陽一であり、そして脅迫電話で出かけたはずの、久住陽一の顔だった。

 

 セミのさざめきが耳に突き刺さる。むき出しの項がジリジリと焼かれる。それでも久住は、急傾斜の坂を必死で上っていた。自転車のカゴに突っ込んだ大きな紙袋の中では、貯金をはたいた現品限りのお買い得電子レンジが悠々閑々としている。

 三ヶ月連れ添った仲間に先立たれた悲しみと、悪びれる様子もないリリックへの怒り。突出した感情のクロスチョップを受け、久住は半ばやさぐれて家を出た。が、家電量販店に着く頃には頭も冷え、事の重大さと自らの愚かさに慄き、一番安い電子レンジだけ手に取って、史上最速のスピードで自転車をかっ飛ばしてきたのだ。

「……リリック、リリック、リリック、リ、リ、ッ、ク!!」

 頼むから。お願いだから。そんな気持ちで、久住は無意識のうちに、恋人のように名前を連呼していた。正体がバレるのはリリックにとっても面白くない。頭が弱くたって分かる。きっと大人しくしている。はずなのだ……。

 猛ダッシュで自転車を押して坂を踏破し、我が家が見えてきた。ハラハラしっぱなしで胃が痛い思いだった久住が、束の間の安堵を感じたまさにその時だった。

「……あれ?」

 思わずハンドルから手を放した。押していた自転車が倒れた。

 久住の中のハラハラが、ものすごい勢いでのたうちまわった。

 誰かがいるのだ。玄関の前に。

 加えて久住にとって最高に都合が悪かったのは、その人が郵便や宅配や光熱費の検針の類でも、丘の麓のお隣さんでもない、異様な格好をしていることだった。

 すっぽり体を覆う服は、シスターの修道服のようだ。かく言う久住も結構好きだったりする。しかし、色合いがパステルカラーだし、でかくて分厚い本を背負っているし、大きな司祭帽も含めて、ファッションというにはあまりに奇抜だ。そしてその奇抜なファッションというのを、久住はつい先日目にしたばかりなのだ。

 次の瞬間、なんと妙な格好の人物は玄関を開け、何食わぬ顔でスタスタと家に入っていった。久住は慌てて紙袋を拾い、後を追って玄関へ駆け込んだ。

「だ、誰だお前! 何勝手に人様の家に上がろうとしてんだ! ……さてはお前も昨日のコスプレ集団――じゃなかった、YUSYAとかいう組織の一員だな!」

 勢いよく指を差し、久住は大声で威嚇した。相手は驚き、おろおろした。

「いやいやいやいや、私は別に怪しい者ではありま――」

「え? あれ? ていうか、よく見たら、」

 目の当たりにしたその姿、見覚えのあるその顔に、口を挟まないわけにはいかなかった。

「け……? もしや、けにゃさん?」

 ふさふさな栗色の髪、大きな瞳、ゆったりめな服装にもかかわらず自己主張に事欠かない胸元。間違いない。変な格好こそしているものの、久住がよく知る水上研耶であった。

 研耶はあたかも幽霊を見たかのように固まっている。久住はやんわりと声を掛けた。

「けにゃさん、でしょ? なんなの? いや……、なんなの?」

 久住の「なんなの」には、その格好と、家に上がっていることの二つが含まれていた。

 研耶は、どっちの問いかけも否定する勢いで首をびゅんびゅん振った。

「ち、違います! 人違いです。私は研耶じゃありません!」

「研耶って……、やっぱりけにゃさんじゃん」

 しまっ! と口を押さえたってもう遅い。

 が、研耶のリカバリーは素早かった。研耶であることを認識したがために生まれた久住の僅かな隙を目ざとく見つけ、小さな体をさらに小さくして、転がるようにというか、本当に転がりながら久住の脇をすり抜けた。

