勇者、襲来
フロア1.勇者、襲来
こういうのはどうだろうか。
――掘りゴタツの底から現れたヤツは異世界の住人。それなら怪物と呼ぶに相応しい風貌にも納得がいく。ヤツは己の世界に飽き足らず、破壊と支配を求めてついに次元の壁を越えた。そして辿り着いたのが我が家の掘りゴタツで、やがて、この世界を侵略しようと動き出す――
「……まさか、な」
久住は頭頂部から突き出たアイデンティティー、一対の癖毛を引っ張った。恐らくこれを見てのインスピレーションだろうが、エロバカマキリ(エロ・バカ・カマキリの集合体と思われる)って悪口はちょっとショックである。なんか、リアルにいそうである。
急に熱が冷めて、久住はシャーペンを手放した。
異世界? 怪物? ノートにまとめてはみたものの、バカらしい。寝ぼけてカラーボックスに頭をぶつけただけな気がしてきた。なにせ今朝はあの女の子に会わなかったし、怪奇音でノイローゼ気味だったわけだし、今だってノートが宙に浮かんで見えるし――
「アイテッ!」
空中でくるりと丸まった久住のノートは、あろうことか主人の頭に牙を剥いた。
目を白黒させながら、久住はやっとノートが何者かに握られていることを知った。
だらしなく着崩した白衣、無造作に伸びた茶色の髪、久住達一年四組の担任であり物理を受け持つ教諭、通称「ハンサム理科系」の赤縁メガネが光っていた。そんな格好で教員が務まるか、と消しゴムのカスを投げつけてやりたいのは山々だが、全校女子からの支持率が絶大なので、男子生徒は総スカンを恐れて悪口も言えずに悶々していた。
「くーずーみー。ありがたーい俺の話の最中だってのに、大胆不敵な奴だなぁ。え? 明日からの夏休み、お前だけ特別に登校スケジュールを組んでやってもいいぞ」
クラス中がどっと笑った。久住は叩かれた頭を掻きながら肩をすぼめた。
「デカいタンコブまで作りやがって。ミスター生真面目がケンカなんて似合わんぞ?」
「遅刻までする始末だしね……。これじゃ、今日の天気は大荒れかなー」
「これが世界の終焉の予兆だとは、我々は夢にも思わないのだった……」
授業が寸断され、外野がガヤガヤとうるさくなる。そんな教室をなだめるように、ハンサムはゴホンゴホンと空咳を打った。久住は、好きで話を聞き流したり、タンコブ作ったりしてるわけじゃないやい、という目をした。
――それがいけなかった。
「熱心に何か書いてたな? 今日は特に板書はしていないはずだが?」
反抗的な目が癪に障ったのか、ハンサムが丸めていたノートを戻し始めたのである。
顔面が一気に熱くなった。
「あぁっ! いやそれは、それだけは勘弁してくださいっ!」
椅子をはね飛ばして立ち、藁をも掴むような勢いで腕を伸ばす。が、あえなく空振りに終わった。しかも勢い余って転倒する始末。ハンサムは一人でコントをする久住には目もくれず、ひょいっと頭上に掲げたノートをペラペラ捲り始めた。
「先生っ! プライバシーの、人権の侵害だ! これはひどい!」
「ならば俺は、授業放棄は公務執行妨害だと宣言しよう。えーと何々、『まとめ、ヤツは掘りゴタツの底から出現、風貌は明らかに人間ではない。正体は異世界の住人……』」
そこまで朗読してハンサムは口ごもった。
ふと気が付けば、あれだけ騒がしかった教室は驚くほど静粛である。
ゆっくり見渡すと、クラスメートがなんだか気の毒そうな目でこっちを見ていた。
「あー、オホン! なんだ、そのー、えー、そうだなー」
複雑に淀んだ空気にさすがのハンサムも戸惑っている。あー、とか、えー、とか、繋ぎの言葉で引っ張って引っ張って、最後に一発逆転のフォローを思いついたらしい。おもむろに赤縁メガネの奥の目をニコリと細め、呆然とする久住の肩を叩いた。
「久住お前……、作家志望だったんだな」
――テラプロット!
語尾に「w」が連打されそうな言い方で誰かが叫んだおかげで、一年四組の教室は再び笑いの渦に包まれた。
「ルートシグマ! 昼食はハンバーガー、駅前ゲーセン、ボーリングの順だ」
「ゲーセン横の喫茶チェーン店は本日オープン! 確実に女の子が盛りだくさん!」
「最新鋭のプリクラに誘って、ボーリングにしゃれ込むぜー、超しゃれ込むぜー!」
「「「イエス! サマーバケィションイエス!!!」」」
高校生になっても、夏休みを迎えるテンションだけは色褪せない。てんやわんやの騒ぎをしながら、男子のグループが立ちこぎで自転車をすっ飛ばしていく。先頭集団に遅れた顔なじみの数人が、「作家志望も一緒にどうだ?」と声を掛けてきたが、久住は首を横に振った。「また今度新作ゲー語り合おうぜ」とか言って、出遅れ班もギアを上げていった。
久住の生活は、両親からの仕送りで成り立っている。が、往々にして趣味がエスカレートしだす高校生にとって、それは決して青春を謳歌できる額面ではない。特に久住は「生活費とゲーム経費の等価交換で真理を見た」と揶揄されるほどゲームに大切なものを捧げており、学業優先だかなんだかで一年生のアルバイトが禁止されているせいもあって、ある種の倹約家として有名だった。だから友人達も挨拶代わりに誘うだけで、いちいち断る理由は聞かないのだ。
だが、今日の久住は、少し違う。
行けないのではない。帰らなければならないのである。
久住の足取りは重い。汗で背中に張り付くワイシャツをはがしながら、これで何度目か、ため息を吐く。頭の中は非科学的第三種接近遭遇のことでいっぱいだった。
寝ぼけていただけ? ――アホか! 久住は楽天的に考えていた自分を叱咤した。
久住は今朝、遅刻しているのである。目覚めた時点で完璧に遅刻していたのだ。たしかに女の子には会わなかった。が、久住は女の子を探してはいないのだ。どこかに潜伏していた可能性は、残念ながらゼロではない。
