居間居間しい接近遭遇
フロア0.居間居間しい接近遭遇
今夜は満月だ。真夏の夜は幻想的な力でふんわりと青白く照らされている。
市内の工業高校で情報通信を、平たく言えばパソコンのノウハウを学ぶ少年、久住陽一は、豆球の明かりも付けずにベッドに腰掛け、夜の世界を眺めていた。
しかしその耳は、網戸を突き抜けてくる虫の大合唱を聞いているわけではない。
ガタガタ、ガタガタガタ……。
――アケテ……。ダレカ、アケテ……。
木戸を揺するような音。かすかな女の子の声。久住は一階から聞こえる不気味な物音に、訴えかけるような声に耳をそばだてているのであった。
四月に越してきて、親元を離れた開放感に胸を膨らませたのも束の間だった。かれこれ三ヶ月、久住は妙な音に悩まされている。ガサガサと草を掻き分けるような音、ヒソヒソと子供の内緒話のようなつぶやき、クスクスと押し殺した笑い声などがそうだ。昼間ならともかく、ただでさえ寝苦しい熱帯夜に聞こえた日には最悪だった。
しかし、それで済んでいればまだよかったのだ。ネズミが遊んでいるだけ。風がたまたま声に聞こえただけ。ちょっと無理やりだが、そう思い込む余地があったのだから――
事態が急変したのは、つい一時間ほど前のことである。複数の悲鳴と怒鳴り声、ドタバタとプロレスでもしているかのような騒ぎが聞こえてきた。ネズミや風なんて言い訳は完全に断たれた。泥棒か? とも考えたが、ありえない。犯行中に「うぎゃー!」「やめて、やめてくださいですのでー!」だなんて叫び合う泥棒がどこの世界にいるというのだ。
じゃあ全部幻聴なのか? ホットな夏が作り出した幻想なのか?
いいや、違う。これはいわゆる――
「……幽霊物件だ」
おかしいと思ったのだ。この街はそれなりに都会である。街外れの、しかも傾斜のキツイ丘の上という立地条件は自転車通学には厳しい環境だが、小さいながらも二階建ての一軒家である。いくら建てつけが悪くて、上空をヘリが飛ぶだけで扉がガタガタ言おうとも、それで一月の家賃が八千円(光熱費別途)は安すぎると思ったのだ。
「くそっ、やけに気前がいいと思ったら……、やっぱり罠だったか」
久住はポツリとつぶやき、月光に染まる机の写真立てを見つめた。
大根を両手に持った父親と、カブを抱えた母親が、健康的に日焼けした肌でテッカリとイラ立つ笑顔を振りまいている。その隣で久住はブスッと仏頂面をしながら、ニコニコ笑う四つ下の妹にシャツを掴まれ、ピースを強いられている。久住家の風刺的な一枚だ。
久住の高校進学に際して、当初両親は非協力的だった。「農業を継げばいいじゃん」の一点張りで、三者面談さえロクに付き合わない徹底ぶり。なのに、なぜ不動産関係の親戚に頼んで住居を見つけ、少ないながらも仕送りまで用意する譲歩を見せたのか。
その謎が、違和感が、今すべて紐解かれた。
至れり尽くせりな状況。ここから自分の意思で逃げ出せば、久住は完全な負け犬野郎なのだ。ようするに彼らは、久住に二度とゲームだのSEだのへったくれだのと言わせない口実が欲しいのである。
「自分たちが理解できない代物だからって僻むクセ、やめろよな……」
久住はフン、と写真から顔を背けた。リアルでは絶対に味わえない冒険の素晴らしさが、巧みな指さばきと蓄えた知識で立ちはだかる敵を倒すあの充実感と達成感が、これっぽっちも伝わらないなんて……。久住は嘆かわしかった。
しかし、だからこそさらに嘆かわしい事実がもう一つある。
時代に乗りそこなってケータイも持てない堅っ苦しい両親が、こんな緻密で回りくどい手を使ってくるはずがない。
思わずため息が出る。
「……アイツしかいないよなぁ。はぁ……」
妹である。久住にべったりな極度のお兄ちゃんっ子の妹である。しかも頭がキレる。キレキレだ。お兄ちゃんにも少し分けて欲しかった。
そんな、久住の姿が見えないとメールと電話も絶え間なくよこしてくるあの妹が、どうりで家を出る時に聞きわけがいいと思ったら……このザマだった。既に手を打っていたのだ。困ったことに彼女は、お兄ちゃんと一緒にいるためならなりふり構わない節がある。まいったなぁモテモテ。はっはっは。どうあってもお兄ちゃんをダークサイドに堕としたいんだなお前は。
というわけで、久住は高校を出たいのである。高校を出て、奨学金で専門学校に進んで、大好きなゲーム業界に進むのである。テストプレイのバイトの合間に努力して、寝る間も惜しんで勉強して、自ら道を切り開くのだ。畑も妹も振り切って気ままに暮らすのだ。自由を勝ち取れ、I can can!(訳・私はできることができる!)
――アケテ……。ネエ、チョット、アケナサイヨ!
そうしている間も絶え間なく聞こえていた階下の声が、段々横柄な物言いになってきた。
気は進まないが、そろそろ様子を見に行ったほうがいいのだろうか……? 久住が重い腰を上げようとしたその時だった。
バアアァァァン! バキバキ! パリィン!