「い、今の私はけにゃではないんです。賢者、そう呼ばれているんです」

 まんまと突破された久住が振り向くと、研耶は前転の課程で手にした靴を素早く履き、庭先で居心地悪そうに体を揺すっていた。

「……けんじゃ? 賢い者って書く? 遊び人を極めし?」

「えぇ。ですが神殿は要りません。YUSYAの技術開発局局長の、賢者だからです」

 研耶改め賢者の回答は、顔見知りなだけマシか、と勝手な物差しで考えていた久住の心を、一気に奈落の底に叩き落とした。

「……YUSYAって、今そう言った?」

 賢者は開き直ったように、立派な胸をぽよんと張った。

「そうですよ。久住君のお家が大変なことになっているって聞いて、すかさずやってきたんです。コホン、改めて、お邪魔します」

 久住はもんどり打つ勢いで玄関から飛び出ると、後ろ手に扉をピシャリと閉めた。

「ダメ! ゼッタイ!」

 賢者は泣きそうな顔をした。

「そんなぁ! どうしてですか!?」

「昨日剣を持ったYUSYAの女隊長と、その下っ端みたいな連中に追い出されそうになったばかりだからだよ!」

「私は野蛮な剣士さんとは違います!」

「家主の留守中に勝手に上がりこむ行為を野蛮と言わずになんと言うんだよ」

「黄金の鉄の塊なんかと一緒にしないで下さい!」

「布装備のジョブの癖に仲間を悪く言うとは汚いさすが賢者汚い!」

「YUSHAのことは嫌いでも、私のことは嫌いにならないでください!」

「見境ねーな色々と!」

 久住は動かない。賢者も動けない。緊迫した時間が流れていく。景色が歪むような真夏の熱気が二人を蝕む。相手の顔から垂れて集まった汗が、顎で大きな粒となり滴っていくのを、久住と賢者は黙って見つめ合った。

 ぶーん、ぶーん。長い我慢比べに終わりを告げたのは、どこからともなく聞こえてきた振動音だった。賢者は久住から片時も目を離さないまま、袖の中に引っ込めた手でスマホを取り出した。

 久住はピコピコと操作する賢者を黙って見守る。

 やがて賢者は、はたと手を止め、首を傾げた。

「……く、久住くん」

 その表情が、みるみる張り詰めていった。

「メールしましたよね? 今日は忙しいって、家にいるって、そう言いましたよね?」

 久住はギクリとして、紙袋を背中に隠そうとした。

 しかし今の賢者にとって、買い物に行ったかどうかなんて些細な裏切りだった。

「知ってます? 今日久住くんの家に、妹さんを誘拐したという電話があったんですよ」

「……い、妹? ……えっと、俺の!? 俺の妹が誘拐されてんの!?」

「いいえ、もちろん誘拐なんてされていません」

 そりゃそうだと思った。「今夜はカレーだって! お兄ちゃんの方は?」、なんてのは誘拐された奴のメールではない。出かけている間も、何十通と受信したのだ。

「ですが、脅迫電話があったのは事実です」

 久住は顔をしかめる。どういうことだろう? 話が全然噛み砕けないし、のみ込めない。っていうか、そもそもなぜ賢者がそれを知っているのだ?

 その答えは、思ったより簡単に頭に浮かんできた。

「……まさか、けにゃ――賢者さんが? ……YUSYAがやった、と?」

「そうですとも。久住君の留守を狙ってワームホールを、この家を封鎖する計画でした。事は順調に、滞りなく、憚りなく進んでいたんです」

 熱っぽく一歩踏み出し、賢者はスマホを突きつける。

「現に、久住くんは私の仲間と、こうして会っているんですから!」

 画面には一件のメール。

 ――久住さんはお腹が空いているらしいので、ラーメン屋に行って時間を潰します。

「いやいや……、いやいやいやいや!」

 久住は鈍器か何かで頭をドスンとやられた気分だった。茫然自失、とはまさにこういう顔だった。なぜなら久住はここにいて、電話を受けた覚えなどないのである。なのにメールの送り主は、今から「久住さん」とやらとラーメンを食うとか言っているのである。

 つまり、久住の留守中に電話を受け、久住のかわりに外出した者がいるということで、そんなことができうる者は、久住が知る限り一人しかいないのだった。

「やっぱり! あなたは久住くんじゃない。正体は魔界の住人、魔者ですね!」

 そして久住はどこまでも運がなかった。表立って動揺した久住を見て、賢者の中の仮定が断定へと変わってしまったのである。

「ち、違うっ! それは誤解だ! なんでそうなるんだよ!」

「ふんっ。魔者の中には、自由自在に姿を変えられる種族がいることくらい、私達だって知ってるんですよ! ほら図星でしょう!?」

 魔者と決めつけられた久住には、取り付く島さえ残されていなかった。

 賢者はスタタタッ、と身を低くして久住から距離を取ると、背中のホルダーに括りつけていた縄を解き、分厚い本を開いて構えた。久住にはその本で何をする気かは想像もつかなかったが、怪しい雲行きになっていることだけはたしかだと思った。

