第八話 この異なる世で
盗賊達の襲撃から、二週間が経った。
この世界の暦は地球とほとんど変わらないようで、一週間が七日なのは同じ。
但し、一日は十二刻(一刻約二時間)で表しているし、一か月は月に拘らず二十八日間だ。
つまり一年は三三六日ということになる。
ちなみに今日は五の月の二十日。
僕がこの世界に迷い込んでから、そろそろ一か月が経つのかな。
意外とあっという間に一月経ってしまった印象だけど、実はその内の半分以上を寝込んで過ごしているんだよね……。丁度、今みたいにさ。
「ねえ、ティア? もういい加減大丈夫だと思うから訓練に参加したいんだけど」
「駄目です! チヒロはもっと自分の身体を大切にしてください」
「えぇ……。自分の身体だから、自分が一番わかってると思うんだけどなぁ」
「いいえ、チヒロは訓練を始めてからというもの、いつも頑張り過ぎなんです。偶にはしっかり体を休めることを考えてください」
「そうは言っても、こうやって寝てばかりだといい加減飽きてくるというか……」
こういうときだけ、ティアは僕のお願いを頑として聞いてくれない。
二週間前、ティアを庇って脇腹を刺された僕はすぐにお屋敷に運ばれて、地球で言うところの手術みたいなものを受けたんだ。
幸い医学はかなり発達しているらしく、注射器はないけど麻酔みたいな効果を持つ粉薬があった。
だから眠っている間に傷の縫合は終わったみたいだ。
だけどここには水道も無ければ電気もない。
薬もかなり高価で鎮痛剤も滅多に使用できないために、最初の三日間ぐらいは痛くて夜も眠れなかった。
ティアは惜しみなく薬を使うよう言ってくれていたけど、僕の遠慮とクライスさんの説得によって、彼女は渋々ながら引き下がった。
その代わりと言ってはなんだけど、ティアはあれ以降付きっ切りで僕のお世話をしてくれたんだ。
食事も毎回食べさせてくれるし、身体もお湯に着けたタオルで拭いてくれる。
ずっと傍にいて、僕が退屈しないように色々な話をしてくれた。
でもこれ、羨ましいと思うかもしれないけど、結構恥ずかしいんだよ?
医者から絶対安静を言い渡された僕は、起き上がることすら禁じられたんだ。
それが何を意味するか、解ってもらえるかな?
食事も、身体を拭くこともティアにお任せしてる。
なんというか……下のお世話も。
ハァ。
なんだかこの二週間で精神的に一度死んだ気分だよ。
もうお婿にいけない。
そんなこんなで、何故か嬉々として僕に世話を焼いてくれるティアの看病の下、僕は順調に術後の安静な日々を過ごしていたんだ。
今ではもう傷口は塞がっているし、余程激しい運動をしなければ傷も開かないだろうと、医者からお墨付きも貰っている。
だというのに――。
「ねえ、ティア。お医者様もいいって言ってくれたでしょ?」
「ダ、メ、で、す。チヒロはすぐに無茶をするんですから。傷が開いたらどうするんです?」
「そのときは自己責任で……」
「いいえ、許しません! チヒロが完治するまで責任を持つのは、私の義務ですから」
「そんなぁー」
「か、可愛い声を出しても駄目です!」
ちぇ。ダメだったか。
なんというか、ティアは僕が女の子みたいな声でお願いすると大抵は聞いてくれるんだ。
本当はそんな声を出すのは嫌なはずなのに、最近はどうも心のハードルが低くなってる気がする。
ティアだけはどんなときも女の子扱いしてこないからかもしれない。
「わかったよ。大人しくしてる」
「はい、大人しくしていてください」
結局、僕は彼女を説得するのは諦めてシーツを被ってしまう。
今回ばかりはティアを説得するのは難しいみたいだ。
そのまま暫く、静かな時間が続く。
「……ティア」
だけどふと、僕は心に浮かんだ衝動に駆られてベッドの脇に腰かける彼女へ呼びかけた。
「はい、なんです?」
声の感じがさっきまでと違うことに気付いたのか、ティアはそれまでとは違って優しい声音で問い返してきた。
表情も、それまでの強いものから穏やかなものに変わる。
僕は右手をシーツの隙間から出して、彼女へ向かって伸ばした。
「少し、手を握ってくれないかな」
顔が熱くなるのを自覚しながらも、僕は彼女にお願いする。
ティアも頬を赤く染め、少しの間じっと僕の手を見つめていた。
「……はい」
