第四話 折れた心
二人の盗賊が街に侵入した次の日から、僕は客間に閉じこもってしまった。
何をするでもなく、毎日朝から晩までシーツを被って震えているだけ。
頭までスッポリと布を被って。丸くなって。
ただ、あのとき目の当たりにした光景から逃げるように、
これ以上臆病な自分に嫌悪しなくて済むように、
自分の世界に閉じこもっていた。
情けなく、震えて膝を抱えていたんだ。
そんな風に僕が自分の世界に逃げ込んでしまってからというもの、毎日朝と夕方に食事を運んできてくれたのはティアだった。
彼女は部屋に入ると手にしていたお盆をサイドテーブルの上に置いて、
隣にあるほとんど手が付けられていない食べ残しを、何も言わずに片付けてくれた。
声をかけられても返事一つ返さない僕に、毎日温かい食事を運んでくれた。
訊きたいことも色々とあったはずなのに、押し殺して僕が自分から語り始めるのを待ってくれていたんだ。
献身的に接してくれる彼女に対して、あのときの僕はあまりに酷い態度を取ってしまっていた。
申し訳ないことをしたと、後になって後悔している。
実のところ、シーツの中で丸くなっていた僕は、ティアが部屋に入って来る度に恐怖を感じてしまっていたんだ。
ノックの音で、心臓が縮み上がるほどに。
多分、それはティアが人を斬るのを見てしまった所為だと思う。
僕の中で、『人を傷つける行為』そのものが恐怖の対象になってしまっていたんだ。
彼女がやりたくてやったことではないのに。
ティアが、理由もなく力を振りかざすような人じゃないと頭では理解しているのに。
それにも拘らず、僕は彼女に怯えていたんだ。
彼女が部屋にいるのを知覚している間は息を潜めてしまっていたんだ。
そして、僕は負い目も感じていた。
僕を庇ってくれたティアを、僕は守ることができなかった。
僕の所為で絶体絶命な状況に追い込まれたティアを前にして、僕は恐くて動けなかったんだ。
自分の無力さと臆病さと、恩人さえ怖れる浅ましさを、これほど悔しく感じたこともない。
自分で自分の性格に嫌気がさしてしまいそうだった。
ティアを無意識に怖れ、そしてそんな自分を嫌悪する。
食事も喉を通らないほどに、僕は不安定になっていた。
そんな感じで一日、また一日と日が経っていく内、僕は次第にやつれていった。
頬はこけ、髪はぼさぼさに乱れ、身体はやせ細っていく。
でも、それも当然のことだ。
運動はおろか、食事すらまともに摂っていなかったんだから。
弱った思考力でもそうと判るほどに、日々失われていく活力と体力。
普通なら生存本能に従って空腹を満たそうとする体は一向に栄養を求めようとしない上に、泣き疲れ、怯え疲れた僕は、途轍もない脱力感と虚無感に苛まれて身動き一つできなかった。
(もう、僕は死ぬんだろうな……)
根拠のない、それでいてハッキリとわかる予感に、薄ら笑いを浮かべているだけだったんだ。
もしかすれば、これで元の世界に戻れるかもしれない。
そんなデタラメな願望を抱えて、僕は目を閉じ、意識を失った。
でも、どうやら僕の人生はこれで終わりというわけではなかったらしい。
目が覚めたとき、僕の右手は暖かな感触に包まれていた。
無意識に瞼を持ち上げ、段々と焦点があってくる視界の中心にいたのは、ティアだった。
「チヒロ! はあ、よかった」
青く透き通るような瞳から涙を流し、紅潮した頬を緩ませて笑みを零している。
「ティア……?」
僕は半ば放心状態になっていて、ぼんやりとした意識はまだ覚醒していない。
数日ぶりに漏れ出た声は掠れてしまっていたので、彼女の耳には届かなかったのだろう。
「よかった……。チヒロが生きていて、本当によかった」
ティアは胸に手を当てて、ほーっと息を吐いている。
眼だけは真っ直ぐに僕を見つめていて、溢れ出る涙も留まることなく流れ続けている。
彼女の顔をぼんやりと見つめていた僕は、段々と意識が覚醒していくのを実感した。
徐々に思考がクリアになっていき、同時に体の各所の感覚がはっきりしていくのを感じていた。
