第六話 二度目の実戦
馬を駆ってお屋敷の前の坂を下り、あっという間に噴水のある広場に到着する。
そこにはクライスさんやケビンと同じ鎧に身を包んだ騎士がざっと二十人程並んでいた。
「状況は?」
先頭の馬に跨ったクライスさんが、居並ぶ騎士の一人に問いかける。
クライスさん自身とそれほど年齢が変わらなそうな女性で、その人は握り拳を胸に当てる敬礼姿勢をとって答えた。
「現在、賊のうち数名が市街に侵入しており、被害は各所に及んでおります。また、賊の首領と思しき男は南大門前に留まっている模様です」
どうやら上から眺めた状況とそれほど変化があったわけではなさそうだ。
クライスさんは頷いて、女性騎士とその後ろの騎士達に指示を飛ばした。
「よし、アラン、レイベル、二人はケビン准騎士と共にティアーク様の護衛に回り、首領格の捕縛に務めよ。他の者は二人一組で市街を捜索。散開した賊の確保に当たれ。以上だ」
「はっ!」
隊長の指示に即座に応え、騎士達は続々と街中に散開していく。
クライスさんに報告を上げた女性騎士も、別の騎士を伴って町の東側へ駆け出して行った。
「私たちも、行きましょう」
と、前に跨っていたティアが声をかけ、クライスさんを置いて馬を走らせた。
すぐ後ろをケビンが追走し、クライスさんに命令された二人の騎士も馬に跨って追従を始めた。
だけど、クライスさん本人は馬から降りて街を眺めたままだ。
「ティア、クライスさんは……」
隊長なのに、一人噴水の広場に置いていってしまっていいのだろうか。
ふとそんなことが気になって彼女に訊ねかけた僕だったけど、ティアはちらっと振り返って真剣な表情で教えてくれた。
「クライスはあの場で指揮を執らねばなりません。ですから大通りの安全は我々だけで確保しなければいけないんです」
「そう、か……。うん、なるほど。理解できた」
上から見たときには既に大半の盗賊が街中に散っていた。
門から一本道の大通りにはあの大男以外、ほとんど盗賊は残っていないだろう。
街中に散って行った盗賊たちを全員捕まえるためには、大通りに人を割くことが出来ない。
そんな状況にも拘らず、クライスさんは二人の騎士を護衛に付けてくれた。
ティアの安全を最優先に考えている証だ。
その代わり自身は広場に残って騎士隊の指揮を執ろうというのだろう。
(僕も、出来ることを精一杯やらなくちゃ)
自分に何が出来るかもわからないけど、僕は役に立てるように努力しようと改めて心に決めた。
馬は石畳の通りを風のように駆け、大通りの先の門に向かう。
両脇に並ぶ建物は所々火が上がっていたり、散々に荒らされた形跡が見て取れる。
僕は改めて盗賊という人種のやり方に恐怖を覚えた。
ふと、そうやって道の左右を見渡していた僕はあるお店の一つを通り過ぎる一瞬、店内に人影を見つけた。
「ティア! 今あそこに誰かが!」
僕の声を聞いた彼女は小さく声を上げると、後ろを追走する騎士に呼びかける。
「アラン、行って確認を。賊の場合は無力化の後広場へ連行してください」
「ハッ!」
四頭の馬の内、一頭が引き返していく。
これでティアを護る戦力が減ってしまったわけだけど、盗賊かもしれない人影をみすみす見逃すわけにはいかなかった。
「ティアーク様」
ケビンが馬を寄せてきて、真剣な表情でティアに声をかける。
「わかっています。少し苦しくなりますが、そうも言ってられません」
どうやらケビンも僕と同じことを考えていたらしい。
ティアを護る騎士は一人でも多い方がいいけど、でも近衛騎士隊のみで鎮圧に当たっているこちらとしても余裕があるわけではなかった。
「全員で戻ることは?」
「今は急を要する場です。それは出来ません」
「……わかりました」
不安げに眉を顰めたケビンだったけど、今はティアの言葉に理があるんだと思う。
大人しく口を閉じて、先頭の僕たちに追従していた。
「ティアーク様、あれを!」
突然、後ろの騎士の男の人が声を上げた。
僕たち三人が言われた方向に目を向けると、ようやく見えてきた門の下に幾人かの人がいるのが見えた。
その内、立っているのはわずか二人。