でもやがてゆっくりと頷いて、彼女の両手が伸ばした手のひらに重ねられた。
柔らかい感触が右手を包み、胸に熱いものが流れ込んでくる。
僕は目を閉じて、その感覚に全神経を注いだ。
ティアの手――。
僕の手よりも少し小さくて、でもすごく温かい。
トクンッと脈打つのが伝わってきて、彼女が生きているんだと心から実感する。
僕が護りたいと思ったこの手。
今度こそ、護ることが出来た彼女の手。
もっともっと、いつまでもこの手を護っていけたら――。
「あの、チヒロ……?」
じっと目を閉じていると、ティアの恥ずかしそうな声が聴こえてきた。
目を開けて、彼女が真っ赤になっていることに気が付く。
ティアと目が合い、彼女はアッと声を漏らして顔を逸らした。
それだけ恥ずかしかったんだろう。
でも、僕はそのまま視線を逸らすことなく彼女を見つめ続けた。
「その……どうか、したんですか?」
絞り出されるティアの声が震えていることに気が付く。
しおらしい彼女が、すごく可愛く感じられた。
「ティアの手って、すごく温かいよね」
思ったことを、飾らずに伝える。
いつもなら恥ずかしくて僕も真っ赤になってしまうはずなのに、このときは何故かすんなり口にできた。
「そ、そうですか? 普通だと思いますけど……」
「ううん、温かいよ。少なくとも僕にとっては、とても温かい」
この一か月、彼女は見ず知らずの僕へとても親切に接してくれた。
それが誰にでも分け隔てなく与えられているものなのか、それとも僕だけに向けられているものなのかは判らない。
だけど、少なくとも僕にとって彼女は色々な意味で恩人なんだ。
その優しさに、幾度となく救われてきたんだ。
だから、僕は彼女の力になりたい。
今回は偶然彼女を助けることが出来たけど、これで終わりにはしたくない。
いつかちゃんと、胸を張れる形でティアの助けになりたい。
「そう、ですか。チヒロにそう言って頂けるのは、その……嬉しいです」
目の前ではにかむこの少女を、支えられるようになりたいんだ。
震える僕を救ってくれた彼女に、恩返しがしたい。
「僕は、ティアを護れるようになるよ。いつか必ず、君を護れるような男になって見せる」
決意を込めて、ティアの目を真っ直ぐに見つめる。
重ねられた手を強く握って、彼女へ誓いを立てる。
やがて、僕の眼差しにティアは応えてくれた。
「はい。これからも、よろしくお願いしますね」
――輝くような、美しい微笑みで。
―――
「そうだ! チヒロ、ここで働いてみませんか?」
ティアへ誓いを新たにした後、彼女はふと思いついたようにそんなことを言いだした。
「働く? 僕が、このお屋敷で?」
「はい。チヒロに行く当てがないのでしたら、いかがです? お父様やお兄様は私が説得しますし、そうすればこの先も一緒にいられますから」
「働く、か……」
ティアの満面の笑みはともかくとして、うん、そうだな。
確かにこの世界でしばらく暮らしていかなければならないのだとすれば、その間の仕事は絶対に必要になってくる。
いつまでもティアのお世話になるわけにもいかないしね。
うん。
彼女の提案は僕にとっても、すごくありがたいものだ。
「そうだね。このお屋敷で雇ってもらえるなら、願ったり叶ったりだよ」
僕は期待の眼差しを送ってくるティアに微笑んで頷いて見せた。
「よかった。実はずっと、チヒロが私の傍付きをしてくれたらなと思っていたんです」
「えっ、ティアの傍付き!?」
安心して息を吐いたティアの放った一言は、僕の予想の斜め上をいっていた。
てっきり使用人とか料理人とか、そんな感じの子供にもできる仕事を与えられると思っていたんだけど……。
「はい。私の傍で、私を護っていただくお仕事です。普段はケビンがその役目を負うことが多いのですが、彼も近衛騎士隊の仕事がありますからできれば別の人を、と思っていたんです」
「適任が見つかりました」と言って笑みを浮かべるティア。
すごく嬉しそうだし、それだけ期待されているのは僕としても嬉しいんだけど、
「ケビンと同じ働きを期待されても……」
ハッキリ言って無理があると思うんだ。
近衛騎士として十分信頼を得ているケビンの後釜にだなんて、どれだけ自分を過大評価しても無理だと思う。
「もちろん、私も今すぐケビンと同じ働きができるとは思っていないですよ」