そして、ここへきて僕は右手の温もりを思い出す。
腰の横辺りに置かれる僕の右手は、シーツの中に在るだけでは説明がつかない何かに包まれている。
柔らかく、微かに脈打つような鼓動を手のひらに感じる気がして、僕は自分の右手を包む温もりが何であるかを悟った。
ここ最近離れてくれなかった悪寒が、全身に走る。
身体が強張って、一瞬だけ腕が震えた。
「チヒロ……」
彼女にも震えは伝わったんだろう。
それまでの安心したような微笑みから、物悲しげな表情に変わる。
右手を包む人肌も、若干緩くなったように感じた。
「その……できれば手を、放してくれないかな」
一向に収まらない震えとそれに由来する恐怖心に耐えかねて、僕は枯れた声で恩知らずな言葉を口にした。
多分、表情も強張っていたと思う。
それでも、ブルブルと震え恐怖のあまり汗の滲みだした右手を、ティアは放さなかった。
寧ろそれまでよりもしっかりと握りしめてきた。
決して放すまいとでも言うように、ギュッと握りしめたんだ。
「ティア、お願い。放して」
震えはますます大きくなり、首筋を走る寒気はひどくなっていた。
でも、僕の強めの言葉にも彼女は首を振るだけだ。
引っ張り解こうとしたら今度は右手までも重ねてきて、両手でしっかりと握りしめて放そうとしない。
僕は本能に植え付けられた恐怖のあまり、パニックに陥り始めた。
人を斬ったこの手で、一体僕をどうしようというのか。
ありえない妄想が頭の中を支配していき、目の前の優しい少女がまるで死神か何かのような錯覚に囚われる。
「放して……。放せ、放せよっ!」
恐怖に耐えるのも限界となり、とうとう叫んでしまった。
そして無理矢理手を振り解こうと、右手を思いっきり引っ張って――。
「えっ?」
気が付くと、僕はティアに抱かれていた。
手を引いた拍子に引き起こされて、そのまま彼女の腕の中に抱かれたんだ。
「ティアっ!?」
事態に気が付いた僕は、それまでのパニック状態を引き摺ったままだ。
もがいてもがいて、どうにか離れようとする。
しかし――。
「大丈夫ですよ」
彼女のすごく優しい声に、ビクッと体を震わせる。
ティアは僕を胸に抱いたまま、頭を撫でて、耳元で優しく囁いていたんだ。
「大丈夫。私はチヒロの味方です」
幼い子供に言い聞かせるように、優しく穏やかな声音で。
「何があっても、私は絶対にあなたを傷付けません」
後頭部を撫でる手も、背中に回された腕も、相手を気遣う心に満ちている。
「ですから、あなたが怖いと感じるものは、今は何一つありませんよ」
ティアに抱きしめられて、
彼女の優しさに包まれて、
柔らかな言葉に温められて、
僕の眼からは、自然と涙が流れはじめた。
頬を伝う涙は何故か温かくて、僕は堰を切ったように溢れ出る涙を止めることができなかった。
結果、ティアに抱きしめられた格好のまま、しばらく声を上げて泣き続けたんだ。
涙を流すうち、いつの間にか身体の震えは止まっていた。
「チヒロ、落ち着きましたか?」
「う、うん。もう、大丈夫だよ。ありがとう、ティア」
あれから、ティアの腕の中で散々泣き続けた僕。
ようやく涙が止まって息が整ったときには、ティアの服の胸元はすっかり濡れてしまっていた。
涙が止まるのと同時に我に返った僕は、もう恥ずかしくてまともにティアの顔を見られなかった。
多分、耳まで真っ赤になっていることだろう。
「そうですか。それなら、よかったです」
一方、ティアはすごく優しい微笑みを浮かべて僕をじっと見つめている。
そんなに見つめられると、余計に恥ずかしいんだけどな。
「その……ごめんね。みっともない姿見せちゃって」
頬を掻きながら、ここ数日の情けない自分を顧みる。
ティアには多大な迷惑をかけちゃったな。
「いいえ。チヒロが戦いを目にしたことがないのなら、仕方のないことだと思います。私も幼い頃、同じように震えて泣いていたのをお母様に慰めて頂きましたから」