もしも彼女が本当に存在したら。そんでもってそのことが公になったりしたら――想像力豊かな久住は身震いする。シャレにならない。テレビの特番もほっとかないエピソードである。いっそただの幽霊物件であってくれとさえ思う。
久住は自転車を押しながら呻いた。
「全部夢ならいいのに。ていうか、夢であってくれ……」
「――夢が、どうかしましたか?」
不意に背後から女の子の声。
久住は立ち止まる。嫌な予感がする……。
「いや別に……。ちょっと考え事をば……。アハハハ」
ぎこちなく振り返る久住の予感は、的中していた。
そこにいたのは、ふさふさセミロングの栗色の髪と、天使のような笑顔が愛らしい一年四組のマスコット。小学生と見まごう小柄さであるにもかかわらず、男子も女子も唸らせるバストを持つ、天より二物を与えられし少女。久住と同じ情報通信科所属。一年四組。出席番号三十七番。水上研耶その人だった。
「……やっぱり研耶さんか」
「久住くん、いい加減、研耶じゃなくて『けにゃ』って呼んでくださいよう!」
むぷぅ。頬を膨らませながら研耶がズンズン歩み寄ってくる。
「研耶って名前、『男の娘』みたいって周りから言われてイヤなんです。研耶が女の名前でなんで悪いんだよ! 私は女だよ! ってな感じですよ」
多分、分かる人ならこの時点でシンパシーが通じるだろう。水上研耶の趣味は、ハッキリ言って濃い。しかし久住はちょくちょくネタに付いていけない半端オタクなので、どう接したらいいか分からなくなる。絡みにくい、というやつだ。なのに、何が面白いのか、彼女は事あるごとに久住の日常に一枚噛もうとやってくるのである。
「けにゃさん、俺、悪いけど今日は色々あってさ、急ぐんだ。……んじゃ」
早速「けにゃ」と呼んでご機嫌を取り、見逃してもらおうという魂胆だった。
だが、自転車を押して脇を通り抜けようかという瞬間、研耶は囁いた。
「――テラプロット」
やはりコイツの仕業だったかと久住は思った。
急所を射抜かれ、見返り美人のような格好でしばし立ちすくむ久住の自転車の荷台に、研耶はなんとはなしに飛び乗った。その拍子に短めのスカートが危うい位置まで捲れ上がり、久住は複雑な気持ちになる。
必死に空を見上げて「今日はいい天気だなぁ」を連発する久住の気も知らず、研耶はぷらぷらと無防備に足を遊ばせながら言った。
「いつもいつも至極真面目な久住君が遅刻。オマケに授業は上の空」
「それは、さっき言ったように色々あるせいで――」
研耶はサッと手を翳して久住を制し、言った。
「皆まで言わなくても分かります――作品の締め切りが迫っているんですね?」
全然分かってなかった。研耶はトコトン赤くなる久住の傷口に容赦なく塩を塗りたくる。
「どういうお話なんでしょうか?」研耶は真ん丸い目を輝かせ、ぽんぽんと跳ねて久住を急かす。「ファンタジー? ミステリ? あ、SFです?」
しいて言えばノンフィクションなのだが、
「……ファンタジーラブコメ」
久住は適当に話を見繕った。信じてもらえるような出来事ではないし、信じられても困る。そもそも、久住だってまだ事の全貌を把握できていないのだ。
「なるほど~、王道ですね。……では、あらすじだけでもいいので本編も――」
「却下」
「そんな~ニベもなく……、むぅ~」
顎に手を当て一瞬考え込んだ後、やおら研耶はよいしょと荷台から飛び降りた。
「分かりました。シャイな久住くんの素敵な趣味を共有できただけでよしとします。あ、でも完成した暁には、真っ先に教えてくださいよ?」
妙に引き際がいいなと思いつつも、研耶の気が変わらないうちに自転車に乗る。いつも無粋な悪役のように切り込んでくる研耶なのだが、今日は奇跡的に久住の心が通じたのだろうか。
「お話してくれてありがとうございましたー! また今度ですーっ!」
後ろに大きく手を振り上げながらお辞儀する研耶。そういうフリをされると、ハイタッチでパーフェクトコミュニケーションしたくなるのがゲーマー久住なのだが、ここはその衝動をぐっと堪えつつ、
「んじゃ、よい夏休みを」
久住は勢いよく立ちこぎスタート。小高い山のような丘の上の我が家を目指し、風を切ってぐんぐん走る。
「……ふふ、また今度、です」
だから久住には、見送る研耶が残した二度目のつぶやきは聞こえなかった。
郊外の丘の上に一軒ポツンと建つ久住家への道のりは単純であり、過酷である。一本道だが急傾斜の坂道の前には高校生必携の文明の利器、「自転車」も足手まといな相棒に成り下がる。家の手前まで一切手心のない角度のせいで休憩もままならない。
そんなむごい家路を、なんとか今日も久住は踏破した。卒業する頃にはアスリートみたいな太ももになってるんじゃないかという懸念を、とめどない汗と一緒にぐしぐし拭い、自転車を適当な場所に停め、自宅の影で小休止。大げさに深呼吸して、覚悟を決めた。
玄関に立つ。自分の家なのに、まるで魔王の城にでも入る気分だった。なんとなく禍々しいオーラを感じるのは、気のせいだと思いたい……。
久住は武器にも盾にもできるよう学生カバンを構え、鍵を開けた。いざ参る。
玄関、真っ直ぐ伸びる廊下――クリア。隠れられそうな場所は特にない。すぐ右手の階段、及び二階は後回しにするとして、
「……やっぱ、最優先はココだよな」
スパイのように壁に張り付き、久住は居間への扉をわずかに開けた。
中をうかがう。
……誰もいなかった。そこは、すっきりと整ったいつもの居間だった。
久住はほっとして居間に入った。通りがかりにピッと一発、足の指で器用に扇風機のスイッチを入れ、ワイシャツの胸元をバサバサ扇ぎつつ窓を解放して網戸に――
したところで、ドサリ。久住の手から夏休みの宿題でずっしり重いカバンが滑り落ちた。
いつもの居間? そんなバカな。ちゃぶ台の燃えカスはどうした? 割れた蛍光灯の破片は? 散らかっているはずのカラーボックスは? 掃除した覚えはないんだぞ!