どちらもが鎧などは着けておらず、片方はあのリーダー格の大男だ。
「あれが首領格です! 行きましょう!」
ティアにもそれはわかったんだろう。
一際強く声を上げて、馬を加速させた。
覗き見えた表情は真剣そのものだったけど、でもそれが僕には少し焦っているようにも見えた。
「ティア? もう少し慎重に行った方が……」
なんとなく嫌な予感を感じて、僕はしがみつく少女に問いかける。
「ですが、一刻も早く事態を収めなくては!」
思った通り焦っているらしいティアの言葉に耳を傾けていると、僕の視界の端、段々近付いてきた門の下で、あの大男が妙な動きをし始めた。
いい加減向こうもこちらの接近に気が付いているだろうし、何か迎撃準備を始めてもおかしくはないんだけど、そんな風にはちょっと見えない。
「あれは……」
ケビンの呟く声が、蹄鉄が石畳を叩く音に混じって届く。
ちらっと彼の方に目を向けると、ケビンはじっと大男を注視した後、ハッとした色を浮かべた。
「危ないっ! すぐに通りの端に……」
そこまで言いかけたところで、ヒュンという音と共に何かが僕たちの間を抜けた。
「うわあぁ!」
けたたましい馬の悲鳴と共に、後ろを追走していたレイベルさんの悲鳴も上がる。
驚いて振り返ると、丁度レイベルさんの騎乗していた馬が転がるところだった。
彼も空中に投げ出され、そのまま石畳に叩きつけられる。
鎧がガッシャーンと音をたて、彼はあっという間に僕らから引き離された。
遠目に見えた馬の太腿の辺りには、一本の矢が突き刺さっていた。
「レイベル!」
ティアの悲鳴が上がるが、先を行く二頭の馬は止まらない。
「ティア! すぐに止まって……いや、建物の中に逃げなきゃ!」
僕は必至で彼女に避難を推す。
ティアは背後の騎士を心配する表情を改めると、すぐさま手綱を引いた。
ケビンも状況を即座に把握し、馬の進行方向を変える。
僕らが通りの左右に分かれた直後、さっきまで僕とティアの馬が走っていた場所を矢が素通りしていった。
間一髪、僕らも道に投げ出されるのは回避できたらしい。
「早く! ティア!」
建物の前まで来て馬を止めた後すぐに飛び下りた僕は、鐙から降りるのに手間取るティアを急かす。
さっきまでの二射を見るに、あの大男の弓の技はかなりのものだ。
もたもたしていると射抜かれてしまう。
ティアはようやく馬から降り、背中を叩いて馬を走らせる。
そして僕の入った果物屋さんの方を振り返った。
そのとき――。
僕は一瞬、門の方向で何かが太陽の光を反射したように感じた。
咄嗟にティアの手を全力で引いて、彼女をお店の中に引き摺りこむ。
「きゃあ!」
「うわ!」
僕の体格では彼女を支えきれず、一緒になって倒れてしまった。
しかし、直後頭上から聞こえてきた「ターンッ!」という音に身を震わせる。
恐る恐る視線を上げると、果物屋の壁に一本の矢が突き刺さっていた。
それを理解した瞬間、僕は総毛立つような悪寒に襲われる。
「うっ……。チヒロ、助かりました」
ティアが弱々しい声を漏らし、体を起こした。
引っ張り込んだ所為で彼女は僕に乗っかるような形で倒れ込んだんだ。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
心配そうな表情を浮かべるティアに、僕は苦笑いを浮かべて応える。
「平気だよ。怖かったけど、そんなこと考えてる暇もなかったよ」
「ふふ、そうですか」
先に立ちあがったティアに手を引かれて、僕も立ち上がる。
ティアはすぐに表情を強いものに戻し、油断なく死角となる壁に張り付いた。
僕も彼女に倣って、壁際に寄る。
「まだ少し距離があります。これでは迂闊に近付けませんね……」
悔しそうに声を漏らすティアの言う通り、大男ともう一人の盗賊の場所まではあと百メートルくらいの距離があった。
これでは走って近寄っている間に射抜かれてしまうだろう。
僕は何か手段がないか辺りを見渡してみて、お店の奥に二階へと続く階段があるのを見つけた。
瞬間、閃いた。
「屋根伝いに近付くのはどうかな?」
僕の提案に、ティアは即座に反応を示した。
笑顔になって。
