第三話 トラウマ
それは夕方、西の空に赤い、地球のものよりも二回りほど大きな太陽が沈もうかという頃のことだった。
「そろそろ日も暮れますし、屋敷に戻りましょうか」
散々僕の腕を引いて歩き回ったティアが、広場の噴水の前でようやく立ち止まったんだ。
彼女は満足げな笑みを浮かべて振り返り、これまた満足げな声で屋敷への帰還を提案してきた。
「そうだね。あんまり遅いと、またクライスさんに怒られちゃうし」
一方、僕は昨日見た近衛騎士隊隊長の渋面を思い出して笑いを零す。
すっかり日も暮れきってから屋敷に戻った昨日。
玄関扉を開いた目の前にはクライスさんが仁王立ちしていた。
そしてそれから小一時間、耳にたこが出来るほどお説教を受けたんだ。
さすがのティアも、昨日のあれは応えたようだ。
今日はちゃんと日が暮れきる前に帰るつもりらしい。
「むぅ。本当はもう少しチヒロと街を巡りたいのですけど……」
まあ、それでも不満は残っているみたいだけど。
可愛らしく頬を膨らませているくらいだし。
「でも、遅くなったら夕食が食べられなくなっちゃうよ?」
昨夜クライスさんが説教の果てに持ち出した脅しを引き合いに出して、僕は彼女の説得を図る。
小柄だとはいえ、僕も育ちざかりの男なのだ。
夕食抜きは勘弁してもらいたい。
「……そうですね。夕餉が食べられないのは辛いですから、大人しく帰りましょうか」
どうやら僕と同じく育ちざかりの彼女も、夕食なしは嫌なようだ。
説得が功を奏した形となり、僕らは早速丘を登る坂へ足を向けた。
と、そのとき――。
「きゃああぁぁ!!」
何処からか上がった悲鳴が、あかね色の空に響き渡った。
「えっ、何?」
「今のは……南大門の方?」
戸惑う僕とティア。
悲鳴が聴こえてきた方向からは、風に乗って微かな喧騒の声が届いてきた。
「チヒロ、私は様子を見に行ってきます。貴方は?」
先程までの柔らかな雰囲気から一転。
真剣そのものの表情に変わったティアが鋭い視線で僕に問いかける。
「あ、えっと、一緒に行くよ」
そんな彼女の視線に気圧され、僕は思わず頷いて同行の意を示してしまった。
「そうですか。では、行きましょう!」
ティアは力強く頷き返してくると、僕の返事を待たずに駆け出した。
「あ、ちょっと……」
一も二もなく駆け出した彼女を追って、僕も広場から伸びる通りを走っていく。
颯爽と駆けるティアは僕が全力で走っても追いつけないほど速く、彼女の見た目とは裏腹な運動能力の高さを示していた。
(知らなかった。ティアって脚速いんだな!)