久住が立ちすくんだその時、ガラガラガラ! ダイニングとを仕切るガラス戸がけたたましい音を上げて開け放たれ、一人の女の子がすっ飛んできた。
「暑い暑い暑い暑いーッ! 遅いわよこのバカああぁーッ!」
女の子はもの凄い形相で叫びながら、広げた腕をぐるんぐるんと回し、
「お、おおお前はっ! ききき昨日の女の――ごぅんっ!」
強烈なラリアットを無抵抗な久住の喉元にクリーンヒットさせた。
容赦なく追撃。高々と飛び上がり、畳の上でのた打ち回る久住目掛けてマウントポジション。すかさずガシッと首を締め上げる。「ふーっふーっ」と息を荒げてはいるが、その首絞めはまったく強力である。
「し、正直に言いなさいよ! ……アンタ、私のこと、喋ってないでしょうね!?」
滝のように女の子の汗が顔面に降り注ぐ中、それらを弾くように久住は首を振った。
「本当に?」
久住は頷く。だんだん、顔が冷たくなってきた。
「怪しいわね……」
久住は弱弱しく首を振った。……あぁ、一面のお花畑が、そよ風に揺れている。
「……まぁいいわ」
久住がいよいよ白目を剥き始めると、女の子はようやく久住から腰を上げ、ぱんぱんと埃を払うように手を叩いた。
「もし喋ってたら、祟って祟って祟りまくって、怖くて夜中トイレに行けなくなって、アンタ毎日おねしょしてたところよ。命拾いしたわね」
そんな長期的なスパンのいやがらせなら、いっそ祟り殺してほしいと久住は思った。
というか喋ってなくても結構危うかったのだが、その辺りはどうなんだろうか。
酸欠でくらくらする頭をやっともたげると、女の子は扇風機の風に気付いてすがりつき、のん気に「あ~あ~」言っていた。
そんな彼女を改めて見た久住の感想は、質素な格好だな、だった。
召し物は薄っぺらな上によれよれの、色褪せた黒いキャミソールワンピースただ一枚。大胆に肩甲骨を見せるデザインは涼しげだが、いくら真夏でもこれ一枚というのはやりすぎだ。頭の両側に真っ赤なリボンを結わえているが、もっと他の部分に気を使ってもらいたい。ソックスは履いていた方が(個人的には)いいに決まっているし、よれたワンピースの隙間からチラチラと……、その、胸元が……。固定する必要がないボリュームだからって、何かしら用意するべきではないだろうか。下着というヤツを。
しかし、残念さを前面に押し出したファッションとはうって変わって、ルックス面は逸材だった。腰まで伸びた濃紫の髪は澄んだ夜空のように流麗で、金色の瞳がまぶしい顔はおめかしの必要がないとさえ思う。胸の辺りこそ東尋坊よろしくな断崖絶壁だが、きめ細かな肌の色艶や、いかにも女の子っぽい久住より一回り小さな背丈。絶妙なバランスですらりと伸びた手足。どれも一級で、マイナス分のポイントを補って余りある。
久住はあれこれ批評しながら、扇風機の風に目を細める女の子を見つめていたが、
「……あれ?」
やがて重要なことを思い出した。
久住は波風を立てないよう慎重に、手をパタつかせたり、頭の横にグーを作ったりした。
「ねぇ君、気のせいだと思うけど、昨日はなんていうか、特別なパーツがあっ――ヒィッ!」
勝気そうな角度の眉がピクッと動いた。彼女の鋭利な視線がグサリとくる。
久住は反射的に亀のように縮こまって守りの姿勢を取った。が、女の子は再び暴れだすようなことはなく、予想に反して静かに真っ赤なリボンを解き始めた。
「……アンタの言うパーツって、これでしょ?」
次の瞬間、ズズズ、バサリ。頭からは見覚えのある大きく立派な羊の角が、背中からは骨ばったコウモリの翼が突き出した。昨日は気付かなかったが、先っぽが矢印型になった二股の黒い尻尾まであるときた。すいすい動く尻尾のおかげでワンピースの裾は快調に持ち上がり、後ろから見たら間違いなく丸見えだ。
女の子は解いたリボンを左右に揺らした。
「付けると人間そっくりになれるアイテムの一つ、『パンドラリボン』よ」
窒息しそうなほどの沈黙の果てに、久住はやっとの思いで切り出した。
「人間そっくりってことはだよ? ようするに、つまり、人間ではないと……?」
「そ。見ての通り私は人間じゃないわ。魔界出身の魔者よ。アンタは?」
「……お、俺? 俺は陽一。人間の、久住陽一。えーっと、趣味はゲーム類全般」
「私はリリック。由緒正しきローゼンタール家現当主、ロックロット・ローゼンタールの一人娘、上級悪魔のリリクロット・ローゼンタールよ。趣味は食事と睡眠」
魔界……? 魔者……? 上級悪魔……? 趣味が食事と睡眠……?
なんてこった。久住は頭を抱えた。しかし、纏わり付く三十七度超の熱気と滴る汗の感覚は、久住に「夢」という逃避を許さない。これは現実なんだ。負けるな俺。
異世界は、ある。悪魔は、いる。……この際、それならそれでいい――久住の順応力は賞賛に値する――問題は、次の瞬間自分の命があるかないかだ。
「あのー、リリックさん?」
「なによ」
「さっきから、俺に正体を見られたことを悔やんでいるような口ぶりなんですが……?」
「悔しくて死にそう。ていうか殺したい」
「アハハ……。じゃあこの場合、もれなく俺、口封じされちゃったりして……?」
リリックは不機嫌そうに、指先からボッ、ボッ、と火力改造したライターのような火柱を上げ始めた。そのままずいっと近づき、金色の瞳で久住を見つめる。磨き上げられた鏡のようなその瞳には、イヤな汗でびっしょりの久住の姿が客観的に映っている――
「……別に。秘密にしてくれれば何もしないわよ」
だが、リリックはさじを投げたように言っただけで、久住を丸焦げにはしなかった。
見せ付けるようにため息をつき、リリックは真っ赤なリボンを髪に結んだ。角が、翼が、尻尾が、まるで手品のようにフッと消え去り、彼女はゆっくりと語り始めた。
ではまとめよう。
「……つまり、この『ワームホール』は魔界と人間界を繋ぐトンネルみたいなもんで、お前はこれを通ってやってきた、ってことなんだな?」
久住はコタツ穴に近づくと、場当たり的に被せたベニヤ板を取り払った。空気が黒くうねうねしているような、何ヶ月も掃除しなかった浴室の排水口のような、とにかく気持ちの悪い空間が広がっている。
「そういうことよ」
久住はなるべくワームホールを見ないようにベニヤを元に戻し、続けた。
「……なんで? なんのために?」
「まだ分かんないわ」
リリックは即答した。久住はパチクリとまばたきした。
「突然お父様に呼ばれて、『人間に正体を知られていいのは一人だけだぞ』、って言われて、そしたら急に気が遠くなって、気付いたらこの家の底にいたわけよ」
「は? なんだそれ納得できるか! 居間を小破させられた俺の身にもなれよ!」
「んもう、うっさいわねー。『まだ』って言ったでしょ! きっとこの後分かるわよ」
リリックはイライラしながらワンピースの胸元から真っ白い封筒を取り出し、久住に突きつけた。どう過大評価しても何かを挟めるだけのボリュームはないのだが、久住はどこにしまっていたのかは考えないことにした。気遣いのできる男である。
「これを、俺に開けろって?」
久住は危険物を扱うように封筒をつまみ上げた。
「そ。目が覚めたら服の中に入ってたの」
封筒には丁寧に封蝋が施されていた。オモテ面には、「人間と共に読め ロックロットより」、と達筆な文字が書かれている。
「……なんで日本語?」
「ニホンゴ? あぁ、人間界ではそう呼ぶらしいわね。魔界の共通言語の一つなのよ」
イメージ狂うなぁと思いながら久住は封を切る。三つ折りの便箋が数枚、ストンと手のひらに落ちてきた。コウモリを模した透かしが入った小粋な便箋だった。
二人はなんとなく並んで正座し、畳に置いた便箋を読み始めた。
――我が娘、リリックよ。この手紙が読まれているということは、どうやら人間界でひと段落したようだな。お前が無事で何よりだ――
そんな月並みな冒頭から始まり、手紙はこう続いた。
――お前は知っているだろうか? 我がローゼンタール家には、古くから代々伝わる、とある『しきたり』があるということを――
ふと横を見ると、リリックは口をへの字にしていた。知っていなかったらしい。
しかし容赦なく手紙は続く。
――そのしきたりとは、十七の歳を迎えた者を、人間界へ放り出すというものだ。砂時計の使い魔を預けてある。その砂がすべて落ちるまでが期限だ――
――制約は二つ。一つは、成し遂げるまで魔界に帰れないこと。もう一つは事前に通告した通り、正体を知られていい人間は一人だけということだ。特に二つ目の制約は、破れば二度とローゼンタールの敷居が跨げなくなる。しかし案ずることはない。先祖方も、無論この私も経験し、乗り越えた試練だ。しからば当然、お前も達成しうるだろう――
――人間の方、こちらの都合に巻き込んですまないが、あえて言おう。どうか娘を頼む。
そして、「幸運を祈る。愛しのリリックへ」という結びで便箋の一枚目は終わった。
二人は、ポカーンと仲良く口を開けていた。
ちなみに二枚目以降は、一行に一回は「かわいい」という形容詞で飾られた、食っちゃ寝を繰り返すリリックの私生活が延々と綴られているだけだった。親バカどころの騒ぎではない。便箋は真っ赤になったリリックにひったくられ、粉々に引き裂かれてしまった。
……はて。結局俺は、リリックの父親に何を期待されたのだろう?