さすがにティアもそれは解っていたのか、苦笑いを浮かべた。
僕は取り敢えず安堵のため息を吐いた。
それから気を取り直して訊ねる。
「それじゃあ、僕はティアの傍付きとして何をすればいいのかな?」
「はい、それはですね――」
ティアが少し得意げに説明しようとしたそのとき、トントンと部屋の扉がノックされた。
「はい、どうぞ」
僕は咄嗟に返事を返した。
話の腰を折られたティアは不満げだったけど、ノックをされたのに応えないわけにもいかないよ。
だからジトーっとした眼差しを向けるのは止めてくれないかな。
扉を開いて入ってきたのはクライスさんとケビンだった。
「ケビン! クライスさんも。お見舞いに来てくれたんですか?」
「ああ。チヒロ、調子はどうだい?」
「だいぶ良くなったよ。もう本当は動いてもいいらしいんだけど……」
僕はそう答えたものの、ちらっと目を向けた横ではティアが「駄目です」と相変わらず厳しいお言葉をくれる。
ティアの答えに、ケビンと僕は揃って苦笑いを浮かべた。
「お元気そうでなによりです」
クライスさんも僕のことを心配してくれていたらしい。
僅かに頬を緩めて笑みを向けてくれる。
なんだろう、これ。
なんだか込み上げてくるものがある。
「心配してくれて、ありがとうございます」
少しジーンと来て涙が出そうになった。
二人とも近衛騎士隊の仕事もあるはずなのに、こうして時間を割いて様子を見に来てくれたんだ。
感謝を感じずにはいられない。
と、そんな風に僕が半べそをかいていると、クライスさんがティアに訊ねた。
「ところでティアーク様。偶々扉の前で耳に挟んでしまったのですが、チヒロ殿をご登用なさるのですか?」
あれ、クライスさんも聞いてたのかな?
「ええ。チヒロには私の傍付きになって頂こうと考えていました」
何の気なく、ティアはあっさりとそれを話してしまう。
それにしてもいいんだろうか。男の僕が彼女の傍付きなんて役目を頂いちゃっても。
傍付きって要は彼女の護衛兼お世話係だよね。
普通同性の人がやるものじゃなかったっけ?
そんな風に僕は思っていたんだけど、クライスさんはどういうわけか感心したように頷いた。
「なるほど。それはなかなかいい案ですね」
「そうでしょう?」
あれ? 思っていた以上に賛成みたいだ。
クライスさんは僕とティアの間で間違いが起きるのを警戒してたんじゃなかったっけ?
内心でそんな疑問を抱いていると、クライスさんが真面目な顔でとんでもないことを言いだした。
「チヒロ殿であれば節度を弁えておられるでしょうし、寧ろティアーク様が暴走してしまわないかということの方が心配ですね」
「ええ!?」
「クライス!?」
「あー……これはちょっと否定できないかも」
順に僕、ティア、ケビンの反応なんだけど、僕とティアは真っ赤になって声を上げてしまったし、ケビンはケビンで呆れたような苦笑いを浮かべていた。
「そ、そ、そんなことにはなりません!」
最初に我に返ったのはティアだった。
彼女は白い肌をもうリンゴみたいに赤く染めて悲鳴に似た叫び声を上げる。
フーフーと息を荒くして、クライスさんを睨む眼差しはかなりきつい。
でも、クライスさんは全く動じなかった。
「そこで一つ、私からもご提案がございます」
ケロッとした顔で主君の少女を放置して僕の方に向き直った。
表情は依然飄々と掴みどころのない印象を与えてくるけど、視線だけは至極真面目なものだった。
「チヒロ殿。ティアーク様の臣下として、ここで軍略を学んでみませんか?」
「え……? 軍略?」
初め、自分が何を言われたのか解らなかった。
「軍略」と言われても、一介の高校生でしかなかった僕の頭は即座に意味を把握できなかったんだ。
「はい。チヒロ殿は観察力や洞察力に優れているようですので、軍師に向いているように思われます。一からしっかりと軍略、戦の定石、用兵術を学んでいけば、いずれ名軍師と呼ばれるようになるかもしれません」
つらつらと、クライスさんは真面目な口調で語っていく。
僕をからかったり冗談だったりというような感じではなさそうだ。
「どうでしょうか。チヒロ殿にその気があるのであれば、私が手解きをしますが?」
もう一度、クライスさんは僕に問いかける。