必死で脚を動かして彼女を追う僕。
その脇を、夕方で少なくなってきた街の人たちがすれ違っていく。
誰もが恐怖を顔に浮かべて、逃げるように広場の方へ走っていた。
僕はこちらへ向かって走ってくる、一人の男性を捕まえて事情を訊いてみた。
「すみません。さっきの悲鳴、何かあったんですか?」
「ああ、北西の盗賊が雑貨屋のエリーに斬りかかったんだ! エリーは運よく逃げられたんだが、盗賊は今も雑貨屋の前で暴れてるんだよ!」
「盗賊っ!?」
初めて聞いた言葉だった。
いや、言葉の意味としてはもちろん知っていたよ。
だけど僕は地球上でも屈指の治安の良さを誇る日本に住んでいたんだ。
実際に使われているところを生まれて初めて聞いた。
(知らなかった。この街には盗賊が出るんだ……)
僕は愕然として足を止めてしまった。
そうこうしている内に、盗賊の侵入を教えてくれた男性は広場の方へ走り去ってしまう。
広場から伸びる幾本もの通りの内、中央の大通りは街の南大門までの一本道になっている。
道幅が広い上に脇道は殆どなく、それ故に通行人の数は多い。
これだけの人々が全員、広場の方へ向かって駆けているんだ。
それほどまでに、盗賊の侵入は危険なことなのだろう。
「そうだ! ティアが危ない!」
ふと、彼女が危険な存在の下に駆けて行ったのを思い出す。
慌てて、僕はまた逃げ惑う人々とは逆方向に走り出した。
何度もすれ違う人とぶつかりそうになりながら、通りを走っていく。
自分に何かできるとは到底思えなかったけど、親身になってくれるティアを放置して逃げることはできなかったんだ。
人の波を通り抜けて少し経って、
僕はようやくティアの姿を見つけることができた。
彼女はお店の品物を漁っていたらしい男二人に向き合い、腰に提げていた剣の柄を掴んでいる。
男たちも彼女に下卑たニヤニヤ笑いを向けて、長めのナイフのような刃物を持って構えていた。
「貴方たち、大人しくしていなさい! 直に騎士団が駆けつけます。それで貴方たちの暴挙も終わりです。我がアトラスの領都で盗みを働き、領民を傷付けた罪は重いですよ!」
手をかけていた剣を抜いて、ティアは男たちに切っ先を向けた。
(あれ、飾りじゃなかったんだ)
街にいる間、ずっと腰に提げていた剣。
あれはただの装飾品だと、僕は思っていた。
でも、そうじゃなかったらしい。
「へっ、そうなる前に、金目のもん貰っておさらばするに決まってんだろ!」
「ついでに、お嬢ちゃんも頂いてっちまおうかねぇ。ヘッヘッヘ」
一方の盗賊たちも未だティアに下品な笑いを向ける。
ナイフを持った手をフラフラと動かし、リーチで勝るティアを牽制しているようだ。
「貴方たちのような下賤な輩に、遅れは取りません!」
言外に込められた意味を悟ったのだろう。
ティアは怒りを露わにし、それでいて冷徹な眼で盗賊たちを見据えた。
「ほーう。なら、やって見せてもらおうかねぇ!!」
男の一人が放った言葉によって、睨み合いの均衡は破られた。
言葉と共に駆け出した、ボサボサ頭の盗賊がティアに迫る。
ナイフは右手に持ったまま、大柄な男が二回り以上も小柄な少女に襲い掛かったんだ。
「ふんっ」
ボサボサ頭がナイフを容赦なく突きだす。
相手を傷付けることに一切の躊躇いがない一突き。
殺すことさえ厭わない本気の一撃だ。
(危ないっ!!)
叫ぶこともできない僕の目線の先で、大人の男の凶刃の一振りを、ティアは軽く身を引くことでいとも簡単に躱してみせた。
そして腕が振り切られて無防備な男目掛け、手にした剣を迷い無く振りぬく。
ティアの剣先は、驚愕に目を見開く男の右肩から胸までを深々と斬り裂き、男を倒れさせるに至らしめた。
「ぐわああぁぁ!!」
傷口から鮮血が吹き出し、ティアの剣と装飾が施された衣装を赤く染め上げる。
黒ずんだ血液が倒れた男の肩の傷からドクドクと流れだし、たちまちのうちに、石造りの道に血溜りが出来上がった。
(ティアが、人を斬った……?)
彼女は頬に付着した男の血を無造作に手の甲で拭うと、痛みに呻く男に剣先を向ける。
そこにはこれまで隣で眺めていた優しい少女の顔はなかった。
恐ろしい程に冷たい、見紛う事なき敵を射抜くような眼差し。
「うっ」
僕は体から力が抜けて、石畳にへたり込んでしまった。
心臓を握られたような、今まで感じたことのない強烈な恐怖に、体がガクガクと震えるのを抑えられない。
生々しい錆びた鉄のような匂いが、離れた位置でへたり込む僕にまで届く。
呆然と眺めることしかできない僕は、酷い吐き気を催した。
咄嗟に口元を手で抑えても匂いは鼻に残り、胃液が逆流するような気持ち悪さに耐えることができなかった。
「うっ……オエェ……」
座り込んだ状態で、僕は地面に嘔吐してしまう。
これほどの吐き気に襲われたのは人生で初めてだし、同時にこれほどの恐怖を感じたのも初めてだった。
(嫌だ……こんな場所、一秒でもいたくない……!)