突飛すぎて、久住は内容をいまいち把握できていないのだった。放心気味に、あたかもまだ便箋がそこにあるかのように畳を見つめていると、
ググゥゥ~~~ッ。
なんとも品のない腹の虫が鳴り響いた。久住のではないとくれば、犯人は推理するまでもない。久住はじっとりと蔑むような目でリリックを見る。
「はー、お腹空いちゃったわ」
しかしリリックには、乙女としての神経が欠如しているらしかった。
そればかりか、人を払うように手を動かし、「大至急」とか言いくさっている。
「……へいへい、分かりましたよお嬢様」
ひとまず便箋の件は忘れて、久住は異界の客人をもてなすことにした。バラバラになった紙屑より、すぐ目の前の火柱を使える悪魔のご機嫌を重要視すべきだという判断は、決して間違いではないはずだ。
ダイニングへ向かった久住は、小さな冷蔵庫からマーガリンとブルーベリージャムを出し、脇のラックから食パンの袋を手に取った。お昼時なので、自分の分と合わせてちょうど残っていた二枚をそのままトースターに押し込む。小うるさい姑のようにリリックが催促を投げつけてきた頃合で、チン、と気持ちよく焼きあがった。
「ほれ。お前の分」
マーガリンとジャムをケチくさく塗り、久住は一枚を自分の口へ、もう一枚を居間のリリックへ届けた。しまりなく口を開けて待ちわびていたリリックは、まるで卒業証書のように深々とトーストを受け取った。
どうやらお気に召したらしい。カリッ、と一口かじったリリックは、「ほ~っ」という顔をして、それから文字通り、「ぺろっ」とトーストを平らげた。
指先に残ったパン耳のカケラまで丹念に舐め取りながら、どこか期待を込めた様子でリリックは言った。
「さて、おやつも食べたことだしお昼寝かしらね。私の部屋はどこ?」
ゴクン。遅れて食べ終えた久住は、おやつ発言へのツッコミも忘れて、……ん? と思った。今なんつった?
困惑づらの久住を見たリリックは、鈍いわねとでも言いたげだった。
「人間界で暮らすしきたりの話は知ってるでしょ?」
「まあ、お前と一緒に便箋見たし、大体はな。……だから何?」
「だから、ここに住むのよ。私と一つ屋根の下なんて、アンタには勿体ない幸運よね」
知り合ったばかりの女の子と、突然始まる二人暮し。甘酸っぱいキャッチフレーズである。ちょっとドキドキしちゃう話である。妄想しがちな年頃の男子必殺の展開である。
――相手が人間の女の子の場合に限って。
「なめんなああああぁぁぁぁ――――――――――――――っ!」
久住は持っていた食パンの空き袋を握りつぶし、ミサイルのような勢いで吼えた。
「うわああっ! イタっ!」
リリックは突然の咆哮に驚き、仰け反ってドテンと尻餅をついた。そのはずみに見事なM字開脚を披露してしまい、リリックは大慌てでワンピースの裾を押さえた。
青と白のストライプという珍しい柄を前頭葉に焼き付けるだけの間を置いてから、久住は激昂した。
「泊まりを通り越して住み着く気かよ! なんだって俺の家に!」
リリックはさもありなん、という顔でファサッと濃紫の髪を払った。
「だーかーらー、私が正体を知られていい人間は一人だけなの。アンタに知られちゃった以上、アンタに協力してもらうしかないでしょ」
「ちょっと一休みするだけっていうなら考えなくもないよ」
リリックがパンパンと手を鳴らした。誰かを呼びつけるその仕草は板についていた。
呼び出しに応じたのは、アンティークなデザインの大きな砂時計だった。小さなコウモリの羽で勝手に宙を動き回らなければ、インテリアとして値打ちがあるかもしれない。
「もちろんお父様の約束通り、この砂が落ちきるまでよ」
紹介にあがった羽付き砂時計はご主人様とは違って丁寧で、ぺこりと小さく会釈したようにさえ見えた。が、肝心の砂は非情にも数秒に一回、それもほんのちょっぴりしか落ちていない。一時間かそこらで落ち切るペースには到底思えず、あの砂さえ落ちれば……、という久住の儚い期待は、本当に儚く消えてしまった。
「もう帰っていいわよ」とリリックが言うと、砂時計の周囲がぐにゃりと歪んだ。伸ばしたゴムが元通りになるように景色の歪みが戻ると、そこに砂時計の姿はなかった。
「ね?」
久住は怒りに任せて、ぐちゃぐちゃにした食パンの袋をゴミ箱にダンクした。
「『ね?』、じゃねーよ! 何十日居座る気だよ! 俺んちは民宿じゃねーんだよ! どうしたらそんな図々しいことが言えるようになるのか教えてくれ!」
「だって、人間っていうのは売られた恩は必ず買って、そんで返す種族なんでしょ?」
「人間の素晴らしさをケンカの売買みたく解釈すんな! っていうか俺、住み込みを許可しちゃうような恩を売られた記憶全然ねーんだけど!?」
「あのねぇ! 気絶したアンタを介抱したのはこの私よ? 倒れた本棚、割れた照明、木の屑を片付けたのもこの私! ……そりゃ、朝にはキッチンの隅で力尽きちゃったけど……」
どうりで今朝は姿が見えなかったわけだ。
「……まぁ、イイトコのお嬢様が、よく看病とか掃除とかしてくれたとは思うけど……」
「言っとくけど、やったのは使い魔の砂時計よ。そんなの当たり前でしょ」
「ほわっ!?」
「でも、結局のとこ私の力だし、恩は恩よ。タダより高いものはない、でしょ?」
なさすぎだった。
「じゃあ一つ聞く。誰のせいで気絶したと思ってんだ? だ、れ、の、せ、い、だ?」
リリックは肩をすくめ、首を傾げた。久住のボルテージは急上昇。
「お前だお前! マッチポンプで開き直ってんじゃねーよ! 散々人をおちょくりやがって何様のつもりだ! リリック様だってか? 俺は久住様だぞこのすっとこどっこい!」
ブチン! リリックのこめかみ周辺から大きな音がしたように聞こえたが、あえて気にしないことにする。
「ここは俺の家、俺がルールというわけだ。さっさと帰るか、別の当てを探すんだな」
フッ、とニヒルに決めた久住は、リリックを居間に連れ戻してワームホールを指差した。
「はいそちらの図々しいお嬢様。お帰りの際はお足元に十分ご注意くだ――」
瞬間、火の玉が頬を掠めた。ジューッ、と髪の毛が焦げたにおいが鼻をいじめた。
「ばっ、バッキャロウ! 屋内で火を放つヤツがあるかっ!」
久住は左側だけパーマみたいになった頭で怒鳴った。