巨大風船が割れたような爆発音。木が、ガラスが、家が壊れる音がした。
その爆発が、久住のとある『スイッチ』を入れた。
久住は部屋中を飛び回り、引っ掻き回した。荷物をまとめて退散するのではない。むしろ逆だ。どんな理由があろうと、「家を失う」=「高校生活終了」≒「人生敗北宣言」という方程式を背負う久住陽一は、こと住居問題となると冷静ではいられないのである。
「父さん、母さん、そして妹よ……。俺、悪いけど負けないからな」
やがて掴み上げたのは、手の届かない天窓の開閉に使っている竹棒だった。軽く素振りをしつつ、月明かりに浮かぶ写真立てに向かって久住は言い放った。
「ここは俺の家だ。俺は逃げない! この家は俺が守ってみせる!」
そうだそうだ! 今久住がいいこと言った! 自分で自分を囃し立て、久住は部屋を後にする。廊下を進む。果敢にも電気も付けずに階段を一気に駆け下りた。
散々聞かされてきたのだ。音の出所は見当がついている。リビング、というか居間だ。
その居間への入り口に立つと、久住はカラカラに渇いた口で深呼吸した。僅かに残っている恐怖心を追い出すように竹棒を握った手に力を込め、勢いよく外開きの扉を開け放った。
「毎晩毎晩毎晩毎晩! お前いい加減にしやがれよっ!」
突入と同時に振るった竹棒が壁にぶつかり、バチン!
猛々しい音が響いた瞬間、久住は何かの気配を感じ取った。
居間の出入り口は二箇所。廊下側と、ダイニング側だ。久住が入ってきた廊下側はもちろん、ダイニングとを仕切るガラス張りの引き戸にも動きはない。「それ」はまだ、たしかにこの部屋にいる。
目を凝らす。蛍光灯が割れ、板の断片が散乱していた。小さなちゃぶ台は見るも無残に四散し、焦げたにおいがそこはかとなく漂っている。途端に荒くなる久住の息の音だけが、六畳の暗がりに吸い込まれていく。
そして、久住は釘付けになった。
ゆっくりと、黒い影が動いた。うな垂れるようにして長い髪で顔を隠し、それは居間の中央、掘りゴタツ用の穴の底から、ホラー映画よろしく、今まさに這い出てきた。
勿体つける動作で立ち上がり、それは倒れそうなほど不安定な歩みで一歩踏み出すと、
「ここが、人間界……?」
喋った。それは二階まで聞こえていた横柄な声に間違いなかった。
「うおぉぉぉぉーっ! くらえ天誅うぅぅぅーっ!」
久住は我が家を守ろうと必死だった。竹棒を構え、力任せに打ち下ろした。
バキ! 久住の一撃は、見事に頭と思しき箇所を捉えた。
影の一部分が、紐のようなパーツがハラリと落ちた。
手ごたえアリ。誰だ? 幽霊に物理攻撃が効かないなんて言い出したヤツは!
が、次の瞬間。
ンボゥッ! ジュウ~。パラパラパラ。
竹棒は、燃えた。燃え尽きた。一瞬で炭になった。
久住はからっぽになった手のひらでぐーぱーした。
「随分と景気のいい挨拶してくれるじゃない」
影は目前まで迫っていた。腕のようなものを伸ばし、久住のシャツをつかむ。次の瞬間にも、久住は竹棒のように燃えカスにされてしまうだろう。
――だが、久住は諦めなかった。ヤツらの思い通りにさせるかという意地が、自由を掴みとるという意思が、計り知れない恐怖を押し返して久住の心を支えていた。
「うおおおらああああぁーっ!」
久住はあらん限りの力をもって影を振りほどき、逆に思い切りよく踏み出した。
乱暴に、大胆に、影をむんずと鷲掴み。久住は力任せに、大きな掃き出し窓へ猛進した。
影を網戸に叩き付け、押さえつけ、久住は叫ぶ。
「むざむざやられるか! 人間様を代表して、俺が男子高校生の底力ってやつを……、教えて……、あげようと思ってるんですが……?」
威勢良く怒鳴ったセリフにはフェードアウトがかかり、ほとんど尻切れトンボだった。
今になってビビったとか、そういうのではない。ただ、なんというか、押さえつけている部分に温もりを感じるのである。まるで、人肌のような。
……幽霊って、温かくていいもんなのか?
窓際の直射月光に照らされ、徐々に実体化していく影を、久住は観察してみた。
どうやら久住の片手は、よれよれのワンピースのようなものを握り締めているらしかった。その隙間から覗く、貧相な、谷間と呼べるかどうかも怪しいそこに、もう片方の手を突っ込んでいるらしかった。
目線を上げると、夜闇のように濃い紫色の長髪と、その片側にだけ結われた真っ赤なリボンが見えた。死地から這い上がってきたとは思えないほど端整な顔に、満月のような二つの金色の瞳が浮かんでいる。同い年くらいの女の子のように見えた。
――そして最後に、久住は見てしまった。その頭からずずいっと伸びた立派な羊の角と、背中で羽ばたく無骨で大きなコウモリの翼を。
女の子がわなわなと激しく震えだしたのが、彼女の胸部に手を突っ込んだまま固まっている久住にはよーく分かった。
「何、すんのよ……。この、エ――」
「…………え?」
「え、エロバカマキリィィィ――――――――――――――――っ!」
「うおおおおあああぁぁ――――――――――っ!? ゴゲフッ……」
金切り声と共に、久住はすごい力で突き飛ばされた。着地でなんとか踏ん張ろうとしたが勢いを殺せず、足がもつれてバランスを崩し、久住は倒れた。不運なことに、部屋の隅にあったカラーボックスに頭をぶつける形で……。
道連れになったカラーボックスと、その中身のゲームソフトの下敷きになった久住は、ピクピクと数回痙攣して、それっきり動かなくなった。