ティアは目を細めて、穏やかな声音で擁護してくれる。
先日、クライスさんに詰め寄られたときだって、彼女は僕を庇ってくれていたんだ。
(何だか、ティアには護られてばっかりだな)
彼女の優しい笑みを見つめて、この世界に来てからの幾日の間、彼女には助けられてばかりだったなと思い返す。
倒れていた僕を助けてくれたのも、
寝込んだ僕を看病してくれたのも、
郷愁に泣く僕を励ましてくれたのも、
盗賊の凶刃から僕を庇ってくれたのも。
全部、目の前の少女だった。
なら、それに気が付いた今、僕が彼女にまず言うべきことは一つだけだ。
「ティア、ありがとね。今までも、今回も、助けてくれて本当にありがとう」
誠心誠意、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめて、僕は感謝の言葉を伝える。
言葉にしなければ伝わらない本音は、出来るだけ誠実に伝えたいと思うから。
「い、いえそんな、お礼なんていいですよ。私がそうしたいと、思っただけなので」
僕の言葉に、ティアは頬を赤く染め、むず痒そうに組んだ両手の指をくねらせる。
これまで見たことがない恥じらいの表情。
僕はそんな彼女の姿をとても可愛らしいと感じた。
「それでも、僕にとっては嬉しかったんだ。僕を弄る女の子には沢山会ったことがあるけど、僕を認めて、庇ってくれる子にはあんまり会ったことがなかったから」
この世界に来る直前、元の世界で仲良くなった少女を思い出す。
彼女もまた、僕を男と認め、その上で仲良くしようとしてくれていた。
初めてそういった女の子に出会って、僕は彼女に惹かれたのを憶えている。
だから今、同じように接してくれるティアに、僕は惹かれつつあるんだろう。
この心優しい少女の笑顔に、穏やかな声に、温かな心に。
僕は、報いなければいけない。
護られるばかりではなく、護るために。
「ティア」
僕はたった今心に決めたことを、彼女に宣誓する。
「な、なんですか?」
彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて。
出来得る限りの意志を、眼差しに込めて。
「これからは、僕もティアを護るよ。護られてばかりじゃなく、僕も君を護りたいんだ」
真剣な顔で誓う僕の表情に、ティアは段々と緩んでいた顔を引き締めて、微笑んだ。
「はい。期待していますね」
ティアは頷いてくれた。
現状力の無い僕に「期待している」と、言ってくれたんだ。
ティアの期待に応えるためにも、僕は心身共に強くなることを決めた。
それからおよそ三十分後。
目は覚ましたものの、同時に湧き上がってきた強烈な空腹感を満たすために、僕はティアの持ってきてくれた食事をかっ込んでいた。
それまでほとんど食べる気がしなかった食事があっという間に胃へ落とし込まれていき、ベッドの脇で見守るティアは終始、嬉しそうな表情をしていたっけ。
「ところで、チヒロの言っていた『世界』とは、何なのですか?」
彼女が僕へそんな問いかけをしてきたのは、お皿がきれいになってすぐのことだ。
「ああ、えっと……」
その問いに、僕は苦い顔になる。
正直、自分は別の世界からやって来た、などということを彼女が信じるとは思っていなかった。
先日口走ってしまったのも気が動転していたためだった。
でもあれほどの剣幕で言ってしまったことを、やっぱり何でもなかったで誤魔化すのは無理だろう。
「実は……僕はこの大陸の人間じゃないんだ」
仕方がないので、彼女には正直に話しておこうと意を決して語り始める。
「そう、なのですか?」
「うん。僕は――」
それから僕は、ティアに元いた世界の話を語った。
地球という世界の日本という島から来て、
地球にはアルカトル大陸は存在しなくて、
だから僕は別の世界から流されてきた。
そんな感じのことを、僕はわかり易く話してみたんだ。
話を聞く間、ティアはずっと驚いた顔をしていたな。
「えーと……つまり、チヒロはずっとずっと遠い、理すらも異なる地から流されてきたということですか?」