だが、慌てて振り返った壁は、くすぶるどころかコゲ一つ見当たらなかった。
久住が小首を傾げると、ぽんと肩が叩かれた。耳元で囁かれた。
「狙った物だけを焼き尽くす呪文、『部分発火球』よ。これから住む家を燃やすなんて、そんな場当たり的な世間知らずじゃないんだから」
リリックは満面の笑顔で久住を見つめていた――片腕に紅蓮の炎を宿しながら。
「分かるでしょ? つまりアンタだけを消し炭にできるってことよ」
「……てことは今のは俺を狙ってたってことじゃねーか! 殺す気か!」
「うっさい! 火傷もしてないでしょ大げさな男ね! さっきのは昨日、私の……、その、へ、変なトコを触ってくれたお礼も兼ねてるのよ!」
「え? ……あぁ、あのカルデラのことか」
ゴウッ!
哀れ、久住の側頭部はシンメトリーでパーマを晒すこととなった。
「さすがにえぐれちゃいないわよ! アンタが変なトコを触らなければ突き飛ばさなかったし、アンタも気絶しなかった。全部が全部私の責任じゃないわけ!」
「でも、床を突き破って蛍光灯とちゃぶ台を粉微塵にしたのはお前の責任なわけ!」
「ぬぬぬぬぬうぅーっ! 何よカマキリのくせに生意気よ!」
「いい加減俺をハリガネムシの宿主代表と一緒にすんな!」
「じゃあその頭の鎌は何よ! えぇ? 寝癖? ぷぷぷ、ダッサー」
「これは癖っ毛だ! 最近のトレンドだよ!」
「だとしてもダサいことに変わりはないわ!」
「あーだ!」
「こーだ!」
コタツ穴を中心にぐるぐる回って二人は睨み合う。リリックがなんとしてでも居座ろうとするように、久住はなんとしてでも追い出したかった。本物の悪魔に住み着かれたら、どんな災厄が降りかかるか分かったもんじゃない。
一瞬の隙も見せまいと、二人が眼光鋭く牽制し合っていたまさにその時、
ピンポーン!
玄関のチャイムだった。魔界にチャイムという文化がないのか、リリックはいささか戸惑っている様子。一方の久住はハッとして窓を閉め、壁掛け時計を気にした。
「今の音、何? ねえ、なんなの?」
時刻は三時半。ワイドショーと刑事ドラマの再放送が終わり、お茶もお菓子もなくなり、ベテラン主婦が重い腰を上げる時間である。回覧板が回ってきたと思ってよい。
そもそも久住の家は辺境すぎて、新聞の勧誘もセールスも来ないのだ。そういう意味では、皮肉にもここはリリックを匿うのに適した環境なのかもしれなかった。
「……一時休戦だ」
「は? 何を悠長なことを言ってるの? これは領土をめぐる戦争なのよ!?」
久住は慌てて唇に人差し指を当て、しーっ。
「いいか? これは人が来た合図だ。正体、バレるわけにはいかないんだろ?」
どうやら利害が一致したようだ。リリックは小さく頷き、半歩下がった。それを見て久住は、「はーい、今出まーす」なんて叫びながら玄関へ急ぐ。
「回覧板ですかー? いつもいつもキツい坂上らせちゃってすみませんねー」
サンダルを手早く履いて扉を開ける。久住は社交的な微笑みで客人を迎えた。
「頼もう」
スーッ、バタン。
ひとまず久住は玄関を閉め、なかったことにした。
ドアノブに手を掛けたまま、久住は冷静な自分を総動員して何を見たのかを思い起こす。
いの一番に目に入ったのは……、胸だった。リリックと比べることさえ憚かれる膨らみは、メロンやスイカといった形容よりも、バーン! とかドーン! とかの擬音が似合う代物だった。それから長い脚。オーバーニーソックス。絶対領域。でもあれはミニスカートというより、単に布を腰に巻いただけって感じだった。で、足元は頑丈そうな革のブーツ。膝下まである長いやつだ。そういえば、手袋も革製だった気がする。
おっと、重要なことを忘れていた。衣装が全体的にピカピカだったのだ。それは金属の光沢に近くて、腰には剣みたいな物もあった気がする。つまり簡単に例えるなら……、
「中世の女剣士、みたいな? なんちて、アハハハ、……は」
最後の「は」で久住は真顔になった。
おかしい。おかしすぎる。こんなクソ暑い日に通気性皆無の鎧装備だなんて、ボイルになりたい変人で間違いない。いや、クソ暑い日でなくても変人で間違いない。
早速災いがやってきやがったと久住は思った。扉越しに尋ねてみる。
「あのー、ウチになんかご用ですか?」
「うむ。この家の調査にやってきたのだ。お邪魔したいのだが、よろしいか?」
よろしくなかった。
「なんでまた、そんな格好で……?」
「あぁ、私はヘルムは被らない主義なんだ」
そういうことではない。
「なんの調査か知りませんが、お引取り下さい。今は色々と立て込んでまして」
「それはできない。市民を守る大切な任務なのだ。我々の話だけでも聞いてもらいたい」
我々とか言うあたりさらに不安である。こんなのがゾロゾロ待っているのだろうか。
「じゃあもし、もしですよ? ここで俺が鍵を閉めちゃった場合は?」
「できれば手荒なことはしたくない。と言っておこう」
ぶっ壊して進入するぞ、と久住には聞こえた。
「少々お待ちを。片付けてきます」
返事も待たずに久住は居間に飛んで帰った。首振りの扇風機を追いかけていたリリックの肩を掴み、必死の形相で訴えた。
「ヤバイよ! 変な業者が! 俺のおうちを取り壊しにきた!」
「ちょちょ、イタイイタイ! どうしたのよ、落ち着きなさいよ」
我を忘れた久住は、ガクンガクンとすごい勢いでリリックを揺すり続ける。
「アイツら破城槌とか投石機とか用意してるんだよ! いや、見かけによらずC4爆弾とか使うかもしんない! お前か? あぁん? お前が呼んだのかああああぁぁぁ!?」
「ちょっ、ちょっ、ちょっ……。いい加減に、しろぉーっ!」
リリックの指先から上がった火柱が鼻先を掠め、久住は強制的に正気に戻された。
「……お前の差し金じゃないのか?」
「正体を隠そうとしてるのに、なんでわざわざ私が呼ぶのよ!」
「そ、それもそうか……。でも、よく分からない連中が調査にきたのは事実なんだ」
リリックは揺すられた拍子にずり落ちたワンピースの肩紐を直しながら、
「じゃあどうすんのよ。私はどうすりゃいいのよ」
久住は一瞬思案を巡らせ、スビッとリリックの鼻先を指差した。
「隠れてろ」
「隠れる? ドコに?」
「ぐにゃりと歪んで消えればいいだろ。ほら、空飛ぶ砂時計が消えたみたいに」