この場に来た目的などとっくに頭から抜け、今すぐ何処かへ逃げ出したい気分になる。
生まれて初めて見た生の人血は、僕を錯乱させるに十分な代物だった。
そんな状態だったものだから、周りの様子などまったく見る余裕はなかったんだ。
ボサボサ頭の盗賊がティアに斬られた直後から、もう一人の盗賊が僕に近付いて来ているなんて全く知らなかった。
「チヒロ! 逃げてください!」
ティアの必死の呼びかけにも、僕は振り向くことすらできずにいた。
息を荒げて吐き気をどうにか抑えているとき。
気付いたときには髪を掴まれて無理矢理引っ張り起こされ、首筋に刃渡り三十センチはあろう大振りのナイフが当てられていた。
髪を掴まれる痛みに、自然と呻き声が漏れる。
「ひっ……い、あ……」
「さあお嬢ちゃん、今すぐ剣を捨ててそいつを放しな。さもないと、こっちのお嬢ちゃんが死ぬことになるぜ」
僕を掴んだ男は耳元で大声を上げてティアを牽制する。
右耳がジンジンとするほどの大声だったけど、頭の痛みに呻く僕はもう何が何だかわからない。
「痛い痛い! 嫌だ、死にたくないよ! 助けて、助けてよ!」
恐怖と痛みで混乱して、僕はただ頭に浮かんだ言葉を喚き続ける。
視界は溢れる涙で歪んで揺れていて、向こうのティアがどんな表情を浮かべているのかさえわからない。
「くっ……これでいいのでしょう。さあ、チヒロを放しなさい!」
ティアの苦々しい声と共に、金属が地面に落ちる音が響いた。
どうやら彼女は手にしていた剣を投げ捨てたみたいだ。僕を助けるために。
「よーし、それでいい」
脇の男はニヤッと醜悪な笑みを浮かべた。
僕を立たせて歩き、ティアの目の前まで近づいていく。
未だナイフの先を首元に突きつけられ、震える僕は元よりティアも動くことができない。
「俺ぁ威勢のいい若い娘が好きでな。お嬢ちゃんの綺麗な顔が歪むところを見れりゃあ、そいつはさぞかし……燃えるだろうなぁ!」
雄叫びと共に、男はナイフを握った拳でティアの頬を殴りつけた。
呻き声を漏らして、ティアは地に倒れる。
僅かに血が飛んでいるところを見る限り、唇が切れたようだ。
「ティア!!」
ようやく、この場に来て初めて僕の口から叫び声が出てきた。
だけどそれも束の間。髪を捩じ上げられる痛みで、僕はまた呻く。
「ぐうぅ……」
「お嬢ちゃんがとんだビビりで助かったぜぇ。お蔭でこんな上玉を頂けるんだからよぉ」
耳元で、男は気味の悪い声を囁く。
その舐めるような息遣いに、僕は総毛立つような恐怖を感じた。
それから男は震える僕を傍へ突き倒し、先程殴りつけたティアに不気味なほどゆっくりとした足取りで近づき始めた。
髪を捩じり掴まれた痛みと倒されて打ちつけた肩の痛みを堪えながら、僕はなんとか体を起こす。
薄ら寒い笑いを漏らす男に、ティアが怖れの混じった視線を向けていた。
そんな状況下にあって、
僕はまったく動けなかった。
すぐ目の前には僕を守ろうとしてくれたティアがいるのに、彼女の危機に僕は立ち上がることさえできないでいたんだ。
(ティアが危ないのに。早く立って、すぐに助けないといけないのに……)
心内では自分を叱咤しているつもりだった。
でもどうしてか腕も、足も、力が抜けてまったく立ち上がることができない。
震える手は、地面の石に貼りついてしまったかのように持ち上がる気配を見せず、
両足は糸の切れた人形のように頽れて、力なく投げ出されている。
そうしている間にも、男は一歩ずつティアに近づいていっていた。
一歩、また一歩と足を進めるたびに、ティアの瞳に映る恐怖の色は濃くなっていく。
やがて男が彼女の目の前まで来たとき、不意にティアが僕の方へ振り向いた。