「うん。まあそういうことになるかな。理が違うって言っても、まるで違うわけではないけどね。でも僕のいた世界では精霊は存在しないし、少なくとも僕のいた国は平和で、戦争とかとは無縁だったんだ」
「………」
語り終えると、ティアはあまりに驚いたのか、言葉もなく考え込んでしまった。
(まあ、当然だよね。いきなり別の世界とか言われても想像できるわけがないし)
黙して俯くティアの姿に、僕は苦笑いを浮かべる。
自分で自分の世界について語っておきながら、多分僕でも信じないだろうなぁーなんて思ってみたり。
でも、顔を上げたティアは意外にも、割と真剣な表情で僕を真っ直ぐ見つめた。
「ではやはり、チヒロが戦いに怯えてしまったのは仕方がないことだったのですね?」
「……えっ?」
初めに漏れた声は、そんな素っ頓狂なものだった。
「ですから、チヒロは争いなどとは無縁だった。だからあのとき、怯えて動けなくなってしまったのは仕方のないことだったのですよ。クライスもこのことを知れば、あなたを糾弾することはできませんよね」
笑顔で、実に誇らしげに話すティアに、僕は目を見張る。
てっきり僕が異世界から来たという話に懐疑的なんだと思っていたんだけど、実はそんなことは既に通り越して、僕が怖がってしまったことを気にしてくれていたみたいなんだ。
「ふふふ。やはり、チヒロは何も悪くなかったんですよ」
そんなことまで言って気遣ってくれる。
「うぅ」
「チヒロ!? 何故泣くのですか? 私、何か気に障るようなことを言いましたか?」
ははは。
彼女はいったい、どれだけ僕を泣かせるんだろう。
まったく、ここへ来てから十年分くらい泣いた気がするな。
「ああ、えっと、チヒロ、お願いですから泣き止んでください。私が悪かったですから」
そんなことない。ティアは何も悪くないよ。
今すぐそう言ってあげたかったけど、止めどなく溢れる涙と嗚咽で言葉にならず、僕はティアがオロオロとする前で何度目になるかわからない涙を流した。
―――
こうして僕のトラウマは少しだけ解消されて、僕はティアを見ても怯えることは無くなった。
多分、また盗賊を見たり血を見たりしたら怖くて震えると思うけど、それは段々と克服していけばいいんだと思う。
取り敢えず、ティアのお蔭で僕はショックから立ち直ることができたし、その後クライスさんにも事情を説明して、どうにか僕への疑いを晴らしてもらうことができた。
後で聞いた話によると、クライスさんは翌日にでも無理矢理僕を屋敷から追い出そうとしていたらしい。
貴族の屋敷の一室に、身元の保証もない子供が閉じこもっていたんだ。
あの人がそうしようとしたように、何時追い出されてもおかしくなかったんだと思う。
結構ギリギリのタイミングだったわけだ。
でも結局、僕が追い出されることはなかった。
食事にすらまともに手をつけない僕を放りだすわけにはいかないと、ティアがどうにか説得してクライスさんを抑えてくれていたお蔭だ。
その後親身になって話を聞いてくれたことも含めて、彼女には感謝してもしきれない恩ができちゃったな。
この恩は絶対に返さなくちゃいけないと、僕は改めて心に誓った。
ところでこの話、オチがあるんだ。
実はクライスさん、僕が閉じこもった段階である程度事情を察していたらしい。
さすがに異世界から来た、なんてことは予想していなかったそうだけど、僕が今まで争いに関わらずに生きてきて、あのとき初めて血を見て恐怖したのだとわかっていたそうだ。
こっそり語られた話に、それなら早く許してほしかったと思った僕だけど、クライスさんは僕をティアから引き離す好機だと思ったから黙っていたと言った。
曰く、ティアはアトラスの公女として、素性も知れない男との間に子供でも出来てしまっては不味いと思ったそうだ。
そんな裏事情も聞かされた僕は真っ赤になってそれを否定し、クライスさんに笑われてしまう結果になったのは、ティアには秘密の話。