「あれはあの使い魔の能力でしょ。あんな高等な呪文は私にはムリよ」
「使い魔のくせに!? ……まぁ、消えられないなら、ココで静かにしてるしかないな」
「え、ココ? うわぁちょっ、狭あっ! ここって人が入る場所じゃな――」
久住は問答無用で空っぽの押入れにリリックを封印した。コタツ穴のベニヤと窓の戸締りを再確認し、タンスの裏にある予備の折り畳み型ちゃぶ台を広げ、座布団を用意して、来客時以外控えている金食い虫、もといエアコンの電源を入れる。
準備が整い、いざ玄関へ戻ろうという寸前、押入れが喋った。
「言い忘れてたんだけど、人がきてるんなら髪の毛整えた方がいいんじゃないの?」
久住はパーマを押さえながら踵を返し、洗面所へ走った。
「我々はこういうものだ」
言葉と共に出された名刺を皮切りに、部屋の端で新入社員みたいにただ突っ立っていた男達がぞろぞろとちゃぶ台の周囲に集まり、各々の名刺を出し始めた。全部で六枚の名刺が集合すると、男達は満足げにまた端へ戻っていった。彼らもまた甲冑を身に纏っているので、動くたびにいちいちガチャガチャうるさい。
久住は二百歩以上譲って格好に文句をつけるのはやめ、一枚の名刺を取り上げた。
YUSYA第十三支部支部長 兼 機動部隊隊長 プレア・シュバイツァー大尉
久住はチラリと名刺越しに、向かいに座る相手を見た。
末広がりのごとく毛先の跳ねた鮮紅のショートヘアーを引っさげたお姉さんが正座している。猛禽類のように力強い切れ長の眼と、髪色と同じ真紅の宝石が付いた大きなイヤリングが印象的だ。久住より一回り体が大きいせいか、眉間にシワを寄せているせいか、凄まじく威圧的な雰囲気を放っている。
「どうだろう、我々に協力してはもらえないか?」
熱心な眼差しに押し切られて、久住は少し話に付き合うことにした。
「これは、『ゆーしゃ』って読むんですか?」
「うむ。その通りだ」
「……聞いたことないですな」
「だが事実、YUSYAは存在する。我々は日夜、悪逆の徒からこの世界の平和を守るという、とんでもない仕事を行っている」
とんでもないのはあんたたちの頭だよと久住は思った。
「で、そのゆーしゃの皆様方が、のどかな丘の上の一軒家になんの調査ですか?」
ゴゴゴ、という地鳴りのような音と共に辺りが急に冷えてきた。彼女の、プレアのプレッシャーがそうさせるのかと思いきや、男剣士共改め劇団員が、カセットレコーダーとドライアイスで場を盛り上げているだけだった。
「単刀直入に言おう。諜報部から報告があった。『魔者』出現の疑いがある、とな。出現は昨晩の話だそうだ。なんでも、この家が非常に怪しいらしい」
ギクリとした。自ずと割れたままの蛍光灯に目がいく。
「そ、その『まもの』って言うのはどんなやつなんです? 例えば、怪獣みたいな?」
希望と絶望が混じって化学反応寸前みたいな声で久住は聞いた。
「いい質問だ。これを見てくれ」
プレアが指を鳴らすと、劇団員Aが一枚のパネルを掲げ、Bが伸縮式の指し棒を差し出した。「ほんの一例だ」、と言いながら棒を伸ばすと、プレアはパネルをなぞり始めた。
パネルには三つの絵があった。説明によると、一見人間だが、全身がアザのような青紫に染まっているのが『魔界人』。透明な羽を背中に持ち、デフォルメされたように頭でっかちな『悪戯妖精』の隣には、サイズ比較のためか同じ大きさでバスケットボールが描かれている。最後の一つは女の子。だが……、あぁ、それは。そのイラストは――
「――最後に、魔者の中でも比較的上位に位置し、業火と異次元を操るとされる『上級悪魔』だ。大きなコウモリの翼と羊の角が特徴的だな。このような異形の生物が魔者。それが五万といるのが『魔界』なのだ」
プレアが真剣な顔で指し棒を縮める。久住は一瞬押入れに目をやり、そわそわした。
「魔界……、ですか」
再び指が鳴った。今度はCが、ちゃぶ台に「野菜たっぷりドレッシング」のボトルを置いた。久住は二丁目のスーパーの本日の目玉商品だ、と思った。その格好で行ってきたのか? とも思った。
「この世界には我々が暮らす人間界の他にもう一つ、魔界と呼ばれる異世界が存在する。そう、ちょうどこのドレッシングのようにな」
油分と内容物とが分離して二層になっているボトルを示し、プレアは言う。
「通常、隔たれた二つの世界を行き来することはできない。しかし、」
プレアはボトルを握り締めると、ガシャガシャガシャとシェイク――
トン、と再び置かれたドレッシングは、当然ながら融合を果たしていた。おーっ、と劇団員が場外から感嘆を漏らす。そういう演出はいいから。
「このように、刺激が加われば世界が重なり、互いに行き来が可能になるわけだ。そうして次元にトンネルが開いた場所を『ワームホール』という」
久住は思わず底のベニヤ板を足で押さえつけた。
ドレッシングを片付けさせ、プレアが身を乗り出す。
「まとめよう。魔界と行き来するにはワームホールが必要だ。つまり、魔者がいるとなれば、それ即ちワームホールも存在するということになる」
久住は生唾を飲んだ。それこそ誰かさんにテラプロットとか言われそうなプレアの話を久住は信じた。というより、もう大体知っていたというのが正しかった。
「……ほう。今の話で失笑しなかったのは少年が初めてだ」
感心するプレアに「いえいえ」と謙虚に答えるが、うすら返事もいいところである。久住はベニヤ板がズレていないか、押入れに隙間が開いていないか、気が気でない。
「ならば話は早い。大方の魔者は身体能力が高く、呪文と称して炎や雷、果ては記憶や物理法則まで操る輩もいる。到底普通の人間が敵う相手ではない。少年に、延いてはこの街に危害が及ばぬよう、我々は事の真偽をたしかめねばならないのだ」
プレアは意気込んでいた。久住は恐る恐る尋ねる。
「じゃあ、もしもの話、実際この家に魔者がいたり、ワームホールがあったりしたら?」
プレアの目がギラリと光った。
「この家から退去してもらう」
そう言い放ち、プレアの口は閉じた。これ以上言うことはない、といった感じで。
しばし沈黙が流れたのは、久住がタイキョの意味を図りかねているからだった。
「……タイキョってその、つまり、この家から出てけってことですか?」