そして何もできずにいる僕と目が合うと、すっかり蒼白くなってしまった顔色のままで、彼女は気丈にも微笑んでみせた。
「チヒロ、ごめんなさい」
僕はそれを、幻聴ではないかと思った。
聞き間違いではないかと思った。
だって、今にも盗賊に蹂躪されそうになっている彼女が、何もできなかった僕に謝ったんだ。
自分の心配よりも、僕のことを気にかけていたんだ。
そんなこと、ありえないと思っていた。
「嫌な思いをさせてしまって、ごめんなさい」
でも、二度目の謝罪が聴こえてきたことで、それが事実なんだと理解する。
涙を浮かべながら、
恐怖に震えながら、
それでも僕に微笑みを向けてくる彼女を見て、僕はどうしようもない無力感を感じた。
「ハァーハッハッハ! 自分のことよりもお友達の心配か? 健気な嬢ちゃんだなぁ!!」
男の高笑いもどこか遠くに感じられる。
未だに動かない体を持て余しながら、僕は儚げな笑みを浮かべるティアの表情に釘づけになっていた。
男がその腕をティアに伸ばしても、僕は彼女の表情をただ呆然と見つめるだけだった。
そして――。
トスっという軽い音が、妙に澄んだ音となって僕たちの間に響いた。
ティアが驚きの表情を浮かべ、男は呆けたような顔になっている。
二人の視線は伸ばされた男の腕に向けられていて、当然僕の視界にもその正体はハッキリと映っていた。
男の腕には、一本の矢が突き刺さっていたんだ。
矢尻は完全に男の腕に埋まっており、まるで腕から木の枝が生えているような光景にも見える。
それは、時間にして一秒にも満たない短い間だっただろう。
それでも、その一瞬の静寂はひどく永く感じられた気がする。
「あ、ああああぁぁ!」
男が言葉にならない絶叫を上げた。
膝から崩れ落ちて、痛みに地面をのたうちまわる。
左腕で突き刺さった矢を掴み必死に抜こうと力を込めているが、深く突き立った矢は簡単には抜けない。
痛みと焦りに苛まれる男の額には、玉のような脂汗が浮かんでいた。
それからふと、僕は後ろからガシャガシャと金属の擦れる音が近付いて来ていることに気が付いた。
ティアは僕の背後に目を向けて、ほーっと息を吐いている。
そんなティアの目線に釣られるように、背後に立った人影へと振り返った。
「御無事で何よりでございます。ティアーク様」
「クライス、助かりました。ありがとう」
へたり込んだままの僕の後ろには、まじめな顔で敬礼するクライスさんの雄姿があった。
左腕を鋼鉄製の盾に通し、腰には大振りの長剣を提げている。
そして彼の脇と後ろには同じような装備で身を固めた十数人の騎士の姿も見えた。
「ケビンも、助けてくれてありがとうございます。さすがの弓の冴えですね」
ティアはクライスさんの脇に立つ、若い騎士にも礼を述べる。
彼は隣の隊長とは違い、盾の代わりにしなやかな木製の弓を手にしていた。
どうやら先ほど男の腕を射抜いたのはこの人みたいだ。
「ティアーク様を御守りするのが、我々近衛騎士の任務ですから。当然ですよ」
ケビンと呼ばれた騎士は見た目では僕とほとんど変わらない年齢に見えるけど、これだけ若い騎士もいるのだろうか。
「それでも、今回は間に合わないかもしれないと思いましたよ。私が勝手に先行してしまいましたから」
ティアが立ち上がって、クライスさんとケビンへ苦笑いを浮かべる。
「お二人の御帰りが遅いので、丘の上から見渡していたのですよ。お蔭で報告が上がってくる前に騒ぎを察知することができました。どうにか間に合ったようですね」
「ええ、絶妙なタイミングでした。もしかして狙っていましたか?」
「御冗談を。私にそのような戯れ心はございませんよ」
クライスさんが笑みを浮かべて話す言葉を、ティアはまるで何でもない事のように聞いている。
