弟の研究
「あー、暇だなー」
生徒が皆帰り閑散とした放課後の教室で、安藤雄二が椅子の背もたれに体を預けながら呟いた。
「妹はもういいの?」
雄二の机の向かいで椅子に座っている森本芳樹が、手にした文庫本を読みながら訊ねる。
「もういい。やっぱり身内じゃなあ……誰かの所為でなんか不健全な気がしてきたし」
雄二の言葉を聞いていた芳樹は、文庫本から目を離さないまま呟いた。
「僕は弟が欲しいんだよね」
「へー」
雄二は椅子に背を預けたまま、特に興味ないといった感じの気のない返事をした。
「だから弟の役やって」
「ナニゆえ!?」
雄二は予想外の一撃を喰らって狼狽し、椅子から落ちた。
「この間妹の役やってあげたじゃない」
「あれはお前がやるって言ったんじゃないか」
雄二は服の埃を払いながら椅子に座りなおす。芳樹は読んでいた文庫本から顔を上げた。一体何を考えているのか、表情が読めない。
「でも参考になったでしょ」
「悪い意味でな」
雄二は警戒するような顔で芳樹を見る。微笑、と言うよりも薄ら笑いに近い表情がそこにあった。なんとなく逆らうと嫌な事になりそうな予感がしたので、雄二は芳樹の話に乗ってみる事にした。
「……それで俺はどうすればいいんだ」
「じゃあまず立って立って」
芳樹に促されるまま雄二はだるそうに椅子から立ち上がる。
芳樹も立ち上がると、頭一つ大きい雄二を見上げた。
「そうだねえ、まずは身長を縮めて」
「……できるか。せめて人間に可能な事を言え」
「じゃあ年下になって」
「聞けよ人の話」
雄二の言葉を聞いてない芳樹は、何かを思いついたように胸の前で手を叩いた。
「そうだ、その場で一回転してみて」
「……こうか?」
雄二は片足を軸にしてくるりと回転した。
「そうそう。それで回転しながら、裸エプロン似合う? って言ってみて」
「裸エプ……なんて事を。ふざけんな」
「えー、うちの兄ちゃんがこの間、僕に理想の弟像を熱く語ってた時に」
「妹でもアウトなのに何を考えているんだ。それとお前の兄貴の闇はいいから」
雄二は嫌そうな表情を隠そうとしない。芳樹はそれを無視して額に手を当てて目を閉じる。
「うーん。それじゃあ、お兄ちゃんの子だよって言ってみて」
「お兄ちゃんの子だ……できるか! いろんな意味で!」
「えー、うちの兄ちゃんは昼寝してたときに、寝言で僕男の子なのに妊娠し」
「だからお前の兄貴の闇はもういいって言ってるだろ! 勘弁してください!」
雄二はもう泣きそうだ。
芳樹は何かを思いだしたように手を叩いた。
「そうだ、兄ちゃんに聞いたんだけど、首輪をした弟はポイント高いって」
「そんなポイントは燃えないゴミの日に10パーセントオフして還元しろ!」
やや錯乱気味の雄二は意味のよく分からない事を吼えた後、何かに気付いて凍りついた。
「お前、末っ子だったよな……まさか……お前……首輪を……」
「僕? 兄ちゃんに頼まれたけど、首輪嫌いだから断ったよ」
「そ、そうか」
胸をなでおろす雄二。
「そしたら、俺が首輪するからお前は紐を持ってくれっていわれて、二人で散歩に」
わずかな時間の間に、雄二は友達がかなり遠くに行ってしまったような感覚を覚えていた。
今すぐにでもこの場を離れたいと言う衝動が雄二を襲う。しかし、一つだけ聞いておかないといけない事があった。
「お、お前、は、は、裸エプロンは……」
「ああそれ? 兄ちゃんに頼まれたけど断ったよ」
「そ、そうか」
「そしたら、まず俺が手本を見」
言葉の途中で、雄二は両手で耳をふさいだままその場から走って逃げた。
「せるからよく見ててくれって兄ちゃんが、あれ? 雄二?」
夕日が差し込む放課後の教室に一人取り残される芳樹。
逢魔ヶ時から逃げるようにひたすら走る雄二。
「裸エプロンの手本って意味ねえだろ!」
黄昏に染まる校舎に雄二の声が響き渡った。