「無論、そうだが」
「別の、代わりの家を用意してもらえるとか?」
「我々は国家組織ではない。よって補償はできない。命が助かったと思えば安いものだ」
久住はめまいがした。
「……熱心かつ丁寧な説明ありがとうございました。……でも、なんというか、急に調査だの退去だの言われても困るし。YUSYAとか正直、その、胡散臭いっていうか――」
瞬間、プレアは高々と拳を振り上げた。
「胡散臭くなどない! YUSYAは歴とした秘密組織だ!」
バアン! 折り畳み式のちゃぶ台がしなる。自分で秘密組織とか言っちゃっていいのかという当たり前すぎる疑問は、ひっ、という悲鳴と共にのみ込んでしまった。
「栄える悪をその身一つで打ち滅ぼし、見返りも求めずに颯爽と去る。それが勇者! 横文字にしてYUSYA! 誇りあるこの名と組織を愚弄する真似は私が許さん!」
興奮したプレアは片膝を立て、腰に差した剣を一気に抜き放った。
天を突くように、壊れた蛍光灯の下に掲げられたその剣の重厚な輝きは、ダンボールか何かでできた小道具だと思い込んでいた久住の思考回路をたやすくショートさせた。
「支部長、少年が怯えています……」
待機していた劇団員の一人に小声で諭され、プレアはしまったという顔をした。
「……あ、いやすまない。少々取り乱した」
プレアはいそいそと剣を鞘に戻すと、軽く咳払いをして座り直した。一瞬で滝のように汗をかいた久住が、タオル代わりに使っていたそれが座布団だと認識できる程度に落ち着くまで待ってから、プレアは周りの劇団員と円陣を組んで会議を始めた。
――ここはやはり少年を強制的にでも退去させた方がいいと私は思うが、どうだ?
――ダメです支部長。強制退去はワームホールか魔者、どちらかの明確な物証がないと。
――仮に踏み切って、『やっぱ大丈夫でした』では面目どころか支部がつぶれます。
――言っちゃなんですが、そもそも諜報部は信用できませんよ。顔もロクに知りませんしね。
――配った名刺の電話番号がネットで出回ってるらしいですし、どうせまたイタズラですよ。
――諜報部とは名ばかりのお客様相談窓口だ、とか突撃三隊の岡部がこの前皮肉ってました。
こんなしまりのない秘密組織なんぞに人生を狂わされてたまるか――久住はただひたすら祈った。悪魔の隠匿を神に祈る日がくるとは、現実は皮肉である。
久住にとって途方もなく感じた実時間三分を経た時、プレアが渋々立ち上がった。
「……仕方ない。今回は要警戒、ということで我々は撤収する」
久住の頭の中に、「勝訴」と書かれた半紙を持った人が飛び込んできた。
「何か異常があれば、すぐ我々に連絡するように。番号は名刺に――」
ピロロロ! ピロロロ! プレアのセリフを、劇団員Dの携帯電話が遮った。プレアは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「き、貴様ッ! 任務中はマナーモードにしろとあれほど――何? 私に? 貸せっ!」
怯えるDから電話をひったくり、プレアは見えない誰かと会話を始めた。
「私だ。なぜ部下の携帯に……、え? 何度もかけた? 嘘をつくな。私は気付かな……、スマン、忘れた。恐らくロッカーだ。……え? そんなことはどうでもいい? お前、私はこれでも支部長だぞ――何? ……本当か? 奇遇だな。……いやなに、しばらく前に諜報部からも連絡を受けてな、ちょうど調査しているところなのだ。やはり調べておくべきだな」
電話を終えたプレアは、お帰りはこちらになります、と満面の笑みで案内する久住へ歩み寄り、静かに言った。
「事情が変わった。少なくとも調査だけは今すぐにやらせてもらう」
久住はムンクの叫びのような顔をすると、早いとこ帰ろうとしていた劇団員を叱り飛ばすプレアに詰め寄った。
「なんでだよ! さっき要警戒って、我々は撤収するって言ったじゃんか!」
プレアは部下のスマートフォンの扱いに苦戦していたが、どうにか液晶を久住に突きつけた。着信履歴の画面で、最新の履歴は、「技術開発局局長 賢者」となっている。
「YUSYA技術開発局の局長、賢者直々のリークだ。加えてこれが二度目の魔者疑惑通報なのだから、信憑性は高い。もう無視はできない」
リークっておい! なんでみんな知ってんだよ! 賢者って誰だよ! 久住の顔は様々な恐怖で青くなる。
くまなく探せ! プレアの声で劇団員が散る。壁を叩く者もいれば、床に耳を押し付ける者もいる。その流れで一人が押入れに、一人がちゃぶ台に近づいていく。
「ちょちょっ、まてっ! やめろ、勝手に触るなッ!」
久住はちゃぶ台をずらそうとした背中にドロップキックをかまし、続いて押入れの一人をターゲットに助走をつけた。が、突如割って入ったプレアに水面蹴りをくらい、倒れたところを固め技で取り押さえられてしまった。
「暴れるな! もし魔者がいれば少年だけでなく、数多の命が危機に晒されるのだぞ!」
久住は全力でもがいたが、ビクともしなかった。この女、かなりの怪力である。
文字通り手も足も出ない久住をよそに、劇団員が押入れに手を掛ける。
「くそ放せ、放せよ! 勝手に人の家を荒らす勇者があるか!」
「勇者というのは往々にして、民家の物を失敬しても咎められないものなのだ」
「ふざけんな! なんとなく分かっちゃうけどふざけんな!!」
「開けろ」、というプレアの一声で、押入れはあっけなく開いてしまった。
普通に、中からリリックが引っ張り出されてきた。
終わった、と久住は思った。
家を追い出されるということはつまり、敗北だ。どんな理由と言い訳があろうと、聞いてもらえなければ意味がない。別の家を――だなんて寝ぼけたわがままが両親に、というか妹にまかり通るとは思えない。無理ゲーだ。クソゲーだ。せいかつ かえてえ。
あぁ……。希望が、未来が、バスで片道三時間も離れた実家の畑仕事と妹の呪縛で塗り潰されていく……。久住は悔し涙で畳を濡らしながら、鍬を握って地面を耕す覚悟を――
「……少年。あの少女は何者だ?」
遺言のような久住の思考は、プレアの問いで妨げられた。革手袋でリリックを指し示すプレアは、標的の魔者を見つけたとは思えないクレバーな態度だった。
………………もしかして、バレてない?