口調や眼差し、そして語ってくれた言葉からも、僕を期待して言ってくれているのだということはひしひしと伝わってきた。
「僕が……軍師に……」
正直、軍師というものがどういう仕事なのかハッキリ言ってわからない。
なんとなくのイメージでは、三国志の諸葛亮や日本で云う竹中半兵衛なんかが浮かんでくるんだけど、彼らが実際どういった役割を担っていたのか、僕は教科書の内容でしか知らない。
「チヒロが軍師……。いいですね。すごく頼もしいです!」
「うん。この間のこともあるし、実際適任なんじゃないかな」
でもティアやケビンは賛成してくれるみたいだ。
二人は僕よりもずっと軍師という仕事がどういうものなのか解っているだろうし、その二人がこれだけ賛成してくれるんなら、きっと僕に合っている役割なんだろう。
「いかがですか? チヒロ殿」
再度、クライスさんから意志を訊ねられる。
「……僕が軍師になれば、ティアを助けることは出来ますか?」
ふと、気が付けば僕はそんなことを訊ねていた。
「チヒロ……」
彼女を護るため、彼女を傍で支えるためには、それが何より重要なんだ。
クライスさんは静かに頷いた。
「もちろん、チヒロ殿が優秀な軍師に成長することが出来れば、それは主君となるティアーク様の大きな力となります。すべてはチヒロ殿の努力次第です」
まっすぐクライスさんの目を見据えて、彼の言葉を胸に刻む。
僕が頑張れば、それがティアの力となる。
ティアに仕えて、傍で支えることが出来る。
ほとんど悩むことなく、僕の心は決まった。
「わかりました。僕はティアの軍師になります。ティアに、忠義を誓います」
僕は出来る限りの強い眼差しで、クライスさんの提案に応えた。
彼はふっと笑みを浮かべて、もう一度しっかりと頷く。
「では、チヒロ。君はこれからこのアトラス公爵家の軍師見習いだ。しっかり励み、ティアーク様の御力となるよう努めよ」
クライスさんの言葉遣いが変わったことで、僕は自分の立場が変わったことを悟った。
「はい!」
これまで客人として扱われていた僕は、今この瞬間から公爵家の家臣になったんだ。
ティアの家臣として、彼女に仕える身として、精一杯務めなていかなくちゃ。
「チヒロ。改めて、これからもよろしくお願いしますね」
ティアが嬉しそうに微笑みかけてくれる。
僕は咄嗟に同じような言葉を返しそうになった。
だけどあれ?
彼女の家臣なのに、これまでと同じ対応じゃいけないよね?
そう思い至った僕はすぐさまベッドを降りた。
「あっ!」と声を上げるティアを無視して、柔らかな絨毯に片膝をつき、首を垂れる。
「改めまして、よろしくお願いいたします。ティアーク様」
それらしく声を張って、仰々しい態度で返事をした。
内心、ちょっと楽しんでいた部分があったかな。
「あ、えっと、はい。……立派に務めてくださいね」
ティアは少し寂しそうにそう言って、僕の髪に手を触れた。
彼女も僕を家臣とした以上、こうした立場の違いを守らなければならないと思ったのだろう。
「精一杯、務めさせていただきます」
もう一度大袈裟に挨拶をして、ちらっと顔を上げる。
見上げた先のティアは苦笑いを浮かべていて、それでも目が合うと嬉しそうに微笑んでくれた。
自然と、僕の口元にも笑みが浮かんでいた。
こうして、僕はアトラス公爵家の家臣になった。
僕としてはティア本人に仕えている感じなんだけど、いつかはアトラスの騎士団と一緒に戦いに出なくちゃいけなくなると思う。
そうなったときにティアやお世話になった公爵家の力になるため、僕は「軍師見習い」として様々なことを学んでいくことになる。
大変な日々が始まるんだなと思う反面、これからの日々を思うと胸が躍るような心地にもなっていた。
必要とされた場所で、僕のことを認めてくれる人達と一緒に過ごせる。
そのことが、何よりも幸せに感じられたんだ。
でも――。
少しずつ、故郷の地球に帰りたいという想いが薄れていっていることに、このときの僕はまだ気が付いていなかった。
それがいずれ、取り返しのつかない事態を招くということも知らずに。
第一章 完
次章は執筆が終わり次第開始します。
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