「なるほど。それは良い考えですね。あっ、でも……」
が、すぐに表情を曇らせる。何か穴があったらしい。
「ずっとこのお店から姿を見せずにいると、相手に警戒されてしまうかもしれません」
「あ、そっか」
確かに、この店に隠れたままだと思われるのはマズイかもしれない。
最悪やろうとしていることにも勘付かれてしまうだろう。
警戒されないように近づくためには……。
「何か、別のことに夢中になっていてもらえれば……」
そんなことを呟いたとき、僕とティアの逃げ込んだ果物屋の看板にまたしても矢が突き立った。
「っ!?」
ティアがハッとして顔を上げ、矢の飛んできた方向に目を向ける。
が、彼女はすぐに安堵の表情を浮かべた。
僕も通りの反対側の、花屋に立つ人物を見て笑みを浮かべる。
「そうか、ケビンに手伝ってもらえば……」
そして直前までの作戦の穴を埋める方法を思いつく。
僕はすぐさまティアに顔を向け、彼女に思いついたことを伝えた。
「僕とケビンが同時に駆け出せば、ティアの接近に気付かれず済むかもしれない」
道の両脇から突如二人が駆け出して来れば、さすがに相手も焦るだろう。
近づくのを阻止するため、通りに釘付けになるはずだ。
「その隙にティアが近付いて、不意を突いてあの男の弓をどうにかできれば……」
矢さえ飛んでこなければ、ケビンもすぐに距離を詰められるだろう。
そうなれば二対二になって勝機が見えてくる。
しかし、ティアは目を見張って首を振った。
「そんな! それではチヒロとケビンが危険な目に遭ってしまいます!」
だが作戦自体に反対なわけではないようだ。
僕は不敵な笑みを作ってティアを諭しにかかった。
「僕が近付いても戦えないからね。ケビンが屋根伝いに行っても囮が片方じゃ弱いし、ティアが屋根伝いに行くのが一番いいんだよ」
「でも……」
「大丈夫。避ける訓練だけはしてるし、建物に隠れながら進むからさ」
震えそうになる体を抑えて、僕は彼女を説得する。
ティアは少し逡巡した後、それ以上いい方法がないと納得したのか、渋々頷いた。
僕も彼女に強く頷き返して、通りの反対側で待つケビンに振り返る。
身振り手振りでどうにか作戦を伝えると、彼は笑顔を浮かべて頷いた。
なんと敬礼まで返してくれた。
僕は再びティアの方に振り返り、強がって笑って見せる。
「それじゃあ、行くよ」
すると彼女も覚悟を決めたのか、強い眼差しになって頷く。
けど、彼女はどういうわけか僕に近寄ってきて腕を広げた。
そしてそのまま、唖然とする僕をギュッと抱きしめる。
僕は心臓が大きく脈打つのを感じた。
一瞬で顔が茹で上がり、離れたティアをまじまじと見つめる。
彼女も少し頬を赤くした顔でふっと笑みを浮かべ、それきり振り返ると階段を駆け上っていった。
少しの間ぼーっとしていた僕だったけど、向かいから飛んできた矢の音で我に返る。
急かされたことに気が付いた僕はすぐに振り返り、ふと、そのとき目に付いたあるモノを手に取って、通りに向かって全速力で駆け出した。
ケビンとほぼ同時に通りを駆け出した僕。
的にならないよう不規則に走る方向を変えて。
時々通り沿いの建物に身を隠して。
飛んでくる矢を危ういところで回避して。
僕は通りを駆け、徐々に盗賊たちの方へ近づいて行った。
怖い。
物凄く怖い。
今すぐ逃げ出して、ベッドの中に隠れたいくらいだ。
でも、逃げるわけにはいかない。
もう逃げないと決めたんだから。
大丈夫。
脚も動くし、訓練の成果か動きもいい。
このまま走り回って的を絞らせなければ、あの矢に射られることもないはずだ。
通りの店に出たり入ったりを繰り返し、決して同じタイミングにならないように。
時にフェイントを織り交ぜて。時に勇気を奮って一息に。
何度か至近距離に矢が刺さって泣きたくなったけど、それでも僕は走り続けた。
幸い、大男は僕の危険度が低いとみなしたようであまり沢山の矢は飛んでこなかった。
ケビンが頑張ってくれているのかもしれない。
でも、やっぱり全部がそう簡単にはいかなかった。
「ハッハッハ。お嬢ちゃん、そんなもん持ってどこに行こうってんだ?」