「よりによって私のクラスメートに、く、久住くんに擬態したこと、後悔せしめよっ!」

 賢者が聞いたこともない言葉を発した次の瞬間、周りの空気がバチバチと電気的な音を放ちだし、轟くような雷鳴が晴天の丘に響き渡った。

「懺悔の時間を、とくと味わうがいいのですっ!」

 賢者がバッと腕を振る。目もくらむような輝きと共に、平穏な夏を切り裂く一際大きな雷鳴。青白い雷光が具現化し、すさまじいスピードでジグザグに宙を駆けてくる。

 そんなもの、避けられるはずもなく。

「うわわわわわわ、ぎゃあああああああぁぁぁぁーっ!!」

 雷は直撃した。全身が硬直し、痺れ、崩れ落ちる久住。人知を超えたパワーはさらに久住を中心に拡散し、その衝撃波で散った玄関の扉やら下駄箱やらの断末魔は爆音に飲み込まれ、久住家は渦巻く黒煙に覆われた。家の奥でピュイピュイと火災報知器が騒ぐのを聞きながら、久住はゆっくりと気が遠く――

 ならなかった。

 煙が晴れると、久住はむくりと起き上がり、それからけほっと咳をした。

 見た限り、無傷だった。

「外、した? そんな、そんなバカな!」

 賢者の悲痛な声が聞こえた。久住はなんとか取り留めたらしい命で訴えた。

「お、落ち着け! まず落ち着いて! ほら、素数を数えるのとか有名でしょ――」

「うるさいうるさいうるさいです! 今度こそ、私が久住くんを救うんです!」

 むなしく一蹴。息つく間もなく再び雷が炸裂した。

「うぎゃぁぁああああああぁぁ!!」

 輝かしい閃光が玄関に満ちる。黒煙が廊下をすすだらけにする。今度こそ、間違いなく直撃だと自分でも感じる。なのに、

「げほっ、げほっ、……け、けにゃ――けんじゃ、さん、話を……」

 もくもくと立ち込める煙が晴れると、久住はやっぱり、無傷なのだった。

「そんな……、そんなバカな……」

 そのセリフは二度目だったが、今度の言葉には生気がなかった。

「げほ、だ……、だから、俺の、話を……」

 久住がふらふらと一歩近づくと、賢者は二歩も三歩も後ずさり、裾を踏んだわけでもないのに転びそうになる。賢者はその拍子に分厚い本を落としてしまっていたが、それを拾うための数歩さえ惜しんでいるようだった。

「……くぅっ! この勝負、ひとまず預けます!」

 賢者は歯を食いしばりながら懐を探り、野球ボール大の玉を二、三個取り出したかと思うと、惜しげもなく地面に叩きつけた。

 とびきり強力な閃光と煙幕が治まる頃には、賢者の姿は跡形もなく消えていた。しかし、ポツンと残された分厚い本は、彼女の存在が白昼夢でなかったことを物語っていた。

 とりあえず邪魔な本を拾いに行く久住が、メチャクチャの玄関とクシャクシャにへたりこんだ紙袋も白昼夢ではないと認識するのは、時間の問題であった。

  

 夕方、橙色に染まる久住家の居間には二つの骸が転がっていた。

 一つは、墓標のように置かれたベコベコの箱の前に横たわって動かない。もう一つは斜めのちゃぶ台に突っ伏し、やっぱり動かない。前者は精神的に、後者は肉体的に、どうしようもないほどボロボロだった。