あんな怖い目に遭ったっていうのに、ティアはどうして笑えるのだろう。
僕はまだ震えも収まらないっていうのに。
呆然と三人を眺めていた僕の視界の端では、ティアに胸を斬り裂かれたボサボサ頭の男と、腕に矢を射られたバンダナの男が、駆けつけた騎士によって縄をかけられるのが見えた。
どちらも夥しい量の血を傷口から流していて、ボサボサ頭の方は意識すら失っているようだ。
「……チヒロ? 大丈夫ですか?」
不意に、ティアが僕の顔を覗き込んで訊ねてくる。
二人の盗賊に気を取られていた僕は、彼女が話しかけてきていたことに気が付かなかったみたいだ。
「ふぇ!? な、何!?」
彼女に語りかけられた瞬間、僕は心臓が激しく跳ねるのを感じた。
同時に謂れのない吐き気のような感覚が、胸にせり上がってくる。
ティアはそんな僕の過剰とも言える反応に、若干戸惑ったようだ。
「い、いえ、怪我はありませんでしたか、と訊いただけなのですが……」
「あ、うん。大丈夫、だよ。お蔭さまで……」
僕を見る彼女は、そう言うと少し悲しそうな表情を浮かべた。
泣きそうな顔になったのはわかったのだけど、何故そんな顔をするのか、僕にはわからない。
「そうですか……。それならいいのです。チヒロが無事で良かった」
そう言って、顔を背けるティア。
僕はそんなティアに、なんと言葉をかけたらいいのか判らなかった。
ただ先程の剣を振るうティアの姿が、
大人の男を斬り伏せる彼女の姿が眼に焼き付いて消えなかった。
そこに恐怖を感じていたことも、
その感情が無意識のうちに表情となって表れていたことにも気が付かずに。
背を向けたティアの横で、クライスさんが厳しい視線を向けてきていることにも、僕は終に気が付くことはなかった。
―――
屋敷に戻った僕たちは、執務室のソファに座ってクライスさんから報告を受けていた。
曰く、街に侵入した二人の盗賊は、北西の山間部を拠点とする盗賊団の一員なんだそうだ。
アトラス領内の村々を襲う彼らは、普段は騎士団の力で抑えられている。
だけど騎士団の大半が国境に出征していることを知って、山を下りてきたらしい。
「今後、彼ら盗賊の活動が活発になる恐れがあります。つきましては、ティアーク様には街へ出られるのをお控えいただきたいのですが」
彼は話の締めくくりに、ティアへ願い出た。
「私は外出を止めるつもりはありません」
ティアの方は真剣な顔で、彼の申し出を却下する。
彼女自身もただ遊びたいだけで街へ出ているつもりではないのだろう。
クライスさんも彼女の答えは織り込み済みだったようで、多少苦い表情になりながらも話を続けた。
「そう仰られると思いました。では、今後は護衛の騎士を伴っていただきたい。それでよろしいですか?」
「危うくあちらの手に落ちそうになってしまった手前、拒否することはできませんね。それで構いません。その代わり、護衛はケビンでお願いします」
「承知いたしました。それでは今後、外出時はケビン准騎士を伴っていただきます」
あの若い騎士が選ばれた理由は、彼がティアと年が近いからだろうか。
先刻ちらっと見た限りでは彼はそれほど頼りになりそうな感じはしなかったけど、クライスさんがあっさり承諾する辺り、あのケビンという騎士はかなり腕が立つのかもしれないな。
ぼんやりとそんなことを考えていた僕の横で、ティアがすっと立ち上がった。
「報告は以上ですね? では私は……」
まるで焦っているかのように、その場を後にしようとする。
しかし――。
「いえ、お待ちください。もう一つだけ、お話がございます」
早急に話を打ち切って立ち去ろうとするティアを、クライスさんは真面目な顔で呼び止めた。
その視線はそれまでと打って変わって厳しいものになっており、ちらっと一瞬だけ僕の顔を捉えた。