「うっ……」
僕の前には、もう一人の盗賊が立ち塞がっていた。
手にはダガーとでも言うのだろうか、少し長めの短剣を持っており、喋るたびに欠けた歯が音をたてている。
無造作に伸ばされた髭がこの人の野蛮な印象を強めているようにも見える。
『盗賊』というだけで、僕は本能的な恐怖からくる震えを抑えることが出来なかった。
相変わらず女の子だと間違われているみたいだし、この人は僕のことを見逃してくれそうには見えなかった。
……それもそうか。
ティアと一緒にいたんだし。
「お、大人しく……投降はしてくれませんか?」
声が震えるのを感じながら、ダメもとで訊ねてみる。
なんだか自分でも女の子のものにしか聞こえない声だった。
「投降? バカ言え。大人しく捕まるわけないだろうが」
盗賊の男は鼻を鳴らして嫌らしい笑みを浮かべる。
「お嬢ちゃんを掻っ攫って、後でたっぷりと楽しませてもらうさ」
涎を啜りながらというなんとも品の無い一言に、僕は寒気が走る心地がした。
男の僕でさえ嫌悪感を抱く一言なんだ。
これを本当の女の子が耳にしたなら、どんなに恐ろしいだろうか。
「最低だ……」
思わず漏らした一言で、男はピクリと眉間に皺を寄せる。
「ああん? 今、なんて言ったよ?」
ジロッと鋭い睨みを向けてくる。
元々の強面も相まって、恐ろしさは倍増だ。
「あなたみたいな最低な人は……牢屋で反省してるべきだ!」
でも、僕は込み上げる恐怖を飲み込んで精一杯叫んだ。
涙が浮かんでいるのも知りながら、それでも出来る限り盗賊の男を睨みつける。
こうしているだけでも脚が竦みそうになっているけど、目の前の男に対する嫌悪感を支えになんとか堪えていた。
「言ってくれるじゃねえか、このアマっ!」
「僕は女じゃない! 正真正銘の男だ!」
盗賊の上げた恐ろしい叫びに、やけくそで叫び返す。
男は軽く目を見張ると、ニヤッと狂気じみた笑みを浮かべた。
「ハッ! とてもそうは見えねえが、男だってんなら容赦はしねぇ!」
そして男は短剣を構え直し、僕に向かって駆け出してきた。
「うわっ!」
慌てて後ずさり、転びそうになりながら男の横薙ぎを避ける。
短剣の切っ先が胸元を掠め、微かに布の切れ端が舞った。
相手の持っている刃物がもう少し長いものだったら斬られていただろう。
あまりの恐怖に、吐き気すら湧き上がる。
続けて、男は唸り声を上げながら短剣を突き出してきた。
構えの位置的に、狙いは左わき腹だ。
僕は咄嗟に石畳を蹴り、身体を右に跳ねさせた。
何度も訓練した成果もあって僕の身体は二メートル程脇に逸れる。
「うわっ! っとと……」
着地の瞬間、足を踏み外しそうになって何とか態勢を立て直す。
盗賊への恐怖心の所為で必要以上に跳躍してしまい、バランスを崩しかけてしまったんだ。
(マズイッ!)
ようやく両足を地に着けたとき、僕はそう思った。
こんな隙だらけの回避行動をしていたらすぐに追いつかれてしまうからだ。
でも――。
「あれ?」
思わず声が漏れたように、僕は困惑していた。
追撃はおろか、男は今ようやくこちらを振り返ったところだったんだ。
この瞬間、僕の中である推測が立った。
(もしかしてこの人、ティアよりもずっと遅い……?)
男は僕の方を振り返って忌々しげに舌打ちをしている。
どうやら手を抜いているわけでもないようだし、回避に徹すれば逃げ通せるかもしれない。
暫く注意を引いていればリーダーの方はティアとケビンが捕まえてくれるだろう。
(これなら多分……いける!)
内心で勝算が立ったことで、僕は一気に落ち着いた。
恐怖と緊張感はまだ消えないけど、冷静な思考をかなり取り戻すことが出来たんだ。
「この……クソガキがぁ!」
男は怒りに我を忘れたように、短剣を振り上げて突進してくる。
ほんの数歩の距離だけど、冷静さを取り戻した僕は彼の動きがひどく単調なものに見えていた。
またも右に体を滑らせて突進を避ける。
今度は必要以上に跳ばず、バランスを崩さぬよう必要最小限の跳躍だった。
その後も左右や後方、時にはしゃがんで盗賊の凶刃を回避し続けていった。
(やれる。これなら、僕にでも……!)