そう思った矢先だった。
「私はリリックよ」
この悪魔野郎! と怒鳴りつけたかった。せめてそれっぽい偽名考えろ!
久住は取り繕おうとしたが、言葉を選んでいるうちに二人は先に進んでしまった。
「少年とはどういう関係だ?」
「えーっと、わ、私はコイツの、……そう、親戚よ。なんか文句ある?」
あるよ! と久住は思った。苦しすぎるわ! 彼氏に二股の言い訳するギャルか!
「リリック、ガイコクの親戚か。……それにしてもなぜ押入れにいた?」
しかし、おおっと、ガイコクの親戚は華麗にスルーだぁ!
「なぜって、それはその……。か、かくれんぼ? か、かくれんぼ、かくれんぼよ」
久住はもうファンタジスタ二人のプレーについていけず、ただただロスタイムを傍観した。
「ふむ……」
さしものプレアも、三連チャンかくれんぼのキョドりっぷりは不審に思ったか、じーっと値踏みするように上から下までリリックを見つめた。リリックは何を勘違いしたのか、どんなポーズが相応しいかとモデルみたいな動きを模索している。
やがてプレアは一人で頷き、審判の時。今度こそ終わった、と久住は鍬を握って地――
「すまないお嬢さん。我々の早とちりだったようだ」
プレアは快活だった。ほとんど奇跡だった。
もう暴れるなよ、と釘を刺し、プレアは久住を開放した。リリック共々壁際に寄せて座らせると、「まぁ楽にしていてくれ」とキッチンからコップで水を持ってきた。なんか勝手に馴染んでいるが、久住は緊張で喉がカラカラだったのでありがたかった。
「ワームホール、魔者の痕跡、どちらも見逃すな! 者共、かかれ!」
プレアはちゃぶ台の上に立って指揮を執り始めた。それに従って捜索する劇団員達は、誰しもがちゃぶ台の下を気にしているようだったが、プレアが上にいるために言い出せないらしい。しょうがないなぁ、といった感じで別の部屋へ散っていった。
一難去って、また一難。状況は依然崖っぷちであることに変わりない。久住は自然と水が進んだ。飲んでも飲んでも、すぐに口の中が乾いた。
あっという間に水を飲み干し、リリックの分に手を伸ばそうかという時だった。
――ねぇ、どうするのよ。
リリックが耳打ちしてきた。久住はプレアの様子をうかがったが、彼女は時折聞こえる劇団員の「異常なし」報告に夢中で、二人の密談には気付いていない。
――どうするも何も……っていうかお前はもう黙ってろ。頼むから。
――でも、このままじゃワームホールが見つかるのは時間の問題よ?
たしかにそうである。力ずくで追い出すという案もあるにはあるが、バカ力の女隊長含めて六対一。相手は大人でこっちは平凡な高校生、鉄の鎧と薄手の夏制服、剣と丸腰。神風が吹いたってどうにもならない。
そうこうしているうちに、部屋の中が騒がしくなってきた。家中を探し回った劇団員達が帰ってきたのである。結果をまとめ、不服そうにしながらもプレアが降りたところで、待っていましたとばかりにちゃぶ台が話題に上げられた。
時間がない。久住は焦った。しかし、焦れば焦るほど何も考えられない。はやる気持ちとは裏腹に、打開策はどんどん願望的に、抽象的になっていく。「どうにかしなくちゃ」が歪み、崩れ、「どうにかしてくれ」に姿を変えていく……。
突然、肩が叩かれた。犯人は、にまーっと笑いを浮かべたリリックだった。
――私が呪文で追い払ってあげようか?
――バカか。そんなことしたら、せっかく誤魔化せた正体がバレるだろが……。
――心配ないわ。それより契約よ。もし追い払ったら、ここに住ませてくれる?
一瞬悩む。しかし、ちゃぶ台を動かすプレア達は待ってくれない。
久住はリリックの目を見た。彼女は、真っ直ぐ久住を見つめていた。
その目は、信用に値する何かを帯びていた。少なくとも、久住にはそう思えた。
――お嬢様ったって、居候としての身分くらい知ってるよな?
――契約成立ってことね。じゃあほら、立ち上がって。アイツらと戦うのよ。
――ハァ? いやいや待てよ。俺が戦うなんて、んな無茶な……、
――無茶なんかじゃないわ。だって、
立ち込める不安を吹き飛ばすかのように、リリックは平たい胸を大きく張った。そしてずいっと、色んなところが触れ合っちゃうんじゃないかと思う距離で久住を覗き込む。
サラサラと淀みなく伸びた濃紫の髪のすぐ下で、宝石みたいな金色の瞳が輝いている。
不意にやわらかい感触が手に伝わった。ドキリとして見ると、リリックの手が重なっていてさらにドキリとする。視線を戻す。さっきよりリリックの顔が近い気がする。彼女の吐息さえ感じてしまう。……いや、ちょっと、マジで近すぎるぞ、おい――
そしてリリックは、動揺著しい久住の目と鼻の先で唇を動かした。
「だって、私がいるもの――」
ほらみろ、やっぱり近すぎたじゃないかと久住は思った。
――ファーストキスだったのである。