 扇風機は、そんな二人を元気付けようと、健気に首を振り続けていた。

「ねえ」

 居候の骸が喋った。家主の骸は、どうにか反応した。

「今日、出掛けてきたの」

「……人間の姿だからって勝手に出歩くな。誓文に追加しとくかんな」

「む……分かったわよ。にしても、飛べないと疲れるわね……。足が酷く痛くて重いわ」

「華奢な悪魔だなおい。湿布でも貼っとけ。カラーボックス脇の救急箱」

 居候はのそのそと這って救急箱を開けた。

「しっぷって、この四角くて白くて薄っぺらいやつ?」

「そうそれ」

 居候は湿布をペタペタと足に押しやるが、表面のビニールを剥がしていない。

「貼れない」

「じゃあ知らん」

 湿布は放り出された。

 沈黙が訪れた。どこか近くでセミが鳴き始めた。

 しばらくして喋ったのは、再び居候だった。

「今日、デンワがあってね。ヨーイチの妹をユーカイしたって」

「悪魔もちゃんと電話に出れんだな。……んで?」

「公園にこいって言われたから行ったわ。そしたらおじさんがいて、色んなところに連れてってもらったのよ。おいしいものも食べさせてくれたし、へへ、よかったわ」

「人間界のいい思い出になったじゃないか」

「ねえ! 正体がバレなかったかー、とか、妹はどうしたー、とか聞かないの!?」

「そのおじさんもYUSYAの一員なんだし、こうして帰ってきたからにはバレなかったってことだろ。妹が誘拐なんてのも嘘っぱちだしな」

「なんで全部知ってるのよ」

「こっちも色々あったんだよ」

「どんな?」

「……YUSYAの、賢者ってヤツがきた。だから追い返した」

「おっどろきね。『他者強化』なしでよく戦えたじゃない。どんなヤツだったの?」

「戦っちゃいないさ。同じクラスの女の子だったんだから――そうか、だから魔者のことがバレてたのか――あぁー、あの時ノートが取り上げられなきゃなぁ……」

 家主は自分自身に語りかけるように言った。居候はどこか不機嫌そうだった。

「で、私が囮役で頑張ってる間、アンタは女の子とイチャついてたわけ?」

「………………あぁ。これからも、しつこくイチャつきに来るかもな」

 家主は丸くなり、身震いした。居候は呆れ果てたように肩をすくめたが、一瞬、震える家主の背中に向けてベーっと舌を出したのを扇風機は見逃さなかった。

「ったく、マジで面倒なことに……。――あ、そういえばまだ言ってなかったな」

「え? 何をよ?」

「いやほら、おかえり、ってさ」

 居候はたじろいだ。

「……え? ……え?」

「なんだよ、俺ん家じゃただいまも言えないってか? もはや家として扱わないってか?」

「そ、そんなことないわよ。……じゃあ、言うわよ!」

 居候は無駄に咳払いし、気まずくなるほど間を置いて、

「……た、ただいま」

「……おう」

 ここで断続的に続いていた会話が途切れ、二人は複雑そうな顔をした。

 やがて喋ったのは、今度は家主の方だった。

「なぁ……。今、ワームホールからなんか聞こえなかったか?」

 居候はコタツ穴を覗き込んでしばし静止したが、首を振った。

「気のせいでしょ」

 その後二人は「玄関どうすんの?」「とりあえずビニールシート」「お風呂沸いてる?」「もうすぐ沸く」「今日はパンツ洗濯しといて」「替えは?」「無いから早く乾かして」「嘘でもあるって言えよ」、などと悪魔対人間とは思えない会話を続け、居候のお腹がぐぅ~っと音を放つ頃には、彼方の山の頭上に一番星が輝き始めていた。

「今日の献立は? ……また水とか言ったら強打するわよ?」

「カップラーメンだよ。新品レンジも結局オシャカったからな……グスン」

「お昼にヨーイチが独り占めしたヤツね! それがついにこの手に! ぐふふ!」

「聞こえの悪い言い方すんなよ自業自得だろ! ……ってか随分嬉しそうだな」

「そりゃそうよ。魔界にもカップラーメンあるけど、食べるのは初めてなの!」

「お前……、その一言で俺の人生のすべてを否定したぞ」

 二人は情緒的な夜の帳には目もくれず、花より団子でキッチンに向かっていく。

 ――あーん、またブチョーに叱られたー!

 甲高い声が微かに、しかし確実に聞こえてきたのはまさにその時だった。

 家主と居候は顔を見合わせ、声にならない声で唸りあった。


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