一撃一撃を躱すごとに、僕は内心で自信を深めていた。
前回盗賊が襲撃してきたときには全く役に立てなかったけど、今なら少しはティアの力になれている気がしてすごく興奮したんだ。
それが「油断」というものなのだと、まったく気が付かずに。
笑みさえ浮かべて男の手から逃れ続ける僕に、向こうは苛立ちを募らせていくのが見て取れた。
だけど、そろそろ回避するのも二桁になろうかという頃、男はすれ違いざまに舌打ちを一つしてニヤッと唇を歪めた。
瞬間、刃を完全に躱したはずの僕の鳩尾に鈍い痛みが走る。
「うっ……」
倒れこそしなかったものの、痛みにお腹を押さえて脚が止まってしまった。
何をされたのか、僕は即座に理解した。
僕からの反撃がないと確信した男が、すれ違う際にわざと勢いを落として止まり、最小限の回避行動をとる僕を蹴りつけたんだ。
「まったく……。手こずらせやがって」
男はさっきまでの苛立ち顔から一転して嫌らしい笑みを浮かべている。
鈍痛に喘ぐ僕を嘲笑うかのようにゆっくりとした足取りで近付いて来て、どうにか後退しようとしていたところを殴りつけられた。
頬に強烈な痛みが走り、唇が切れて血が飛ぶ。
「うぅ!」
僕は路面に転がされ、強かに肩を打ちつけた。
果物屋から持ち出してきたモノも手から離れて石畳の上を転がっていく。
「お前みたいなクソガキが、俺は大嫌いなんだよ!」
男が近付いて来るのには気付いていたけど、肩とお腹、そして頬に残る痛みで僕は動くことが出来なかった。
男は容赦なく、倒れた僕のお腹を蹴りつけてきた。
激しい衝撃が腸の上あたりに響き、堪えようのない痛みに思わず呻き声が上がる。
(失敗した……。これじゃあ、もう……)
痛みで意識が飛びそうになるのをどうにか堪えながら、僕は自身の油断を後悔した。
面白いように躱せることが嬉しくて、自分が男よりも強いのだと思い込んでしまった。
これは訓練じゃなくて実戦で、相手はどんな手でも使ってくるのだということを失念していたんだ。
「おら、もうお終いか? 何とか言ってみろ!」
盗賊は執拗なまでに僕のお腹を蹴り続け、段々痺れて痛みも感じなくなりだした。
すると男は満足したのか、蹴り続けていた脚を止めて僕を見下ろす。
「ハッ! 所詮はガキだな。いい加減飽きてきたし、そろそろ殺してやるよ」
その手に持つ短剣が、ギラリと鈍く光を反射する。
全身の毛が、総毛立つのを感じた。
「あ……ぐう……」
どうにか逃げようとするけど、腹部の激しい痛みで思うように体が動かない。
僕は息を荒げながら、這うように男から離れようとした。
しかし――。
「逃がすわけねえだろう!」
「あぐぅ……」
伸ばした右手が男の足に踏まれる。
強烈な痛みに僕は顔を顰めた。
全身が震えるような恐怖。
目の前に死が迫った感覚。
これじゃあ、あのときと一緒だ。
今回は前と違って、少しは頑張れたと思う。
だけど頑張れただけじゃ意味がない。
ちゃんとティアの前で成功を分かち合わないと……。
僕は右手を踏まれた状態のまま、顔を上げて男に必死の睨みを向けた。
(何とかこの状況を打破しないと……)
そんな想いが、自然と僕の胸に満ちていた。
「ふん、このクソガキが。さっさとくたばれ」
男は吐き捨てるようにそう言うと、短剣を逆手に持って構え切っ先を僕の背中に向けた。
もう万事休す。
そう思った矢先――。
「チヒロ殿!」
「なっ! 近衛騎士……があぁ!」
名前を呼ぶ声と共に鎧の音が響き、僕を追い詰めていた盗賊は驚愕と共に吹き飛ばされた。
右手を踏みつけていた足がなくなり、痛みが少し引いていく。
「ご無事ですか?」
僕は駆け寄ってきた人に助け起こされ、石畳に座った。
「レイベルさん……ありがとうございます。お蔭で命拾いしました……」
「間一髪でしたが、間に合ってよかった」
僕を助けてくれたのは、馬で駆ける途中に射られて落馬したレイベルさんだった。
近衛騎士隊の銀の鎧は傷だらけで、額にも切傷ができている。
だけど、彼は単身追いかけてきてくれたんだ。
骨とか折ってるかもしれないのに走って。
そのお蔭で僕は危ういところを助かったんだ。
「よく頑張ってくれました。後はお任せください」
レイベルさんは頼もしい微笑みを浮かべると、立ち上がって突き飛ばした盗賊の方へ振り返る。
どうにか立った盗賊の男はお腹を押さえ、口からは血が流れ出ていた。
「クソが……!」
男は悪態を吐いてペッと血を吐きだし、レイベルさんに向かって駆け出した。
目を血走らせ、雄叫びを上げて。
短剣を振りかざして走る男はどこか、やけくそなようにも見えた。
未だ痛む鳩尾を撫でて様子を眺めていた僕は、本気の訓練を積んだ近衛騎士の強さというものに改めて感嘆の息を漏らしたんだ。