「……何ですか?」
呼び止められたティアが振り向く。
その表情はこれから語られるであろう話を聞きたくないとでも言いたげなものだった。
だけどクライスさんは構わずに口を開く。
「先程の戦闘について、一つ確認したいことがございます」
彼はそう言うと、厳しくなった視線を僕に向けてきた。
表情は依然として無表情そのものだったけど、その鋭い視線だけで僕は体が縮み上がるのを感じた。
「チヒロ殿、貴方は先程の戦闘で、一体何をしていたのですか?」
体が大きく震える。
「クライス! チヒロは何も関係ありません!」
「いえ、関係ないはずがございません。あの時、チヒロ殿は賊に縛られた様子も、怪我をされていた様子もありませんでした。にもかかわらず、貴方はティアーク様の目の前で座り込んでおられた。これは一体何故なのか、何があったのか、ご説明いただきたい」
恐くて何もできなかった、とは言えなかった。
「チヒロは戦えなかったのですよ? 彼は何も悪くありません!」
「戦えなかったならば、何故すぐに逃げようとなされなかったのですか。私は正直、チヒロ殿に足を引っぱられるようなことがなければ、ティアーク様がただの賊二人如きに後れを取るとは思えません」
「それは……チヒロも突然のことで気が動転したのでしょう。仕方がなかったのですよ。チヒロを守れなかったのも、私の責任です」
「戦を知らぬ子供でもないでしょうに、足枷にならぬよう逃げるくらいは誰にでも出来ます。にも関わらず、チヒロ殿はティアーク様を助けるでもなく、安全な場所に避難するでもなく、ただ座り込んで傍観していたのです。如何にティアーク様の客人とはいえ、見過ごすことはできません」
そうだ。僕は自分の意志でティアに付いていくと言った。
それなのに、彼女の役に立つどころか足手まといになってしまったんだ。
「チヒロ殿、そろそろお話していただけないですか? 貴方は何者で、何が目的でこの地に来たのか。恩義あるティアーク様を守ろうとも、足手纏いにならぬよう逃げようともしなかったのは何故なのか」
……でも、それはいけないことなのだろうか。
僕は戦いなんて経験したことがない。
刃物だって、包丁くらいしか見たことない。
あんなに沢山の血なんて、一度も見たことがないんだ。
「チヒロ殿、お答えいただきたい」
そうだ。
仕方ないじゃないか。
僕は知らなかったんだ。
見たことなんてなかったんだ。
初めて見るモノを、怖がったって仕方ないじゃないか。
生まれて初めて死を間近に感じて、脚が竦んだってしょうがないじゃないか。
怖くて怖くて、ただ泣き叫んでしまったってしょうがないじゃないか。
「チヒロ殿?」
僕は――。
「……しょうがないじゃないか……」
「チヒロ?」
怖かったんだ。
「怖くて動けなくなったって……しょうがないじゃないか……」
どうしようもないくらいに。
「脚が竦んじゃっても……声が震えちゃっても……」
例え、ティアの足手纏いになっちゃったのだとしても。
「しょうがないじゃないか!僕は……この世界の人間じゃないんだから!」
一方的に捲し立てて、涙でぐずぐずになった顔のまま、僕は駆け出した。
背後から呼び止めるような声が聴こえたけど、無視して走り続けた。
そして寝泊まりさせてもらっている部屋に駆け込んで扉を閉め、ベッドに飛びこんだ。
思えばあの時、ティアに助けてもらったお礼も言っていなかった。
クライスさんの質問にも答えていなかったな。
でも、そのことを考える元気とか気力とかが、僕にはもう残っていなかったんだ。
ただ枕に顔をうずめて、涙が溢れるに任せていた。
こうして、この世界にやってきて初めて戦いというものを目にして――。
僕の心は、折れたんだ。